31話 醜い世界
少女は、物心ついた時から親の顔を知らなかった。だが、彼女に親が居なかったのかと聞かれればその答えは否となる。
ならばなんらかの事情で本当の親が彼女の面倒を見れなかったのか。そう聞かれても、やはり答えは否となる。
どういうことか。
少女は、物心ついた時から出会う人全ての顔がなにかぐちゃぐちゃっと塗りつぶされているように見えていたのだ。
声は聞こえる、そこにいると感じられもする。
だがしかし、その人物の顔だけが、絵具やペンで塗りつぶしたようにぐちゃぐちゃに見えていた。
なぜ少女がそうなってしまったのか、なぜ少女がその事を誰にも話さなかったのか、それは少女自身にしか分からない。
だがしかし、少女はそんな状態でも人並みに親に甘え、2人いる兄と共に遊びたいと思っていた時期もあった。
顔が見えなくとも、そこにいる事だけは分かる。だから、事あるごとにその小さな手で父親や――母親は物心ついた時にはいなかった――兄達の手をギュッと握り、まだ正確に音を発する事が出来ない喉から必死に「あおんで」とお願いする。
それで彼女に構う身内が居れば彼女の人生はまた変わったものになったかもしれない。だがそうならなかったからこそ、少女は誰にも心を開くことなくその幼少時代を過ごす事になった。
友達と言えば巨大な書庫にある無数の書物で、暇さえあれば書庫に引きこもって初代王の冒険譚を熱心に読んでいた。
読み書きは不思議と誰に習うでもなく初めからできていたせいで、ただ1人書庫に引きこもっている少女として、親や兄弟も彼女に深く関わろうとしなかった。
むしろ外に出たがらない彼女を気味悪く思い、その世話をメイド達にすっかり任せてしまった程だ。
そんな少女を見かねてか、それともまったく別の理由からなのか、ある日1人の女が書庫で熱心にアーサー王の冒険譚を読み込んでいた彼女の肩を叩いた。
ちょうど良いところだったという事もあり、まだ12歳そこそこだった少女は少しだけムッとしながら後ろを振り返る。
そこにはメイド服を着たメイド……ではなく、いかにも魔女然とした薄紫の上質なローブを着込み、赤と白の髪をちょうど頭の真ん中で分けてハーフツインにしている20代後半の女が満面の笑みを浮かべていた。
「……なに?」
見覚えのない、得体のしれない女。少女の第一印象は、大体そんなところだった。
なぜか本能的に使い方の分かる魔法で応戦しよう……そう思ったのだが、彼女が魔力を集中させて魔法を放つ数秒前に、女が口を開いた。
「君、よくここで1人本を読んでるよね? なにを熱心に読んでるのかなと思ってさ」
「……教えない。教える必要、ないでしょ?」
「取り付く島もないなぁ~」
苦笑しながら少女の隣の席へ腰掛けると、女は半ば無理やりといった感じで身を乗り出し、少女が読んでいる書物のタイトルを覗き見る。
なんとか阻止しようとするも反応が一瞬遅れたせいでそれは叶わず、少女がアーサー王の物語を読んでいると知った女はさらにその笑みを深める。
「こ~んなつまんない物しか置いてない書庫でなにしてるのかと思えば……あいつの冒険譚読んでたのか~」
女がそう言うように、この書庫は広さだけはかなりの物で、木製の本棚が数えきれないほど並んでいるだけで、後は中央に数脚の椅子と小さな机があるだけだ。
ざっと数えてもこの書庫に保管されている書物は2万冊を超え、そのほとんどがブリタニア王国建国から今日に至るまでの記録だ。
その中には少女が読んでいるような初代王の冒険譚もあるのだが、それはあくまで建国に至るまでの道筋であるからしてこの書庫にあるだけだ。
その全てを記憶している女からしてみれば、つまらない物と断言してもなんら差し支えなかった。
しかし、少女は違った。
相変わらずその女の顔は他の者達と同じでなにかで塗りつぶしたようにぐちゃぐちゃだが、少女にとって、この書庫は憧れであり、救いであり、人生の全てだった。
家に居場所がなく、誰かに愛情を与えられることも無ければ、相応の興味すら持たれた事は無い。だから、彼女の人生はこの書庫……引いては、アーサー王の冒険の物語の中が全てだった。
