87話 お姉ちゃん
知らない女に“お姉ちゃん”と呼ばれて混乱したのはそう言った女以外のこの場にいた全員だった。
それも、言われた張本人は「は!?」と変な声を出し、あからさまにサササッと距離を取ると、若干涙目になりつつ体を震わせた。
ヒナは……いや、ラグナロクの魔王として君臨してきたヒナという意味ではなく、本名である獅子神雛乃に妹はいなかった。
両親が25歳の時に結婚し、その2年後に授かった最初で最後の子供。それが雛乃の全てだった。
そこから養子を迎えたりだとか、両親が離婚や結婚を繰り返して義理の兄妹が増えたりといった事は無く、短い10年ばかりの人生を両親の3人で過ごしていた。
若干家がお金持ちだったことは認めるが、それも度重なるゲームへの課金が原因でサービス終了間際には遺産の1割程度しか残っておらず、どの道近い将来飢え死にする事になっていただろうことは想像に難くない。
いや、そんな雛乃の幸せの絶頂から突如として叩き落された不幸な人生の話は今はどうでも良い。
何が言いたいのか。それは、雛乃にとって家族と言える存在はもはやマッハ、ケルヌンノス、イシュタルの3人だけであり、それ以外の者達は家族とは言えないという、ただその事実だ。
エリンに関しては家族というよりも親友に近く、マーリンに関しては前にギルドに誘ってくれたところの幹部級のメンバー……くらいにしか思っていない。
ゲーム内でほとんど交流という交流をしていなかった彼女には、実際の家族ではなくとも特殊な間柄としての名称――恋人だったり妹等――を呼び合う仲間のプレイヤーもいない。
つまり、目の前の女は完全なる不審者だった。
だから、マッハからの質問にも千切れんばかりに首を振って知らないと答える。
もちろん彼女もヒナの態度からその答えには当の昔に辿り着いていたらしく、刀を構えながら油断なく目の前の女を睨みつけた。
自身の索敵スキルに反応が無かったのはこの女が存在抹消系のスキルを使ってその姿を隠していたからだ。
本来ならその状態からだと攻撃魔法やスキルの類は使えないし、誰かに攻撃をするという事は出来ない。
その代わりに、何者からも攻撃を受けないというある意味最強の防御を獲得する。
ヒナが彼女の存在に気付いたのは、恐らくその魔王とまで呼ばれた異次元の直感力と危機感によるものだろう。
事実、この女がヒナに向けている視線は、同性ながら恋愛感情に似た強い愛と執着を感じさせるものだからだ。
若干頬が朱色に染まり、呼吸が荒く自分達より少し大きめの胸が上下しているのは性的か……もしくはそれに準ずる興奮によるものだろう。
(しかもこいつ、結構強い……。腰に差してる刀は細工からして神の系統じゃないけど、カスタムしてたら分かんない。暗殺者なら必然的に肉弾戦が得意なんだろうけど、ちょっとだけヒナねぇに似た匂いを感じるって事は、魔法職もちょっと取ってる……?)
マッハが油断ならないと感じたのは、女の強さもそうなのだが、その持っている武器や纏っている装備の数々がシャトリーヌやエリンのそれと同じだろうと直感的に感じたからだ。
カスタムしてあるのなら装備の装飾は自由自在。自分達のようにイカしたファッションにも出来るし、目の前の女のように私服と変わらないようにもカスタムできる。
それは当然武器にも適応されるので、女の腰に下げてある刀の柄に見覚えが無いのも別に不思議じゃない。
それに一番の問題は、目の前の女が剣士だった場合、ヒナに傷を付ける事が出来るという事だ。
魔法使いっぽいと感じるのは確かなのだが、腰に刀を差している所を見ると、あくまで本職は剣士か暗殺者。そして、あくまでサポート的な役割として魔法職を収めている可能性がある。
ヒナは効率が悪いので基本的にそんなことはしないし、器用貧乏にならない為に役割を明確に分けている。
しかしながら、目の前の女はそんな器用貧乏になることを自ら選んだ変わり者……という事だ。
仮に彼女がギルドに所属している場合、中途半端な役目として仲間達から受ける評価も微妙な物になっているだろう。
「ヒナねぇ、あいつの刀見覚えある?」
