正しい道と、幸せと
振り上げられた大きな拳。
目の前の男が今からそれを自分にぶつけようとしているということは判っていたけれど、メリカは身じろぎ一つしなかった。
殴るという行為があることは知っている。けれど、メリカ自身がそれを受けたことは一度もない。
自ら味わったことはないけれども、少年が大きなヒトに殴られている姿は、見ていてとても嫌な気持ちになった。
殴る、は、暴力だ。
暴力は人を傷つけ、最悪の時には死なせることもある。死というものは決して取り返しのつかない、どんなに反省しても謝っても元に戻せない状態だ。
それ故、力がある者は、自分よりも弱い者に対して力をふるう時にはとても慎重にならなければならない。
カイトからは何度もそう説かれ、シーリィンはメリカが意図せず力をふるってしまうことのないように、制御する術を教えてくれた。
メリカは、指先一つで目の前のこの男を吹き飛ばすことができる。この男は、メリカよりも遥かに弱い。だから、けっして力を向けてはならないのだ。
メリカは顔を上げ、男を真っ直ぐに見る。
拳が落ちてきても、目を逸らさなかった。
ブンと力いっぱい振り下ろされた拳。
しかし、それは、メリカに届くことなく半ばで止まる。
「チョイ待って」
場の空気にそぐわない呑気な台詞を発したのは。
「カイト!?」
どうしてここに、と目を丸くしたメリカに、男の肩越しにカイトがニッと笑いかけてきた。
「何だこの野郎――ッ」
いきり立って振り返った男だったが、自分の腕を掴んでいる者の姿を視界に収めた瞬間、その真っ赤な顔から色が失せる。
「あ、あんた、ギルドの……」
「すまないな、おっさん。その子、うちの子なんだ」
にこやかに言ったカイトとは対照的に、男の顔が歪む。
「わ、わかった、わかったから、手を離せ。ちぎれちまう」
「ン? ああ、すまない、痛かったか?」
パッと手を離したカイトの顔には相変わらず笑みが浮かんでいたけれど、掴まれていたところをさする男に向ける眼差しは氷よりも冷たそうだ。
もしかして、カイトは、今、怒っているのだろうか。
こんな眼差しをする彼を、メリカは初めて見る。
何だか、嫌だった。
カイトが、ではない。
カイトにそんな顔をさせていることが、だ。
メリカはカイトのもとに行き、彼に手を伸ばす。固く握られた手に触れるとカイトの視線が彼女に落とされた。いつもは晴れ渡る空のような瞳が、色は同じなはずなのに、星一つない夜空のように見える。
「だいじょうぶ?」
何故、その一言が出てきたのか、メリカにも解からなかった。けれど、今のカイトを見ていたら、そう尋ねたくなったのだ。
問われたカイトが、パチリと瞬きをする。まるで、深い眠りから覚めた時のように。
「ああ、何でもねぇよ。怪我はないよな?」
しゃがんだカイトはポンとメリカの頭に手をのせて、視線の高さを同じにして訊いてきた。
「うん」
こくりと頷くと、彼はそのままくしゃくしゃと頭を撫でてくれた。そうして立ち上がり、再び男に向き直る。
「で、何があったんだ? うちのが何か迷惑でも?」
「え、ああ。ヒトんちのことに口出ししてきやがったんだ」
「へぇ、どんな?」
「オレのやり方が悪ぃってよ」
そう言って、男がギロリとメリカを睨み付けてきた。メリカは真っ直ぐにその目を見返す。
怯む気配も見せないメリカに男が何か言おうとしたが、先んじて、カイトが声をかける。
「あんたのやり方ってのは?」
「躾だよ」
男はまだ地面に座り込んだままの少年に顎をしゃくる。
「そこにいんのがオレの息子なんだけどよ、親なんだから子どもを躾んのは当たり前だろ? そこにこいつがいちゃもんつけてきやがってよ」
「いちゃもんかい。そりゃ良くねぇなぁ」
「カイト、でも――」
