70話 ヒナの敵
鼻水と涙で顔をぐちゃぐちゃにした、乙女が人前で晒してはいけない類の表情を形作っている小さな背中をヨシヨシと擦りつつしきりに謝っていたマーリンだったが、やがてその涙の原因が自分じゃない事を悟った。
その理由は彼女の口からおぼろげに呟かれるもう1人の少女の名が原因であり、マーリンがその少女の行方を聞くと、エリンはさらに大声で泣き出してしまった。まるで親を見失った迷子の子供が、自分の置かれた状況を正確に理解して二度と両親に会えないのではないかと不安に駆られたように大粒の涙をとめどなく溢れさせる。
「あ、あのさ……感動の再会してるとこ悪いんだけど……シャトリーヌって子、知らない?」
そのエリンの様子を見て流石におかしいと気付いたのか、隣で号泣しているこの世界で一番強いだろう少女に声をかける。
しかしながら、少女はマーリンの声なんて耳に届いていないと言わんばかりに無視すると、助けを求める女の声が聞こえないようにさらに大声で泣き始める。
そんな姉の姿に思いっきり安堵の息を漏らしてシクシク泣きだしているのはケルヌンノスくらいなもので、マッハはあまりにいつも通りなヒナを見てふぅと一息ついただけで、不満そうにトコトコ歩いてきたイシュタルをジッと見つめていた。
その瞳は「なんでお前がいながらこんな事態になったんだ?」と言いたげで、怒っているというよりは説明を求める類の物だ。どちらにしても、末っ子であるイシュタルに向ける類の物では無いだろうという意見についてはその場の誰もが同意を示すだろうが……。
「……私には攻撃手段が無いし、なんか偉そうな奴に脅された。逆らったら、ヒナねぇの四肢をもぎ取るとかなんとか。治せるか分かんない以上、慎重に行動しただけ。でも、ヒナねぇに怖い思いをさせたのは事実。そこはごめん」
「ん、反省してるなら良い。それよりも、偉そうな奴? それは……あいつよりもか?」
そう言いながらマッハが指さした先にいたのは、丸焦げになっている遺体に向かってお面をずらして悲痛な表情を浮かべながら両手を合わせていたムラサキだった。
その顔が思っていた以上に美形で少しだけ目を見張ったイシュタルだったが、すぐに小さくコクリと頷いた。
彼女達2人も、すぐ傍で抱き着いて号泣している2人同様、マーリンの声なんて気にしていない様子だ。
彼女達にとって最も大事なのはヒナの安全であり、それが確保された今、次にするべきことは状況の確認なのだ。
「それより、マッハねぇ達がやけに遅かったのはなんで? 私の予想じゃ、もう少し早く来ると思ってた」
「ん~、こっちも色々あったんだよ。結局邪魔してくる奴が多かったから暴れたけど、あのキツネが1日待てってうるさかったから」
「……言うこと、聞いたんだ?」
ケルヌンノスは言わずもがな、マッハもヒナの身に危険が迫っていた事くらいは気付いていたはずだ。
それなのに、ムカつく狐の言う事を大人しく聞いて余計にヒナの不安を増長させたのかと少しだけムッとしながら言う。
しかし、マッハは肩を竦めながら先程のイシュタルのように「脅された」と短く言った。
「……あいつに?」
「そう、あいつに」
「……ヒナねぇの身が危険だって?」
「まぁ、そんな感じ。けるはすっごい暴れたから、私の判断」
怒るなら自分1人にしろと言いたげにその薄い胸を張ったマッハだったが、イシュタルもヒナが危険な状況に陥っている時に何もできなかったのは同じだ。
それに、ヒナの身に危険が生じる可能性があると“脅されていた”のであれば話は別だ。
自分もそうだが、3人にとってヒナの身の安全は誇張無しで自分達の命や感情より優先されるものだ。
そんな3人にとって、ヒナの身の安全を盾にするのは何よりの有効打と言える。
無論、この件のせいでムラサキに対する彼女達の評価が最低に近いものになったのは間違いないのだが、今回はとりあえずヒナが無事だったことで良しとする。
彼女達がそう判断すると、もう一度ふぅとため息を吐き、お互いにニコッと笑って無事を喜び合う。