マッハの警戒をすぐに1から100まで理解したイシュタルは、一番後ろでビクビク震えているヒナに早速確認を取る。
ラグナロク内に存在している全ての武器を所持し、その効果や見た目まで完璧に暗記しているヒナなら答えられるはずだろう。そう思った故だった。
しかし、この場においてその答えが気になっていたのはイシュタルだけではない。
いや、その言い方は正確ではない。マッハ達3人だけじゃなく、女自身も、その答えには興味があった。
「お姉ちゃん! 私の刀とその効果分かるの!? 当ててみてよ! カスタムとかはしてないからさ!」
興奮するように刀を抜き放った女を警戒していつでも動けるように腰を下ろしたマッハだったが、女はそんなマッハに目もくれず、ただまっすぐヒナの瞳を見つめた。
ヒナは怯えながらも無意識的に逃げ道を探し、自分が使える魔法を検索しながらこの状況を切り抜けるための手段を模索していた。
だが、突如そんな事を言われて思わずマヌケな声を出してしまう。
確かに、女が持っている禍々しく輝くピンクと紫を混ぜたような独特の波紋の刀は見覚えがあるし、その効果も全て頭に入っている。
それを答えるべきかどうか一瞬迷いつつも、イシュタルが聞いてきているのだからと無理やり納得させ、女にも届くようなギリギリの声で呟いた。
「に、日本史シリーズの妖刀。明智光秀の武剣。正確には刀じゃなくて剣に分類されるけど、刃が片方にしか無くて、日本史ってことで刀って呼ばれることが多かった……。効果は……相手の種族が人間だった場合の攻撃力増強と、魔力の自動回復……」
「に、日本史シリーズ? なにそれ?」
マッハが訳が分からないと首を傾げると、ヒナは彼女の前にいる女を警戒しながらも説明を続けた。
「和風シリーズの後、ユーザーが日本史について触れろって運営に言って実装された奴。大したボスが出なかったし、装備とか武器もパッとしない物が多かったから炎上した……」
それでも、もちろんヒナは全ての武器や装備を集めたし、アイテムボックスには彼女が持っている刀――正確には剣――もある。
しかしながら、マッハに持たせるには力不足も良いところだし、適正レベルはせいぜい80前後とそこまで強くない。
それに、基本的にモンスターを相手にするゲームで『人間が相手だった場合』という限定的すぎるボーナス効果はマイナスにしか働かない。
要は、大多数がアバターを選ぶ時に人間と設定するプレイヤーキル……いわゆるPKを専門に行うような集団でもない限り、わざわざその武器を使うメリットは無いのだ。
「ちなみにヒナねぇ、あいつの装備とかは分かんないよね?」
「さ、流石にカスタムされてたら私も分かんない……。ある程度戦えばその効果くらいは分かるだろうけど……」
ソロモンの魔導書による攻撃力増強やマッハの攻撃力から逆算し、どの程度のダメージが入っているかで相手の装備の効果は大体想像がつく。
だが、いくら怯えているヒナでも目の前の女に戦闘の意志が無い事は明白だった。なにせ、ヒナがその剣の効果を言い当てた瞬間、確信したとばかりにその笑顔がさらに深くなったからだ。
「やっぱりお姉ちゃんだ! この滅茶苦茶マイナーな剣の効果をこんなに早く……それも正確に答えられるなんて、お姉ちゃんしかいないよ! ギルドのだーれも答えられなかったのに、流石お姉ちゃん!」
「……」
その笑顔の裏に隠された感情を必死で読み取ろうとするが、その前に圧倒的な愛と尊敬、そして畏怖や崇拝といった様々な感情の奔流に飲み込まれそうになる。
ヒナはエリンの一件からも分かるように、その人物の目を見ればどんな感情を抱いているのか大体は分かる。
かなりザックリと、この人は自分に好意的だとか敵対的だとか、そんな程度でしかないが。
しかし、そんなヒナでも目の前の女については分からないことだらけだった。
変わらずお姉ちゃんと呼ぶ関係性不明なところもそうだが、不思議と悪い人とは思えない不思議な感覚とでも言えば良いのだろうか。事実、マッハやケルヌンノスも困惑はするものの、あからさまにイラっとしていない面から見て明らかだ。
