184話 冥府神の静かなる怒り
ヒナとイシュタルが二人で話をしている時、ケルヌンノスは全く別の理由で平静を取り戻そうと必死に自分の心に言い聞かせていた。
隣には、なぜかファウストに怒りと殺意を向けている名称不明の女。
目の前にはブルブルと震えながら自分に跪いている影正の姿がある。
正直、イシュタルの保護を完璧に果たせなかったこいつを殺したい衝動にすら駆られるが、ヒナの召喚獣を勝手に殺してしまう訳にはいかない。
それに、そんな事をしてもヒナが怒らない事は分かっているが、万が一にでも怒られたら嫌なので我慢するしかないというのが実情だった。
イシュタルが泣いていたあの光景をバッチリと見てしまい、怒りと憎しみで目の前が真っ赤になった。何をすれば良いか、一瞬だけ分からなくなってしまった。
だが、それはメリーナの時もそうだった。
あの時は怒りで目の前が真っ白になって何も考えられず、どうしたら良いかもわからずに立ち尽くす事しかできなかった。
唯一出来た事と言えば、メリーナの命が失われてから蘇生が出来ない。魂がどこにもないと確証を得る事。それだけだった。
あんな思いは、もう二度としたくない。
ケルヌンノスだって学んでいるし、怒りで目の前が真っ白になって何もできなくなってしまう事なんて、もう嫌だった。
「で、こいつらはなんなの。たるとどういう関係なの」
「ハッ! 遠目から確認している限りですと、かなり親しい間柄のように思えます。正確に言えば、そこにいるソフィーなる人物とこやつらが兄妹であると思われます」
「……兄妹。そうなの?」
すっかり目元の涙を拭ったケルヌンノスが後ろを振り返り、見えない腕でソフィーの肩をトントンと叩いてこちらを向かせる。
一瞬だけ、ソフィーはイシュタルに似た風貌でありながらもどこか違う……。いや、その纏う怒りと死の雰囲気と、体から溢れ出る濃厚な力の気配で背筋を震わせた。
直感で分かる。この子はイシュタルのお姉さん、もしくは妹で、2人とも……。いや、イシュタルと話しているヒナと天使と襲撃者を迎え撃っているマッハという名前らしい少女も同様、異端者なのだろう……と。
気付かれないように相手の魔力を計測しようと無詠唱で魔法を使用した彼女は、その瞬間に目の前の幼女との戦力差を悟った。
数値では換算できず、むしろ不愉快そうにその顔を歪められ、本能的に『こちらが力量を調べている』事を悟られたのだと分かったのだ。
「ご、ごめんなさい……」
「どうせあなた程度の力じゃ、私やヒナねぇの実力なんて分からないし、そもそもレベルが伴ってないから探知魔法すら意味をなさない。その位、装備が無くても抵抗出来る」
「……」
彼女が何を言っているのか半分以上は理解できなかったが、力量を測れないのはそういう魔法を使用しているから。そう納得する事にして、ソフィーはそれ以上考える事を止めた。それが自分の為であり、この場を生き抜くうえで最も賢い選択だと思ったからだ。
イシュタルがいれば少なくとも自分の身は安全かもしれない。時間凍結を施しているおかげで、そもそも死ぬことは無いかもしれない。
だが、先程襲撃者に殺されかけた時、本来は痛みを感じないはずのこの体に痛みが走った。衝撃が走った。全身を、恐怖が駆け抜けた。
異端者であれば、この時間凍結を貫通し得るのではないか。そんな疑念が、彼女の中に生まれていた。
「どうでも良い話は今度で良い。答えて。こいつらとあなたは兄妹なの?」
「は、はい……。そこにいるのが姉のジンジャーで、そっちが兄のファウストです……」
「ふーん。レベルは……全員70に満たないくらい?」
「れ、レベル……?」
「…………なんでもない。プレイヤーじゃないんだ」
イシュタルに傷を付けた時点でファウストの死は確定事項だ。ここに慈悲があったりすることは無いし、例外なんて物も存在しない。
大切なのは、彼がプレイヤーで蘇生が効かない場合だ。
イシュタルに傷を付けたという事はレベル60以下の存在から攻撃を受けないという常時発動型スキルを抜けたという事になる。
つまるところ、ファウストがプレイヤーで無いのなら、プレイヤーの子供であるという可能性が高くなる。
レベルの概念が分からないプレイヤーなんているはずがないのでさりげなく探ってみた訳だが、それには及ばなかったようだ。
プレイヤーで無いのならば、自分が始末するのは容易い。
(でも……即死させるのはヤダ。出来るだけ苦しめて殺したい)
後で蘇生し、マッハやもしかすればグレン、ヒナも彼を殺した後本当の死を迎える事になるかもしれない。
