93話 必要とされなかった命
ヒナがマッハ達3人から赦しを得た数分後、その場に異変を感じて駆け付けた女が居た。
その女が着ている紅葉色の着物の袖を見た瞬間、紅葉は自分の命もここまでかとギュッと目を瞑った。当然だ、とても抗いがたい殺気と怒りをぶつけられたとしても、自分の創造主を敵に売り渡す行為に等しいことをやったのだ。叱責されても文句は言えないし、その首を次の瞬間に跳ね飛ばされようとも仕方のない事をしたのだ。
しかし、怯える紅葉にその女――雛鳥は優しく微笑みかけ、気にするなと鈴の音が鳴るような透き通る声で言った。
その言葉は紅葉が向けられると思っていた類の物と正反対の物で、ギュッと閉じていた目を驚愕のあまり見開いてしまう。
とっくにケルヌンノスのスキルに関しては解除されているので自由に身動きが出来るのだが、ヒナから与えられたその体をも飲み込むような圧倒的な殺気と怒気はその体を芯から恐怖させ、生まれたての小鹿のように膝をガクガクと笑わせていた。まだしばらく戦う事はおろか、立ち上がる事すらできないだろう。
「無理もない。モニター越しでも、私は息を呑んだ。それを真正面から受ければそうなる。ゆっくり休みなさい」
「も、申し訳ありません……」
少しだけ頭を下げた紅葉だったが、彼女に向き直ることなく雛鳥は真正面から自分の事を怪訝そうな顔をしてみてくる4人の少女をキッと睨みつけた。
ここまで彼女が昇って来たのはこの後の階層に控えているNPCやモンスター達を犠牲にしても自分が勝てるとは思えなかったこともそうだ。
だが、一番は彼女がNPCに手を挙げるとはどうしても思えず、その真意を確かめに来たのだ。
自分をここに配置した張本人はメリーナだ。
彼女の1万文字を優に超える設定の中に『ギルドマスターの指示には必ず従う』とあったので、今まで彼女は何も言わずダンジョンの最下層を守っていた。
しかしながら、今やその命令を下すギルドマスターがいなくなったという事もあり、彼女は上層の防衛体制にもしばしば口を出すようになっていた。
メリーナに与えられた優しさと頭脳を持って、出来るだけダンジョン内の仲間達に犠牲を出さないように。
「……侵入者であるあなた達に聞きたい事がある。なぜ、あの子を殺さなかった」
雛鳥は、一番年上でありあの強烈な殺気を放っていた少女に右手を向けながらそう言った。
一瞬身構えた少女だったが、こちらに攻撃する意図が無いと察したのか、それとも未来視のスキルやアイテムを使っているので不意打ちは無駄だと思っているのか。どちらにしても少しだけホッとしたように胸をなでおろし、なんでもない事のように答えた。
「NPCって言っても、そんなの簡単に殺して良い存在じゃないもん……。簡単に殺して良い命なんて……その、ないもん……」
「っ! だったらっ!」
目を見開き、怒りのあまり魔法を放とうとしてしまう自分の心になんとかブレーキをかけてすぐそこまで発動しかけた魔法をキャンセルする。
目の前の少女が言っている事は偽善に過ぎない。所詮綺麗事、自分に都合の良い様にしか考えていない。
彼女はNPCだけその命を大切にすれば良いと言った。であれば、彼女と同じプレイヤーの命はどう説明するというのか。
この世界に唯一来ていたギルドマスターは既にいない。殺したのは、十中八九この少女だ。そのくらい雛鳥にだって分かっているし、ここで自分が本気を出してもそのHPの2割も削れないだろうことは直感的に分かっていた。
目の前に立つその少女からはビクビクとした態度に隠された絶対的な自信と強者の風格とも呼ぶべきオーラが滲み出ていた。
信じたくはないが、己の創造主であるメリーナよりも格上のプレイヤーであることは間違いない。
雛鳥のデータにあるメリーナ以上の実力者は、円卓の騎士のギルドマスターを務めていたアーサーと、ディアボロスという名のPK集団のギルドマスターをしていたフィーネ。そして、彼女の生みの親が憧れ、目標にし、模倣していた魔王――ヒナに関してだけだ。
アーサーの性別が男であることは分かっているので、目の前の少女は自分のデータにある範囲だとフィーネかヒナだ。
しかし、PK集団のボスであるフィーネが人に他人の命の重さを語るなんて冗談かと笑い飛ばしたくなるほど滑稽な話だ。
それに、彼らはNPCを必要としない集団だったとデータにあるのだから、そのデータを信用するならば少女の隣にいる3体の強力なNPCの説明がつかない。
よって、可能性で言えば彼女のデータの中にある存在だけで言えば魔王なのだが……。
(ヒナ様が、表面的であろうがこんなに怯える方なはずがない。メリーナの自室にある資料には、あの方の資料も数多く存在している。その資料の全てに目を通している私は誤魔化せん)
あの、とんでもない強さを誇り、誰に対しても強気に出る魔王と恐れられたプレイヤーが目の前の少女であるはずがない。
