32話 早すぎる再会
ペイルの声で目を覚ましたヒナは、エリンが会いに来ている。その言葉を聞いてベッドから飛び上がり、隣でぐっすり寝ているマッハの肩を優しく揺らす。
隣にベッドがあるのに夜中のうちに寂しいからと泣きついて来たのだが、一緒に寝たかっただけだろうと正しく察していたヒナは、その無防備な寝顔を眺めながら幸せをかみしめたものだ。
だが、今は彼女をゆっくり眠らせている場合ではない。
「ま~ちゃん、ほら起きて。エリンが会いに来てるってよ!」
「ん~……ヒナねぇ、あと5分だけまってぇ……」
毛布をギュッと握り締めながらむにゃむにゃと夢と現実の狭間を行き来するマッハを甘やかしたくなる気持ちを必死で抑え、その毛布をバッと奪い取る。
瞬く間に彼女はもーと非難を口にしながら目元をゴシゴシと拭い、ふわぁと大きなあくびをする。
マッハは、ヒナと同様朝に弱いという弱点があり、この世界に来てからというもの誰かに起こされない限り昼過ぎに目覚めるというだらしない生活を送っていた。
本部にいた頃その役目を担っていたのはイシュタルやケルヌンノスなのだが、今日ばかりはヒナとペイルが彼女の眠りを妨げた。
「もうちょっと寝かせてくれても良かったじゃんか~……」
「だってエリンが会いに来てるって言われたらさぁ……。ほら、早く顔洗っておいで?」
そんな自分も顔は洗っていないのだが……という心の声を押し殺し、マッハが洗面台に行くのを見送ってから部屋の扉を開ける。
するとそこには、昨日と同じ格好をした怪しい男――ペイルと、その隣で怪訝そうに彼を見つめているイシュタルとケルヌンノスの姿があった。
ペイルがどら焼きを好きだと知った時は見る目があると思っていた2人だが、彼がヒナの部屋の前で佇んでいたのでその認識を改めねばならないかと思っていた所だ。
ヒナがあと数分部屋から出てこなければ、ペイルの命は非常に危ない状況になってただろう。
「た、助かった……。この子達が話聞いてくれないんだけどなんとかしてくれる!?」
「……ヒナねぇ無事だった。ほら、たるが心配性なだけ」
「けるねぇが、怪しい人がヒナねぇの部屋の前にいるって慌ててたんじゃん……」
ぷくっと膨れながら顔を逸らすイシュタルは、そう言いながらもヒナが無事だったことに己の姉同様ホッと胸をなでおろしていた。
部屋にマッハがいる事は知っているが、その人が寝起き直後は本当に役に立たない事を知っているので心配だったのだ。
普段は頼りになるマッハも、起きて顔を洗うまでの数分間は見た目相応の子供になることを知っているというのも姉妹の特権ではあるのだが……。
「おはよ、2人とも。ごめんね、心配かけて。私は大丈夫だよ」
「ん、おはよ」
「おはよヒナねぇ。それで……どうしたの?」
「だからさっきから説明してたじゃん! エリンって子が会いに来てるんだけど、君達の知り合い?って」
呆れたようにはぁとため息を吐いたペイルは、2人が顔を見合わせて深刻そうな顔で『だって』と呟くと、その後に続く言葉で精神に大きな傷を負った。
「ヒナねぇになにかして、私達をここに留めておくための時間稼ぎだと思ってた」
「けるねぇと同じく……」
「君らねぇ……どんだけ僕信用ないわけ?」
自分達の世界が姉妹4人だけで完結しているようだという事くらいは、ムラサキやワラベからの報告で知っているつもりだった。それでも、なぜか評価を上げていた今ならその世界に少しだけでも存在を許されているだろうと思っていたのは、どうやら思い上がりだったと知る。
実際、ペイルの思考は間違っていないのだが、彼女達はどれだけ自分達の中で評価の高い人物だろうと、その人がヒナになにかしているのではと疑念を持った時点でその評価は地に落ちる。