だが、自分だって大切な妹を傷付けられて多少なりとも腹は立っている。他にやる事があるとは言われたが、長時間構うなと言われた訳でも無い。
「奴は私が殺す。お前のような子供は引っ込んでいろ」
「あ?」
どうやってファウストを殺してやろうか……。
そう考えていた時、彼女の鼓膜を揺らしたのは彼女達全員の地雷を勢いよく踏み抜く言葉だった。
マッハを始めとしたヒナの妹3人は、傍から見れば小学生、もしかすれば幼稚園児にしか見えない程見た目が幼く、身長もかなり小さい。
だが、彼女達は自分達がヒナ以外に子供扱いされることを極端に嫌っており、子供として優しく接せられる事は好ましく思っても、子供扱いされて舐められる事を何より嫌うのだ。
無論その相手がヒナで、甘やかされるとなれば話は別だ。
まだ子供だから。もう、仕方ないなぁ……。そんな感じで、子供という免罪符を盾に好き放題やっても許される故、彼女達はヒナの前では全力で『子供』を演じる時がある。
だがしかし、それは相手がヒナだから彼女達が好んでそうしているだけだ。
「私を子ども扱いして良いのはヒナねぇだけ。ただ年老いただけの若作りオバサンは黙ってて」
しかし、怒りのあまりケルヌンノスが放った一言も、的確にジンジャーの地雷を踏みぬいた。
確かに彼女も数百年生きているおばあさんである事は自分でも自覚しているし、時間凍結を施しているおかげで昔の若々しい姿でいられている事は十分承知している。
だが、他者からそれを否定されると相当にムカつく物なのだ。
どんなに年老いた人に対しても、それが女性であればオバサンという言葉は使ってはダメ。そんな、世間一般で広く知られている常識という物を、ケルヌンノスは知らない。
なにせ、彼女を生み出したヒナがそれを知らないのだ。高性能AIにだって、その手のプログラムや応答機能は付いていなかった。
「あ? 誰が若作りオバサンだと?」
「お前以外にいない。大した実力も無いのに調子に乗りすぎ。精神支配とか受けてる時点で程度が知れてる」
「せ、精神支配……?」
その言葉に反応したのは、この場で唯一状況が飲み込めずとも冷静を保っているソフィーだった。
ジンジャーはもちろん、ファウストだって精神支配に対しては理解があるし、ジンジャーに関しては精神支配を行う魔法を開発している関係上、その対抗策だって取っているはずだ。支配など、されるはずがない。
だが、異端者がそう言うのであれば……。なんていう、ある種の信頼がそこにはあった。
「精神支配は私じゃどうにもできない。そういうのは全部たるに任せてある。でも、私達はアイテムだったり装備だったりで、そもそも精神支配を無効化している。魔力による防御だけじゃ、私達からの魔法を抵抗なんて出来るはずがない。そもそも、あいつとお前達ではレベルの差がありすぎる」
そう言いながらレベリオの方を指さしたケルヌンノスは、はぁとため息を吐いて言った。
「面倒になって来た。サッサと殺して私も向こうに加勢に行く。私のイライラは向こうにぶつけた方が良い気がしてきた」
精神支配を受けていてイシュタルを傷付けたのであれば、それはファウストの責任というよりは精神支配を仕掛けた側の責任だ。
だが、事情はどうあれイシュタルを泣かせた罪はその命で償ってもらう他にない。
何より、自分が許したとしてもヒナは許さないだろう。そこにどんな事情があったかなど関係ない。
普段は冷静沈着に物事を判断し、何事にも保険を掛ける程の慎重な性格ではあるものの、家族がそこに絡んでくるとその思考は途端に狭まってしまう。
無論それは悪い方向に……という訳ではなく、自身の危機や家族に迫る新たな危機に関するアンテナは常に張り巡らせているし、いつも以上にそれらには敏感になる。
だが、家族を危険に晒した相手に報復する為であれば事情や手段なんて関係ない。そう、胸を張って言う程、彼女は激昂する。
仮にその相手を庇ったり見逃すような事をすれば、それをした相手も同罪としてカウントされる。
ケルヌンノスはヒナからそんな烙印を押されたくは無いし、何より見放されたくなかった。
「ヒナねぇは私達相手にそこまで酷い事はしないけど、ちょっと怒るくらいはする。だから、私だって本気は出す」
そう言うと、ソフィーに断りを入れる訳でも無く、こちらをジッと見つめて動き出そうとしないファウストの方へ向き直り、言う。
「わざわざ律儀に待ってたんだ。それとも、影正の蹴りが意外と効いた? 私を子供だと思って舐めてるなら、それはお門違い。さっきも言ったけど、私を子供扱いして良いのはヒナねぇと、マッハねぇだけ」
