176話 長女の責任と重圧、それから両親の呪い
思えば、私の人生は苦悩と苦難の連続だったように思う。
最初の苦悩と言えば、無論妹が生まれた事による姉の責任という物が発生した時だ。
「お姉ちゃんでしょ? それくらい我慢して?」
母から向けられるその魔法の言葉が、私はなによりも苦手だった。
それこそ、母がたまに作ってくれる丸焦げのクッキーや焼き魚なんかよりも、魔法の修行やなんの役に立つのか分からない暗号――日本語――の読み書きよりも嫌だった。
アマリリスと玩具の取り合いになって喧嘩した時も、父上が作ってくれる私達の大好物であるシフォンケーキが最後の一切れになった時も、その魔法の言葉が母から発せられた。
幸いにも我が家はお金に困窮するという事は無かったので、姉妹で服の譲り合いや少ない食料を取り合うなんて事は起こらなかった。
それと、ほぼ無尽蔵に思える魔力と魔法の才能を与えてくれたのは感謝してもしきれない。
だが、やっぱり姉だからとなにかしら我慢させられる事は多かったように思う。
そして人生最初の苦難。それは間違いなく、母の突然の死だった。
姉としてではなく、長女として家族全員を任された。そう認識し、その日から私は死に物狂いで頑張った。
今まで以上に魔法や暗号の読み書きも必死になって勉強したし、父上から受ける剣術の修行も、今までより生を出した。
ファウストと違ってそちらの才能は全くなかったので高が知れていたのだが、それでも頑張る事で多少なりとも父上を励ます事が出来るのではないかと、その時の私は思っていた。
だが、母が亡くなってから数年の月日が流れてソフィーが二足歩行出来るようになり、言葉も淀みなく話して意思疎通が出来るようになった頃、再び苦悩が訪れた。
それは、父上が日を追うごとにやつれていき、剣術の指導すらまともにしなくなったからだった。
父上の死後発見された日記からは、せめてソフィーが大きくなるまでは親としての務めを果たそうと思っていたらしい事が伺えた。
この世で最も愛していた母上を失った悲しみを、その心意気だけでなんとか平静を保っていたのだ。それに気付けなかった私は、なんと愚かだろう。
しかし、考えてみれば、それはそうだという感じだった。
私達子供よりも母上を心の底から愛し、慈しみ、尊敬していたのは父上だった。
魔法大国ステラでも母上に言い寄る男共は無数にいた。それは本人が酒に酔った勢いで意気揚々と自慢げに言っていたので間違いない。
彼女の幼い容姿と子供っぽくもどこか憎めない明るい性格は周りを笑顔にし、人を幸せにすることに特化していたからそうなるのも無理は無い。
だが、母上はその誰にも靡くことなく『私は誰とも添い遂げる気はない』と言っていたそうだ。
その理由は後から考えると『異端者だったから』という理由で説明が出来るが、今重要なのはそんな事ではない。
そんな母上の心を射止めたのは、純粋な想いを何度拒否されてもまっすぐにぶつけたからこそだ。
そんな、この世界の誰よりも愛を注いでいた人が突然死し、よく何年も気丈に振る舞って4人もの子供を育てていた物だ。尊敬にすら値する。
「父上……」
「すまないジンジャー。僕にはもう、生きる気力が無いんだ……。彼女の元に……。アリスの元に、行かせてくれ……」
私がいくつの時だったか。そんなどうでも良い記憶なんて既に消えていた。
ただ、その場面ははっきりと覚えている。
月の綺麗な夜。母上が亡くなったちょうどその日、父が屋敷のベランダから身を投げた。
私は、夕食後に父上の様子が気になって部屋を訪れ、今まさに飛び降りようとしているその姿を目撃した。その時の父の顔は今でもはっきりと覚えている。
ようやく苦痛と苦悩から解放され、愛しい人の元に行ける事の喜びを噛み締めているような、喜びの顔だった。
数年ぶりに見る父の笑顔。
母が生きていた頃は毎日のように見せていたその笑顔は、いつしか私とアマリリス。果てはファウストまでも、見せなくなった。
ソフィーは母の顔を知らないので時々無邪気に笑うけれど、それに明るい笑顔で応えられる人は、この屋敷にはいなかった。
だからだろう。ソフィーも、いつからか笑うという事を最小限にした。
「無責任だと思うかもしれないが……皆の事、頼んだよ」
「……」
飛び降りる直前の父の口元は『お姉ちゃん』と声に出さず言っているようで、私はその日から1人になった。
妹が、家族がいるじゃないか。そう思うかもしれない。
