226話 全てを失ったその先で
少女は、いつも通り目を覚ました。
目線の先には見る物に安らぎを与えるとされる温かみを感じる木材の天井と、そこに掘られた美しい牡丹の華。
己を包む布団を少しだけはがして外の世界に両手を差し出すと、冷たい空気が瞬く間に張り付いて凍り付いてしまいそうな感覚を覚える。
「……今、何時じゃ」
誰に言うでもなくそう言った少女は、扉の外から返事が無い事からよほどの早朝か、もしくは深夜の変な時間に起きてしまったんだろう。そう結論付ける。
この部屋に時計は無い。無論数日前までは存在していたが、つい先日暴れたせいで破壊されてしまい、今代わりになる物を手配している最中なのだ。
「この部屋も、酷い有様じゃな……」
彼女は、ここ数日半狂乱と言っていい程に暴れた。
自室はもちろん、執務室や応接室、果ては屋敷の廊下。その全てで狂ったように暴れ、叫び、泣き喚いた。全ては、お気に入りである少女が死亡したという報告が上がってきたからだ。
護衛部門の隊長マリリエッタと、その隊長が推薦して向かい入れたというメリーナの助手。それと、その友2人……そしてメリーナ。計5人の行方が分からなくなり、シャルティエットはすぐさまダンジョンに向けて捜索隊を派遣した。
だが、その捜索隊の面々が見た物は、それはもう壮絶だったという。
ダンジョンの遥か手前の場所の森で辺り一帯が焼け爛れ、そこら中に濃厚な血と死の気配を漂わせる異常な場所が完成していたという。
そしてその中心部分に、その墓は存在していた。
「メリーナ……。わしを残して逝くでないわ……。愚か者……」
ベッドの上でそう呟いた少女は、ふぅと息を吐いて布団をはぎ、部屋のカーテンを開けた。
太陽の位置を確認し、もう少しで執事であるメイリオがやってくる時間かなぁ……なんて思いつつ、何かをしないといけないという訳では無いので、ベッドの隅に腰を下ろしてただ静かにその時を待った。
しかし、そうしているとつい考えてしまう。
フラッと商談にやってきて、嵐のように己の感情を揺さぶるだけ揺さぶっておきながら、これまた嵐のようにフラッと去ってしまった少女の事を。
自分でも、なぜここまで彼女の事をお気に入りとして可愛がっているのか。高々出会って数日しか経っていないのに……。そう思ってしまう事もある。
だが、不思議と目を閉じると……眠る前も、食事をしていても、彼女の笑顔が、あの悪態を吐く顔が……恥ずかしそうな、あの照れた顔が、脳裏に浮かぶのだ。
そして、彼女に想い人がいると知った時の嬉しさと応援したいという気持ち。そして……。そして、ちょっとの嫉妬心。その全てが思い出となって、濁流のように迫ってくる。
「はぁ……。もう、何日経ったんじゃろうな……。何日も朝礼に顔を出しておらんな……」
シャルティエット商会の本部でもあるこの屋敷では、毎朝朝礼として販売部門、護衛部門、輸入部門、流通部門、新人教育部門の長とシャルティエットが集まり、その日の方針を決定していた。
具体的に言えば、昨日はこういう事があったという報告から始まり、今日はこれをしたいので許可をくれ……という物だ。
シャルティエット商会はシェイクスピア楽団に比べてかなりちっぽけな商会だ。
それでも世界で2番目の商会として機能出来ているのは、言ってしまえばシャルティエット個人の才能と優れた手腕のおかげだ。
毎朝行われている朝礼でも、部下の勝手な暴走を防ぐのと商会がどうすればもっと大きくなるのか。それを瞬時に判断し、ダメな事はダメだと喝を入れ、もっと良くなると思う所があれば優しく……という訳では無いが、しっかりアドバイスをする。
そうする事で、商会は日々大きくなっていき、世界的な信用を積み重ねていったのだ。
ただ、ここ数日少女――シャルティエットが塞ぎこみ、暴れ、半狂乱となって仕事なんて全くもって手に着かなくなってしまったせいで、商会は実質休業状態となっている。
なにせ、何をするにも主の許可がいるのに、それが出ないのだから全ての作業を実行に移せない。なにかしたくても、勝手な事をして商会に損害を出せば首が飛ぶだけじゃ済まない。
