94話 私のヒーロー
幼い頃、ヒーローに憧れた事が無かっただろうか。
この場合のヒーローとは、必ずしも日曜の朝辺りにやっている戦隊もののヒーローという事ではなく、人によってその対象は違う。
それこそ多くが憧れる戦隊もののヒーローだったり、愛と勇気が友達の空飛ぶアンパンだったり、何世代にも渡って魔法少女らしき力を継承している少女達だったりするだろう。
珍しい例で言うならアニメの悪役がそれだったり、もしくは全く目立たないが陰では滅茶苦茶強いと言われて恐れられている人だったり……まぁ、上げ始めればキリがないが、ともかくその辺だ。
現実世界で消防士や警察官に憧れを抱く人がいるのだって、この場合のヒーローがその人達にとって消防士達だったというだけだ。
しかしながら、メリーナこと烏丸楓は、幼少の頃からそういった事にはまるで興味が無かった。
いや、興味が無かったと言うのは正確ではない。興味を持つ機会を与えられなかったのだ。
家ではテレビもゲームも禁止。ただ勉強をして将来良い大学に入り、人生を苦労しないように……そんな親の教育方針で、幼い頃から徹底的に勉強だけをさせられてきていたからだ。
これが、彼女自身勉強が大好きな人間であればまだ良かった。
勉強を苦にすることも無く、ただ親の言う事に従って奴隷のような生活を送っても、別になんら不満も無く、勉強だけをして良い大学に入り、それなりの人生を歩んでそれなりの結婚相手を見つけた事だろう。
しかしながら、楓はそもそも勉強という物が大っ嫌いだった。
それはそうだろう。楓の母は良い大学を出てそこそこの幸せを掴んだ賢き女性だったが、父親の方は中卒で学歴を偽って大企業に入社して楓の母と出会ったのだから。
まぁ、その事実を知っているのは今や父親だけなので母はおろか、娘の楓すらそんなことは知らないのだが、勉強嫌いの少女が小学校に入る前から……いや、入った後も勉強漬けの生活を送っていれば、いつかは限界が来る。
ある日、彼女は学校が終わった後まっすぐ家に戻らず、家とは反対の方向へ逃げるように足を向けた。
そして足を向けた先は、今まで一度も行ったことが無かった日本最大級の駅とも言われる新宿駅だった。
スーツを着た大人達の中にただ1人ランドセルを背負ったまだ幼い少女が紛れ込み駅構内を当ても無く練り歩く。
それは少女にとって人生で初めての親への反逆であり、冒険であり、生きていると実感出来た瞬間だった。
『ラグナロク 第3回個人イベント! 週末に開催! 2連続首位を収めているヒナに勝てる者は現れるのか!?』
今まで足を止めず、ただなんとなく駅の構内を練り歩いていた少女は、突如聞こえて来た大音量の壮大な音楽と、そんなナレーションにビクッと肩を震わせて思わず足を止めた。
そして、恐る恐る声が聞こえてきた方を振り返ると、そこには見た事も無いほど大きなモニターが設置されており、そこには動く映像のような物が表示されていた。
アニメもテレビも、動画の類すら一切見た事が無かった少女は、そのモニターに衝撃を受けた。
赤子ですら親の携帯端末で暇を潰すと言われている今の時代に、彼女は携帯すら持っていなかった。なので、何かが画面の中で動いているという、その衝撃だけで卒倒しかねない物だったのだ。
『さぁ、君も一緒に、暇つぶし程度の程よいゲーム人生を送ろう!』
ヒナと呼ばれる少女だろうか。
名前は分からないが、自分より若干年上にも思える少女がこの世の物とは思えない化け物と戦いながら見事に勝利を収める様子がムービーとして流れ、それが終わるとそのナレーションが聞こえて来た。
幼いながら、それがこの世界……いや、現実で行われている不可思議なバトルで無い事は分かった。
しかし、それがこことは別の異なる世界とはどうしても思えなかった。なにせ、そのナレーションは『君も一緒に』と言ったから。
皮肉にも、携帯端末すら今までの人生で触れさせてももらえていなかった少女は、今までその原因を作って来た勉強漬けの日々のおかげでその文言を理解する事が出来た。
本来であれば、人生で初めて動く映像を見てそれが必ずしも現実で行われていないと悟るのには多少の時間がかかる。
バラエティー番組なんかが全てリアルタイムで撮影されていると思ってしまうのも幼い子供の時に一度は通る道だろうし、アニメなんかもこの世界のどこかで現実に行われている事だと錯覚してしまうのも、全ての子供が一度は通る道では無いだろうか。