信用を勝ち取るのは難しく、失う時は一瞬だとはよく言った物だが、彼女達の場合は信用を勝ち取るのは容易いが、失う時は通常の何倍も速く失う。
ヒナになにかしている。そう疑念を持った時点でその人の評価は地に落ちるのだから、彼女達の信用を勝ち取って評価が高い状態を維持するには、ヒナに極力干渉しない事だ。まぁ、ヒナに興味を持った事でその評価を高くすることがほとんどなので、それはかなり難しいかもしれないが……。
ただ例外として、エリンのような少女の場合は下心とかそんな汚い感情が一切ないせいでヒナに触れることを許されていた。
普通の人間がヒナに触れようとすれば、その時点でどれだけ評価が高くともあの世行き……もしくはそれに近い結果になるだろう。主にケルヌンノスの手によって……。
「ん、悪かった。反省」
「反省する。でも……なんでエリンが来てるの?」
「そんなの僕が知るはずないでしょ? 知り合いなら、応接室でも使うかい?」
「……ヒナねぇ、どうする?」
判断は任せるという視線をヒナに向けたイシュタルは、その背後から大あくびをして出てきたマッハに「おはよう」と声をかける。
そしてその数分後、エリンを含めた5人はヒナが泊まっていた部屋へ集まっていた。
エリンは昨日とまったく同じ服を着ていたがそれは4人も同じなので特に気にする様子もない。いや、というより、ヒナとマッハ以外の3人は、まったく使われた形跡の無い1つのベッドが気になりすぎてそれどころでは無かった。
部屋にはベッドが2つ、この部屋で一晩過ごした人は2人。なのに、ベッドの1つは使われた形跡がない。
「……マッハねぇ、これ、どういうこと?」
「……答えによっては、家族会議案件」
「…………」
3人から怒り、羨望、困惑の視線をそれぞれ浴びたマッハは、ギュッと握った拳をプルプルと震わせているケルヌンノスにいつものようにニカッと笑顔を向ける。
それだけですべて伝わるだろう。そう思った彼女の判断は正しく、ケルヌンノスはここで昨夜行われたやり取りを大方把握して鼻を鳴らした。
「自分もされてみれば良い。どれだけイラっと来るか分かる」
「えぇ? 特権じゃん~」
「マッハねぇ、有罪」
ハムスターのように頬を膨らませて抗議を口にする妹2人に苦笑しつつ、困惑している様子のエリンを利用して話を逸らす事を思いついたのか、思いっきり身を乗り出す。
「なぁなぁ! なんで私らがここにいるって分かったんだ?」
今彼女達は、ヒナがベッドの上で髪をとかしつつ床に4人が円の形になって座っていた。
見た目を一切気にしないマッハはともかくとして、ヒナは髪が長いせいでその手入れが毎日大変だという悩みを抱えていた。
この世界に来て3人と暮らせるというなによりの幸せを手に入れたのは良いのだが、その点見た目に気を遣わなければいけなくなったのは少しだけ不満なところでもあった。
話を戻すが、エリンは自分がここに来た経緯を軽く話し、ヒナ達が冒険者ギルドで寝泊まりしていたのはまったくの偶然だったと苦笑しながら言った。
内心、誰も昨日の事について触れない事に少しだけ安堵しつつ、その態度に一切の遠慮が無い事にも少しだけ救われていた。
あんな別れ方をして心配されるより、何事も無かったかのようにこうして接してくれるのが、彼女にとって一番嬉しかった。
相変わらずエリンからヒナ達の顔は確認できないけれど、精一杯の笑顔を浮かべて言う。
「会えて良かった!」
「ん。昨日エリンが帰ってから、ヒナねぇが寂しそうにしてた」
「なっ! あんなヒナねぇ、私らも始めて見た~」
「……ちょっと複雑だけど、エリンが相手なら良い」
3人がそれぞれエリンにニコッと微笑むと、急に話題に上げられたヒナが顔を真っ赤にして「ちょっと!」と抗議する。