そんな彼女の人生全てをバカにされたように感じ、少女は怒った。
パタンと優しく本を閉じてテーブルに置くと、椅子から立ち上がってその女に命一杯の眼力を向ける。
「謝って……」
「ん? あ、私なんか言っちゃった? そりゃごめんね? 別にあなたを侮辱したつもりはないんだ。ただ、1人で寂しそうだったからさ」
おどけたようにそう言う女は、優しく「まぁ座りなよ」と彼女の肩に優しく手を置くと、再びアハハとコロコロ笑った。
「寂しくなんてないって顔してるな~? まぁそう言いたいのはなんとなく分かるけど……それは私が決める事。それに、あなたはまだ12歳でしょ? そんな子が、両親から十分な愛情を向けられることもなく、誰からも相手にされないなんて悲しすぎるでしょ?」
実際、少女は今まで寂しいと思った事は無かった。寂しいという感情がどういう物なのかそもそも知らなかったというのもあるが、彼女の世界はこの書庫にある冒険譚の中だけで完結しているからそもそもそんなことを思った事は無かったのだ。
それに、知識を身に着けるうちに気付いたことがある。
それは、この国の人間……いや、それは正しくない。正しくは、この国の王族や貴族、その全てが醜く愚かだという事だ。
彼らは、先祖が偉大だったことに胡坐を掻き、自らを神の子孫であるかのように想っている節がある。なんと愚かな事だろうか。
この国を建国し、その命尽きるまで民を導いたアーサーやその他の忠臣達は確かに神の如き存在だったかもしれない。
だが、それだけだ。
なぜその子供にまで、神の如き振る舞いが許されるのだろうか。
彼らも何かしらの功績を立てているならともかく、日々を豚のようにダラダラと過ごし、民を見捨て、見下している彼らが、どうして神と同じ振る舞いが出来るのだろう。
3年前、その事実に気付いてしまった時から、彼女の世界は物語の中だけで完結するようになった。
両親も兄達も、メイドやパーティーに参加する貴族達。その全てが醜く、愚か。そしてそんな奴らの血がこの体の中に流れていると考えるだけで嫌になる。
だからだろう。彼女は逃げた。幻想に彩られ、かつて神が起こしたとされる奇跡の数々が記された書物の世界へと。
「……あなたも、そう。私を、見下してる。悲しいとか不憫とか、そんな言葉は、自分より立場が下だと思ってる人にしか出てこない」
「っ! あなた、まだ子供なのに博識だね~。たださ、あなたは子供で私は大人。立場云々はまた別として、どちらの方が力が強いか~なんて、考えるまでも無いんじゃない?」
「私は、大人より強い」
実際、大人と子供なら力だけを考えれば子供が勝てる道理はない。それは女の言う通りであり、実際少女も一見すると博識なただの子供だ。
だが、少女には本能に刻まれた魔法の力が備わっていた。
誰に教えられるでもなく、本来数年の訓練が必要な魔力の操作をほぼ完璧に行えるし、簡単な魔法なら使用可能だ。
天才といえば聞こえは良いが、それは反対に化け物の再来として恐れられる原因でもある。
それを分かっているから、少女は自信の力について誰にも話したことは無かった。
だが、ムカついていたからだろうか、それとも自分には力があると示したかったのか。どちらにせよ、少女はポロっとその女に自分の力について話してしまった。
「……へぇ。ちなみに君、どこの血筋?」
「……言いたくない」
「あはは……。まぁ、自分の血筋に嫌気が差してるならそれもそっか……。ならそんな天才に一つ質問。あなたは、こいつを倒せるかな?」
女はそう言うと、右手をサッと一振りしてその場に青白い魔法陣を出現させる。
空中に突如として出現した魔法陣からは、巨大な鎌を持った骨の頭を持つモンスターが生み出された。そのモンスターはとても少女の手に負える存在ではなく、一目見た瞬間から体の芯に生まれて初めて恐怖という感情が生まれた。
そのモンスターはシュルルという奇妙な呼吸音を発しながらカラカラと首を左右に振って骨を軋ませるが、決してその場から動こうとはしない。
モンスターは、召喚主である女の命令を待っているのだ。
「どう? こいつは死神って言うんだけど、今のあなたには絶対手に負えないでしょ? たとえばさ、私がこいつに『あなたを殺せ』と命じたら、あなたは一生この本を読むことが出来なくなる」