だが、本当の意味で私は頼る人間を失った。
妹に頼るなんてことはもちろん出来ないし、両親が居なくなった今、屋敷の事もこれからの事も、全て私の責任になったのだ。
私のこの、小さくて頼り無い、世間の事なんて通り一遍の事しか知らないような小娘の手に、家族の命運が託されたのだ。
その重圧や責任感は逃げ出したくなるような物だったけれど、私は耐えた。
誰に相談するでもなく、弱音を吐くでもなく、必死で耐えた。
それが崩壊しかけたのは、間違いなくアマリリスの件があった時だ。
だが、結局は私がソフィーの異常を見て見ぬふりをしていたのが原因だったので、これも私の中で密かに止めておいた。
なにせ、ただでさえ自分のせいだと責任を感じている彼女に、これ以上罪の意識を植え付けたくなかったからだ。
母上と父上。その2人から家族の事を任された身としては、ここでソフィーに試練を与える訳にはいかなかった。
いや、試練とは本来乗り越えるべき障害という意味で使われるべきだ。この場合に相応しい言葉は『負担』だ。
ソフィーに必要以上の負担をかけたくない。その一心で、あの頃よりは幾分か大きくなった私の心と背中に、背負い込むことにした。
家族は、何があっても私が守らなければならない。
既にファウストとは家族と言える関係なのか怪しくなってしまったが、ソフィーだけは何があっても私が必ず守る。
そう誓い、その負担を少しでも軽くするために私がいる。そう思ってきた。
「はぁ……はぁ……。くそ、どうなってる……」
だから、今まで相対した事の無いほどの強敵を目の前にして、私の心は荒れに荒れた。
初めて屋敷を襲撃してきた盗賊と相対した時に感じた絶望と死の恐怖。時間凍結を施してからというもの、そんな感情とは無縁になると思っていたが、それは甘かったようだ。
母と同じ……セシリアと同じ異端者とは、こんなにも理不尽で強大な存在なのか。そう、思い知らされた。
『煉獄の解放』
地獄の炎を呼び出し、指定した範囲を焼き尽くす魔法を最大魔力消費で発動し、ステラの王都程度なら数秒で灰にする威力のそれを1人の人間に向けて放つ。
攻撃魔法なんて一生使う事は無いだろう。そう思っていたのだが、ここにきて研究者としてあれこれと術式を組んでおいて正解だったと改めて認識する。
元々はソフィーが襲われた時に守れるよう防御用の魔法を開発していた時に偶然開発された物だが、その威力は絶大だ。
一部分でもこの炎に体が触れれば、その者の全身は瞬く間に青黒い炎に包まれて一瞬で灰になる。
単なる水程度では消化できないし、仮に一瞬で消化できたとしても火傷の痕は一生消す事は出来ないだろう。
そんな凶悪な魔法を向けられた張本人は嘲笑うかのような失笑を浮かべ、己の周囲に水の幕を展開させた。
本来ならば、その水の幕なんて貫通し……むしろ水すらも焼き尽くして進んでいくはずの煉獄の炎は――
「ば、バカな……」
火事が起こった時、火を消化する為に水を撒くかの如く、瞬く間に消沈していく。
『神々の祝福』
魔法使いが扱える防御魔法の中でも最上位に君臨するその魔法は、マッハなんかの剣士が愛用する『絶対障壁』などと同じような効果を持っている。
どんな攻撃だろうが一撃だけなら必ず無効にしてくれるという物で、消費魔力が少ない割に効果が絶大な魔法として愛用者が多い。
ヒナは装備で魔法に関する攻撃をほぼ受けないし、元々防御魔法の類はあまり好きでは無いので多用しないのだが……。
セシリアの魔法を改良した結果、己が術式を組んだ方が魔力効率も魔法の効果も上がる事が判明したので、異端者と言ってもそこまで極端に恐れる事は無いのかもしれない。
そう思いあがっていたのが恥ずかしくなる結果だった。
ファウストの剣もあまり振るっていないようだし、そもそも最高火力の魔法を完璧に防がれたのはこれが初めてではない。
むしろ、これは戦闘開始から数分しか経っていないにもかかわらず全力を出して防がれた数ある攻撃の一つでしかない。
許されるのであれば、今すぐこの場から撤退して本国に応援を求めるか、母上の故郷に住む人々を見捨てたい。
少なくとも、そうすれば自分を含めたソフィーやセシリアの命は絶対に守られる。
だが、ジンジャーのそんな弱気の心の声を知ったかのようなタイミングで、異端者の機嫌が最悪の物へと変化した。
次の瞬間には降り注ぐ攻撃をなんとか耐え、防ぐので精いっぱいになり始めた。
(防御魔法は得意じゃないんだっ!)