しかし、この楓という少女はその道を通らなかった。
いや、正確にはそう考える間もなく理解したのだ。今まで憎み嫌っていた、勉強漬けの日々のおかげで。
「私を……助けて……」
少女は気が付けば、ポツリとそんな言葉を漏らしていた。
そのモニターでは再び少女が足を止めた時と同じ映像、ナレーションが繰り返し流されるが、少女が歩み始める事は無く、むしろそのモニターに釘付けになった。
目をカッと見開き、幼いながらもその広告が数巡する頃にはナレーションの全てを暗記し、どんな映像が次に目に飛び込んでくるのか。全て分かるようになった。
それでも、少女がそのモニターの前から動くことは無かった。
だがしかし、そんな時間も長くは続かない。
小学校から中々帰ってこない娘を心配して母親が家での仕事を放り出して駅まで探しに来たのだ。
「楓!」
この世の何より憎み、恨んでいるはずの母親の声を聞いてもなお、少女はそのモニターから視線を外す事も無く、ただ銅像のようにまっすぐ画面の中で戦っている少女を見ていた。
次に紫色の閃光が光って目の前のこの世の物とは思えない化け物を一掃し、次いで虹色の光線で一際体の大きい化け物の身を焼き貫く。
その様が、何度繰り返し見ても瞳の奥にこびりついて離れなかった。
「楓なにしてるの! ほら、早く帰って勉強しなさい!」
母が少女の腕を掴み、無理やりにでもその場から離れさせようとする。
しかし、少女は必死に抵抗し、その瞳の端から涙を浮かべながらも絶対にモニターからは目を離さなかった。
広告の始まりと終わりに少女の姿が1分ほど見えなくなる瞬間があった。それはもう、少女にとって勉強するよりも苦痛の時間となっていた。
ただ3分ほどの短い広告。それでも、少女にとって画面の中で戦っている女の子を見る事が……自分よりも少しだけ年上くらいにしか見えない幼い少女が勇敢に戦っている様は、カッコよかったのだ。
烏丸楓はこの瞬間、ヒーローに憧れ、憑りつかれたのだ。
「ママ……これ、欲しい……」
「は?」
およそ小学生とは思えないほど確固たる意志を持ってその場から動かんとする娘をその場から引き剥がす事なんて、普段家から一歩も出ない女には不可能だった。
情けない限りではあるが、彼女は力だけで言えば小学校低学年の女児よりも劣るのだ。
無論先天性の病気を持っているせいで四肢に上手く力が入らないという側面はあるのだが、日常生活において支障をきたすほどでは無かった。
しかし、体育会系の父親に似て運動神経にはある程度恵まれていた楓は、そんな非力な母親に敵うだけの力を有していた。
もちろんそこら辺の普通の女性であればいとも簡単にその場から離された事だろう。
しかし、運よく自身の母親が他の女性陣とは違った事で、少女は救われたのだ。
「これ……欲しい……」
少女はただ、何かに命じられるがままモニターを指さして機械的にそれだけを何度も何度も口にした。
時刻は既に少女がモニターの前で足を止めてから3時間が経過し、辺りは会社から帰宅する者で溢れかえり、異様な親子を見る奇異の目が増えてきていた。
そのうち誤解した人間が駅員に通報して女児誘拐未遂で連行されてしまうかもしれない。女がそう考えるのも無理が無いほど、辺りには人が増え始めた。
無論それは帰宅ラッシュの駅という状況ゆえに当然なのだが、女は自分達に向けられる奇異の目と数分単位でゾロゾロと聞こえてくる革靴の音が我慢ならなかった。
普段家で仕事をする故の無知。
無数に向けられる視線と鼓膜を揺らす数えきれないほどの足音。それが、たまらなく怖かったのだ。
「分かった……分かったから早くここから離れて……」
やがて根負けするような形ではあった物の、女が様々な恐怖に耐えきれずそう言うのは必然だった。
ここに来たのが女でなく駅員だったなら。
女が来るのがもう少し遅く、他の誰かが心配して声をかけて来たなら。
いつもより早く仕事を終えて帰ってきていた父親が、楓の前を携帯を見ながら歩いておらず、愛娘の存在に気付いていれば。
無数のもしもが重なった形ではあったものの、少女は数日後にそのゲームを手に入れる事が出来た。