先程まで少女が読んでいた本をいつの間にかその手に持ちつつ、女はフフフっと笑う。
少女は椅子から立ち上がる事すらできず、ただ目の前の怪物をガタガタと震えながら凝視していた。
女が何を言っているのか、何を言いたいのか、はたまた何がしたいのか。その全ては謎だったが、殺される。そんな感情と恐怖だけが、彼女の頭を埋め尽くしていた。
「ね? 少なくとも今は、私よりあなたの方が強いでしょ? だったら、お姉さんの言う事は聞いておかない?」
そう言って再び手を一振りすると、女は魔法を解除して死神という名のモンスターをその場から消滅させる。
その瞬間、死神の権能によって恐怖という一種の精神異常を付与されていた少女の心から、その感情がすっぽりと抜け落ちる。もちろん記憶は残るが、体の震えは自然と止まった。
むしろさっきの光景が夢だったかのような錯覚に襲われるが、その恐怖の累積は彼女の足元に雫となって伝っていた。
「あ……ご、ごめんね!? うわ~、やったわ……。私いっつもやりすぎるんだよ……。子供泣かせたとかあいつらに知られたら、絶対怒られる……」
情けなく泣き出しそうだったがなんとか堪え、女がなにかしらの魔法を使って足元を伝う水滴を蒸発させる様を黙って見ていた少女は、全てが終わると拳をギュッと握った。
そして、自分が思っている一番怖いと思う表情を浮かべ、最大限の怒りを込めて言う。
「誰にも、言わないで……」
「ん、言わないいわない! 今のはお姉さんが悪かった! ね、この通り!」
顔の前で両手を合わせて必死にこすり合わせる女は、その後再びフッと手を一振りして可愛らしい手のひらサイズのクマを呼び出すと、少女に手渡す。
そのクマはもふもふのピンクの毛並みを神経質そうにペロペロと舐め、やがて満足すると召喚した主人を何か言いたそうにジーっと見つめる。
「しばらく、そいつを好きにすると良いよ。大丈夫、噛まないし、引っ掻かないし、悪さもしない。話し相手にでもなってもらうと良いさ。もちろん、話しかけてくることも話に乗ってくることも無いけど……いないよりマシでしょ? ほら、イマジナリーフレンドって言うんだっけ、こういうの」
「……いらない」
「え、えぇ? 人からの好意はありがたく受け取っておくもんだよ? 私からのお詫びとでも思ってさ」
「……だから、いらない」
あまりに頑なな少女の物言いに、女はどうした物かと苦笑を浮かべる。
自身の正体を明かせば、この子は素直に従ってくれるだろうか……。そう考え、瞬時にその考えを取り払う。
自分があまり深くこの子に干渉しては、いざとなった時にこの子を巻き込んでしまうかもしれない。そんな残酷で無責任な事は、出来ない。
実際、この国の連中が醜く愚かだというのは彼女も感じていた。
しかし、かつての仲間の想いに応え、長年国の為、民の為に身を粉にして働いていた。
その役目も、恐らく後何年も経たないうちに彼らの手によって終わりを迎えそうだが……。
「ならこうしない? 私がこれから、少しずつ魔法を教えてあげる。ほら、いつかこの本にいるマーリンって魔法使いみたいに、カッコよく戦えるようにさ」
右手に持つ本を掲げながら、どや顔でそう言い放つ。
少女にその渾身のどや顔は見えないのだが、マーリンという魔法使いのように戦えるようになる。その言葉には確かな魅力を感じた。
自分の人生の全てであり、アーサーの仲間として描かれている女魔法使いマーリン。
そんな彼女に憧れなかったはずもなく、時々その姿に自分を投影してにやっとその口の端を歪めていたほどだ。
そんな人と同じように戦える……そう考えると、ワクワクするのは仕方がない。
それから、2人の秘密の特訓が始まった。
完璧に近い魔力制御に瞠目しながらも、女は少女に自分が扱える魔法の数々を教えていった。
それと同時に、彼女の長い人生経験で見聞きしてきた魔法やその性質を詳しく教え、少女ならそこから新たな魔法を作り出せるのではないかと希望を与えた。
その女の考えは正しかったようで、少女は女にすら使えない転移魔法を見事作り出し、習得して見せた。
