212話 信じてる
どれだけその時間が続いただろうか。
少女の号哭が止み、ぐすっと鼻をすする音が扉越しに響いたのを合図に、ヒナは再び口を開く決意を固めた。
「私達はね、メリーナにすっごく感謝してる。さっきけるちゃんも言ってたけど、あそこでたるちゃんがいなくなってたら、私はメリーナを含めたあの場の全員を殺してたと思う。最後に私も死んで、何もなくなってた。これは、私達全員の意見。だから、メリーナは私達家族の大恩人なの」
「いくら私らが強いって言っても弱点はある。その最たる例が自分以外の他の家族ってのは考えたくないけど、実際そうだ。だから、あのムカつく奴にヒナねぇが狙われたって考えた瞬間、全員の意識がそっちに持って行かれて、私達自身が狙われるって発想が無かった。今考えれば、ヒナねぇは自分が狙われたとしても他の2人がなんとかしてくれるし、何より私達の中で一番強いのはヒナねぇだ。そんな人の心配をするより先に、まず私達の身の安全を考えた方が賢明だっていうのは、メリーナから学んだ教訓だ」
「…………」
マッハは、悔しそうに腰に下げた刀に手を置いて答えた。
ヒナは自分が狙われることに関しては人一倍敏感にキャッチし、即座に防御魔法を発動する事が出来る。
そうでなくても、彼女の傍には常に誰かしらが付いているので、彼女が狙われたとしても傷を負う事はほとんど無いだろう。ならば、今回のように不意打ちで他の3人の誰かが狙われるという可能性を考え、行動に移さなければならない。
そして、それが可能なのは家族でも一番の機動力を誇るマッハだけだ。
イシュタルは今回の件で激しく自分を責めていたが、マッハだって同じくらい自分を責めている。なぜ、前衛職なのに魔法使いのメリーナより早く動けなかったのか。
自分がいるから、他の皆は不意打ちなんて受けないと油断していた。あの時全員の反応が遅れたのだって、少なからずその側面があったはずだ。
仮に不測の事態が起こったとしても、マッハがいるんだからそこら辺は大丈夫だろう。その無条件の信頼が、あの瞬間全員の判断を無意識のうちに阻害したのだ。
「それは、違います」
ただ、マッハの懺悔には待ったがかかった。それは、他ならぬ雛鳥自身からだ。
メリーナの部屋の資料にはイシュタルの記載は無いが、その家族愛が他の3人同様非常に強く深い物であるのは理解できる。
そんな彼女の事を全員で守り、庇い、これは自分達全員の責任だ。そう“逃げている”と非難したいのか。そう、一瞬だけ覚悟してしまう。
だが、彼女が言いたいのはそういう事では無かった。むしろ逆だ。
そんなに尊く、メリーナがその末席に加えて欲しいなんて願うのはむしろ浅はかで、隣にいるという事はまた『別枠で』愛してもらう事でしかない。
そう記していたように、彼女達4人の家族愛は何より尊い物なのだ。それに――
「メリーナが望んだのは、皆様が円満に暮らす事……です。そんな、お互いが自分を卑下してこれからはヒナ様第一優先ではなく、他の皆様や自分の身の安全を最優先にするなんて……彼女は、望まないでしょう」
「『……』」
「皆様は、いつも通りで居てください……。その方が、メリーナは喜ぶでしょうから……」
むしろ、今の彼女達をメリーナが見れば、自分のせいで歪んだ考えを発生させてしまったと後悔しかねない。いや、十中八九そうなるだろう。
彼女達4人の関係性に異物を混入させることは、禁じられた果実を口にするより遥かに罪深い。そう本気で考える程に、彼女のヒナとその家族に対する尊敬の念は強かった。
そんな尊い関係に自分の愚かな行動のせいで濁りを与えたとなれば、一生その行いを悔いるのではないだろうか。
いや、後悔はしないかもしれない。ただ、もっといい選択肢があったのではないか。そう、永遠に自問自答する事になるだろう。その答えはヒナだって導き出せない“答えの出ない問い”でしかなく、その事をメリーナ自身が最もよく分かっているというのに……。
「でも、それじゃまた同じことが起こったら――」
「ありえません……。メリーナが憧れ、崇拝し、尊敬していたヒナ様であれば、もう二度と同じ轍は踏まない……。ですよね……」
なぜか、扉越しなのに目の前で困ったように微笑まれたような錯覚に陥ったヒナは、一瞬呆けてしまいそうになりつつも、コクリと力強く頷いた。
「当り前じゃん。もう、誰が相手でも油断はしないし、戦闘中は常にあの時の私でいるよ。元々ラグナロクで生活してた時はそんな感じだったのに、この世界に来て自分が割と強い部類にあるんだって、どこか驕ってたんだと思う」
ケルヌンノスがヒナを正気に戻す時、背後から奇襲しなかった理由でもあるが、ヒナは一度失敗を経験すると同じ失敗を二度と繰り返さない。
同じ状況に陥る可能性が数パーセントでもあるなら常に気を張っているし、相手が家族であろうとも無意識化でそれをしてしまう。これはもうゲーマーとして……『魔王』として、数多くのプレイヤーの頂点に立ち続けたヒナの癖だ。今更治す事は出来ない。
そして、そんな事を分かっているのはヒナの家族だけじゃない。雛鳥やメリーナだって、とっくの昔から知っている。
「あなたは、そういう人です……。なら、メリーナが望むのは皆様がいつも通りお互いを尊重し、最優先に考え行動する事です……。変に、気を遣わないでください……お願いです……」
それは、メリーナの最後の言葉にも繋がる。