女のヒナに対する異常な執着や愛情は若干気持ち悪い・怖いという想いを抱きすらすれ、不思議と不快という感情は欠片も湧いてこないのだ。
それが、女の不気味さをさらに際立たせていた。
「さっきの神との戦いでその強さを目にして、あぁ、やっぱりお姉ちゃんだって思ったんだけど、いざ姿を現すってなるとやっぱり緊張しちゃってさ! でも、そこは流石お姉ちゃんだよね! 普通はどんな手段でも破れないはずのクラス固有スキルを見破るだけじゃなくて、私の位置まで完璧に把握するなんて!」
「……あ、あの、あなたは……?」
「え? あ、あぁそうだ! お姉ちゃん、私の事は知らないんだよね! そうだよね、私が一方的にお姉ちゃんのことを大好きで大好きで、愛しちゃっただけだもんね!」
そんな訳の分からない事をマシンガンのような早口でまくし立てた女は、忘れていたとでも言わんばかりににへらと笑うと、その口をふふっと歪ませ、剣を腰の鞘へと戻した。
そして、その時初めて周囲の3人に目を向け、その強さを改めて確認するとうわぁと感激したような声を漏らし、若干背筋を震わせながら恭しく頭を下げた。
「初めまして、お姉ちゃん。そして、私の可愛らしい“妹ちゃん”達。私の名前はトライソン、よろしくね!」
「と、とらいそん……? 聞いた事、ない……」
ヒナの記憶には、自分が魔王と呼ばれ始めてから個人ランキング100位に名を連ねていた実力者の名前が全て残っている。
それはサービス終了のその時のランキングまで正確に残っており、そのランキングに名前が一度でも表示されていれば、彼女の記憶には必ず残る。
だが、トライソンという名前には覚えがなかった。
その言葉を聞いて再びニヤッと嬉しそうに笑った女――トライソンは、しばらくヒナの反応を楽しむように首を傾げながらニコニコすると、もう充分とでも言いたげにコホンとわざとらしく咳払いした。
「うちのギルドの幹部連中って、みんなラテン語から名前取ってるんだよね! あ、まぁ約1名フランス語から名前取ってる空気読めない奴がいるんだけど……そいつの事は置いておいて。私も、今言ったのはフランス語名だよ! お姉ちゃんには、私の名前を思い出してほしいからわざと意地悪しちゃった。許してねっ!」
「ら、ラテン語……? そ、そんなの知らない……」
消え入りそうな声でそう言ったヒナだったが、マッハやケルヌンノスもこの頃になると相手の女がラグナロク関係の、ヒナの熱烈なファン……くらいにしか思っておらず、マッハは刀を収め、ケルヌンノスはスキルの発動を取りやめていた。
イシュタルも、女が言った言葉の意味は理解できるが、生憎とラテン語やフランス語に関してはその頭脳にインプットされていなかったのでまったく記憶になかった。
元々海外のゲームだというのもあり、日本人のユーザー以外にもいろんな国の人間がプレイしていたラグナロク。
だがしかし、ゲーム内でのチャットは自動的にゲーム開始時に設定した国の言語に翻訳されるので、プレイヤー間でのコミュニケーションに障害は発生しなかった。
もちろんこの世界にはそんな処置は施されていないので、仮に外国のプレイヤーが来れば苦労するだろうが、そんなことは今考える事ではない。
「良いのいいのっ! お姉ちゃんはそんな“物騒”なこと考えなくて良いの! 私のお姉ちゃんはとっても強くてカッコよくて、でも時々ドジなところのある、可愛いお姉ちゃんだからね!」
「? ど、どういう意味……?」
「私がお姉ちゃんのことを、世界の誰よりも愛していて、大好きで、狂おしいほど好きってことだよっ! もうね、殺しちゃいたいくらいだ~いすきなんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、それまでどこか和やかだったその場の空気が一瞬にして凍り付き、刀を収めていたマッハが瞬く間に刀を抜き、ケルヌンノスがスキルを発動させてヒナの身を守る。
「ヒナねぇには、指一本触れさせない」
「下手なことしたら、許さないから……」
しかし、トライソンはマッハ達の動きを全て予想していたのか、軽々しく首元に振り下ろされたマッハの刀を自身の剣で受け止めた。
