97話 崩壊した心
どれくらいそうしていただろうか。
雛鳥は己の頬に伝う涙を着物の袖で上品に拭うと、目の前の少女にまるで執事がするような見事なお辞儀をした。
そして、一切感情を感じさせない瞳と声色。半ば機械的な、事務的な事を伝えるように、淡々とその言葉を口にした。
「ヒナ様、お見苦しい姿をお見せしました。大変申し訳ございません」
その変わりように、その場の全員が困惑していたことだろう。
彼女がこの場に現れた時は、間違いなく自分達を排除すべき敵だとする意志があった。実際、マッハ達には攻撃を仕掛けてきた点から見ても間違いないだろう。
しかし、彼女はそのすぐ後に泣き出してしまった。
まるで親を見失った迷子の子供のように大声で泣き喚き、泣き止んだかと思えば感情を失ってしまったかのように淡々と話すだけ。
彼女の異変に一番動揺し、心を揺れ動かされたのは当然紅葉だ。
「雛鳥様……? い、いったいどうなされたのですか……?」
だが、雛鳥は紅葉のその心配の眼差しを真正面から受け止める事はせず、まるでもう誰とも関わらない事を決めたかのように視線を逸らした。
崩壊した心を、もうこれ以上無理に繋ぎ止め、今以上にバラバラになってしまう事を防ぐ為か。
それとも、性懲りもなく希望を見出してしまう自分への戒めなのか。
その答えは雛鳥自身にしか分からないが、ともかく彼女は全ての感情を出さぬよう、心を閉ざした。
それでも、自分が与えられた役目だけはキチンとこなそうというメリーナへの絶対的な忠誠心の元、今自分がやるべきことをきちんと見定めたのだ。
その結果、頭を上げずにマッハ達に向かって謝罪する。
「先程の無礼、どうかお許しください。ヒナ様の妹様方。正体を知らなかったとはいえ、私の言動の数々も、許していただければこれ以上の幸せはありません」
「『……』」
まるでさっきとは別人のその態度に、まさか偽物かと疑ってしまうほどだったが、マッハの直感が違うと囁き、ケルヌンノスやイシュタルも姉のその直感に従った。
唯一ヒナだけは全く別の事を考えていたのだが、マッハ達が魔法を解いてほしいと言ってきたので大人しく魔法を解除する。
「うん、いいよ! ヒナねぇのこと凄いって分かってるもんな! うんうん、なら全然許す!」
「……私はまだ懐疑的。でも、攻撃仕掛けてきたことに関しては水に流してもいいくらい、ヒナねぇへの尊敬と畏怖の念は感じる。さっき出て来たあのヤバい女よりはよっぽど信用出来る」
「けるねぇに同意。あの女に比べたら数百倍信用出来る」
小さくコクコクと頷きながら、2人は先程ヒナに恋愛感情……とは違うまでも、異様な感情を向けてきていた女の事を思い出していた。
彼女とはまたどこかで会うような気もするが、その時は迷わずその首を落そう。そう心に誓いつつ、ヒナの安全だけは自分の身に変えても守って見せると息まく。
雛鳥からしてみれば、彼女達が言っている『ヤバい女』の存在は紅葉に話をしに行っていたので確認していないのだが、今考えるべきはそこじゃないとサッサと思考を切り替えた。
メリーナに対する罪の意識も、想いも、憧れも、全てを一度頭の奥底へと押し込み、不審な事をしていると思われないようにあえて彼女達にも聞こえるよう紅葉に指令をだす。
「第五階層のツバキに、一層のブルーミノタウロスと二層の狼人間、三層のヒュプノスを復活させるように言ってきて。私は雛様達をメリーナ……メリーナ様のお部屋に案内いたします。あなたも、役目が終わったらメリーナ様のお部屋に来て報告してください。その後の事はその時に」
「……は!? い、いえ……ですが、その者達をメリーナ様のお部屋に、ですか……?」
「ヒナ様です。それ以外の言葉であのお方を表現するのは止めてください」
「…………分かりました。では、そのように」
このダンジョン内で一番偉いのが、ギルドマスターが居なくなった現状では雛鳥だというのは全NPC共通の認識だった。
全NPCと言っても、階層を守っているのは紅葉を含めて3人なので、その他の者達はダンジョンのさらに奥にある居住区で暮らしている者達だ。
そこには執事だったり料理長だったり、まるで貴族の屋敷に住んでいるかのような使用人達が数多く存在している。
その中でまともに戦えるのは階層を守っている者達だけだし、その者達が一度に束でかかったとしても雛鳥は倒せない。
それに、強さだけではなく、指示の内容が的確で分かりやすく、ダンジョンや自分達の事を考えてくれているという思いやりを感じられる物ばかりなので、彼女達もなんの不満も無く従っている。
