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58話 贖罪と後悔と溢れんばかりの愛

 女が目を覚ますと、そこはパーシヴァルが好きだった白百合の花と、アーサーが好きだったひまわり、ランスロットが好きだった薔薇とパンジーの花が狂い咲いている花畑だった。

 色とりどりの花畑にしばし心を奪われていた女は、少ししてその場にふーっと優しい風が吹いたのを合図にするかのようにヨイショと立ち上がった。


「ま……良い人生だったかな……」


 ポツリと呟かれたその言葉は、女の本心だった。


 結婚したいというもう叶わないと思っていた願いは叶ったし、淫魔という意味の分からない種族であろうとも普通の子供が産めたのは幸運だった。

 オマケに、彼女の人生でもっとも幸福な時間を過ごしたギルドメンバーと――全員で転移する事は叶わなかったが――とても有意義な時間を過ごせた自負はある。

 だからこそ、本心からそう言えた。


「本当に、そうなのかい?」


 しかし、返答なんて期待していなかった女の言葉に、呟くように答えた人物がいた。

 それは、彼女がこの世で最も信頼し、最も好ましく思っていた男だ。


「■■か……。良いんだよ。私は、もうやれることはやったさ。後は、あなたの子供が……あなたと私の子供が、なんとかしてくれるでしょ」

「相変わらず人任せだねぇ……。まぁ、それも君らしいけどさ……」


 クスっと可笑しそうに笑った■■は、ゆっくり女の元に歩み寄ると、右手を差し出した。女はその手を取ってしばらく花畑を歩いた。

 花達は彼女に踏みつぶされないようユラユラと器用に揺れ、不自然なほどに散ろうとはしなかった。だが、女はそんな事どうでも良いほど、この時間に幸福を感じていた。

 数百年ぶりに顔を見る■■は、ここ何年かの彼女の寂しさや悲しさを一瞬で吹き飛ばしてくれた。


「ねぇ、さっきから思ってたんだけどさ……どこに向かってるの?」


 手を引かれて歩き出してからたっぷり5分ほど経過した頃、女はいつまで経っても景色の変わらない花畑をキョロキョロ見回しながら尋ねた。

 いつの間にか空には2本の交差した虹がかかっており、雲一つない青空には3本の飛行機雲が浮かんでいた。


「僕はね、君の人生はまだ終わるべきじゃないって、そう思ってるんだ」

「……?」


 唐突に妙な事を言い出した■■に、女は首を傾げながら「どういうこと?」と尋ねた。


 女の最後の記憶は、自分の最後の仕事をやり終えて大量に吸い込んだ煙が原因で意識を失ったところで途切れている。

 森の中に見覚えのない怪しげな影があった事は戦いの最中に偶然気が付いたが、どうせ野次馬か何かだろうと深く考えずに見逃していた。

 それに、どうせ自分は死ぬのだから、ここで新手の暗殺者が来ていたとしてもあまり状況は変わらないだろうと……。


 女は、既に生きる事を諦めていた。

 無論自分の子供と言えるほど大切な存在であるエリンとシャトリーヌの将来は不安だったし、その安否は気になる。幸せに生を謳歌してくれるのか、心を許せる友が出来るのかどうかも、女は気にしていた。

 だが、自分が生きている事で彼女達に危険が及ぶのであれば、喜んで死を受け入れるくらいの覚悟はあった。


 それに――


「私は、もう疲れたんだよ……。あんた達がいない世界で、私はたった1人……どう生きていけって言うのさ。■■も知ってるでしょ? 私が、ギルドの中で一番の寂しがり屋って」

「ははは、まぁ確かにそうだね。あの世こっちから見ていた君は、実に不憫で寂しそうだった。他の皆だって、それは同意見なはずさ」

「ほら~。自慢じゃないけど、私のメンタルはガラスの並みに儚くて繊細で、すぐに割れる程脆いんだぞ? どっかの誰かさんはすぐにそっち側に行っちゃったけど~」

「それを言われちゃ弱いんだよなぁ……」


 足を止めた■■は、苦笑するように顔を歪めると、女の頭に手を置いて「すまないね」と口を開いた。

 その言葉の意味をしばらく考えた女だったが、やがてもう一度微笑んだ■■の顔を見て、彼がこれから自分をどこに連れて行こうとしているのか、その答えを唐突に理解してしまった。


