難しいことだけれども
祭りにはしゃぐジルにメリカが引っ張り回されて、家路についたのはすっかり暗くなってからのことだった。
屋台で夕食を終わらせていたから、家に着けば早々におやすみなさいとメリカを部屋に送り込む。祭りの興奮もあるし、きっと疲れて寝台に入ると同時に寝落ちするだろうと思っていたのだが。
ギルエルで買ってきた物を片付けていたカイトの耳に、微かな衣擦れの音が届く。
振り返った先にいたのは、俯いたメリカだ。
「どうした?」
カイトは彼女の前にひざまずき、伏せられた顔を覗き込む。
「腹が減ってるのか?」
問いかけに、フルフルと綿毛のような金髪が揺れる。
「眠たくないのか?」
コクンと頷き。
カイトはふうと息をつき、立ち上がる。そうしてメリカをヒョイと抱き上げて椅子に座らせた。長椅子に置いてあったひざ掛けを取って、小さな肩にかけてやる。
ジルと街中を見て回るメリカは、楽しそうだった。しかし、彼女と別れてからは口数も少なく、視線も落ち気味になっていたのはカイトも気になっていた。
単に疲れているだけかと思っていたし、だから帰るとすぐに部屋に行かせたのだが。
カイトはメリカの前にしゃがみこみ、彼女の口が開くのを待つ。
ややして。
「なんだかお腹が気持ち悪いの」
「気持ち悪い? 痛みは?」
まさかと思うが、屋台の何かが当たったのだろうか。
「痛いのはないの。でも、なんか、ここのところがモヤモヤして、変な感じなの」
「変な感じ?」
また、コクリと頭が動いた。
「ジルとお友達になったのは、すごくうれしかったの。一緒に遊べて、楽しかった。でも、おんなじようにお友達になったはずなのに、ケインのこと考えてたら、なんか……モヤモヤジリジリしてきたの」
ケインというと、殴られていた少年のことか。
あの後、父親はおとなしくなって、息子がメリカたちと祭りを回るのも許容していた。少年はジルよりも一つ二つ下の筈だが内面的には彼女よりも大人らしく、三人の中では一番落ち着いて見えた。短い時間のうちに、子どもらはすっかり打ち解けていたように見えていたが。
「嫌なことでもされたのか?」
「ない、ないよ!」
カイトが問うた瞬間、メリカが力いっぱいかぶりを振る。
「すっごく優しいもん。優しいのに……」
キュッと唇を噛んだ。
「なんでケインのお父さんはケインのことぶてるんだろう。ぶつのは嫌いだからだよね。好きな人はぶちたくないよね」
そのことか。
さて、どう話したらよいものか。
カイトは胸の内で首をひねる。
暴力は必ずしも悪意を伴わない。
暴力がもたらすものへの無理解が、無造作に拳を上げさせることもあるのだ。
メリカには、力を振るうことの危険性を再三教え込んできた。だから、あんなふうに安易に暴力を振るえることが理解できないのだろう。
親は子どもを選べない。
そして、子どもも親を選べない。
だが、親は、子どもを産むかどうかは自分で決められるのだ。子どもにはその自由もない。だから、親が子どもを守ることは義務に近い。
理屈ではそう思っているが、そうならない現実があることをカイトは身をもって知っている。
「ケインはね、ぶたれてるのにお父さんのことが好きなんだって」
メリカがポツリと呟いた。
「それって、お父さんだから? お父さんなら、大好きな人なら、ぶたれても痛くないの? 大好きな人だったら、痛くてもがまんするの? がまんしないといけないの?」
うつむいたままそう言って、ギュッと服を握り締めた。
「メリカは、カイトやシーリィンにぶたれても好きなままでいられるかわかんない。それって、メリカはホントは二人のことが大好きじゃないから? カイトたちが大好きっていう気持ちは、ホントじゃないの?」
見れば、メリカの目からは珠のような雫が今にもこぼれんばかりになっている。
カイトは彼女の丸い頬を両手で包み込んだ。