恐らくこの世界の誰も使用できない転移魔法。それを使えると言うだけで、少女の未来は明るくなるだろう。
「え!? な、なんで!? なんでもう終わりなの!?」
女が突如、特訓を終わりにしようと言い出したのは、少女が転移魔法を使えるようになってから数日後……特訓を始めて4年が経った頃だった。
その間、少女は年相応の成長を遂げ、その顔も美しく端正な物になっていた。
だが、女の容姿はその姿から永遠に変わらないとでも言いたげに、この世界の理を嘲笑うかのように、この世界にやってきたその時から変わっていなかった。
最初は女をどこか胡散臭く思っていた少女も、日々使える魔法が増え、成長と共に扱える魔力量も増えていく内に女を信用し、心を開いていた。
今や書庫にいるよりも、彼女の部屋で共に特訓をする事の方が多くなり、人生の全てと言っても良かった。
だからだろう。その瞳に何年振りかの涙を浮かべ、自身の師匠に必死に抗議する。
「エリン……私はね、もうすぐ死ぬんだ。その時、あなたが近くにいると……きっと、巻き添えを食ってしまう」
「死ぬ……? え、ちょ、ちょっと待って……? 師匠……何言ってるの?」
「賢いあなたなら、分かるはずよ。私の言ってる意味がね」
この時初めて、少女――エリンは、人の顔に掛かっている塗りつぶしたようなぐちゃっとした物が取れたように感じた。
一瞬だけ見えた師匠の顔は、慈母のような優しい笑みを浮かべていた。
この4年間で初めて目にし、同時に最後に目にした師匠の顔がその満面の笑みだったのは、エリンにとって幸運だった。
その数秒後、女はサッと背後の窓を振り返ると、エリンに「じゃあね」とだけ告げ、ガラスをぶち破って遠くへ飛んで行った。
それ以降、彼女が少女の前に現れる事も、彼女に貰ったクマが少女の前に現れる事も……
「っ! おばあさま!」
バッとベッドの上から飛び起きた少女――エリンは、汗だくになりつつも自分がいる場所が自室である事を確認すると、はぁと大きなため息を吐いた。
彼女の自室はかつての師匠……後に母方の祖母だと判明したその人が部屋で使っていた漆黒の長机やベッド、椅子、本棚などが全てそのまま置かれていた。
7畳ほどの部屋に詰め込める量では無かったので、その他の観葉植物や彼女が貰った賞状や盾などは全て彼女のお墓に埋めていた。それでも、部屋は家具や彼女の服なんかで足の踏み場もないほど散らかっていた。
彼女の部屋にはメイドすらも立ち入らないので掃除をしてくれる人がいない。だからこんなに散らかっているのだが、数十年前からこうなのでもはや気にすることもない。
天井に吊るされた大きなシャンデリアに手をかざして火を灯しつつ、昨日ヒナ達から逃げ帰って来た後のことを思い出す。
(悪い事、しちゃったな……)
絶対に変な奴だと思われたに違いない。
嬉しくて泣きだして、どうしたら良いか分からなくなって転移魔法で帰ったなんて、正直に言える性格をしていればどんなに良かっただろう。
生憎とそんな素直な性格はしていないので、もう二度と彼女達には会いに行けないかもしれない。あんなに温かく、一緒にいて心地よかった人なんて……あの人以来だったというのに。
深い後悔と罪悪感、そしていつもの絶望と失望に襲われてベッドの上でうずくまろうとしたその瞬間、部屋をゴンゴンと乱暴にノックする音が響いた。
こんな乱暴な叩き方をするのは兄か父親だろう。そう思いつつ返事をすると、扉の前から聞こえてきた野太い声は、やはり1番上の兄の物だった。
「おいエリン! 昨日はどこに行ってやがった! せっかく俺様が剣術の稽古をつけてやるって言ったのに、その優しさを無下にした挙句すっぽかしやがって! 今日という今日は逃がさねぇぞ!」
よく言う。どうせ騎士団の前で自分の強さをアピールしたいだけだろうに……。そう心の中で思いつつ、エリンは聞こえるかどうかという小さな声でボソッと呟いた。
「昨日は体調が悪く、一日部屋に引きこもっていたのです兄上。そして、今日も私は体調がすぐれません。ありがたい申し出ですが、剣術の稽古であればアルバート兄様となさってください」