背後から耳障りな事をワーキャー叫んでいる2人の男に関しては不愉快なので殺すかどうか非常に迷うところではある。しかし、エリンの兄を勝手に殺して彼女との友情にヒビが入るのは避けたかったので、マッハはヒナに抱き着いて嗚咽を漏らしているケルヌンノスの肩を申し訳なさそうにトントンと叩く。
「あいつら黙らせてくんないか? 私だと多分殺しちゃうからさ」
「…………ん」
一瞬ヒナとの感動の再開に水を差された事にイラっとした様子のケルヌンノスだったが、すぐに不愉快な何事かを叫んで剣を構えている2人を視界に映すとそれ以上の怒りを心に宿す。
エリンをバカにしている段階から彼女の不愉快度は光の速度を超えるかのように増大しており、殺す以外なら何をしても良いと勝手に解釈してスキルを発動する。
「ちょっと黙れ」
不可視の腕がケルヌンノスの意志のままに2人の王子の四肢をもぎ取り、それぞれ明後日の方向へゴミでも放り投げるかのようにポイっと捨ててしまう。
彼らは数秒前まで確かに存在した足や手のあった場所から壊れた蛇口から吹き出す水のように勢いよく飛び出る鮮血を見て喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げる。
その様子を呆れた様子で見ていたのは2人だ。
そのうちの1人であるイシュタルは、やれやれと言いたげにため息を吐くと「戻せるか分かんないって言ったのに……」とボヤキながら回復魔法を発動させる。
今のままでは最悪出血多量で死んでしまうので、一応の止血だけしておいてそれ以上HPの減少が起きないように調整すると、痛みで失神した2人を一瞥して興味を失ったように目の前のこの世の何より大事な3人を瞳に映す。
もう1人であるマーリンは、内心ではぁ……とため息交じりの絶叫を上げると、エリンの顔を思い切り自身の胸に押し付け、ショッキングすぎるその光景が目に入らないようにする。
そして、見覚えのある着物を着た女が苦笑しながらコツコツと歩いてくるのを視界の端で捉え、この場で起きたであろう大体の事を察した。
「やぁ。お久しぶり……と、言った方が良いのかな? 自分の常識や頭の構造を、こう何度も短期間で疑う事があるとは思わなかったよ」
「……そりゃお互い様だね。私だって、好き好んで死んだふりなんてしたかったわけじゃないさ。それに、隣の女の子が意味が分からないくらい強いってのは、私も同意するところなんだよ」
「それはそれは……。ですが、ヒナもあなたにだけは言われたくないでしょうね。少なくとも、彼女とあなたなら良い勝負くらい出来るのでは?」
実力差を知らないってのはどれだけ幸運なんだろうねと内心でボヤキながら、数百年ぶりとなるアーサーの弟子との再会に苦笑するマーリンだったが、その笑顔も長くは続かなかった。
なにせ、ムラサキがシャトリーヌの事を彼女に話したからだ。
「……そうか。やっぱり、この子が――」
「あの2人の王子の話を聞く限りだと、どうも誤解か何かがあるようだけどね。私も、もしもの時の為に着いて来たは良いんだけど、何もできずに棒立ちしてるだけだったよ」
肩を竦めながらそう言ったムラサキを責めるほど、マーリンは冷徹では無かった。
いくらアーサーの弟子とは言ってもアーサーや仲間達の血を引いている訳では無い彼女は、どう頑張っても魔王のNPC達に太刀打ちは出来ないだろう。
良くてもそのHPの50分の1を削れる程度だろうし、最悪の場合は何もさせてもらえずにその命を落とす事になる。
彼女にも立場があるだろうし、その行動は正解だ。ここで文句を言うのは自分の感情を優先しなければ気が済まない子供のやる事だ。
そう自分に言い聞かせ、怒りで震えそうになる拳をなんとか抑える。
それに、怒るべき相手はこの場で何もできずに傍観者に徹していたムラサキでも、シャトリーヌの命を奪ったエリンでもない。全ての元凶であろうサンだ。
生憎と彼女の生死は不明だが、もし生きて再び相まみえることになれば、必ず息の根を止めると心に堅く誓う。自分の可愛い弟子をこんなに泣かせて、無事で済むと思わない事だ。そう、心の奥底で呟きながら。