同時にスキルも発動させて圧倒的な攻撃力の差で武器が損壊するのを防ぎつつ、マッハの耳元まで首を伸ばすと「強いね」と囁く。
それは、圧倒的優位な立場にいるはずのマッハにすら死を直感させるほどで、ゾワリと言葉に出来ない不快感が全身を走った。
女の武器は剣。それも、今は自分の愛刀とぶつかりながら鈍い音を発し、ギリギリと火花を散らしている。
命を刈り取るつもりで放った全力の一撃をこうも簡単に受け止められたことは想定外だったが、剣士はそれくらいでは動揺しない。
しかし、この身の毛もよだつような死の気配はなんなのか……。
彼女がそう思ったのと、ヒナの魔法が発動して彼女の体をドーム状の防御魔法が覆ったのは同時だった。
それが後コンマ数秒遅れていれば、彼女はダメージそれ自体は受けなかったまでも、大変な衝撃を受けた事だろう。
マッハの立っていた地面が大爆発を起こし、それに合わせて天空から光の刃が無数に降りそそいだのだ。
「あっぶな……。自分の直感信じて良かった……」
「……気付けなかった。不覚……」
ふぅと深く息を吐いたヒナに詫びるようにちょこんと頭を下げたイシュタルは、マッハに防御魔法を施しつつ、自分にも防御魔法を施す。
ヒナの言う事が真実ならば、相手が持っている武器は神の名を冠していない。なので、マッハにダメージそれ自体は与える事が出来ないけれど、それでも用心に用心を重ねる。
「アハハハ! さっすがお姉ちゃん! 今の完全な不意打ちを防ぐなんて流石だよ! 魔力の流れも、事前動作もほとんど無かったのによく分かったよね! 魔王って呼ばれるだけはあるや!」
「……単なる勘だもん。実力じゃない……」
事実、今のヒナは神との戦いで使っていたような未来視を使っていない。
今のマッハへの攻撃を防御できたのは長年の勘だ。
その勘……直感と言い換えても良いが、その直感が、マッハを守れと全力で叫んで来たのだ。
今の魔法は、彼女がその直感に従って深く考えずに防御魔法を行使しただけに過ぎない。
「ちなみに、今私が使った魔法は分かる!? 堕天使の刃くらいは有名だから分かるかもだけど、最初の爆発魔法は似たような魔法が無数にあるよね!? ねぇ、分かる!?」
イラついたような顔を浮かべているマッハと刀を合わせつつも満面の笑みでそう言ったトライソンは、ヒナが数秒も待たずして答えを口にすると半ば確信めいたものを抱いていた。
事実、ヒナはその挑発に乗るように似た効果を及ぼす8つばかりの魔法やスキルから正解の物を言い当てる。
「妖精の逆鱗と妖精王の激昂……。その合わせ技……だと、思う。破壊力だけを考えた場合だと、その組み合わせが一番効果が期待できるし、複数の魔法を同時に発動する事は別に難しくない……」
「うふふ。さっすが! あぁ、お姉ちゃん大好きだよ……。その神をも超える強大な力と凛々しい顔、愛らしい仕草や表情、全てが大好き……。ほんとに、殺したいくらい大好きで、大好きで、どうしようもないくらい……愛してる」
笑顔でそう言ったトライソンは、一度マッハの刀を弾き飛ばしながらぴょんぴょんと左右に飛んでふふっと笑うと、どこから取り出したのか手元にヒナが処刑場で使ったのと同じ砂時計を握っていた。
その砂時計をギュッと握り潰すと、マッハの激昂する寸前の怒号をどこ吹く風だと受け流し、ヒナに愛の言葉を囁いた。
「またねお姉ちゃん。今日のところはあなたに会えただけで……いや、あなたの存在を感じられただけで満足するよ。あなたの事はあんな奴らには渡さないから安心してね。あんな、お姉ちゃんのことを軽視してなんにも分かってない奴らに殺されるくらいなら、私がお姉ちゃんのことを殺してあげるっ! あなたに“救われた”私があなたを殺す……あぁ、なんて美しいの……? お姉ちゃん……今すぐにでもその亡骸を抱きしめてキスしたい……。抱き合いたい……。でも、今は我慢しなきゃだよね……。ふふっ、また、会える時まで無事でいてね」
そんな、愛の言葉というにはあまりにも物騒な言葉を残し、トライソンは再び存在隠蔽スキルを使用してその場から姿を消した。
その場にはヒナの困惑する声と、マッハの苛立たし気な声がこだましていた。




