カイトの教え
メリカの目にまず入ってきたのは、大きな背中。メリカたちがいる方に――大通りに背を向けて、仁王立ちになっている。垂れた耳と細身の尻尾はコーサルとは違うけれども、イヌ人だ。どうやら、荷物を運んでいる途中のようで、落として割れてしまったのか、足元に、陶器の欠片が散らばっている。
「聞いてんのか、おい!?」
再びの喧噪を貫く大きな声に、一瞬、人の流れが止まった。
「何だろ」
眉をひそめたジルを置いて、メリカは駆け出す。大きなイヌ人の横を回り込んでその前に出ると、そこには、彼と同じような垂れた耳をしたイヌ人の少年が座り込んでいた。左の頬に手を当てて、鼻血を垂らしている。毛深いから判りづらいけれども、頬を叩かれたのではないだろうか。
少年の目に浮かぶ怯えた色に、メリカの胸がざわついた。
割り込んできたメリカに、イヌ人は苛立ちが混じる怪訝そうな眼を向けてくる。
「何だよ、嬢ちゃん。邪魔すんな」
仔猫でも追い払うように片手を振って、彼はまた少年に詰め寄った。
「ぐずぐずすんな。おら、さっさと立てよ」
その台詞と共に伸びてきた大きな手に、少年が身を竦ませる。
そんな少年を目にした瞬間、考えるよりも先にメリカの手が動き、気が付けば男の袖を引っ張っていた。
「――何だ……?」
男の目に浮かぶ色が、くすぶる苛立ちから燃え盛る怒りに変わる。
「邪魔すんなよクソガキが。親はどこだ、ええ?」
低い声で言いながら、腕を振り払った男がメリカに向き直る。
「メリカ! ダメだよ――」
駆け寄ってきたジルがメリカの手を引いたけれども、メリカは男を見上げて彼に問う。
「なんでぶつの」
「はぁ?」
男がひときわ大きな声を張り上げる。
多分、コレは威嚇のためだ。
メリカはそう理解した。
威嚇というのは、相手を脅すためのもの。つまり、このイヌ人は、言葉を発しはしても、メリカと対話をする気はないのだ。
流石に不穏な空気を感じ取ったのか、通行人の中から何人かが近寄ってきた。
「ちょっと、あんた、そんな小さい子に……」
諌めようとする者に、しかし、イヌ人は牙を剥く。
「ああ!? 何だよ、俺は息子に躾をしてやってるだけなんだよ! 他人が口出ししてんじゃねぇよ! 躾は大事だろ!? こいつが役立たずのろくでなしになったらあんたが責任取ってくれんのかよ!?」
大きな身体で圧し掛かるようにそう迫られて、善意の通行人は押し黙る。
「俺はこいつにやんなきゃいけねぇことを教えてやってるんだよ。できねぇグズにゃ、仕置きするのが当たり前だろ!?」
それのどこが悪いと言わんばかりに男がふんぞり返る。
が、メリカにはさっぱり意味が解らない。
「カイトもシーリィンもメリカのことぶたないよ」
「あ?」
「ぶたれても痛いだけだよ。ぶたれたって、なんで悪いのかなんて、じゃあどうしたらいいのかなんて、わからない。おじさんは、ぶたれたらわかるの?」
「殴られるようなことをしなきゃいいだけだろ。俺だってそうやって教えられてきたんだ」
男はフンと鼻を鳴らして答えたが、やっぱり良く解らないメリカは一層眉根を寄せる。
「おじさんはそれでうれしかったの? ぶたれて、がんばろって思った?」
小首をかしげて尋ねたメリカを、男は呆れた眼差しで見下ろしてきた。
「そんなわけあるか」
「じゃあ、なんでぶつの?」
また元の疑問に戻ってきた。
しつこく同じことを訊いてくるメリカに、イヌ人の苛立ちにはまた油が注がれてしまったようだ。ひげがピクついている。
「だから、物を知らねぇこいつに教えてやるためだって言ってんだろ」
「メリカも最初はなんにも知らなくて、できないことばっかりだったけど、カイトとシーリィンはぶたなかったよ。お話して、教えてくれるの。それにね、ぶたれなくっても、ありがとうって言ってもらえると、次はがんばろう、もっとがんばろうっていう気持ちになるよ」
イヌ人に言いたいことがちゃんと伝わっているかは判らないけれども、メリカは一生懸命言葉にした。
どういう教え方がいいかは、メリカにだって本当は判らない。でも、カイトは、自分より弱い者に暴力を振るってはいけないと、折に触れてメリカに説いてくるのだ。
メリカはこの場にいる誰よりも小さいのにこの場にいる誰よりも強いから、身体の大きい小さいで強い弱いは言えないかもしれない。けれど、少年の怯えた様子は望ましいものではないし、少なくとも、メリカには不快だ。
口を噤んで見上げるメリカの前で、イヌ人は捲れた上唇の間から白い牙を覗かせて肩を震わせている。
黙っているということは、解かってくれたということだろうか。
と。
「……るせぇ」
食いしばった歯の間から、ぼそりと。
「?」
聞き取れなかったメリカは、眉根を寄せて首をかしげる。
突然、男がクワッと血走った目を見開いた。
「るせぇよ! じゃあ、何だ? 俺の親父や俺のやり方がダメだっつってんのか!?」
腰を折り曲げ、前のめりになってメリカに顔を近付け、イヌ人はがなり立てる。
「俺は親父のやり方で俺になったんだ! だから俺も親父のやり方でこいつをでかくしてやるんだよ! 甘ったれたクソガキがしゃしゃり出てくんな!」
完全に、自制のタガが外れてしまっているようだった。
固められた拳が、大きく振り上げられる。多分、さっき少年に対してしたように、メリカに対してもする気なのだろう。
このイヌ人をやっつけることなんて、メリカには息を吐くより簡単なことだ。けれど、このイヌ人はメリカよりも弱い。自分よりも弱い者には、力を振るってはいけないのだ。
カイトは、メリカにそう教えてくれた。そして、カイトはいつだって正しい。
真っ直ぐイヌ人を見上げるメリカに向けて、彼女の頭ほどもあろうかという拳が、唸りを上げて振り下ろされる。
――が。
「チョイ待って」
その拳は、止められた。