確かに魔王もNPCを従えていたらしいが、その数は2体だったはずだ。目の前の少女が引き連れている少女達とは数が合わない。
確かに魔王と呼ばれるにふさわしいだけの力を持っている事は認めよう。
しかしながら、本物の魔王であればあんな程度ではないはずだ。それこそ、神相手に出し惜しみなんてせずに全力で挑んで数分で消し飛ばす事だって可能なはず。
この世界では魔法による制限が色々解除されている事も当然分かっているはずなので、彼の魔王であればそこまで強くない神だろうと手こずる様子を見せるはずがない。
「お前達の目的はなんだ。金なら、このダンジョン内には存在していない。ラグナロク金貨が使えないのだって分かっているはずだ。この世界特有の金なんて、この場にはない! それが目的ならさっさと立ち去れ!」
彼女達が1層に入って来た頃から全ての動向を観察して来ていた雛鳥は、4人の目的が金銭でない事など分かり切っている。
このダンジョンには、罠の宝箱を含め、ダンジョンを攻略する者を歓迎するかのようにそれ相応の宝が配置されている。
例えアイテムボックスというシステムが無くなったと言っても、宝箱を一切確認しない金目の物狙いの冒険者なんているはずがない。
彼女の世界最高レベルの頭脳が導き出した答えは『快楽』という非常に単純な物だった。
彼女達の目的は金銭でも殺戮による愉悦でもない。冒険という行為そのものを経験する事により得られる満足感……すなわち快楽だ。
宝には目もくれず、のんきにしりとりなんかをして緊張感の欠片も無い冒険を繰り広げる彼女達の目的は、ダンジョンを攻略するという事よりも冒険そのものを体験する事にある。そんな事は、とっくに分かり切っていた。
それでもなぜそう言ったのか。
それは、彼女自身にも分からなかった。ただ、なぜか言わないといけないような気がした。
ダンジョン内の仲間達を蹂躙し、罪悪感の一つも抱いていないような少女が、NPCの命は簡単に奪って良い物じゃない? 笑わせるな。そう言ってやりたい気持ちでいっぱいだった。
「我々は真なる意味では必要とされていない。この命は死ぬためにあり、やがて蘇生され、再び不毛な争いに投入されるためだけにある。メリーナが私に望んだ役目はこのギルド……引いてはダンジョンの最終守護者だ。私達は、侵入者を退ける事が使命であり任務だ。殺される事だって覚悟の上……いや、むしろ死ぬ前提で生み出されている! それを、簡単に奪って良い物じゃない……? 地上でヌクヌクと育ってきたお前達に、私達の気持ちは分かるまい!」
NPCが第一線で活躍するには、制作主であるプレイヤーにそれ相応のスキルや魔法、装備等を与えられることが大前提だ。
それに加え、状況に応じて決められた行動を繰り返し教える事で学習する特異な戦闘アシストを完璧に近い形で反映させ、設定なんかでどんな行動をさせたいか細かく決める事も重要となってくる。
メリーナが唯一創り出した雛鳥は彼女の豊かな想像力でなんとかそれらをこなしていたが、他の階層を守っているNPC達が全員そうではない。
それに比べ、目の前の3人の少女達は想像主だろう少女にこれ以上ないほど愛され、育てられてきたことが見ているだけでも分かる。
自分とメリーナの間にすらないような、絶対の信頼関係。お互いがお互いを絶対に信じるという、ある種異様な関係性を築く事が出来ている彼女達には、絶対に分からない。
このダンジョンに配置されているNPC達は死ぬために生まれ、数えきれないほど蘇生させられ、その度に無意味な戦闘を繰り返す。その為だけに創り出された存在だ。
彼女達のように、創造主と一緒に冒険をするために作られた存在ではないので、雛鳥以外の者達はプレイヤー自身の戦闘能力を下げない為に必要最低限のスキルや装備しか与えられていない。
雛鳥は唯一神の名を冠する武器と装備をフルセットで与えられていたが、それでも性能だけで言えば中の上止まり。魔法使いという事もあって、自分が呼び出す死神にすら勝てるかどうかは時の運が大きく関係している。
NPCとは、本来その程度の強さに収まる存在なのだ。
「そんな事言われても……私は、あなた達を殺したくない……。あなた達に、安易にこんな残酷な役目を背負わせた人に対して怒りすら覚える。それくらい、あなた達がやらされている行為は酷い物だもん……」
「おまえなんかに……おまえなんかに、メリーナの何が分かる!」
自分を生み出したせいで徹底的に模倣していた憧れの存在に突き放され、かといって装備やスキル、魔法なんかを全て戻せばギルドメンバー達から叱責されることは目に見えている。
だが、自分が永遠の目標としてきた人にはどんどん離され、魔法やスキルを惜しみなくNPCに提供してしまったせいでランキングからも転げ落ち、火力不足によってボスモンスターに殺される事も増えていた。
それを、一番傍で見て苦悩の声を聞いていた雛鳥だからこそ、分かる事がある。