抗議の声を上げようとしたメリカを、カイトが手で制した。彼は男に同調するようなしかめ面で先を促す。
「どんないちゃもんだったんだい?」
「できてねぇ時にゃ拳で教えてやるもんだろ? オレだって親父にそうやって教えられてきたんだ。それに難癖付けてきやがったんだよ、そのガキは」
吐き捨てるように言った男に、一瞬、カイトの眉がピクリと動いた。けれど、すぐにまたにこやかな表情になる。
「そうかぁ。あんたもそうやって育てられたのか」
「ああ」
肩を竦めた男に、カイトは首をかしげる。
「それじゃ、あんたはあんたの息子があんたの孫を殴るところを見たいのか」
「はぁ? んなもん、見てぇわけねぇだろ」
男は何言ってんだと言わんばかりの顔だ。
「でも、子どもってのは、教えられたことを覚えるもんだ。あんたが拳で教えれば、息子だってそうするだろうさ」
「ッ」
男がグッと息を呑み、絶句する。カイトが言うことは考えるまでもなく解るようなことだとメリカは思ったけれど、男の頭の中には全くなかったようだった。
気まずげにチラリと息子を見遣る男の肩を、カイトがポンと叩く。
「あんたが息子の為に良かれと思ってやってんのは判るよ。子どもにゃ、自分より良い道進んで欲しいもんな」
うんうんと頷きながら、カイトは、でもなぁと続ける。
「子どもに正しいことを教えるのは俺も必要だと思うぜ? けどな、同じくらい、人生イイもんだってのを教えてやっても良いんじゃねぇかな」
「人生が……? イイもん……?」
男は鼻先を弾かれた猫さながらに、ポカンと口を開けていた。
「ああ。やんなきゃいけねぇことばっかじゃなくてさ、やりてぇことを見っけるってのも、あってもいいんじゃねぇの? それにゃ、ムチばっかじゃなくてアメもあった方が良いと思うんだよな。痛みでの条件反射だけじゃなくて、自分で考えて望んで動く、みたいなさ。息子に立派な人間になって欲しいけど、同じくらい幸せにもなって欲しいだろ?」
「そりゃぁ……」
メリカは男とカイトを順番に見比べる。あんなに怒っていたのに、今の男はすっかりその火が消えているようだった。
しばらく押し黙っていた男が、ややして、呟く。
「どいつもこいつもオレを見れば殴るな、ダメだってしか言わねぇんだがよ、あんたはちょっと違うんだな」
それきり男はふつりと口を噤んだ。そんな彼を置いて、カイトがメリカを見下ろしてくる。
「俺とシーリィンはまだ用事があるからよ、もう少しジルと遊んで来いよ。な、ジル?」
カイトが呼びかけると、コーサルの陰に隠れていたジルが顔を覗かせこくこくと頷いた。
「もうチョイ楽しんで来い」
いつもの笑顔でくしゃりと頭を撫でられ、メリカはホッとする。男と話すカイトは、ずっと笑っているのに、何となく冷たく感じられていたから。
カイトに笑顔を返したメリカだったが、ふと思い出して少年に駆け寄った。ジルと同じかいくつか年下かもしれない。ふわふわした茶色の体毛のイヌ人だ。
「ちょっと、触るね」
声をかけてから、倍の大きさに腫れている頬に手のひらを添えた。短い詠唱で、腫れがスゥッと消えていく。
「もう痛くない?」
「大丈夫。ありがとう」
不思議そうに頬をさすりながら少年が応え、あ、と気づいたように続ける。
「オレ、ケインっていうんだ」
「ケイン? メリカはメリカっていうの。はじめまして」
ギルドのリリムから教わった、「初めて会う人」にする挨拶は間違っていないはずだけれども、どうしてか、ケインはキョトンと目を丸くした。何かおかしかったのだろうかと首を傾げたメリカに、ケインがふと笑う。
「ごめん。そんなふうに言われたことがなかったから。……はじめまして、メリカ」
そう言って、ケインはまた笑顔になった。