「ちょ、ちょっと待てよ■■。私は嫌だぞ? 私はもう、たった1人で生きていくなんて無理だ!」

「……すまない。でも、これは僕らの総意でもあるんだ。君には、まだこちら側に来てほしくない」

「は~!? なに勝手な事言って――」


 そこまで言った女は、不意に振り向いた■■の困ったような顔を見た瞬間、口を噤んでしまった。

 男が心の底から頼みごとをする時や、その頼みごとが無理難題であることを自分も理解している時だけに、時折見せたその顔。女は、彼のそんな顔が、とても好きだった。

 親愛や友情とかそんな意味の愛情ではなく、純粋な好意という意味で、とても好きだった。


「■■ってさ……時々ズルいよな」

「それは……まぁ否定はしない。君だって、僕の気持ちには気付いていたんじゃないかい?」

「……それを、今、ここで言うの? もう、終わった話でしょ……」

「…………僕には、終わった事として説明付けるのはとても無理だよ。でも、結果的に君を裏切ることになったのは本当に申し訳ないと思っている。そして、この場でこの話をすることで君が心に傷を負ってしまうかもしれないという事だって、重々承知している」


 ■■は、いたって真剣な顔で女の瞳を見つめると、もう一度ふふっと笑って虹の掛かった空を見上げた。

 その瞳の中にはかつての過ちを悔いるような後悔と、この場でその話をすることの罪悪感、そして、少しばかりの幸せの感情が見え隠れしていた。


「正直言うと、君に無茶はさせたくない。寂しいという君の気持ちも、生きるのに疲れている君の現状も、荒れ果ててしまった王国の現状も理解しているつもりだ。僕だって、君の立場だったら死を選ぶ」

「……だから、あんたは私を……皆を……“あの子”を残して、この世を去ったのか?」

「やっぱり、怒ってるんだ」

「当り前だろ!」


 顔を女に向けて諦めたように苦笑した■■に、女は頬に涙を伝わせながら叫んだ。

 自分でもなんで泣いているのか、なんで嬉しいはずなのに、幸せなはずなのに怒りの気持ちがわらわらと湧き上がってくるのか分からなかった。

 それでも、女は■■の胸倉を掴んで再び叫んだ。


「私が……私と“あの子”が、どれだけ泣いたと思ってる! あんたの存在が“私達”にとって、どれだけ大きい存在だったのか、十分理解してたくせに!」

「……ほんとうに、すまない」

「謝って済む問題か! “あの子”は……あの子は……あんたのせいで……あんたのせいでどれだけ悲しんだと……」


 心の中で自分も悲しんだんだぞと付け足し■■を非難する。

 しかし、■■は特に反論する事も無く俯きながら謝罪を口にするだけだった。


 やがて、女は自分の胸の内をすべて吐き出してしまおうかという誘惑にかられた。まるで、数日間甘いものを絶っている時に、家族の誰かが秘密で買っていた高級プリンを見つけた時のような甘い誘惑に、思わず飛びつきそうになる。


「あんた……気付いてたって言ったでしょ……。なら、なんであの時私の気持ちに……」


 しかし、その寸前で思い留まった。■■に想いを告げる寸前、親友の顔が頭の中に浮かんだからだ。

 手を伸ばして冷蔵庫の中から高級プリンを取り出し、スプーンまで用意していざ蓋を開けようとしたその時、不意にそれを買ったのであろう最愛の妹の顔が浮かんだように、不自然に思考がピタッと止まった。


 女の脳には、どれだけ忘れたくとも忘れられない思い出がある。

 それは、■■を含めた円卓の騎士の10人で世界を冒険し、数々の武功や伝説を作り上げた日々であり、何気ない日常であり、2度目の青春を過ごしたわずかな数か月だった。


「…………もう、良いわよ。結局、私の決断な事には、変わりないんだから……」

「……僕の人生で犯したもっとも重い罪はなんだと聞かれたら、君を苦しめた事だと答えるよ。僕の人生、最大の後悔は君だ」

「……そんなこと、“あの子”の前で言ってないでしょうね。もし言ってたら、ほんとに殴るからね」


 ■■に背中を向けながら吐き捨てるようにそう言った女は、返って来た肯定の言葉に満足そうに頷くと、瞳に溜まっていた雫を乱暴に振り払ってもう一度■■の顔を見やった。

 その顔は『この話はまた今度にしよう』と言いたげで、女もその事には賛成なのかコクリと小さく頷いた。


「で……なんで私は、まだ死んじゃダメなのさ。というより、あんたに死人を生き返らせる手段があった事それ自体に驚きを隠せないんだけど」

「あはは、流石に魔法使いじゃない僕にそんな力はないさ。君と違って『輪廻転生』も使えないし『魂の導き手』のようなスキルも持ってないからね。というより、僕はもうとっくの昔に死んだ身さ。いくら手を尽くそうとも、現世に影響を与える事は出来ないよ」


 再び女の手を取ってゆっくり、1歩1歩を踏みしめるように……女との時間を満喫するかのように歩き出した■■は、少し速足で隣まで寄って来た女にニコッと微笑むと、本でも読むかのようにゆっくり話を続けた。