もちろん寂しかった事それ自体は否定しないけれど、今まで友達すらまともにできた事が無い身からしてみれば、なんでそんなことを思ってしまうのか不思議だった。ただ、確かにエリンと別れた後は寂しかったし、また会いたいとも思った。
それでも、それを本人に言われると言葉に出来ない恥ずかしさが沸々と湧き上がってくる。
「も~! 余計な事言わなくて良いの!」
「……ヒナねぇは照れてるだけ」
「照れてるな」
「照れてる。あんまり気にしなくて良い」
ケルヌンノスの辛辣すぎる言葉にガックリと肩を落としつつ、おかしそうにクスクス笑うエリンを見てヒナもふふっと顔を歪める。
その瞳にはやっぱり絶望や失望……そして、今日はちょっぴり怒りの感情を浮かべているようにも見える。だが、ヒナは相手が言わないなら突っ込んでほしくないことなのだろうと正しく解釈する。
「それで? 今日はなんで会いに来てくれたの?」
「え、えっと……ヒナさんのその、顔を見たくて……」
頬をちょっぴり朱色に染めて恥ずかしそうにそう言うエリンに同性ながら少しだけドキッとしつつ、ヒナはぎこちない笑みを浮かべる。
誰かと恋愛関係になったことも誰かを好きになった事も無いので男にそう言われても怖い思いしかしないだろうヒナでも、同性にそう言われるのは嬉しかった。
そしてそれはヒナの事を誰よりも大好きな3人も同じらしく、その顔を誇らしげに歪める。
「やっぱ見る目あるな! 私らの事も名前で呼んでくれよ! 私マッハ! で、そっちの2人がイシュタルとケルヌンノス!」
「ん。それと、ヒナねぇの事はヒナで良い。さん付けされるの、ヒナねぇは慣れてない。それと、私の事はたるで良い」
「私はちゃんとケルヌンノスって呼んで。皆、最近名前で呼んでくれない」
ヒナという名をどこかで聞いたなと思いつつ、エリンは小さくコクリと頷いた。
なぜ自分がこんなに歓迎されるのか、なぜこんなに良くしてくれるのかは分からないまでも、今までいろんな醜い人間を見てきたからこそ分かる。ヒナ達は、真に善良で、真に高潔な人達だと。
こちらがなにか裏切るような行為をしなければ、ずっとこんな風に接してくれるだろうと。
それからエリンとヒナ達は、たわいない世間話で数時間盛り上がった。
大抵の話題はヒナの事だったり昨日食べたどら焼きの事だったけれど、エリンにとってそれは師匠との特訓と同じくらいに幸せな時間だった。
なにせ、誰かとこんなに話して嫌悪感を覚えなかった事なんて、今までの人生で一度も無かったのだから。
唯一の師匠であり叔母でもあった彼女との会話はほとんど魔法に関してだけで世間話なんかは微塵も無かった。
エリンもそうだが、彼女に魔法を教えていた女もあまり話が上手な訳では無かったからだ。
しかし、この場にはいくら話しても話したりないほど落ち着きのないマッハや、ヒナの事になると口が止まらなくなるケルヌンノス。果ては、この世の全ての事についてそれなりの知識を持っているイシュタルが揃っていた。
エリンも話す事それ自体は好きでも話が続かないので今まで誰とも話す事が無かっただけの普通の少女だ。相手が話題を出してくれるなら当然ずっと話続けられるし、貴族や兄達を相手にする時のような嫌悪感を感じなくて済むというのも大きかった。
だから、外の景色がオレンジ色になって夕刻を告げる鐘の音がゴーンと鳴り響いたその時は、その瞳の中にある絶望をいつもとは違う理由で深めた。
「もう……帰らないと」
エリンがポツリと呟いたその言葉に、4人は夕焼けで真っ赤に染まる窓の外の景色を眺めて「あ~」と残念そうに漏らす。
彼女達も、家族以外の人とここまで長時間ストレスフリーで話した経験は無かった。
