68話 魔王と英雄
イシュタルが目を覚ましたのは、地震のようなグラグラと揺れる感覚が己の体を襲ったからだ。
ヒナがいなくなった時の絶望と自身の小さな体に溢れていた全能感のような物が、まるで蜘蛛の子を散らすようにササっと去っていくあの感覚は恐怖でしかない。もう二度とあんなことはしないように自信の姉に強く言わなければならない……と決心しつつも、昨日は酷いことを言ってしまったと少しだけ反省する。
「だって……ヒナねぇがあんなこと言うから……」
自分がどれだけ心配したと思っているのか。それを一切考えず、嬉しかっただの可愛かっただの……恥ずかしすぎて、そんなの知らないと突っぱねたくて仕方がなかった。いや実際突っぱねたのだが……それ以上に、ヒナがそこに居てくれて良かったという安堵の気持ちの方が大きかった。
しかし、自分でもよく分からないうちにヒナに酷い言葉を浴びせ、心にもないことを――
「って、なにしてんのヒナねぇ……」
なんだか体が重いなと思ってふと顔を上げて左を見てみると、自分を抱き枕にするかのようにギュッと抱きしめながらスースー寝息を立てる姉を見つける。こんな状態でなければこの上なく嬉しいのだが、今はそんなことをしている場合では無いだろう。一刻も早くここを出て、ヒナとは違って頼りになる2人の姉と合流しなければ……。
そう思ってゆさゆさとヒナの体を擦って彼女を起こすと、むにゃむにゃと言いたげに瞼を擦りながらいつもと変わらないようにふわぁとあくびをする。
ケルヌンノスの朝食をご所望するそのマイペースすぎる態度は緊張感が無さ過ぎるとも思えるのだが、彼女が偽物という可能性や自分が幻覚を見ているという可能性が無くなったので良しとする。
照れくさい……というか癪なので昨日の件を謝ろうとはせず、イシュタルは改めて部屋を見回した。
黒い幕でも張られているかのように微妙に周囲が暗いが、これはヒナが発動しているスキルの効果なのであまり気にしなくて良い。
問題は、この部屋では魔法が扱えず、外にも出られないという事だ。
「ヒナねぇ、上がちょっと騒がしいのは分かる?」
「……たるちゃん、機嫌直った? ねぇ、直った?」
「……多分、マッハねぇ達が来てる」
プイっとそっぽを向いてそう答えたイシュタルにうわぁと情けない声を出してしまうヒナだったが、ここで泣き出してしまうといよいよ姉としての威厳が無くなってしまうとなんとか堪える。
元々姉としての威厳なんてものは無いに等しいのだが、末っ子でもあるイシュタルにそんな烙印は押されたくなかった。
ケルヌンノスはともかくとして、最近にはマッハにも姉として立場を示せなくなっているような気がして密かに焦っているのだから。
そして、ヒナが自分の傍らでそんな意味の分からない心配をしていると露ほども思っていないイシュタルは、うーんと唸りながら腕を組んで考え込む。
恐らく、マッハやケルヌンノスがこの城に来ている事は間違いない。自分達がどのくらいこの城にいたのかは分からないが、少なくとも2日も3日も経っている訳では無いだろう。なら、彼女達が自分達の身に起きた出来事を察していないはずがない。
(ヒナねぇがこのスキルを発動させた瞬間にクイーンも消えてるはずだし、その頃はまだマッハねぇ達があの家にいた頃のはず……)
もし仮にクイーンが消えた瞬間にその場に居なくとも、聡明な彼女ならば、異常を知らせる魔法を上空に向けて放つだの、何かしらの形で彼女達に異常を知らせるはずだ。
そして、その異常を知ればマッハ達は必ずあの家へと戻る。そうすれば、自分達に何かがあった事くらいは察してくれるはずなので、すぐにこの国の冒険者ギルドへと戻ってくるだろう。
その後のことは、もう想像するまでもない。
「ねぇヒナねぇ。スキルかなにかでこの部屋破壊できたりする?」
「……? でも今さ、世界断絶でそういうスキル使えな……あ~、うん、多分出来るよ!」
自身の姉の天然にほとほと呆れつつも、その頼もしすぎる答えに小さくコクリと頷く。
仮に彼女の力だけでは厳しかろうとも、その力を存分に発揮できるように環境を整えるのがイシュタルの仕事だ。スキルの効果を底上げするスキル……なんて物も所持しているし、最悪の場合は持ってきた課金アイテムの力でどうにかしてしまえばいい。