決して性能が良いとは言えないPCを買って貰って、父親に手伝ってもらいながら各種設定を行い、早速ゲームをダウンロードする。
すると、あの広告で見たような壮大な画面……ではなく、どこか拍子抜けするような設定画面に移行した。
「……? あの女の人は? パパ、あの女の人が出てこない……」
「ん~? あの女の人? ちょっとまってなぁ?」
学歴を詐称して大企業に入った男は、根っからの悪人という訳では無く、純粋に生活に困らないようそうしただけだ。
愛娘に対しては基本的に優しかったし、母親に対しても暴力を振るうような行為は決してしていなかった。
本来の学力の差から、度々何言ってんだこいつと困惑する事はあっても、夫婦生活において特に支障をきたしている訳でもなかった。
そして男は、愛娘の不満そうな顔を見ながら適当な検索サイトを立ち上げると、ゲームの広告を調べ、娘の言う『女の人』の正体を探し始めた。
大方ゲームのキャラクターか何かで、設定すればすぐに拝めるんじゃないかと思っていた男は、広告を調べていくうちに、その少女が第1回と第2回の個人イベントとやらでぶっちぎりの1位を取っているプレイヤーであることを突き止めた。
「プレイヤーなのか……。へぇ、これって結構昔ながらのMMOって感じなのね。ほうほう……」
「?」
顎に手を当てながらそう言った男は、愛娘になんと説明するべきか言葉を探し、とりあえず各種設定を終わらせてみるようにアドバイスした。
初めて触るPCやゲームに困惑しながら、たっぷり20分ほどかけて簡単なゲームの初期設定を完了させた少女は、その後チュートリアルも父親にアドバイスを受けながら淡々とこなす。
「結構時間かかったなぁ」
「ねぇパパ……。あの女の人は……?」
少女にとって、このゲームを始めた理由と言っても過言ではないその少女。その存在が無い事に、今や泣き出す寸前だった。
しかしながら、父親はそんな愛娘の頭を優しく撫でると、娘に断ってマウスを手に取りポチポチっとゲーム画面を操作して、ランキングを表示した。
「ほら、この人だろ? ヒナって名前の女の子」
「っ! うんっ!」
それは個人の総合ランキングだったが、ヒナはこの頃から頭一つ抜けた存在だったためにそのランキングの首位が変わる事は無かった。
なので、ランキングを見て一番上の『ヒナ』という文字をクリックするだけで、比較的小さめのモニターにヒナのアバターや今までの成績、総合力等が全て表示される。
まだ完全体となる前のヒナは、右手にハンマーのような形にカスタムされた杖を抱えており、その毒々しいまでの紫の瞳からは一切の感情を読み取ることができない。
その姿にまるで氷のようなイメージを抱きつつ、モニターの右下あたりで今も無限に再生されているこのゲームの広告に写る少女とのギャップに少しだけ困惑する。
だが、楓が納得するのは早かった。
この人は、大衆の前では自分を偽りつつ、本当の自分を隠しながら生きているのではないか。このゲームという世界こそ、彼女の本当に生きたい場所なのではないか。
そして、彼女が本当にそう思っているのなら、自分もそこへ行きたい。
勉強漬けの日々に彩りを与えてくれたあなたの傍に、出来るだけ近付きたい。そう思った。
「パパ……もう大丈夫、ありがと……」
自分の部屋から父親を半ば無理やり追い出すと、少女は一度ゲームを閉じてメモ帳を起動させた。
そして、そこに今から自分がやっていくべきことを考えうる限り書き起こし、それを全て達成した時にこそ、自分はヒナの隣に立つことを許される。ヒナと同じ世界で生きられる。そう思った。
だが、もちろん簡単にはいかない。
母親からの干渉を防ぐために今まで以上に勉強で好成績を残さないといけないのはもちろんの事、ゲームなんて触ったことが無いし、キーボードの操作も当然ながら手探り状態。
唯一ローマ字だけはすでに勉強していたので入力それ自体はそこまで手間取らないのだが、いかんせんキーボードを見ながら文字を打ち込むのは時間がかかる。
そこで少女は、ネット上に転がっているタイピングの無料アプリでタイピングの速度向上を図りつつ、同時進行でゲームを最小限の動きで攻略し、それからヒナとまったく同じスキルや魔法を手に入れるために奔走した。
少女がやっと上位プレイヤーの仲間入りを果たしたのは、それから実に3年後の事だった。