それに、人とは自分が話したい内容を他人にベラベラ喋っている時が一番楽しいものだ。
エリンがうんうんと面白そうに話を聞いてくれるのもあるけれど、なにより話していて楽しいと思えた事が、彼女達の体内時間の進みを遅くしていた。
「まだ、全然話したりない」
「な! まだ全然話せる!」
「やっぱりエリン、お前は見る目がある。素晴らしい」
どこか上から目線にも感じるケルヌンノスの物言いも、彼女はこういう人だと割り切ると自分でも不思議なほど可愛いと思える。
ヒナに与えられた性格だと言われた時はその意味を数秒考えたが、深く考えても仕方が無いと『ヒナが可愛い』という事にしたほどだ。
無論そう口にした時の3人の喜びようは凄まじく、ただ1人恥ずかしそうにしていたヒナを放置して、ヒナの可愛さについてあーだこーだ言い合っていた様は実に微笑ましかった。
なんで自分は、こんな素晴らしい人達がいるのにあんな愚かな人達が待つ場所へ帰らないといけないのか。そう思わずにはいられない。
こんななんでもないような会話をするより、彼らは口を開けば剣術の稽古をつけてやるだの、早く婚約者を取れだの、目障りだから消えろだの、そんな罵詈雑言しか言わない。
そんな場所には帰りたくない、もっとここに居たい。そう彼女が思うのは無理はない。
それでも、彼女には帰らなければならない理由があった。
(私があそこに帰らなかったら、絶対騒ぎになる……)
王位継承権第三位で専属のメイド1人着いていない彼女ではあっても、なぜか毎朝剣術の稽古をつけると言ってくる2人の兄を持っている。なので、彼女があの部屋に居なければ必ずと言っていいほど騒ぎになるだろう。
それ以外は昼食と夕食の場に顔を出すくらいで、その後は洗面所へ向かって襲い掛かる嫌悪感と吐き気に逆らわず胃液を吐き出す生活を送っている。とても人間的な生活とは言えない。
「そうだ! 今日どっちがヒナねぇと一緒に寝るんだ?」
「……」
「……」
「えっ……」
部屋に響いた何気ないマッハの言葉。それだけで、エリンの思考はすぐに停止した。
ベッドの上であーあと夕焼けに燃える街を眺めているヒナにチラリと視線を向け、一切使われた形跡の無いもう1つのベッドを見やる。
自室にあるキングサイズのベッドより寝心地は悪そうだが、そんな事気にならないような幸福がそこにあるように思えてならなかった。
帰らなければならない。理性の部分ではそう分かっているのだが……それでも、一度くらいワガママを言ってみたかった。
「私も……」
「ん? どした、エリン」
「私も……ここで、寝たい……」
それは、新たな戦争の引き金となった。すなわち、マッハを除いた3人での、ヒナを巡った戦いだ。
この世界にもじゃんけんがある事に少々驚きつつ、イシュタルが可愛らしく拳を握る。
「負けたら、3人で私達が昨日寝た部屋で寝る……。文句は?」
「ない。たる、今日は負けない」
「な、ない……!」
座ったままでは気合が入らないという謎理論でよいしょと立ち上がったケルヌンノスに習ってエリンも立ち上がり、2人に対抗してイシュタルも立ち上がる。
身長がほとんど同じなのでその目線は正確にお互いの握られた拳へと向けられ、各々が命がけの勝負であるかのようにごくりと生唾を飲み込む。
「じゃあ行くぞー? じゃんけん」
「『ぽん!』」
その夜、エリンは人生で一番幸福な夜を過ごした。
ヒナは別に一緒のベッドで寝なくても良いだろうと思わなくも無かったが、マッハにいらぬ知恵を与えられた彼女に、涙目で「寂しい」と言われると断れなかったのだ。
その左手を抱き枕のようにギュッと抱きしめながら目を閉じたエリンは、毎夜うなされる悪夢に苦しめられることなく数十年ぶりに安らかに寝息を立て始めた。