時間凍結という絶対の防御魔法を生み出した時点で、ジンジャーは防御魔法に関する新たな術式の組み立てと魔法の開発を止めていた。
なにせ、時間凍結以上に確実な防御手段、防衛手段なんて無いのだから。
ヒナという絶対的な強者――魔王に守られていながらも鍛錬を怠っていないマッハやケルヌンノスが異常なだけであり、人というのは自分が絶対に大丈夫だと信じてしまえば、その自信に驕ってそれ以上の鍛錬を怠る。
無論防御が完璧ならば後は攻撃を詰めるだけ。そう考えるのは分かるし無理もない。
だが、ヒナやマッハなんかの本物の強者は『もしもそれが破られれば……』その前提で常に鍛錬や魔法の獲得なんかを続けて来た。
だからこそ、環境の変化が激しいMMORPGという箱庭の中で頂点の座を決して譲らなかったのだ。
いくら金をほぼ無尽蔵に費やせると言っても、プレイをほぼ1日中出来ると言っても、それらを怠ればいずれ足元を掬われていただろう。
それが一度たりとも無かったからこそ、ヒナはラグナロク内で伝説になり、恐れられ、最終的には誰もが勝てないと諦めてその攻略を捨てて去っていったのだ。
最強は最強なりに努力しているし、最強であるが故の苦悩というのも無論存在する。
学年テストで常に1位を取る人物を『天才だから』の一言で済ませるのは簡単だ。だが、その裏では普通の生徒以上のプレッシャーに追われ、人一倍勉強に励んでいるかもしれない。いや、実際そういう人の方が多いだろう。
人というのは、表に現れる結果だけを重視する傾向にあるが、真に大事なのは人の目に触れないところでどれだけ努力し、頑張れるかだ。
それを、ジンジャーは怠った。だから――
(あぁ……死んだね、これは……)
攻撃を捌く事が出来ず、天空から降り注いでくる隕石をその瞳に映した時、ジンジャーは己の死を覚悟した。
ギュッと目を瞑り、自分もようやくアマリリスや両親の元に行ける。そう思った。だが、同時に思った。魔導書で視たあの未来は、結局訪れなかったな……と。
(魔導書は絶対だ。その予測した未来が外れる事なんて、絶対にない)
そんな、誰の声とも分からない鈴の音のような甲高い声は、不思議と死を覚悟したジンジャーの胸にすっと降りて来た。
だが、その声の主が誰なのか。それを確かめる間もなく、ジンジャーとファウストは無数に降りそそぐ隕石の下敷きとなった。
体を丸焼きにされるような灼熱と圧倒的な重さは、まるで水の中に無理やり沈められているような感覚だった。
息が出来ない。する必要は無いはずなのに、呼吸が出来ないという原始的な恐怖で脳が支配され、必死に呼吸しようと体が酸素を求め始める。
魔力を練ろうとしても、そもそもこの周辺には魔力が無い事を悟る。もう、周辺一帯の魔力を使い果たしてしまったようだ。
右足と左腕の感覚は消え失せ、左目は潰れ、右目の視界は己の血で真っ赤に染まっていた。
「うぁ……」
ジンジャーが意識を手放す前に発した言葉は、その苦し気なうめき声だった。
次に彼女が意識を取り戻すのは、セシリアの鼓膜をつんざくような絶叫とソフィーの泣き声がその耳に届く時だ。