211話 失意の果てに得たもの
メリーナが幼少期、親から全てを期待されてその果てに壊れてしまった少女だとするならば、その子供である雛鳥も彼女と同じ末路を辿ったと言って良い。
これを皮肉と言わずして、なんと言うだろう。
メリーナの両親……正確に言えば母親は、彼女には自分と同じ順風満帆な日々を送ってほしいという思いから狂ったように勉強だけを強いて来た。
彼女もその想いには応え続けてはいたものの、やはり心は擦り切れ、全てが変わったあの日にとうとう壊れてしまった。
それからは、抑えつけられていた反動が来たかのように……。いや、そんな後ろ向きな言葉で表現してしまうのは、彼女とその“ヒーロー”にとって失礼だろう。
生きる希望を見出してくれた……自分をあの地獄から助け出してくれたヒーローに憧れる少女は、ただその隣で生きていく為に自分が出来る最大限の努力をしたのだから。
雛鳥だって、同じだ。
メリーナは特に意図していたわけでは無かったけれど、彼女が作られた本来の目的は『最強のボスモンスターを作る』という所から来ている。
ほぼ最短でヒナに迫ろうとしていたメリーナが彼女を創る際、自分の想いすらも無意識に雛鳥に与えてしまい、その後目標であるヒナに二度と追いつけないと絶望して引退した。
これは、子供からしてみればどれだけの絶望だったか……。
自分は、彼女の期待に応えられるだけの成果を出せていないばかりか、親から夢を奪ってしまった。そう言われても文句は言えないし、当時、雛鳥を作ったせいで主戦力が引退したという声がギルド内から上がったのだって事実だ。
(私が……メリーナから夢を……未来を、奪ってしまったのか……)
彼女がそう考えてしまうのだって、もはや必然だった。
だが、当時は単なるプログラムでしかなく、そう考えたとしても特に何か行動を起こしたり、自分から自分の存在を無かった事にして全てのスキルや魔法をメリーナに返還したりする……なんて事は出来なかった。
ただ、この世界に来てからは違った。
その思いが常に頭の中にあったし、時々1人部屋で泣く事はあった。
その悲しみを無理やりダンジョンの管理という大切な仕事をする事で誤魔化し、ヒナが現れたその時からは彼女にメリーナが望んだ通りの奉仕活動をする事で贖罪とした。
メリーナがこの世界に来ていると知ったその時だって、ヒナが救援に向かったのだから再開したその時、どんな言葉を投げかけようか何度もなんども、その頭を悩ませた。
謝れば良いのか、それとも何事も無かったように自分の今までの成果を口にすれば良いのか、それとも……。それとも、あの時なぜ自分を捨てたのか。そう、まくし立てれば良いのか……。
そんな、後から考えれば幸せな考えは彼女達が“3人”で帰ってきたその瞬間に音を立てて崩れ落ちた。
雛鳥の時間は、あの時から止まっていた。生きる気力なんて、もう文字通り何もなかった。
いっそのこと自死を選ぼう。そう決意し、死ぬなら自分が最も愛している人の部屋で……。そう考え、メリーナの部屋を訪れた。
ただ、そこには自分が生まれる前から大好きな人を追いかけ、研究し、ラグナロクというゲームの中でも類を見ない程本気で『隣で生きよう』と決意を固めていた少女の、努力の結晶が積み重なっていた。
1人残されてから何度も、なんども読み返したヒナに関する全記録。それを纏めていた当時の少女は、この膨大な資料をどんな顔で作成していたのか。
きっと……
(笑って、いたんでしょうね……。たのしかったんですよね……)
メリーナとヒナの馴れ初めが赤裸々に綴られているファイルをギュッと胸に抱きしめ、一筋の涙を浮かべる。
こんな潤愛の結晶を自分の汚い血で真っ赤に穢してしまうのか。そう考えると、扇子を握る右手の力が自然と抜けてしまう。
「わたしはこれから、どうしろと言うのですか……。こんなことなら最初から……。さいしょから、きぼうなど……。あなたとはなせるというきぼうなど……もちたくなかった……」
