185話 怒りの神の激情
ケルト神話における狩猟の神、そして冥府の神の名を与えられたケルヌンノスの静かなる怒りとは対照的に、同じくケルト神話において戦や怒りの神とされるマッハの名を冠している彼女の怒りは、一言で言えば『燃え盛る炎のように威烈』だった。
漫画なんかでキャラが怒りに燃えている時、よく髪を燃やすだの周りに炎を描いてその怒りを表現する時があるだろう。
だが、それは漫画的な表現であって現実でそんなことは絶対に起こらない。どんなに怖く怒っている人間がいたとしても、突如として髪がメラメラと燃えたり、炎を体に纏う事は無い。
無論それはマッハも同じではある。
だが、彼女の場合は少々勝手が違う。
鬼族特有の角は彼女の怒りに呼応するようにその長さを数センチばかり伸ばし、体をプルプルと震わせるだけに留まらず、大地が彼女の怒りに怯えるかのようにグラグラと揺れ始める。
「マッハ様……」
「なぁ、聞かせてよグレン」
ヒナの元から離れ、グレンの隣にやってきたマッハはその静かなる怒りを心の内に隠せるだけ隠しつつ、レベリオに対する警戒心はもちろんそのままで口を開いた。
「お前が居て、なんでたるが怪我するんだ? ヒナねぇと同じくらい強いだろ、お前」
普段、ヒナがギルド本部に彼女を呼び出す時は時々彼女の膝の上に乗ってニコニコしながら2人の会話を聞いている程仲が良いマッハでも、今だけは違った。
その怒りのままに『お前』呼びが無意識に飛び出し、斬りかからないのが不思議なほど額に青筋を浮かべている。
そう。マッハが言うように、グレンはヒナと唯一対等に戦う事が出来るとされている召喚獣だ。
しかも、他のプレイヤーは彼女の本来の性能を知らないという大前提でその噂が出ているのだ。グレンの本当の性能を知れば、誰もがその性能をおかしいと言い、ヒナですら勝てないと口を揃えるはずだ。
むしろ、本来の彼女の性能を知ってそれでもなお魔王の方が上だと言えるのはメリーナと――
「はぁ? そんな奴がお姉ちゃんと同じくらい強い? ハッ! ちゃんちゃらおかしい。マッハちゃん、それは流石に過大評価なんじゃない?」
この場にいる、レベリオだけだろう。
彼女は全幅の信頼をヒナに寄せ、その力を誰よりも信仰し、信用し、理解している。
そんな彼女に言わせてしまえば、今の失敗はグレンの傲慢な性格故に引き起こされた事象であって、自分は何も悪くないとすら思っているくらいだ。
実際、先程対峙していたのがグレンではなくヒナ本人だったなら、彼女がこんな計画を戦闘中に考える暇など無いくらいに超高火力の攻撃を雨のように降らせ続けるはずだから。
それを、グレンは怠った。
彼女は自分が絶対に殺されないと早々に見切りをつけ、余裕の態度で時間稼ぎに徹した。
ヒナが来れば後はなんとかしてくれる。もしくは、自分の役目はイシュタルを守る事であって襲撃者を殺す事ではないと思っていたのだろう。
レベリオからしてしまえば、それはただの指示待ち人間でしかなく、与えられた命令以外にも自分の役割を見出し、それを実行出来る者こそがヒナの隣に相応しいと言える。
仮に自分達が行くまでの足止めを命令されていようとも、ここはゲームの世界では無いのだ。
召喚獣は召喚獣の考えで動く事が出来る世界なのだから、自分で考えて何が一番ヒナの為になるのか。それを真っ先に考えて行動しなければならない。
この場合の最適解は、ヒナがここに来たとしてもレベリオが死なないという事実だけを突き付けるのではなく、なぜそうなのか。どういう原理でそれが行われているのか。
それを解明しようとするか、完全に相手の心をへし折るなり戦闘不能の状態にしてヒナを迎えるなりしなければならない。
仕事でもそうだが、本当に有能な部下というのは1を教えられたら10を学ぶ。
これをやれと頼まれたとしても、それが本当に正しいのかどうか。教えてもらった以上に効率の良いやり方があるのではないか。あるのだとすれば、それを実行して逆に教える……くらいの意気込みで仕事を行う。
少なくとも、レベリオは社会でそうやって過ごしてきたし、そうしているうちに周りの無能さや自分の異質さに気が付いてさらに日々がつまらなくなり、やがて己が一番嫌いな惰性で過ごす日々に足を踏み入れそうになってしまった。
それが嫌で、彼女は殺人という道に進んだのだ。