紅葉は、その命令の必要性は特に感じなかったが、雛鳥には何か考えがあるのだろうという妄信的な信頼の元その場を立ち去り、一つ下の階層を守っている、自分と同じ人を創造主だと敬うツバキに話をしに行った。
その後ろ姿を見送り、雛鳥は改めてヒナ達に向き直る。
「先程のお話を聞いての通りです。皆様には、我が創造主であるメリーナのお部屋に来ていただければ……と思っているのですが、どうでしょうか」
いくらギルドを追放されたからと言っても、彼女を慕っていたギルメン達の強い要望によって、その部屋自体は残されていた。
もちろんデータとしてのアイテムは残っていないが、アイテムボックスそれ自体は彼女と彼女が作成したNPCしか開けない仕様となっている物が残っていた。
しかし、雛鳥がヒナ達をその場所に案内するのには別の目的があった。
「なんで私らがそんなところに行くんだ? 冒険まだ終わってないじゃん~」
「マッハ様の言はもっともでございます。ですが、この先の階層を守っている者達は、全員先程ここにいた紅葉と同様NPCの者達でございます。ヒナ様のお気持ちを煩わせる結果になるかと思いますので、それなら最初に我が主の部屋へお通ししようと思った次第です」
「……そ、そうなの? この先も……あの子達が、守ってるの……?」
「はい、その通りです。ヒナ様のお優しい心を傷付ける事は出来ません。もしお望みであればもちろんこの先に進んでいただいても結構ですが、ボスモンスターとして配置されている者を倒さない限り、その先の階層には進めないというルールはこの世界でも生きております」
要は、ボスモンスターであるNPC達に「あなた達は殺したくないから下の階層へ行かしてくれない?」と言ったところで、違う階層へは行けないという事だ。
ゲームの世界でもそのような設定はあったのだが、この世界でもそのルールが適用されている事に驚いたのはヒナだけでは無いだろう。
それでも、雛鳥はヒナに対し嘘は吐かない。
メリーナが憧れ、その隣で生きたいと思った存在に、どうして嘘が吐けるだろうか。
その、ボスを倒さなければ先の階層に進めないというルールは、このダンジョンに住まう者であれば当然適応されず、その者に許可された者達なら何の気なしに下の階層へ行ける。
しかしながら、どれだけ脅されようとも各階層を守っている者達が侵入者にその許可を出す事はない。そう、設定上で定められているからだ。
どれだけヒナが本気の圧をかけてその心を屈服させようとも、その設定だけは覆す事が出来ないのだ。
そんな背景があるのなら、ヒナとしてもこの先冒険を続けようとは思えない。
マッハ達とは違うとはいえ、NPCを手にかけるのはかなりの抵抗があるし、さっきみたいにとてつもない怒りが湧いてこないとはどうしても思えない。その時、今度こそマッハ達に見放されるかもしれないのだ。
いくら気を付けようと思っても、そんな人達を前にすれば……また、あの言葉を聞いてしまえば、それも絶対とは言えない。
そんなに自分の心が出来たものでない事くらい、自分が一番よく分かっている。
「皆……どう? 私は、一回この人の言う事聞いてみるのもありかなって……思うんだけど……」
「ん~、まぁヒナねぇが良いなら良いんじゃない? あ、でもその前に一つ条件出して良い?」
「じ、条件……? なに?」
「ねぇそこの……」
「雛鳥でございます」
恭しく頭を下げた雛鳥は、マッハが元気よく「雛鳥ね!」と言った事でうっすらと作り笑いを浮かべた。
本心から笑える日は、もう来ないかもしれない。彼女が誰にも知られることなく心の内でそう思った直後、マッハがその条件を口にした。
「雛鳥ってさ、死神以外にもモンスター出せる!?」
「……? 召喚魔法のことでございましたら、他にも複数のモンスターを呼び出す事が可能です。不敬にも皆様を消耗させるために一番適していると思ったのが死神だったので最初に死神を用意しただけですので」
「ふ……まぁいいや! なら用事が終わったら、そいつらと私らで戦わせて! 久々に本気出しても良い戦いが出来るんだもん!」
胸の前で拳を作りながらブンブンと縦に振ったマッハは、隣に立つケルヌンノスに「脳筋」と呆れられる事など想定していなかったのか、その言葉が鼓膜を揺らした瞬間に石化の魔法をかけられたように硬直する。
そして、若干涙目になりながら訴えた。
「けるだって戦いたいだろ~!? ほらほら、久しぶりに私達が本気出しても勝てるかどうかって戦いしてみたいだろ!?」
「……ヒナねぇが参加するならやりたい。でも、マッハねぇだけなら別にそこまで……」
「お姉ちゃん泣くぞ!?」
「…………ちょっとだけやりたい」
「だよな!?」