「……ほら、エリン落ち着きな? 私があの子を蘇生させてあげるから。言ったでしょ? 私、死んだ人を蘇らせられるって」
子供をあやすように優しく背中をさするマーリンは、未だに泣き止む気配のないエリンの頭を撫でると、ヨイショと胸に抱いて立ち上がる。
隣では、ようやく泣き止んだのか、ケルヌンノスがヒナの腕の中でスヤスヤ寝息を立てていた。
あんたはアンデッドだから私と同じで睡眠は必要ないでしょと言いたくなったマーリンを誰が責められよう。
「……こういう時、けるだけ優遇されるのなんとかならないか~?」
「マッハねぇに同意。けるねぇだけズルいと思う」
「え、えぇ……? でもさぁ……このままにしとく訳に行かないじゃん……?」
困ったように笑うヒナと、その腕の中でスヤスヤ眠っている少女に非難の目を向ける2人がなんとも微笑ましいが、そんなことを思っている場合ではない。
マーリンはまるでスキップするかのように軽やかなステップでその焦げた何かの元まで走ると、サッと右手を向けて『輪廻転生』を発動させる。
ラグナロク内で扱える蘇生魔法の中で死亡時のペナルティを一切無効にする唯一の魔法の効果は、プレイヤーを対象にした時とは違い、その効果を十全に発揮する。
瞬く間に丸焦げになったその遺体に肌の色が戻り、着用していた装備や所持していた武器が戻り、瞳の中に生命の輝きが灯った。
あっけないという言葉では足りない程に、失われた命が瞬く間にこの世へと戻って来たのだ。
「……? な、なんで私は生きて……。エリン様が私に魔法を……え?」
ムクっと起き上がった彼女は、自身の体に宿る十分すぎる生命の輝きと、うるさいくらいに鳴り響く心臓の鼓動を確かに感じ取る。
最後に確認した記憶と目の前の状況の整合性が全く取れず、燃え尽きたはずの両手や体をマジマジと見つめながら、何も変わっていない事を悟った。
「ど、どういう……。夢……? いや、そんなはず――」
ボソッと呟きながらキョロキョロと周囲を見回した彼女が見た物は、無数の騎士団員達の遺体と頭にお面を付けている着物を着た女。そして、昨日消えたはずのヒナという少女と傍にいた小さな少女の2人。オマケに、ヒナの腕の中でスヤスヤ眠っている侵入者の1人と、刀を鞘に納めながら不満そうな目をヒナに向けている1人。それと――
「え……? ま、まーりん……様?」
この130年一瞬たりとも忘れず、時々夢にまで出て来た、自身がもっとも敬愛し、この世でたった2人心を許すと決めた人が、エリンを抱えながら立っていた。
その格好は最後に見た時と比べると幾分かみすぼらしくなっているが、そのどこか幼くも可愛らしい顔を見間違うはずがない。
気が付けば、シャトリーヌも瞳の端からボロボロと大粒の涙を零していた。
「マーリン様……。私は……私はてっきり……あなた様がお亡くなりになられたとばかり……」
「うん、ごめんねシャトリーヌ。沢山苦労かけたね。ほんとに、ごめんね……?」
「そんな……滅相も、ありません……」
膝から崩れ落ちた彼女は、自身の顔を両手で覆って肩を上下させながら小さく嗚咽の声を漏らす。
マーリンは、自分の犯してしまった人生最大の罪を『幼いエリンに怖い思いをさせ、恥ずかしい姿を晒させてしまった』という事から『この世でもっとも大切な2人を不安にさせ、怯えさせ、悲しませた』という事に書き換えた。それと同時に、この2人は何があっても守ろうと心に誓い、たとえ魔王が相手でも、この2人に危害を加えるなら戦お――
「あ……マッハねぇ、あいつだよ。あいつが、私達を脅してきた奴」
その声が耳に届いた瞬間、マーリンは自身の人生でもっとも早かったのではないかと錯覚するほど高速で移動し、シャトリーヌの正面で両手を広げてすぐさま防御魔法を展開する。
その数秒後、魔法が発動されたのを示すかのように何重にも盾のような薄紫色の障壁が展開され、そこに一筋の剣閃が走った。
ガシャーン!