「メリーナは、魔王に殺されたような物だ! 奴が居なければメリーナがあそこまで追い詰められる事も、愚かなギルドの連中に負い目を感じる事も無かった!」
「ま、魔王……? それって――」
「分かっている……。お前だって知らないはずがない。そこまでの力を持っていながらヒナ様の強大な力と他を圧倒する知略、戦闘センスを知らないはずが無いからな! しかしだ! それでも我が主は魔王に殺されたも同然だ! 現代の孔明とまで呼ばれた、メリーナはな!」
瞳の端から大粒の涙を流しつつ、雛鳥は完全に油断しているだろう後ろの3人に向かって魔法を放った。
最初から全力、仕留めるつもりで魔法をチョイスし、自身が使える魔法の中でもっとも破壊力が高い組み合わせを瞬時に放つ。
『妖精王の激昂 海洋神の怒り』
3人が立っている地面が瞬く間に爆ぜ、その場を局所的なトルネードが襲う。
それは触れるだけでHPを削るだけの破滅的な威力を誇る死を運ぶ風であり、中に閉じ込められればどんな装備を身に着けていようが軽減する事が出来ない大量の“属性ダメージ”を継続的に与える。
しかしながら、未来視のスキルによって数秒前にその攻撃を予知していたヒナはあらかじめドーム型の魔法を発動する準備を整えており、目の前の少女が攻撃を仕掛けて来たまさにその瞬間を狙って発動させた。
イシュタルも、今はヒナとコミュニケーションが取れない状況にあったので似たような範囲型魔法で2人の姉を守ろうとしていたのだが、それを発動するコンマ数秒前にヒナの魔法が発動した。
どこから取り出したのか、雛鳥が手に持っている扇子は猫の女神の贖罪という名のアイテムで、元々は猫の手が先端についたふざけているとしか思えない見た目の杖だった。
しかしながらカスタムによってその姿を大きく変え、神の名を冠する装備でも破格の性能――ソロモンの魔導書には劣るが――を与えられていた。
あくまでその破格の性能とはイベントで配布される神の名を冠する装備よりは劣るし、ヒナがまだイシュタルを作る前という事で、現時点で見ればそこまで強くない。
しかしながら、その性能はヒナがまだソロモンの魔導書を手に入れる前に愛用していたというデカすぎる実績が物語っている通り、相当な物だと分かる。
「メリーナ……。あの、ごめんって送って来た人……?」
マッハ達3人を攻撃され、防御魔法が間に合った事でふぅと一安心したヒナは、一旦自分の頭の中で考えを巡らせる。
上位プレイヤーのそれは全て頭に入っているので、当然ながら一時期ではある物のランキングに名を連ねていたメリーナの存在は記憶している。
しかしながら、ヒナにとってはそれ以上のインパクト……いや、ある種忘れたくても忘れられない、奇妙な事をしてきたプレイヤーだったので、その記憶にも深くこびりついていたのだ。
あれは、イシュタルを作る2ヶ月ほど前の話だ。突如、ランキングから姿を消した元上位プレイヤーからゲーム内チャットが届いたのだ。
普段であれば目にも留めないヒナだったが、ランキングに名を連ねた人物……それも、そこそこ上位だったのにいきなり目に見えて成長が止まり、急に姿を見せなくなってしまったプレイヤーから届いたものとあって、その好奇心は幸か不幸か、そのチャットに向けられた。
そこに書いてあった内容は、ただ一言――
『ごめんなさい』
謝られるような事をしただろうか。そう数分だけここ最近の記憶を整理した当時のヒナは、間違いか何かだろうと思ってスルーしつつも、その記憶の片隅にはしっかりと残していた。
ヒナの、メリーナに対する唯一の記憶。それが、そのごめんというチャットだった。
「メリーナが……あなたに接触を……?」
「接触というか、一方的な奴だった、けど……」
「一方的な……? いったい、なにを……」
そこまで言って、雛鳥はたった数日間のメリーナと過ごした日々の中で、彼女がこんな会話をログに残していたことを思い出していた。
『もう、ダメだ……。ヒナさん……ボクは、あなたに届かなかった……。絶対に追いつくって、隣で生きるって、決めたのに……。ごめん、なさい……』
当時は話す事を許されていなかったので言葉を交わせなかったのだが、その時のメリーナは瞳から涙を零し、背中を丸めた小さな子供のように見えた。
許されるのであれば、今すぐその体を抱きしめて慰めてあげたい。そう思ったからよく覚えている。
そして、結局それが許されることなく彼女は翌日に姿を消した。ギルドメンバー達に、雛鳥を頼むとだけ言い残して……。
「メリーナ……あなたは……あなたは、いったい……」
メリーナに与えられた使命を果たさんとする強い心と、自分が居なければ彼女がこの世界……いや、ラグナロクの世界からいなくなることは無かったのではないかという答えの出ない問い。
そして極めつけは、あの時思い詰めていたメリーナを慰められなかった自分への怒り。その全てが一挙に押し寄せ、彼女の小さな体を襲った。
もう、まともに立っている事なんて、出来なかった。