嬉しそうにえへへと笑顔を綻ばせたマッハの提案を断る理由などなく、雛鳥は二つ返事で了承した。
マッハが満足する相手を呼び出せるかどうかは分からないが、その時は自分が与えられている無数のアイテムの中から厳選してモンスターを強化するか、ヒュプノスを復活させて再び挑んでもらえばいい。
通常神は復活させることは出来ないのだが、ボスモンスターに設定されているこのダンジョン内ではその限りでは無いのだから。
「では、最下層よりさらに下。居住区の方へとご案内いたします。直通のエレベーターがございますのでお時間は取らせません」
「あ、やったー! 楽で良いよね楽で~!」
「マッハねぇ、単純すぎ。罠かもしれない……」
「ちょ、ちょっとけるちゃん! そんなこと言ったら失礼だよ……」
ケルヌンノスは怯えるように自分の背後に隠れながら言う、この場で一番強いだろう姉に若干呆れつつ、警戒しない方が不自然という正論パンチを喰らわせる。
すると、いつもの事ではある物の、ヒナはグスッと泣きそうな顔をしてしまう。
その度に自分の心がグサッとかき回されるような妙な感覚に襲われるが、イシュタルにもこそっと目くばせで警戒を怠らないよう釘を刺しておく。
マッハやヒナがまったく警戒していない現状、頼れるのは同じく罠の可能性を考えているだろうイシュタルだけだ。
彼女まで何も警戒していないのであれば先が思いやられるのだが、幸いにもイシュタルは末っ子とは思えないほど周りをよく観察し、警戒を怠っていなかった。
(罠、だと思う?)
(分かんない。でも、マッハねぇも言ってたけど、この人のヒナねぇに対する尊敬の念は本物。あのヤバい奴よりは信用出来る。けるねぇもそう思うでしょ?)
(まぁ……あんな奴よりは信用出来るけど、警戒するに越した事は無いと思う)
視線だけでそんな会話をする2人に対し、雛鳥がエレベーターに向かう道すがら爆弾を投下する。
それは、彼女の知識とメリーナの部屋に保管されているヒナに対する資料にも記載されていないので仕方が無いと言えば仕方がないのだが……。
「それでケルヌンノス様。お隣の方のお名前を教えていただいてもよろしいでしょうか。皆様と親しげにされているのは見ていて把握しているのですが、私にはその方がどなたかというデータがありません」
「……え?」
「……けるねぇ、こいつ私嫌い」
「だっはっは! たる、情報無いって! はっはっは!」
おかしそうに涙を浮かべながら腹を抱えて笑うマッハにムカッとしつつ、イシュタルはヒナの袖をギュッと掴んで「ヒナねぇの妹」と答える。
すると、雛鳥は心底驚いたようにイシュタルの顔を凝視し、それでいてその隣のヒナやケルヌンノスの顔を再び凝視する。その顔には「本当ですか?」という懐疑的な意図が込められている。
「本当……だよ? たるちゃんは、私達の家族……です」
「ヒナねぇ、なんで敬語?」
「うぅ……。だって怖いんだもん……。ヒナ様とかそんな、言われるの……慣れてないもん……」
誰かに敬われるなんて人生とは真逆の人生を送ってきていたヒナにとってみれば、急に知らない人から『ヒナ様』なんて呼ばれるのは少しだけ恐怖だった。
しかし、マッハ達を含め4人共違和感なしに受け入れているので、その呼び方を止めてほしいとは中々言えなかったのだ。
「それは申し訳ありませんでした。私のデータにはマッハ様とケルヌンノス様だけしか存在しておらず、三人目のご家族の方の存在は把握しておりませんでした。よろしければ、お名前をお聞かせください」
その言い方にもの凄くムッとするものの、その顔は真剣そのもの……というより、本気で申し訳なさそうにしているので、自分を知らない事にはなにか理由があるのだろうと早々に結論付ける。
唯一未だにおかしそうに笑っているマッハの頭頂部に軽くチョップしつつ、若干そっぽを向きながら「イシュタル」とだけ答える。
「イシュタル様ですね。不快かとは思いますが、メリーナ様の部屋に来てくだされば私があなた様の事を知らなかった理由が分かるかと思います。もうしばらく、お付き合い願えないでしょうか……」
「……ん。どの道、ヒナねぇから離れるつもりはないから」
そう言ったイシュタルに心底ホッとしたような表情を“作った”雛鳥は、そのまま階層のかなり端の方に設置されているギルメンやNPCだけしか利用する事が出来ない、全階層に行き来出来るエレベーターへと乗り込む。
木の根で造られたその箱は少女が5人乗ってもまだまだ余裕がありそうなほど広く、まるで業務用エレベーターのようだ。
そのエレベーターの操作盤の一番下を押した雛鳥は「少々揺れます」とだけ口にして、扉を閉めた。




