ムチだけでは……
朝食を摂った後、いつもならすぐに自分の部屋に引きこもってしまうシーリィンが、食器を流しに置きに行ったメリカを呼ぶ。
名前ではなく『おい』という一声だったが、メリカはシーリィンに構われるのが嬉しいらしく、パッと顔を輝かせると、トトッと彼のもとに駆け寄った。
「この間渡した本は読めたか?」
「うん」
頷いたメリカに驚きの声を上げたのはカイトだ。
「え、マジか。あれ、結構分厚かっただろ。しかも、解からない言葉は自分で辞書で調べろとか、超適当だったよな」
時間を取って、相手をしてやらないといけないだろうと思っていたのだが。
メリカに力の使い方を教える気分になったことは大進歩だったが、そんなシーリィンがまず行ったのは、彼女に本を読ませることだったのだ。それも、ポンと渡しただけで。
メリカはまだ言葉を覚え始めてひと月も経っていない、赤子同然の語彙力だというのに。
魔術はカイトにとってさっぱり解からない領域ではあるが、孤児院で子どもらの世話をしてきた経験から、そのやり方では駄目だろうということは、判る。
微妙に非難がましい口調になったカイトだったが、シーリィンにはどこ吹く風。
「辞書とはその為にある」
――どこがおかしいと言わんばかりだ。
「そりゃそうだけど、お前、基本の文字の読み方だけ教えてあとは放置だっただろ?」
「基本が読めれば辞書は使える」
何の問題があるのかと言わんばかりのシーリィンに、カイトはため息をつく。
と、メリカがクイクイとカイトの袖を引いた。
「メリカ、じしょ読むのも楽しいよ」
「メリカ……」
「シーリィンがくれた本、カイトが教えてくれるのとはぜんぜんちがう言葉がたくさん出てくるの。じしょ使うとね、また、知らない言葉が出てきて、だんだん、わかってくるの。わかるの、すごくたのしい」
目を輝かせるメリカに、カイトは苦笑した。実際、ここ数日の間でのメリカの語彙量の増えっぷりには、目を瞠るものがある。
――その語彙の半分以上は、日常生活では使わないようなものではあるが。
「常識がまだまだ足りてないのに、そっち方面のことは俺より知ってるくらいなんだよな」
カイトはぼやいたが、シーリィンは訝しげに、眉をひそめる。
「それのどこに問題が?」
「お前な、我が身を振り返れよ。この、生活破綻者が」
メリカがシーリィンと同じになってしまったらどうしてくれる。
シーリィンはいざとなれば食事もせずにいられるが、メリカがどうかは判らない。衣食住が必要ならば、ヒトの社会で生きていけるようにしなければならないし、その為には常識を身につけなければならないというのに。
このままでは、放っておいたら年単位で部屋から一歩も出てこなくなるようなシーリィンと同じ代物が出来上がってしまう。
シーリィンを変えるのはとうに諦めているカイトは、肩を竦めて立ち上がった。
「まあ、いいさ。俺の方はボチボチやっていくからよ」
ぼやいて、皿洗いに戻る。
カイトの胸中などさっぱり解からぬシーリィンは、ようやく話が終わったか、という風情だ。眉を片方上げ、カイトを見てからメリカに眼を向ける。
「魔素とはなんだ?」
突然投げかけられた問いにメリカは束の間キョトンとしたが、すぐに姿勢をピンと伸ばしてシーリィンに向き直る。
「メリカたちのまわりにあって、魔法を使うのに必要なもの。からだの中に取り込める量が多いと、使える魔法も大きくなる」
「魔術」
「魔素の使い方。魔術で魔素を使って、できたことが魔法」
「魔導とは?」
「魔術をお勉強すること。……シーリィンが好きなこと」
へへっと笑ったメリカに、シーリィンは瞬きを一つして、応える。
「……まあ、取り敢えず、読めているようだな」
素っ気ない応答に、二人の遣り取りに耳を澄ませながら食器を洗っていたカイトは我慢できなかった。
「おいおい、それだけか? ほぼ独学だろ?」
「あの本は魔術の基礎の基礎の基礎だ。読めて当然だ」
何を騒ぐことがと言わんばかりのシーリィンに、カイトは一瞬顔をしかめ、すぐにメリカに笑いかけた。
「すごいな、メリカ。頑張ったじゃないか」
カイトのその台詞に、メリカの顔がパッと輝く。
「えへへ」
嬉しそうに笑うメリカは実に可愛らしかったが、シーリィンには欠片も影響を及ぼさなかったらしい。話は終わったとばかりに立ち上がり、食堂を出て行こうとする。
「何か言ってやらねぇの?」
カイトの台詞にシーリィンは振り返り、怪訝な面持ちで彼に期待の眼差しを注いでいるメリカを見た。
「何か?」
明らかに、思い当たることがない、という顔だ。
と、何かに気づいたようにその表情が変わる。
「ああ」
カイトはヨシと胸の内で拳を握った。
が。
「次の本を渡すから、あとで私の部屋に来るように」
続いたその台詞に、カイトはガクリと肩を落とす。
「いや、違うだろ……」
はぁ、とため息をこぼしたカイトに、シーリィンは眉をひそめた。
「何がだ?」
「いや、いい。何でもない。お前にそういうの期待した俺がバカだった」
「だから、何がだ」
「ムチばっかじゃ育たねぇよって話」
その返事に益々もって意味不明という顔になったシーリィンを放って、カイトはメリカの前にしゃがみこむ。
「頑張ったよな。すごいぞ。でも、一人でやんなきゃいけないってわけじゃないからな? 解からないこととか困ったこととかあったら、言えよ?」
「うん!」
嬉しそうに頷くメリカの頭を、わしゃわしゃと撫でてやる。メリカは一層嬉しそうに首を竦めて銀の鈴が跳ねるような声で笑った。
「ほんっと、メリカは良い子だよなぁ。俺はメリカのことが大好きだぞ」
「メリカもカイトのことだいすき!」
「ありがとな」
ひしと抱き締めれば、小さな手でしがみついてくる。
こんなに可愛いのに、これっぽっちも気持ちが動かないシーリィンが理解不能だ。彼も、もう少し言葉か態度で示してやってくれたらいいのだが。
だが、そんなカイトたちに奇妙なものでも見るような目を向けて、シーリィンは無言で去っていった。