扇子が床にはらりと零れ、両手で顔を覆った雛鳥は、真っ暗なその部屋で1人膝を抱えてうずくまった。
これまでの人生で絶望を味わった事なんて何度もあった。
だが、今回は今までのそれとは比較にならない物だ。なにせ『大好きな人』がこの世からいなくなってしまったのだ。
それは、ヒナからしてみれば妹の誰かが死んでしまったと同義であり、イシュタルが自分の傍を離れたあの時とまったく同じような――
………………
…………
……
すっかり暗闇に目が慣れてしまい、部屋に散らばるメリーナが纏めた大量の資料は半分以上が数敵の涙で汚れ、彼女の隣に積み上げられていた。
本気を出せば数日で読み終わるだろうそれを、既に2週間以上読み続けている雛鳥の瞳には、既に光が無かった。
この資料……。いや、思い出の中で生きている少女は、本当に幸せそうだった。
自分の大好きな物にまっすぐで、誰よりも本気でその隣で生きようと努力し、その夢を叶えるために必要な努力を絶え間なく続けている少女。
誰が読んだって、この少女の恋路を応援したいと思わせる不思議な魔力が、その資料にはあった。
『ボクなんかがその隣に立つなんて、おこがましいこと。そんなこと、分かってる。だからこそ、それを他ならないボク自身が、お前なら認めてやるって言えるくらい立派になる事。それが、大切なんだと思う』
雛鳥は、過去にも何度も読んだその文面を見て、グッと資料を握る手に力を込めた。
ヒナに対する雛鳥の気持ちは複雑だった。
メリーナを奪った憎さはもちろん、メリーナの愛をその身に一身に受けていながらそれを自覚していない苛立ちと嫉妬。魅力的な女性である事を十分すぎる程思い知らせてくれる可愛さに対する愛おしさ。その圧倒的な力に向けられる恐怖。
様々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、自分でもどう言葉にして良いのか、分からなかった。
「メリーナ……教えてください。私は、これからどうすれば良いのですか……。ダンジョンの管理だって、もう紅葉に投げて久しいです……。かと言って、あなたの傍で生きる事はもう叶わない……。ヒナ様の傍にお仕えするなんて……私には、無理です……」
こんな、ヒナに対して憎しみと愛の歪んだ感情を抱いている人間を傍に置く事は、他の誰でもない。メリーナその人が許さない。
比喩でもなんでもなく、もう自分には“存在理由”と“価値”が無くなってしまったのだから……。
「雛鳥さん……います、か……?」
再び深い暗闇の中に自分の思考を突き落とそうと瞳を閉じた彼女の耳に、今一番聞きたかった……いや、聞きたくなかった声が届いた。
どこか遠慮気味でオドオドした声の主なんて、間違えるはずが無い。記憶の中で何度もその胸を貫き、同じくらい泣きながらその胸に飛び込んで、小さな体を抱擁した少女だから。
いくら扉越しの声だとしても、顔が見えなかったとしても、記憶の中で何度も聞いたその声の主を間違えるはずが無かった。
「ヒナ……さま」
「うん。ごめんなさい、もう、話したくないかもしれないけど……話に来たの。とっても、大切なこと」
「良いのです……。私にはもう、構わないでください……。皆様に、あんな不敬な態度を取ってしまい、もうしわけありませんでした……」
メリーナが帰ってこなかったあの日、彼女はなぜ殺されなかったのか不思議なほどに、ヒナを傷付けた。肉体的にも精神的にも、彼女を傷付けた。
そんな自分が、彼女と話すなんて……
「あの時の事を気にしてるなら、別に大丈夫。私達は気にしてないし、あなたからしてみれば当然の行為。私達は、非難されるだけの事をした。それを、謝りに来た」
ケルヌンノスの、いつも通りサッパリしながらもどこか悲しそうな声。思わず抱きしめて頭を撫でたくなってしまう心細い声に聞こえるのが不思議でしょうがないが、誰かと話したのが久しぶりだからだ……。そう、無理やり自分の心に蓋をする。