2番目の兄であるアルバートも、事あるごとにエリンを剣術の稽古へ誘っていた。その理由は、今扉の前にいるサリアスと同じだ。
本気を出せば2人を瞬殺出来る程の力を持っているエリンではあるが、力は見せびらかし、威張っても良いことは無い。それどころかこの国では、師匠のように下手すれば暗殺の対象になってしまう。
なので彼女は、今までその力を隠し、魔法も最低限しか使えない無能として振る舞っていた。
まぁ、それが災いして2人の兄に自身の力を誇示するための道具として扱われているのだが……。
「ふざけんな! 俺様がいつまでも暇だと思うなよ! 今からだ、今から稽古をつけてやる! サッサと部屋から出てこい!」
「兄上、ですから私はその誘いには応じかねると言っているのです。本日は体調が――」
「ええい、うるさい! そんなの、次期国王である俺様が遠慮する理由にはならないだろうが! 愚鈍な貴様に剣術の稽古をつけてやると言ってるんだ! 良いからさっさと出てこい!」
有無を言わさぬという態度。どこまでも上から目線で、他者を見下す事しかできない悲しき人間。それが兄であり、ブリタニア王国王位継承権第一位の男だった。
その顔を見た事は無い。声も、こうして扉越しに聞いているだけでも全身を鳥肌が走り、生理的な嫌悪と失望、怒りが心の奥底からグツグツと湧いてくる。
それは、この国の貴族や身内である王族と話している時だってそうだ。
エリンは、そんな窮屈な場所から抜け出したくて、月に1度街へと降りて身分を隠しつつ民と触れ合っていた。
まぁ、触れ合うと言っても遠目からその暮らしを見て、かつてのブリタニア王国と比べて失望と絶望、王族貴族への怒りを余計に募らせるだけなのだが……。
(あの人達に……会いたい……)
つい数分前には、もう会えないと絶望した相手。だが、そんな彼女達の言葉には、確かな温かさが、優しさが、師匠のように信頼に足る何かがあった。
その顔は相変わらず何かで塗りつぶしたように見る事が出来なかったけれど、きっと優しい顔をしているのだろう。
師匠と同じ杖を持っていた。ただそれだけの理由で話しかけてしまった人達だが、短い付き合いでも、エリンの心にはヒナやマッハ達の優しさがこれ以上ないほど染みていた。
「行こう……。ヒナに、会いたい……」
扉の向こうで未だ吠えている兄に聞こえないようボソッと呟いたエリンは、オリジナルの魔法である転移魔法を口の中で唱え、その部屋から瞬く間に姿を消した。
彼女達がどこにいるのか、それは分からなかったが、彼女が昨日ヒナ達を始めて見たのは冒険者ギルドの前だった。初代王のアーサーが、自身の師匠であるという女性が住んでいた建物を模して作らせたという冒険者ギルドの扉を開け、受付のような場所に立っている女の人におずおずと話しかける。
時刻はまだ昼前という少し早い時間という事もあってか人はそれほど多くなく、人見知りのエリンにとっては幸いだった。
「ヒナって人、ここにいないですか……? どこに行ったら、会えますか……?」
「ひ、ヒナさん、ですか……? 失礼ですが、お知り合いですか?」
受付嬢のその言葉に一瞬詰まるが、顔見知りという意味ではそうなので小さくコクリと頷く。
すると、その受付嬢はうーんと何事か考えた後に「少々お待ちください」とだけ告げ、奥の方へと消えていった。
数分後、怪しい格好をしたギルドマスターと名乗る男を連れてくると、再び同じことを尋ねてくる。その事に若干イラっとしつつも、貴族達を相手にするよりはマシだと自分に言い聞かせなんとか乗り切る。
そして、初めてヒナや師匠以外の人と話した――貴族や王族、メイドを除く――が、やはり多少なりともイラっとするのは変わらないらしい。
やっぱり、ヒナや師匠が特別なのだろう。そう思ったのと、ペイルと名乗ったその男が口を開いたのは同時だった。
「どんな知り合いなのかは聞かないでおくよ。一応本人に確認を取ってからになるけど、良いかな?」
「……うん。私は……エリンって言えば、分かる」
一瞬訝しげな顔をしたペイルは、特に何も聞かず上階へと消えていった。
彼女がヒナやマッハ達3人と再開するのは、その数分後だった。




