95話 ヒナの隣こそ、ボクの生きる世界
ヒーローへの憧れなんてものは、誰しもが長く続くものではない。
いくら子供の頃に戦隊もののヒーローになりたい、魔法少女になりたい。そう思っても、それがテレビの中や空想上の人物である事を知れば……いや、年齢を重ねるにつれて、その難しさという物を目の当たりにし、断念する者が多くなるだろう。
戦隊もののヒーローになりたくとも、当初思っていたこの世界のどこかで人々の平和や笑顔のために戦うヒーローはいなくて、若手俳優や売り出し中の男性アイドルなんかが撮影で演じているだけ。
この世界のどこかで悪の組織と魔法の力で戦っている少女達も居なければ、アンパンの顔をした不思議な生物だってもちろんいるはずもない。
ヒーローに憧れ、それになりたいと思ってもその夢を掴めるのは一握りだし、そもそも小学校に上がる頃には大半の人が諦めるような、尊くも儚い夢だ。
しかしながら、青春のほとんどを費やしてそのヒーローの隣を目指した少女は、まさに今もう少しで手が届く。そこまで来ていた。
彼女の望みはあの日自分の世界を広げ、窮屈だった人生に生きる希望を与えてくれた人の隣で歩き、あまつさえ共にゲームの世界で生きていく事だった。
だが――
「あぁ……あぁ……。ボクは、ボクはなんてことを……」
昨日犯してしまった人生最大の罪。それを今改めて認識し、少女は頭を抱えていた。
あの時はまだ小学生だった少女は1年前に都内でも有数の進学校である私立の中学校に入学し、そこそこの成績を収めつつも生まれ持った圧倒的な運によって”ほぼ”無課金ながら上位プレイヤーの仲間入りをしていた。
もちろん課金アイテムの数々には手を出せていないのだが、それでもディアボロスの面々やその他のPK集団から狙われ、返り討ちにすることでレア装備やアイテム等を入手し、時には交渉によってそれらを手にしてきた。
唯一、ヒナが重宝しているアイテムは自分でも欲しいと思ったのでお年玉貯金を崩して手に入れたのだが、ヒナが10万単位でつぎ込んでようやく手に入れたそのアイテムを、少女は数百円で手に入れてしまったのだ。
課金総額は驚異の2000円程度だが、それでも上位プレイヤーの仲間入りを果たしているのがいかに異常かよく分かるだろう。
無論、その課金ガチャ以外でのお金の使い道はメイン装備のカスタム費用に充てていた。
「ボクは取り返しのつかないことを……。あぁ、どうしよう……」
しかし今現在、少女は自室のPCの前で頭を抱え、最近買い替えたゲーミングチェアの上で足を組んで背を丸めていた。
ギシギシと嫌な音を椅子が奏でるが、つい最近ようやく慣れて来たのでそれには耳を傾けず、ただただ自分の犯した罪をひたすらに後悔していた。
NPCを作成した昨日は設定にあれこれ書き込みすぎて疲れたので早々に寝たのだが、夢の中でヒナのアバターに声をかけられるという長年の夢を果たした事で有頂天になり、余計に現実を確認してしまったのだ。
「あなたには失望した」という、その重すぎる一言で目を覚ました少女のベッドは、まるでおもらしでもしたみたいに汗でグッショリと濡れ、寝間着も心なしか汗でベタついている。
部屋の時計を確認するとまだ早朝の4時ちょっとすぎだったが、再び寝付ける気がせずPCを起動し、フィールド上で狩りをしているヒナを偶然見かける。
夢の中で交わした言葉なんて、所詮は夢だ。まだランキング2位の座は遠いが、今のままならあと数か月もすればそこまで至れる。
そう思った彼女は、次の瞬間襲い掛かって来た巨人のモンスターにボコボコにされて一瞬呆けてしまった。
そこで、彼女はゲームを閉じて現状を正しく理解した後に今の状態になったという訳だ。
今日が祝日で良かったと思う反面、明日学校にちゃんと通えるだろうか。そう思ってしまうのも無理はなかった。
彼女にとってヒナとは大げさでもなんでもなく生きる目的だった。
いや、生きる目的どころか、自分の人生に彩りを与えてくれた唯一の存在であり、あの窮屈な生活から助け出してくれた、比喩でもなんでもないヒーローだったのだ。
そんな人の傍に並ぶために、ここ数年は血反吐を吐くような思いでゲームをしてきた。
暇つぶし? そんなわけがない。
睡眠時間を削り、学校にも貯金をはたいて購入したノートパソコンを持ち込んで休み時間や授業中すら、トイレと偽ってゲームをプレイしていたほどだ。
ろくに友達は出来なかったが、そのおかげで3年という短い期間でそのヒーローに迫れるまでに至ったのだ。
「ダメだ……。今のボクじゃ、あなたの隣に立つ資格が……」