ヒナに最低限の武装をしてほしいと言っている彼女達もヒナと同様課金アイテムの数々を所持している。
まぁ、心配性のヒナが彼女達にこれもこれも……なんて調子で持たせたので、それらを全て入れているポーチを紛失しようものなら大変な事になるのだが、その話は後で良い。
今は、サッサとこの部屋から出てこの城に来て暴れているだろう2人の姉と合流するのが先だ。
「じゃあヒナねぇ、そのスキル解除して、今すぐこの部屋から出よう」
「え、えぇ……? 大丈夫? あの怖い人がまた来るかもよ……?」
「……ヒナねぇなら倒せるじゃん」
本気で怯えているヒナに呆れた目を向けつつ、どうした物かと思案する。
実際、ヒナに人殺しをさせたくないと思っているのは彼女を含めた3人の共通認識だ。
だが、必要な犠牲は存在するというのも3人の共通認識であり、ヒナの邪魔をする者達は総じて全てその“必要な犠牲”にカウントされる。
これをどう説明した物かと彼女が頭を悩ませるべく額に手を当てたのと、処刑場の扉がバーンと勢いよく開かれて1人の女が慌てた様子で入って来たのは同時だった。
「あれ!? ヒナちゃんここに居ないんだけど! ちょっと勘弁してよ! 私もう魔力無いんですけど!?」
その女は赤と白の髪をちょうど真ん中で分け、ハーフツインにしているみすぼらしい女だった。
体は傷だらけで血は出ていないようだが、焼けこげたような傷跡が胸のあたりに痛々しくつけられており、最低限の布を羽織っているようだが間違いなくその下は裸だろう。
いや、そんなことはどうでもいい。今、彼女はなんと言った?
「……ヒナねぇ、知り合い?」
イシュタルが部屋の前で混乱しながら部屋の外に向かって何事か叫んでいる女を指さしてそう言うと、ヒナは怯えたようにフルフルと首を振った。
なら、ヒナはヒナでもこのヒナでは無いのか……。イシュタルがそう思った次の瞬間、女が部屋の扉を勢いよくバタンと閉め、処刑場の血生臭い空気をいっぱいに吸い込んで叫んだ。
「ヒナちゃん!? ちょっと助けてほしいんだけど、なんかのスキルで隠れてるんなら出てきてくれない!? 私ほら、怪しいもんじゃないの! 円卓の騎士って覚えてない!? ほら、私あそこのマスコットというか玩具だった魔法使いなんだけど!」
その言葉を聞いた瞬間、ヒナはほぼ反射的に世界断絶のスキルを解除してその場に姿を現した。
同時にイシュタルに施していたスキルも解除され、彼女も一緒にこの世界へと顕現する。
「っ! ほらやっぱり! ねぇ、ちょっと出会い頭に悪いんだけど、魔力回復系のポーションとか魔法使えない!? 私もう魔力切れしてるんだよね!」
背後に突如として出現した身の毛もよだつような巨大な気配に思わずバッと振り向き、何度もフィールド上や狩場なんかでその凄まじい戦いぶりを見た事のある少女を瞳に映し、女は叫んだ。
タッタッタっとヒナの傍まで走ると、右手をグイっと差し出してもう一度「ポーションか何か持ってない?」と口を開く。
「え……あ、あの……その……」
「…………」
反射でそうしたは良いが、ヒナは極度の人見知りでありコミュ障だ。その性格はそう簡単に直るはずもなく、なんでスキルを解除してしまったのかと頭を抱えそうになる。
そんな姉の姿を横目でジーっと見ていたイシュタルは、姉を自身の小さな背中で庇うと、その怪しすぎる風貌の魔法使いと名乗る女に、幼い少女とは思えないほどキッパリと言った。
「ヒナねぇとどういう関係? それを説明してくれたら私が魔力回復の魔法……は使えないのか。ポーションあげる」
そのふてぶてしいというか大胆な態度に一瞬だけ目を点にした女だったが、すぐさま彼女の顔にも見覚えがある事を思い出し、即座に言った。
「あなたあれでしょ!? マッハちゃん達と同じNPCのイシュタルちゃん! 私はそっちのヒナちゃんと同じで、ラグナロクのプレイヤーなのね? ヒナちゃんが覚えてるか分からないけど、アーサーはあなたを一回ギルドに勧誘したことがあるって言ってたよ? 友好的な関係を築けたと思うってはしゃいでたからよく覚えてる!」
「……ヒナねぇ、渡して良い?」
「え……あっ……うん。良い、と思う」
無論これが罠である可能性は否定できないが、武器の類は取られた今でもその強力無比な装備は彼女達が日頃から身に着けている物と同じだ。