そう言うと、彼女は最近覚えたばかりの無詠唱魔法を発動させる。
即死系の魔法ではなく、ジワジワと相手を苦しめるタイプの魔法。それも、確実に相手を死に至らしめる物を。
『魂の制約』
それは、相手の魂に干渉して自身の思い通りにさせる精神操作魔法の一種だ。
ゲームの中での設定では、その魔法を使用されたモンスター及びプレイヤーは、一定時間身動きが取れなくなり、使用者の意のままに行動させることが出来る……とあった。
その効果の通り、ゲーム内で仮にプレイヤーにこの魔法を使用して支配する事が出来たのであれば、一時的に相手のキャラクターコントロール権を奪い取る事が出来るようになった。
無論様々な制約は付く。
魔法を使用出来ない。スキルを使用出来ない。アイテムを使用出来ないなどだ。
なのでこの場合、この魔法を使用する目的としては相手の動きを止めて高火力の魔法を叩き込む前段階の仕込みだ。
相手の操作権を完全に手中に収めているのだから避けようが無いし、裏技として『相手の装備を没収して自分のアイテム欄に入れる』という事も可能だった。
この裏技を知っているのは一部のプレイヤーだけだったし、それを悪用するプレイヤーがいなかった事と、安易に掲示板等に書き込んで情報を拡散しようとするプレイヤーがいなかったことはラグナロクをプレイするほぼ全てのプレイヤーにとって幸運だっただろう。
まぁ、そもそも精神支配系の魔法を喰らうプレイヤーなんて上位プレイヤーにはいないので、中位プレイヤーなんかがその被害に遭う事が多かっただろうが……。
この魔法も、例によってこの世界に来たことによって大幅な強化を受けていた。
それは、この世界では一度その魔法が発動してしまえばいかなる場合でも支配を逃れる事は出来ず、ゲームと違って好き勝手に相手を操る事が出来るという所だ。
つまるところ、この魔法を使用して仮に成功してしまえば、その瞬間にその者の生殺与奪の権は魔法を使用した人間に握られるという事だ。
「自分の四肢を斬り落とせ」
「……」
ケルヌンノスは静かに、ファウストにそう命令した。
次の瞬間、彼はなんの迷いもなく自分の両足と両腕をスパッと切り落とした。痛みは感じない。なにせ、彼も時間凍結を施しているからだ。
放っておけばにょきにょきと四肢が再生するし、仮に心臓を刺し貫けと言われてもその命が終わる事は無い。なにせ、時間凍結とはそういう魔法なのだから。
「……お前もあいつと同じなのか。自分に掛けている魔法を全て解除しろ」
物は試しだ。
それがもしも魔法によるものであれば、この命令をすることでそれは解除される。
命令に逆らう事が出来ないので、これで痛みを感じたりする様子があれば、ようやく大きな謎が一つ解ける。
「あ……あぁ……」
結果は成功。ファウストはその魔法を解除した瞬間、全身を痙攣させて斬り飛ばした手足の先から噴水かと見紛うばかりの量の血液を溢れさせる。
その顔は苦しみと痛みに喘ぎ、必死に消え去った手足をブラブラさせて助けを求めるようにジンジャーやソフィーを見つめる。
だが、静かに怒れる冥府の神はそんな事などお構いなしに次なる命令を下す。
「口を閉じろ。何も言うな」
それを命令するだけで、彼の口から漏れ出る言葉は無になった。
無意識のうちの声を出そうにも、それはケルヌンノスの命令が許さない。
痛みや苦しみに喘ぎたくとも、寸前で口が開かずその全てが飲み込まれてしまう。
胃液を吐き出そうにも口が開かないので酸っぱく痛い液体がずっと喉の奥にへばりつき、今までの人生で経験した事の無い不快感に襲われる。
「後5分はそうしてろ。死ぬのは許さない。充分苦しんでから、死ね」
それだけ言い残し、ケルヌンノスはトコトコとその場を去ってマッハの元へと急いだ。
全身から一気に血液が流れ出て体は既に終わってもなお、彼女の命令がファウストの死を許さない。感覚だけが、脳だけが生きているような状態で、体は動かないのに四肢を切り落とされた痛みと苦しみ、吐き気や体の脱力感。
この世全ての苦しみを集結させたような苦痛を与えられながら、ファウストは叫びをあげる事すら許されず、死を許されるその時を待つ事となった。
一方のジンジャーはと言えば――
「な、なんなんだ一体……」
自身に与えられた命令である『ファウストと敵対しろ』という物が無効になった今、新たな命令を与えられるまで動けない人形に成り果てていた。
ただ、一つだけ言える事がある。
ケルヌンノスにはどう逆立ちしても勝てない……という事だ。