少女は、生まれてこの方勉強しかしてこなかった。
勉強しかしてこず、初めて母に反抗したあの時に初めて目にした広告が、動く映像を始めて見たというほどの世間知らずだった。
だから、最初に彼女の強さに目を付けてギルドに勧誘された時は断る事が出来ずに二つ返事で了承してしまった。
NPC達の扱いやその考え方には度々文句を言いたくなったが、あまり偉そうに振る舞うと自分が憧れている存在と肩を並べた時、その過去が足を引っ張るのではないか。そう思って強気な態度のロールプレイから逸脱した行為は出来なかったのだ。
しかし、彼女はそれと同時にギルドを脱退して他のギルドに属すという考えも当然ながら持ち合わせていなかった。
ちょうど一昔前にあった考え方に『企業に入社したら定年までそこで働け』みたいな考え方と似たようなものだ。
彼女はヒナに同じギルドに誘われる……みたいな特例が無い限り最初に入ったギルドから離れるつもりはなかったし、どれだけ不満を持っていようとも離れるといった選択肢が浮かんでこなかった。
先程言った理由から、不満そのものを口にすることも無かったわけだが……そんな生活をしていたが故に、彼女は今どうしていいか分からなかった。
NPCを作ってしまった事で自身が大幅に弱体化してしまったのは言うまでもない。
ほぼ最短距離でヒナの歩んできた道のりを追走し、彼女が頻繁に使っている魔法やスキルを優先して入手するという徹底ぶり。
逆に言えば、世間一般的には汎用性が高いからとっておけと言われている魔法やスキルだろうが、ヒナが使っていないのであれば必要ないのだろうと決めつけて入手していなかった。その弊害がもろに出ていたのだ。
「今のボクじゃ、巨人族にも勝てない……。サブ垢でも余裕で勝てるのに……」
今の彼女のメインアカウント『メリーナ』では、神の名を冠するモンスターの次に強いと言われている巨人族のモンスターに手も足も出なかった。
火力はもちろん圧倒的に足りていないし、相手の攻撃力もバカにならないので一撃でもまともに喰らってしまえば即死。
仮に攻撃を避け続けたとしても、その耐久力の前に何もできずにやがて敗北してしまう事は分かり切っていた。
今まで限りなく狭い世界で生きてきた少女は、今まで挫折という挫折を経験した事が無かった。
勉強ばかりの窮屈な世界から連れ出してくれたのは家族でも誰でもなく、この世界のどこかにいるはずのヒーローだ。
そのヒーローが生きる世界で彼女の隣にいるために懸命にもがき、まだ雛鳥だというのに親鳥のように美しく飛ぼうとした結果、当然ながら地面に落下したのだ。
初めての挫折を経験する時、それを上手く乗り越えられるかそれともそのまま腐ってしまうかは人による。
彼女が憧れていたヒナでさえ、最初の挫折は間違いなく両親の死だ。
たった1人この世界に残され、彼女はその現実を受け入れる事が出来ずにバーチャルの世界に逃げた。いわゆる、腐ってしまった良い例だろう。
皮肉にも、ヒナと少女は良い意味でも悪い意味でも非常に似ていた。
良い意味とはもちろん、好きな物にはどれだけ情熱を向けても苦にならず、睡眠時間を削り、生活に支障が出るレベルで向き合う事が出来る素直さとひたむきさ。
そして悪い面は……諦めるのが早すぎる点と、中途半端に賢いせいで視野が極端に狭くなってしまう事があるという点だった。
「ヒナさん……ごめんなさい……ごめんなさい……。ボクの……いや、私の……わたしの、わたしだけの……ヒーロー……」
気付けば、少女は大粒の涙を瞳の端からボロボロとこぼしていた。
それは瞬く間にキーボードに滴り落ち、汗でベッタリと濡れた寝間着に滴り、その頬を一筋の雫となって流れる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
少女は、多くの人が憧れのヒーローを目指し、諦めるのとはまったくの別。愚かな自分が、ヒーローの隣に立つなんておこがましかったんだと、そう悟って夢を諦めた。
それは、少女にとってはとても残酷な物だった。これならまだ、ヒナに徹底的に実力を示され、どう頑張っても追いつく事などできないと分からされた方が幸せだっただろう。
こんなところでも、ヒナと彼女は似ていた。
低すぎる自己評価。それが、彼女達が最も似ている部分だった。
こうして、メリーナという少女は……いや、烏丸楓という一人の少女は、人生で初めて抱いた夢と、希望を自らの意志で投げ捨てた。放棄した。諦めた。
そして誰にも告げることなく、静かにラグナロクの世界を去った。その世界が、終わる直前までは……