見たところ目の前の女は魔法使いなのでヒナには絶対勝てないし、自分がいればそのHPが5割以下になる事は絶対にない。
その余裕とヒナの強さへの信頼が、イシュタルのポーチから魔力回復のポーションを取り出すに至った。
赤紫色の毒々しいと表現するのが相応しい魔力全回復のポーションを渡されて一瞬だけ呆れた顔を見せた女だったが、すぐに目の前の少女がそういう類のプレイヤーであったと思い出してふふっと諦めたように笑う。
このポーションの素材集め、すっごく面倒なんだけどなぁと心の中でボヤキながらグッと喉の奥に流し込む。
「うげぇぇ、これまっず! このポーションってこんな味だったっけ!?」
「…………」
「あ、ごめんごめん! いや、別にあなた達のポーションにケチつけようとかそんな気は無くてね? ほら、こういう魔力切れの状況とかって、ほとんどの場合装備か仲間のサポートで解決するから新鮮だなって思っただけだというか……ね!?」
『…………』
完全にヤバい奴を見る目で2人から見られることに精神的なダメージを受けたのか、女はグッと胸を抑えながらひきつった笑みを浮かべた。
ファミレスのドリンクバーにあるジュースやコーヒーなんかを全部混ぜたらこんな味になるだろうという酷すぎる味のポーションの最悪な後味を口の中で味わいつつ、空だった魔力がたちまち回復していくのを感覚で感じ取る。
だが、余裕綽々と言っていて良い状況でもなく、女は2人にお礼を言いつつ、この状況をどう説明すれば2人を味方に引き入れる事が出来るか必死で頭を回転させる。
恐らく、あと1分もしないうちにこの部屋にサンが入ってくることは確実だ。そこにあの暗殺者がいる可能性だって否定できず、装備の無い今の状態では自分の命が危ない。
しかし、その2人を敵に回すよりも避けなければならないのは、ヒナを敵に回す事だ。
彼女1人を相手にするくらいなら、円卓の騎士の創立メンバー全員を相手に戦った方がまだ勝機を見いだせるという物だ。
「あ~……あの、私が不審人物だってのは重々承知してるんだけど……何も言わずに聞いてほしいのね? 今、この城の城門前で2人の女の子と狐の面被った怪しすぎる女の子が来てたんだけど、その人達って多分マッハちゃんとケルヌンノスちゃんだと思うのね?」
「……それで?」
そんなことは分かってる……というよりも、なんで自身の姉たちがムカつく狐ことムラサキと一緒にいるのかは謎だが、とりあえずそこは置いておく。
問題は彼女がその先に何を言うかだが……
「私も訳あってちょっとこの国と喧嘩してるのね? なんで、今からくる魔法使いを追い払うのに協力してくれない? もちろん、協力してくれたら私もマッハちゃん達を助けるのに協力するからさ?」
顔の前で両手を合わせて懇願する怪しい女をジーっと見つめつつ、イシュタルは考える。
マッハ達の救援は恐らくしなくても大丈夫だ。そこら辺の人間に負ける程マッハ達は弱くないし、もしもの時でもケルヌンノスのスキルがあるので復活自体は可能だ。
それに、彼女達も課金アイテムの数々を持っているはずなので、そんな彼女達を相手にまともに戦う事が出来るのは、この場にいるヒナだけだろう。
だが、そもそもこの部屋から出なければ彼女達と合流する事はできないというのも確かだ。
ヒナがスキルでこの部屋それ自体を破壊できるとは言っていたが、ヒナの心情的にこの城を破壊したくないと考えているのだろうことは容易に想像できる。なら、平和的にこの部屋を出る事が出来るならそうするべきでは無いのか。
これは、答えを出すのが難しい問題だ……。
イシュタルがそう考えたのに対し、ヒナはあまり深く考えず、マッハ達を助けに行くという言葉だけで相手を信用し、コクリと小さく頷いた。
「い、良いですよ……。ま~ちゃん達も、その……心配だし」
「ちょ、ヒナね――」
「ありがと! マジ助かる! じゃあさ、私の前に立ってこう、ヤクザみたいな怖い顔しててくれない!? 多分、それだけであいつら帰るから! もちろん、イシュタルちゃんもヒナちゃんの隣に立って、こう偉そうに腕とか組んでカッコよく決めちゃって!」
フフフっと悪い顔をしながらそう言った女は、タイミングを見計らったようにガチャリと開いたドアを睨みつけると、サササッと2人の背中に隠れる。まるで、人見知りの子供が親の背中に隠れるようにしてチラッとドアの外をのぞき込んでいるのだ。
