番外編 1
※天宇視点の番外編です。
ーーー…
気づいた時には、遅かった。いつもは鞄に入っているはずの折りたたみ傘が見当たらなかった。雨は本格的に降り始めていて、どこかに傘を買いに行くにしても濡れることは確実だった。
こういうことがないように、いつも常備していたというのに。ここぞというときに役にたたない。傘に限らず、俺という人間は。
ふと、ある日の事件を思い出しながら、思った。
十二月の雨。肌に刺さるような冷たさを感じつつ、近くの店に雨宿りさせてもらうことにした。
露出した顔や首周り、両手から体温が奪われていく間、地面へと吸い込まれていく水滴たちを見送り、静止画のような空や木々、電柱などの景色を眺めていた。そして、しばらくはやみそうにないことを察した。
早く家に帰りたかった俺は、困った。月奈の喜ぶ顔を浮かべながら買ったプレゼントが鞄の中にあり、計画ではあと二十三分で渡せるはずだったからだ。
月奈の笑顔が雨に消えていく。心の中でため息をつき、足元に視線を落とす。視界の端になにかの影が見え、追いかけるように店の側面を覗くと、猫が路地裏で縮こまっていた。
毛を膨らませて少しでも体温を逃さないようにしている猫は、寒そうだった。猫といえば暖かい部屋やこたつでぬくぬくしているイメージがあるぐらいだから、寒いのは苦手なのだろうと思った。
俺の気配に気づいた猫は、こちらを睨みつけてから顔を上げた。怖くはなかった。だって、鼻提灯になっていたからだ。
かわいいだとか面白いだとか、そういう感情の前に鞄からスケッチブックを取り出し、鉛筆を動かしていた。紙に芯をのせるイメージで優しくふわりと。
なぜ描いているのか自分でも意識していない。もう、反射的に、無意識に、そうしている。おそらく、吹奏楽部が楽器の音に反応したり、音程を気にしていたり、美術部以外の部活の人たちに共通する現象だろう。
雨が地面にぶつかる音と鉛筆が紙にこすれる音が響く。そして、次に飛び込んできた音は水が跳ねる音だった。
一瞬にしてびしゃりと濡れた靴。防水スニーカーではないため、靴だけでなく靴下まで染みてきているのが分かった。
「あ。ごめんなさい、大丈夫ですか?」
透き通った声だけど、温かさはない。氷みたいな人なのかなという思考が頭をよぎる。
「大丈夫です」
状況からして、この人が水溜まりを踏んだことにより、その水飛沫を靴に浴びたらしい。屈んでいるその人に目を向けると、バチっと目が合い、いくつか記憶が蘇った。
「「あ」」
月奈が『かもちゃん』と呼んでいた……名前が思い出せないけど、顔は一致した。あちらも顔は一致したかのように目が見開かれたが、名前が口から出る様子はない。中学校の同窓会に参加した時のような感覚だった。
「相変わらずみたいだね」
なにがだろうか。その言葉からはなにも察することはできなかった。元々、月奈の絡みでしか会わなかった人だ。短い言葉から意図を汲み取ることは難しい。
「それ。……絵!」
そんな俺とは真逆で、俺の気持ちを読み取った彼女は「美術部って言ってたもんね」と続けた。
本当に俺のことを覚えているらしい。言葉を交わした時はバスケットボールの試合前のことだったな。
「見せてくれたというより、チラ見しちゃったね。ごめん」
白に濃藍のラインが入った傘を背景にした彼女は目を細め、頭を傾ける。煎茶色の髪がふわりと動く。
「いや、大丈夫です。それより、月奈を助けてくれてありがとうございました」
軽く頭を下げると、数秒思考を巡らせた彼女。そして、思い出したのか明るい顔をした。
「あれね。前にも言ったけど、借りがあっただけ。気にしないで」
「月奈から聞いたけど、貸しは大したものじゃなかったって。罪滅ぼしだったんじゃないんですか?」
彼女は吹き出すと、口元に手を当てる。上品な仕草、手入れされて整った指先……あの時よりも美しさに磨きがかかっているようだ。
「笑わせないで。過信しすぎだから」
そう言って、手の甲に落ちた雫を払う。そして、撫子色と淡紅藤のカバーをつけたポケットティッシュを差し出してくるけど断った。
二人の間に気まずい空気が漂い、このままお開きになるかと思われた。
「ねぇ、ちょっとお茶していかない?」
なぜだか、彼女はそんなことを言い出した。
「いや、大丈夫です」
「なんでよ。いいじゃん、ちょっとくらい」
「なんでですか?」
「なんでって……懐かしいじゃん?」
「もうそんなに話すことないですよね」
「確かにそんなにないかもだけど。……靴、濡らしちゃったし、奢るよ」
後付けのように靴の話を持ち出し、雨宿りしていたお店の中へと押し込む彼女。なにが目的か分からない。俺と過ごすことで、話すことで、メリットがあるとは思えない。
けれど、月奈の顔が浮かび、大人しく従うことにした。少しでも想いが伝わる機会になればいいと数分後の未来に期待して。
ーーー…
苔色の座布団が置いてある座敷に案内された。板目のテーブルと床で仕切りは黒鳶だった。温かみのある落ち着く雰囲気がある。座る前にお手洗いに行き、靴下を替えてから腰を下ろした。
窓の外を見ると雨は絶えず降り続けていて、店というバリアに守られているような気分になった。邪魔をされない異空間ともいえるかもしれない。