「メリーナが、いなくなってしまったのなら……私にはもう、生きる理由はありません……」
「『……』」
しばしの沈黙がその場を支配し、それに耐えられなくなったのか、イシュタルが言葉を紡いだ。
「でも、あなたはまだ生きてる。なら、まだできる事はある」
「……」
雛鳥は答えない。そんな事、あるはずが無いと分かっている。
仮にあったとしても、それは精神論でどうにかしろと言っているような物だ。既に彼女は、精神論でどうにかなる次元には――
「私が生きてるのは、メリーナのおかげ。私がこの場に立って、大好きな人の……ヒナねぇの隣にまだ立っていられるのも、マッハねぇやけるねぇが大丈夫だよって、笑ってくれたから。でも、そもそもメリーナがいなかったら、あの場で死んでたのはメリーナじゃなくて私だった」
「…………そんなはず、ありません。皆様の命が危険にさらされるなんて……ありえません」
「ううん、本当。ヒナねぇがどんな説明をしたのかは聞いてないから分かんないし、そもそも説明してるのかすら分からない。だから、改めて説明させて」
そう言うと、イシュタルは雛鳥の返事を待つことなく、当時の状況を語り始めた。
そこに一切の躊躇は無く、自分の油断とミスで命の危機に陥ってしまった事。マッハを始めとした家族も守ろうとはしてくれたが、その誰よりも早くメリーナが身を持って助けてくれた事。
そして、自分でもどうする事も出来ない程の傷を負ってしまい、最終的に命を落としてしまった事。その全てを、包み隠す事無く伝えた。
あの時の記憶が曖昧な紅葉は、初めて聞いたような、そうでないような不思議な感覚を覚えた。
思えばあの時は、帰って来たヒナの傍にイシュタルとメリーナがいなかった事で何が起こったのか。それを悟っただけだった気もするし、その後説明されて暴言を吐いた気もする。
どちらだったか……今となっては、どちらでも良かった。
「皆様より、早く……? メリーナが……?」
「うん。私だって予想外の事だった。だから、一瞬反応が遅れて庇いきれなかった。まーちゃんもそう。気付いた時には、どれだけ早く動こうとも間に合わない距離だった。けるちゃんは私を守ろうとしてくれてたから、同じように反応が遅れたの」
「剣士としてあんな奴に負けたって認めるのは癪だけど……でも、あの瞬間だけは、完全に私達の負けだった。たるが死んでたら、私ら全員、もうこの世にはいないと思う」
「マッハねぇに同意。私達は、誰か一人が欠けたら生きられない。今回の件で、それを強く、改めて実感した。だから、メリーナはたるだけの恩人じゃない。私達家族、全員の恩人」
扉越しなのに、不思議と四人全員が頭を下げて深い感謝を伝えてきているような、そんな気がした。
「メリーナ……」
ポロっと、再び雛鳥の頬を一筋の雫が零れた。
彼女が真に隣で生きたいと願った少女に、その想いは正しく伝わっている。それだけじゃない。隣で生きるよりも深く……それでいて大切な『存在』として、メリーナという少女の魂は刻まれているでは無いか。
彼女達4人が何より大切に想っている自分以外の3人。その全員の恩人ともなれば、それはヒナの恋人や結婚相手よりも、大切に、丁重に扱われるだろう存在だ。
彼女達は4人で1つ。最強の個であるからして、誰かに助けられるなんてことは絶対に無いと思っていた。
だが、仮にその“絶対”が破られたとしたら……。その人物は、真なる意味で『その心に深く刻まれ、共に生きる事になる』と言えるのではないだろうか。
「あなたは……夢を、かなえたのですか……」
手に握られた資料はクシャっと音を立ててその面積を小さくし、清らかな水で濡れていく。
「あなたのじんせいは……むだじゃ、なかったのですね……」
全身を小刻みに震わせ、少女は暗闇で号哭をあげた。