何がなんだか分からないと困惑するヒナとイシュタルの前にその人物が現れたのは、その直後だった。
「……なるほど。面倒だな……」
感情の読み取れない虚ろな瞳を2人に向け、肩からベースのような楽器をぶら下げているその女に見覚えがあったのはヒナだ。
もちろんゲーム内で相まみえた……というか戦った事は無いのだが、ある個人イベントの3位決定戦で、目の前の彼女と自分をギルドへと誘ってくれたアーサーが戦っている場面を見た事があったのだ。
そして、確か彼女が所属しているギルドは――
「ディアボロスの、人……?」
「そう! そうだよヒナちゃん! あいつってば、滅茶苦茶悪い奴なの! 人殺しのサイコ野郎なんだって!」
「……そもそも、あなたはなんでヒナねぇの後ろに隠れてるの?」
「え!? 私はほら、今装備無いからさ!」
首を傾げながらかつての記憶を掘り起こそうと画策するヒナに対し、その背後から満面の笑みを浮かべてコクコクと頷く女。そんな意味不明というか支離滅裂な態度を取る女を、完全に不審者を見つけたような警戒心で満ち溢れた瞳を向けるイシュタルという中々にカオスな状況が作り出されていた処刑場だったが、そんな弛緩した空気を一瞬で打ち消す出来事が起きた。ヒナの胸を極細のレーザーが打ち抜いたのだ。
それは、奇しくも女の頭上を通過して髪を数本焼き焦がし、処刑場の壁の一部分に大穴を開けて消滅した。
「……本物か。面倒な……」
「ちょ、ヒナねぇ!?」
「ヒナちゃん!?」
心臓のある部分に小さな穴が開いているヒナに気付き、イシュタルはすぐさま回復魔法を唱えようとし、魔法が使えない事を思い出して腰のポーチからHPの回復ポーションを出そうとまさぐり始める。
一方で、女は別の理由で驚いていた。それは……
「え、なに……? なんかされた……?」
攻撃を受けたはずのヒナが……いや、装備ありでその攻撃を受けた女のHPを一撃で8割ほど削ったその魔法の直撃を受けながら平然としている目の前の少女に、呆然と口を開けたのだ。
自分の胸にぽっかりと空いた穴と、その周辺を焼き焦がすようなチリチリとした痛みは感じているはずだが、ヒナにとっては熱湯をほんの少量かけられた程度の攻撃でしかない。
なぜなら、彼女が身に着けている装備は魔法による攻撃ならどんなものでもその威力をほぼ全てカットしてくれる代物なのだから。
いくらこの世界ではHPの全損だけで生死が決まる訳では無いと言っても、そもそもHPの1割も削れない程度の攻撃では、彼女の臓器がなんらかの影響を受ける事は無い。せいぜいが、少し熱い光線に当てられてその機能を一瞬だけ止める……程度の事だ。
いわば、赤外線や紫外線などを数秒当てられた程度の攻撃であり、少しだけ不快感を与える……くらいしか影響を及ぼさないのだ。
「びっくりした……。それくらい避けてよ、ヒナねぇ」
「え? あ……ごめん。ちょっとびっくりしちゃって……」
装備の効果で体に空いた穴や焦げた跡なんかが瞬く間に修復されていく様を見てホッとしたように胸をなでおろしたイシュタルは、すっかり機嫌が元に戻っていることをツッコまれなかったことにもふぅと安堵の息を漏らした。
そして、確信する。この不審者にしか見えない女は、少なくとも敵ではない。目の前でチッと舌打ちしながら周りに純白の鎧を着た兵士を連れている女こそ、ヒナの敵であるという事を。
敵の敵は味方……と、そんな単純な事を言うつもりはないが、少なくともヒナに危害を加えようとしたことは間違いない。
彼女にとって、その人物が敵かどうかを判断するのはその1点だけだ。
「ヒナねぇ、あいつ倒さない? ちょっとイラっと来た」
「え……えぇ!? う~ん……でもその、私もちょっと怖い、し……。たるちゃんにあんなことされたら、それこそ嫌だしね……」
そんな、ある種相手を舐めているともとれる発言を平然と行う2人を見て、女――マーリンは背筋に冷たい汗を滴らせた。
(この人達……こっわ!)
エリンとシャトリーヌが彼女達と敵対しないように、自分の人生の全てを賭けよう。静かにそう決意しつつ、2人は今頃どうしているだろうかと、密かに未来を見るスキルを発動させた。