「つまりさ~、今回の件の原因は全部そこのお粗末な天使が悪いのであって、私は全く悪くないのさ。そんな奴がさ? 頼まれた役目を十分に果たす事も出来ず、イシュタルちゃんに傷を付けたそいつがお姉ちゃんと同じくらい強い? ないない!」
そんなレベリオの言葉に、普段であれば激昂してキレ散らかすグレンだが、今はその通りだと跪いてマッハに許しを請う事しかできなかった。
ヒナから受けた判決は己への罰を先送りにするだけで、生殺しと言っても良い物だった。
それは彼女の残酷さとその怒りを十分すぎる程表していた訳だが、それ故にグレンは非常に不安定な状態だった。
愛している人の大切な人を傷付け、あまつさえその場面をその愛している当人に見られてしまった。怒りをぶつけられてしまった。
それだけでも大変な事なのに、ヒナの隣で生きる事を最大の目標としている彼女としては、それが絶望的になってしまった事が何よりも辛かった。
現状、ヒナの隣で生きる事を許されていない面々で最もその座に近いのが彼女であることは疑いようも無い。
だが、別段彼女だけがその座に近いという訳では無い。この際狂人であるレベリオは無視する物としても、ヒナと仲の良い召喚獣はあと1人存在しているのだ。
そいつに先を越されるようなことがあれば、グレンはきっと嫉妬と怒りで己を殺してしまうだろう。
まぁ、そんなことはどうでも良い。今大切なのは――
「ちょっと黙れよ、お前」
その一言で、マッハは一刀のもとにレベリオを粉微塵に切り刻む。
もちろんそれで彼女が絶命する事は無いのだが、口を閉ざさせることには成功し、怒れる神は愛刀を地面に突き刺して言う。
「謝罪は良い。なんでこうなったのか聞いてるんだよ。私らはたるが斬られた瞬間しか見てない。詳しく説明して」
「は、はい……」
あからさまにショボンとしつつも、出来るだけ簡潔に分かりやすく状況の説明をし始める。
途中、何度かレベリオが起き上がって先程のように茶々を入れようとする物の、その度にマッハのイライラ解消サンドバックとしてキャベツのみじん切りのように切り刻まれ、地面に臓物なんかをまき散らす。
既に彼女の足元は赤黒い血液で真っ赤に染まっていて、子供が見れば胃液を吐き出しそうな光景となっている。
「急にねー。なら聞くけど、精神操作とか支配とか、そういう類の物だったりするの?」
「そこまでは確認しておりません。ですが、わっちらが合流する前の会話から考えても、あの者が突如妹に手を出すとは考えにくく、低レベルのあの者達が奴の精神支配から逃れられたとは思えませぬ」
「なんだ、あいつ妹に手出そうとしたの? 最悪じゃん」
いくら精神を支配されているとはいっても、家族に手を出すなんて許される行為ではない。
むしろ、家族に手を出そうとした瞬間に防衛本能というか、本能的な物でその動きを止めて支配を解除するなり逃れるなり出来なければならないだろう。
家族とはそういう存在であるべきだし、それくらいお互いに想いやっていなければ嘘だ。
少なくともヒナ達4人は誰かが仮に精神支配を受けたとしても家族に危害を加える前に絶対に元に戻るし、己にかけられた精神支配を解除する事は出来ずとも、体の動きを止める事くらいは造作もない。
その後、彼女達を操った存在は他の3人によって殺してくれと頼みたくなるような苦痛を与えられた後、その人生に幕を下ろす事になるだろうが……。
「まぁ、それならグレンやジャスパーを責めるのは違うな~。むしろ責めるべきはヘラクレスとシャングリラだな」
「……お言葉ですが、わっちがしっかりと奴を抑えてさえおけばこのような事態にはなりませんでした。魔法を発動させるタイミングすら与えず、徹底的に痛めつけておくべきだったのです」
「んーん。グレンがそこまでする必要は無かったんじゃない? 私らが来るまでの間たるを守れって命令をキチンと果たそうとしてくれたからな。確かにこいつの不死性の解明はしてくれておいた方が助かったけど、まぁ大体検討はついてるからな」
そう。
実際のところ、ダンジョン内でヒナとケルヌンノスが無詠唱魔法を習得しようとしていた時、マッハだってレベリオの不死性について考えを纏めていた。
確かに考える事は苦手だし、頭の良いケルヌンノスやイシュタルが考えればまた別の、もっと自信満々に『これが正解だ』と言えるような回答が出たかもしれない。
だが、マッハとしても精いっぱい考えてある程度の検討は付けていたのだ。