イシュタルが自分の死に責任を感じるだろうことを先読みし、皆と仲良くねと遺言を残した。
そしてそれは、なにもイシュタルだけに向けられたものではない。家族全員に向けられたものでもある。
「分かった……。お前がそう言うなら、そうする……」
「マッハねぇ、お前はだめ」
「……ごめんじゃん」
冷静にケルヌンノスに指摘され、マッハは少しだけショボンとしてしまうが、それもマッハらしいと言えばらしかった。
食堂からここに来るまでの短い時間で、彼女達は雛鳥からどれだけ自分達の事を非難され、罵詈雑言を浴びせられようが怒り狂って彼女を殺すような事はしないと約束していた。
そんなのは謝罪に行く身からすれば当然なのだが、ヒナを含めた全員の精神年齢が未成熟な子供なのだ。そんな当たり前のことを全員で約束しなければ、耐えられないだろうことは容易に想像が出来る。
そして、誰かが暴走しそうになった時は今のように誰かが止めるという事も、あらかじめ決めていた。
「メリーナは、自分が望んだ物を手に入れたんです……。私からは、もう何も言う事はありません……」
消え入りそうな、また泣き出してしまいそうな暗い声がその場にこだました。
ヒナは、その感情をよく知っている。
両親が急にいなくなったあの時からラグナロクに出会うまで、彼女の時間は止まっていた。それまでの期間なぜ生きてこられたのか、彼女自身にだって分からない程に無意味で虚無な時間を過ごしてきた。
だから、言った。
「あなたは……? あなたは、どうするの……?」
「……私、ですか?」
「メリーナは私達の恩人。でも、その恩人はあなたのお母さんでもあったんでしょ……? そんな人を、私達は奪ってしまった」
「いえ、もう良いのです……。どうせ、会えるなんて思って居ませんでしたから……」
元々引退したメリーナがこの世界に来ているなんて考えてすらいなかった雛鳥にとって、今の状況はレベリオが衝撃のニュースを持ってくる前となんら変わっていない。
だからこそ、余計に苦しんでいるのだが……。
一度与えられた希望が無残に打ち砕かれれば、たとえ状況が変わっていなくとも人は絶望を感じる物だ。
冷蔵庫にアイスがあるから、学校から帰ってきたら食べて良いよと言われた子供が、学校から帰って来て冷蔵庫を開けると約束のアイスが無い。
よく確認してみると、アイスがあるというのは母の勘違いで、実際はそんな物は無かった。
この場合、元々アイスは食べられなかったが“食べられるかもしれない”と希望を持ち、母の確認不足で“やっぱり食べられなかった”という元の結果に戻っただけだ。
だが、その冷蔵庫を開けた瞬間子供は必ずガッカリし、少しの絶望を味わうだろう。
絶望というにはそんな可愛い物を……と思うかもしれないが、結果が変わらずとも一度希望を持たせてそれを奪う。それは、人にとって最も残酷な事だ。
「……ねぇ、ヒナねぇ。今言う事じゃないかもだけどさ……なんでよくわかんないって顔してたマッハねぇにアイスで例えたの? 普通に手術しなきゃ死ぬって患者さんが、手術しても助からずに死んじゃった……とかで良くなかった?」
「えぇ? だ、だってまーちゃん食べるの好きだし……これ以上暗い雰囲気にしたくなかったというか……」
「けるねぇ、今更ヒナねぇの残念な例え話にあれこれ言っても仕方ないと思う」
「そ、そんなに酷かった……?」
泣きそうになっているヒナを可哀想な目で見つつ、イシュタルは続けた。
「雛鳥。あなたが良くても、私達が良くない。恩人の大切な人を、そんな状態で放っておけない」
「……」
「だけど、ヒナねぇがそうだから分かる。私達が何を言っても、あなたはそこから出ようとしないと思う。無理やり引っ張るのだって絶対に違う。それだけは分かる。だから……」
その後、イシュタルは一瞬だけ言葉を切ってヒナを見つめる。
彼女が小さく頷いたのを見て、続けてマッハ、ケルヌンノスへと目を向ける。反対意見など出ない事は分かっているが、最後の確認だった。
そしてその結果はもちろん――
「明日、私達は家に帰るつもり。ただ、その前にメリーナを迎えに行く。迎えに行って、そこでちゃんとお礼も言って、私達の家の庭に、きちんと埋葬する」
「……」
「来てなんて言わない。でも、私達は待ってる」
「ん、待ってる。お昼には出発すると思う」
「毎日お墓参りして、ずっとありがとうって伝えなきゃな。それだけやっても足りないくらい、恩があるのは分かってるけどさ」
「…………」
そして最後に、ヒナが言った。
「明日、待ってるから」
それだけ言い残し、4人はスタスタとだるまの部屋へ足を進めた。
これ以上、彼女達が出来る事は無かった。
ヒナの経験上、こういう時に無理に部屋から出そうとしたり、ただ平謝りして状況が好転するなんてことは絶対に無いと知っている。
だからこそ、信じている。そう口にしてあげた方が何倍も気が楽になるだろう。そう、思ったのだ。
「ヒナねぇ……来るかな?」
「分かんない。でも、やれるだけのことはやったと思うよ」
イシュタルが不安そうにそう聞いてきたので、今できる最大限の笑顔を振りまき、ヒナは言った。
本当は自分だって不安で泣き出してしまいそうだけれど、妹の前でそんな情けない所は見せられない。精いっぱいの、強がりだった。
そして他の3人だって、姉のそんな意味の分からない見栄っ張りな所まで、全部分かっている。分かったうえで、黙っていた。
全員、気持ちは同じだ。後は、信じるだけだった。