下手な事をして商会に関わっている人間が幾人か路頭に迷うようなことがあれば、シャルティエットが本調子に戻った際必ず粛清される。
それは、商会の人間全員が知っている。彼女は、それだけの力と冷酷さを併せ持った恐ろしい少女なのだから。
「そろそろ、ちゃんと仕事せねばならんよな……」
一度、メリーナの墓参りをしなければならない。そうぼんやりと思いつつも、まだ、彼女の中にメリーナはどこかで生きている。そう、信じたい心があるのかもしれない。
報告をあげてきた部下がどれだけ信用の足る人物でも、実物を見ない限りはまだ信じる事が出来る。メリーナは、きっとまだどこかで生きている……と。
これだけ絶望の淵に立ち、どれだけ打ちのめされたとしても……。まだ、自分はこの目で確かめた訳じゃ無いのだから大丈夫。そう信じている。
だからだろうか。ここ最近は、全ての面会を求める声にも応じる事は無かった。そのうちの誰かから、メリーナの事を聞いたら再び発狂してしまう。そう、妙な確信があったから。
ただ、不思議だ。こうしていると、天国で見ているメリーナが苦笑して、申し訳なさそうに頭を撫でてくるような、そんな感覚も覚えるのだ。
どこかで生きている。必ず、生きていてくれる。そう信じているのに……彼女が、どこか遠く、もう手の届かない場所で自分を見守ってくれているのではないか。そんな感覚を、覚えてしまう。
「メリーナよ……。契約違反じゃぞ……。わしだけを守ると、あの時誓ったでは無いか……」
メリーナの小説が発売された時から、彼女は商会ではなく自分だけを守るよう契約の内容を更新していた。
思えばあの時からだろう。メリーナの事を、他の誰よりも特別視していたのは……。
彼女が書いた小説の中の『魔王』に対する当てつけだったかもしれない。
お前はこんなに思われているが、今のメリーナは自分だけの物だ。なんて、くだらない独占欲を発揮しただけかもしれない。
ただそれでも、泣く理由には十分すぎる。
――コンコン
ただし、世界はそれを許してくれるほど優しくない。
ちょうど、メイリオがやって来たのか部屋の扉を優しくノックする音が聞こえる。
「うむ、入ってよいぞ」
執事は主の部屋にはいる時ノックをしない。それは常識として彼の中にあるのだろうが、ここ最近の主の不調を見て、遠慮をしているのだろう。
実際、返答があるとは思って居なかったのだろう。扉の前で明らかに狼狽している男の様子が伺える。
「し、失礼します」
オドオドしながら朝食を乗せたワゴンを引いて来た40代前半の初老の男に苦笑しつつ、丸いパンと温かいクリームスープをゆっくり口に含む。
数日ぶりのまともな食事に、彼女の頬は知らず知らずのうちに緩んでいく。ただ――
「主様、一応ご報告申し上げます。後2時間ほどすると朝礼が始まりますが、いかがなされますか?」
彼は、執事としてしなければならない事を淡々とこなす。
ここでシャルティエットがどう答えようが、彼は自分の仕事をこなすだけだ。嫌だと言われればその旨を揃っている長達に伝えて解散させるし、参加すると言われるのであれば至急準備を整える。
「……一応聞くが、ここ数日の朝礼はどうしておったのだ?」
「お嬢様がいない間、私が各部門の方達からの近況報告を受ける……という時間になっておりました。お嬢様の容態が安定したら、重要事項だけご説明できるようにしておいた方が良いだろうという皆様の判断です」
「正しい判断じゃな……。それで? なにか、ここ数日問題はあったか?」
本当は問題だらけなのだが、彼女が言っているのはそういう事ではない。
自分が動いていないだけで商会の動きが止まってしまっているのは重々承知しているし、世界の経済が不安定になっている事だって容易に想像が出来る。
ただ、それ以上に何か大きな問題が商会内で起こっていないか。それが問題だった。