まるでガラスを思い切り叩き割るような音が周辺に響き渡り、瞬く間に障壁の全てが破壊される。
マッハの持っている刀がどれだけの攻撃力を秘めているのか改めて実感してため息を吐きたくなるが、そんな悠長なことをしている余裕は無い。即座に新たな防御魔法を発動して周囲2メートルにドーム型の障壁を展開する。
制限時間付きではあるが、特殊なアイテムを使わない限りはどんな魔法や攻撃、スキルを使おうとも突破できない障壁だ。
この効果時間内にどうにか彼女達と和解しなければ……マーリンがそう思ったのと、マッハがその障壁を解除できる唯一のアイテムを腰のポーチから出したのはほぼ同時だったように思える。
「は!? なんでそんなもん持ってんの!?」
思わず発したその言葉に、怒りでその顔を染めていたマッハの動きがピクッと止まった。
反射的にアイテムを使おうとしたが、よく考えれば自分が左手に握っている物はヒナのアイテムボックスにも片手で数える程度しかない希少なアイテムだ。ヒナの許可なしに使って良い物ではないと思い出したのだろう。
ゆっくりと振り返り、訳が分からず混乱している自身の姉に使用の許可を求める。
「……?? ど、どういう意味?」
「あいつ、ヒナねぇのこと脅したんでしょ? 殺すべきじゃない?」
「あ~ね……って、え!? いやいやいや、ちょっと待って!?」
どうやら血の気が多く、話が通じないのはマッハとイシュタル――もしかすればケルヌンノスも――だけであり、魔王はその見た目と態度の通り、そこまでアクティブな性格はしていないようだ。
未だ腕の中で泣きじゃくっているエリンと、何がなんだか分からず未だに混乱しているシャトリーヌに彼女達と戦わせるわけにはいかない。かと言って、装備も万全ではない今の自分が戦って勝てる相手かと言われるとそんなわけないだろと叫びたくなる相手。それが、目の前で額に血管を浮かべながら足を踏み鳴らしているマッハだ。
「たとえエリンの友達か……もしくは恩人だとしてもさぁ~、ヒナねぇに危害加えといてはいそうですかって済ませられるわけないだろ? なぁ~?」
「……」
「ねぇ、あんたに聞いてるんだけど? 無駄な抵抗しないでくれる? そいつ庇うなら、あんたも殺すよ?」
どうやら、サンをどうにかしただけでは状況は好転しないらしい。
むしろ、サンよりも厄介で相性の悪い剣士と戦う事になっただけ状況が悪化していると言っても良いだろう。
(だから、私こういうの柄じゃないんだって……! ほんと、恨むからな■■!)
マーリンが天国でこの状況をいつも通りの笑顔を浮かべながら見ているはずの■■に愚痴を叫んだ後、激情に燃えたマッハが障壁をガンと殴りながらトコトコとヒナの元へ走っていった。
皮肉にもこのタイミングでエリンが泣き止み、ようやく事態を飲み込もうと顔を上げた。