「君は、まだ死んでないってだけさ。生きてるとも言い難いし、かといって死んでるとも言えない状態……いわゆる、仮死状態ってやつかな」

「そうなんだ……。てっきり死んだと思った」

「忘れたかい? 君の種族は、本来睡眠も必要なければ呼吸も必要ないアンデッドに似た特性を持つ。君は人間だった時の記憶通り、無意識的にそれらを渇望して今回こんな事態に陥っているだけさ。淫魔なんて選ぶからこんなことに――」

「それはもう忘れて!」


 多少呆れつつもアハハと笑ってくれる■■ともっとずっとに居たい。

 会えなかった数百年の間に話したい事だっていっぱいできたし、お土産話だって沢山あるのだ。でも、その時間がもうあまり残されていない事を、女は本能的に悟った。

 その証拠に、終わりの見えなかった花畑にようやく終着点が見えてきた。


「……飛行場?」

「まぁ、そんな物かな? 正確に言えば、君の意識がそう形作ってるだけで、僕には何もない、底なしの奈落に見える……っと、こんな事はどうでも良いのさ。そうそう、君がなんであの場に戻らなければいけないか……だったね」


 ニコッと笑った■■は、女から手を離すともう一度だけ複雑そうに笑みを浮かべた。


「もう一度言うけれど、僕は君に無理はさせたくない。でもね……君には、まだ向こうでやるべきことが残ってる。いや、やってもらいたい事があるんだ」

「……それは、私にしかできない事なの……? 他の人じゃ……ダメなの?」

「あぁ。君にしか、頼めない。まだ、あの世界にいる事を許されている君にしか、頼めない事なんだ」


 女は、その頼みたい事というのの詳細を簡潔に説明されると、呆れたようにはぁとため息を吐いた。

 ■■は彼女がまた自分に失望するのだろうかと、不安で胸をいっぱいにした。しかし、女が発した言葉は■■の思っていた物とはまるで違う物だった。


「分かったわよ……。ったく、あんたはほんと、優しいのかそうじゃないのか分かんない人よね」

「……え? い、良いのかい? 自分で言っといてなんだけど、本当に君が受け入れてくれるとは思ってなかったというか……」

「ほんとに、自分で言っといて……よね。じゃあ、なんで私をここまで連れて来たのよ」

「……まぁ、それはそうだけど……」


 ■■は、過去の贖罪として……いや、そんな言葉で片付けて良い理由ではない。

 ただ単純に、謝りたくて彼女とここまでゆったり歩いて来た。

 仲間達と相談した時、彼以外の人物がここに立つことだって案として上がった。しかし、彼が無理を通してこの場に姿を現したのだ。

 全ては、自分の罪を償うために。


「あんたもさぁ……自分の想いくらいキチっと言葉にしなさいよ……。“あの子”なのか魔王なのか、それとも私なのか……。全員なんて言ったら、もちろん許さないからね?」

「こ、怖いねぇ……。流石にそこまで節操なしになるつもりはないよ。僕はただ、あの子が困った時、助けられるのが君だけだと思うから頼みたいと言ってるだけさ。そこに、恋愛感情は一切ないよ。約束する」

「……あんたは、そういうところがズルいって言ってるのよ……」


 結局、私と“あの子”に関する結論は出してないじゃない。その言葉は、意志の力でなんとか飲み込んだ。

 女は、既に自分がその戦争で負けたことを悟っている。悟りながら、祝福したのだ。だから、この場でこれ以上喚くのは、惨めという物だ。


「じゃあ1つだけ聞くよ? 私に、どうしろって言うの? 他国に亡命なんてして、戦争になるのは御免だよ?」

「もちろん。君はこの世界に来て使う機会が無かったから忘れてるかもしれないけど、ラグナロクには種族固有のスキルがあるでしょ? 僕みたいな人間には限界突破、あの人の鬼族のNPC……確かマッハちゃんだったかな? あの子には鬼人化って感じでさ」

「……はぁ。なるほどね。はいはい、それだけで十分」


 その手があったかと手をヒラヒラ振った女は、空を見上げるとこれから訪れるだろう苦難の日々を想像して一瞬だけ顔をしかめる。

 しかし、すぐに満面の笑みを浮かべると■■の右手をギュッと握る。


「今度私がこっちに来たら、今度こそそっち側に行かせてくれるんでしょうね?」

「約束は出来かねる。でも、善処しよう。そう、言っておくよ」

「はぁ……あんたらしいよ、ほんと……」


 懐かしそうにふふっと笑うと、女は目の前に広がる飛行場……もとい、底の見えない奈落へと向かって歩みを進めた。

 その淵に立つと、もう一度名残惜しそうに振り返り■■の顔を見やる。


「じゃあ、行ってくる」

「……うん、行ってらっしゃい。武運を祈るよ」


 フリフリと手を振る■■に手を振りつつ、女は奈落へと身を投げた。

 その瞬間、温かくも冷たい風が花畑をビューっと流れた。

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