「輸入部門のルリア様から、ロアの街のモンスターの素材確保に苦戦しているとの報告がありました。なんでも、冒険者ギルドの方でも素材の回収・加工の目途が建っていないとの事です」
「ふむ……それで?」
「一応交渉の方は相手方が有利になるよう進めているようですが、如何せん加工した物が届かないのであれば商品価値が下がるのではないかという危惧が成されております。冒険者ギルドでも加工が困難なモンスターの素材を、我々が加工できるとはとても……という話です」
冒険者ギルドが匙を投げ、シェイクスピアの所すらも自分達の専門外だと販売を諦めたと噂のモンスターの素材。それらを独占する事が出来ればかなりの利益になると思ったが……そういう事なら、うちも早々に手を引いた方が良いかもしれない。
「……いや、そのまま交渉を続けろ。シェイクスピアのところがこれ以上大きくなる可能性が出る方が不味い。もしくは、他の商会が出張ってくると面倒じゃ。そのモンスタ―を倒す事が出来るのであれば、素材の回収から加工ができないはずはないからの。いずれあの娘っ子が対処するじゃろ」
「承知いたしました。では、朝礼は――」
「案ずるな。今日から復帰しよう」
その言葉に、一番安堵したのは恐らく彼本人だろう。
世界的な物価の上昇と、完全に停滞していたシャルティエット商会が再び動き出すのだ。お嬢様の専属執事として、これ以上嬉しい事は無い。
ただ、彼の仕事はこれで終わりではない。むしろ、つい先程やってきた“客人”によってもたらされた内容の方が重要だった。
「それと、主様に面会の申し出が何件か入っております」
「誰からじゃ?」
「シェイクスピア楽団の代表者2名と、冒険者ギルドの創設者であるムラサキ様。それと、ダイヤモンドランクの冒険者様が5名」
「5名じゃと? 何者じゃ」
シェイクスピア楽団の者達が面会を求めてきているのはいつもの事だし、ムラサキだってここ最近は毎日のように面会を申し込んできている。その話は、いつも扉越しではあった物の聞いていた。
ただ、両者共に会う気は無かったのでなんの返事もしていなかったのだ。
しかしながら、ここにきて新たな“客”がやってきた。
彼がわざわざ伝えてきているという事はそれなりの面会理由と、面会するに足ると思われているからだ。
要するに、シャルティエットに会わせる価値がある。そう判断されたと理解して良い。
「それがその……メリーナ様の、御息女だと名乗っておりまして……」
「ゴホッ!」
シャルティエット……いや、少女は、そんな意味の分からない報告に、思わず口に含んで飲み込もうとしていたスープを吐き出した。
「な、なんじゃと……? メリーナのなんだと言った?」
「メリーナ様の御息女だと仰っております。それと、ロアの街を襲ったモンスターを屠った冒険者の一団であるという事を、ムラサキ様より仰せつかっております」
「あ、あやつに娘がおったのか……?」
動揺と混乱で一瞬頭が空っぽになってしまうが、もしその者達が嘘を言っているのであれば自分ならすぐ見破る事が出来る。そうなった場合即座に帰して、二度とこの商会のどの商店にも足を踏み入れぬよう通達を出そう。そう決める。
「分かった。朝礼の後、すぐに会おう。準備せい」
「承知いたしました」
ペコリと頭を下げたメイリオは、すぐさまメイドを呼ぶと彼女が吐き出してしまったスープを拭くよう指示し、自分は朝礼と来客を招く準備をする。
仮にもメリーナの娘という話が本当であれば一大事なので、初めて訪れる者を品定めする部屋ではなく、ちゃんとした屋敷にある応接室を完璧にセットする必要がある。
ただでさえここ数日でだいぶ屋敷の中が荒れてしまっているのだ。非番のメイドや執事、執事見習いまで総動員で屋敷の掃除をしなければならないだろう。
残された時間は少ない。今すぐ、行動に移さなければ……。
「メリーナの子供か……。どんな顔をして会えば良いのじゃ……」
シャルティエットは、すぐそこで作業をしているメイドなんて気にする事無く、そう呟いた。
ただ、その結論が出る前に朝礼の時間はやってくる。そして、過ぎていく……。