「メリカ、それは違う。どんなに好きな相手でも、暴力は許さなくていいんだ。許しちゃダメなんだ」
「でも、ケインは……」
「ケインだって殴られていいってことはない。たとえ親でも、何をしてもいいってわけじゃないし、何をされても構わないってことはないんだよ」
「そうなの?」
「ああ」
まだ心許なげなメリカに、カイトは深く頷いた。
そうして、更に説く。彼女に伝えておかなければならないことを。
「メリカは、あいつに殴られそうになってもやり返そうとしなかったよな」
「だって、弱いヒトには力を向けるなって、カイトもシーリィンもいつも言ってるから。あのヒトはメリカよりずっとずっと弱かったんだもん」
確かに、二人は繰り返しメリカにそう教えこんできた。これから先、カイトたちの元を離れることがあっても、万が一にも、彼女がヒトの敵になることがないようにと。
だが、しかし。
「そうだな。でもな、メリカ。理不尽な暴力を黙って受け入れる必要はないんだよ」
「りふじん?」
メリカが眉根を寄せて小首をかしげる。
「ああ。たとえ俺やシーリィンでも、何の理由もなくお前を傷付けることはあってはならないし、そうされることを黙って受け入れてはいけないんだ」
「カイトとシーリィンはそんなことしないよ」
断言したメリカの眼差しに溢れているのは、信頼の色だ。
その信頼は、嬉しい。だが、それでもメリカには解らせる必要がある。
「俺たちも、そんなことは起きないと思っているし、そうするつもりはない。けどな、暴力だけじゃなくて、色んな事に対して、お前がおかしいと思ったことは、俺たちがすることだからと丸呑みする必要はないんだ。抗う必要がある時には、そうしないといけない」
「でも、メリカは、正しいことをしたい。間違ったことはしたくないよ。ヒトを傷付けるのは、間違ったことだよね? 弱いヒトに力を向けたら、いけないんだよね?」
メリカは唇を尖らせる。
「確かに、そう教えてきたよな。でもな、何でもかんでも無抵抗で受け入れるのも違うんだ」
「よくわかんない」
「そうだな。すごく難しい話だ。だから、普段からたくさん考えておく必要があるんだよ」
カイトはそう言って、メリカの眉間のしわを指先で撫でてやる。
「誰にとっても絶対的に正しいなんてことは、そうそうない。ヒトを傷付けたらいけないが、そうする必要があることもある。善かれと思ったことが立場を変えれば悪になることもあるし、その逆もまたしかり、だ。だから、嫌だと思ったことは嫌だと言って良いし、疑問に思ったことは訊かなくちゃいけない。たとえ俺やシーリィンが言うことでもな。俺たちだって、一から十まで全部正しいってことはないんだから」
「……カイトが正しいと思うことは、メリカにとっても正しいことだと思う」
「そうかもしれない。でもな、そうだとしても、俺らが四六時中貼り付いているわけにはいかないから、この先、メリカ自身でも考えて決めなきゃいけないことが必ず出てくるんだ。その為には、メリカの中で、絶対に譲れないことってのを決めておかないといけないんだ」
メリカはうぅと唸っている。そしてパッと顔を上げた。
「ずっと一緒にいたらいいよ」
それで解決と言わんばかりのメリカに、カイトは苦笑する。確かにそうであればいいとは思うが、子どもはいつか必ず独りで歩き出す時が――そうしたいと思う時が来るものだ。
けれど、今のメリカには、そう考えることすらまだ早過ぎるのだろう。幼い彼女には、まだ、別れの時を考えるのは早過ぎるのだ。
いつか必ずその時が訪れるとしても、今は、まだ。
メリカの準備ができていないなら、これ以上は、彼女を不安にさせるだけだ。
「そうだな。なら、一緒に考えていこうな」
そう応え、カイトはメリカの頭をくしゃりと撫でる。
メリカは、その菫色の目に微かな安堵の色をにじませて、ふわりと顔を綻ばせた。