それが正解なのかどうかは自信が無かったし、仮にヒナとケルヌンノスに伝えてそれが間違いだった場合は恥ずかしいのでまだ誰にも言っていないのだが――
「どうせ体内時間の停止とか巻き戻しだろ。なんだっけ、ブラフマーがそんな能力持ってたじゃん」
「申し訳ありません。その神と私は戦った経験が無いので……」
「……そうだっけ。まぁ良いや。ともかく、ブラフマーと同じなら多分物理的な手段で殺すのは無理。ヒナねぇかけるが来るまで適当にこいつを痛めつける。イライラしてたんだよ、こいつには」
マッハが言うブラフマーとは、ヒンドゥー教で最高神として君臨している神の名だ。
創造神としても語り継がれており、その姿は四つの顔を持っていると伝えられる。
ラグナロクではその名の通り神の名を冠するモンスターとして君臨し、その強さは中の上。イベントで登場した際には物理防御力が高すぎると一部の剣士プレイヤーが文句を垂れて軽く炎上したほどだ。
実際には魔法防御力の高い神も既に実装済みだったし、神の名を冠するモンスターなんて強さが理不尽で当たり前。むしろどうやって倒すか。それを考えるのがラグナロクの醍醐味だ、と上位プレイヤー複数名から声が上がったおかげですぐに鎮静化したのだが……。
話を戻すが、ブラフマーが持っていた特殊能力として時間の巻き戻しが上げられる。
そもそもブラフマーを倒すには四つある顔を全て破壊しなければならないが、その四つ全てに膨大なHPが設定されており、一つの顔が破壊されれば他3つのHPが全回復し、一定時間が経過すれば破壊された顔のHPすらも回復するという頭のおかしい能力が備わっていた。
時間の巻き戻し。そう言われるだけの所以はあるし、全ての顔を同時に破壊しなければならないと初見で見破る事が出来たのは恐らく全プレイヤーの中でヒナだけだろう。
その圧倒的な観察眼と勘の良さで相手の倒し方を瞬時に見破り、いとも簡単にそのボスを攻略してしまったのだ。
まぁヒナの話はこの際どうでも良い。
問題は、レベリオが仮にこの時間巻き戻しをしていた時にそれを突破する方法が物理的な手段では存在しない事だった。
時間の巻き戻しとはすなわち、外傷などを一瞬にして治す究極の治癒魔法と同義だ。
ならば、外傷を無数に負わせて最終的に戦闘不能に追い込む物理的な手段での攻撃は意味をなさず、圧倒的な火力で一撃のもとに倒すほかない。
剣や刀での一撃では、どう頑張っても神のHPを3割強削るのが精いっぱいだ。
それに比べ、魔法による一撃は違う。
ヒナが全力を出せばそのHPの7割を瞬時に削る事だって可能だし、無数の強化魔法による一撃であればそこまで強くない神なら一撃で葬り去る事だって可能だろう。
それは、運営がどちらかといえば魔法職を優遇していたからだし、そちらのサポートを厚くしていたからなのだが……今は良い。
ともかく、ラグナロクにおいて一撃の最高火力が高いのはどっちだと言われると魔法と答えるのが一般的で、その変わり小回りが利かず戦闘中に考える事が無数にあるのが欠点とされていた。
そのため、分かりやすい剣士なんかの役職が好まれていた……というだけだ。
そのうえでマッハが導き出した結論は、ヒナかケルヌンノスによる最高火力による魔法の一撃で消し飛ばせばなんとかなるのではないか。という、実に脳筋らしい物だった。
まぁ、事実メリーナが殺害されたあの時、ヒナが発動した魔法にディアボロスの他の面々は慌てていた所を見るに、完全な無敵という訳でも無いのだろう。
「つまり、私らじゃそもそもこいつを殺せないってこと。オッケー?」
「分かりました。では、及ばずながらもご助力いたします」
「ん。たるがいないから、壁役になってくれると助かる」
「もちろんです」
それだけ言うと、マッハはようやくレベリオに向き直ってはぁと一つ息を吐き、言う。
「待たせたな。ようやくお前を殺せるよ。覚悟しろ」
そんな怒れる神の激情を浴びてなお、女は恍惚とした表情を崩さない。
むしろ、ヒナ程では無いにしても愛しているマッハからそんな“愛”を向けられては、興奮するなという方が無理な話だった。
「あぁ……良い! 良いよ、マッハちゃん! その調子でどんどん私に怒りを、憎しみを、悲しみを向けて来てよ! その愛を全部受け止めて、お姉ちゃんからの愛も受け止めて、全部ぜんぶ綺麗にして、私はあなた達家族からの愛を一心に受けるんだから!」
その言葉が試合再開の合図となり、一方的な蹂躙が始まった。