170話 謝罪
ヒナが目を覚ましたのは、彼女がケルヌンノスの魔法で眠りについてから約20時間と少し経ってからだった。
それはちょうど、マッハ達が数時間にも及ぶ格闘と試行錯誤の末に彼女の口に食事を流し込んだ数十分後だった。
パチパチと瞼を擦りつつ、のんきにふわぁと大あくびをするその姿は緊張感で張りつめていたその場に静かに広がっていく。
まるで水面に雫が滴った時のように静かに、ゆっくりと広がるその声に、一番に反応したのは、彼女を眠らせた張本人だった。
「マッハねぇ、起きた! ヒナねぇ起きた!」
ぴょんぴょんとはしゃぎながら少し離れてだるまや召喚獣のルーと共に心配そうな視線を送っていたマッハも、バッと飛びあがる。
ケルヌンノスに対してコクリと大きく頷き、2人を置き去りにしてヒナが寝ているそこへと歩み寄ると、まだ眠そうに瞼を擦るその愛らしい姿にホッと胸を撫でおろす。
その場所は雛鳥……には事態を話していないので、だるまが普段使用している自室だ。
その名前から彼女を制作したプレイヤーがふざけているのか、それともそういう宗教にハマっていたとかの闇深い裏話があるのか。
ともかく、赤や黄色、青など様々な色、大小を問わないほど……オマケに、数えるのも嫌になるほどのだるまが置かれ、飾られ、祀られている部屋だった。
ベッドだけは普通のベッドではあったものの、シーツには当然だるまが印刷されているし、まくらもだるまだったのでケルヌンノスがわざわざ魔法でそれっぽい物を制作する羽目になったほどだ。
眩暈を起しそうな部屋なのでさっさと退散したいと言うのが本音でもあるのだが、雛鳥に許可を取らずとも使えそうな部屋がここしかなかったのだ。
「けるちゃん……? ごめん、今何時……?」
相変わらず寝ぼけている様子のヒナは、ギルド本部で寝すぎてしまい、心配になったケルヌンノスが部屋に起こしに来た時に決まって言う言葉を口にした。
そんな彼女に若干呆れつつも、ケルヌンノスは可愛らしく首を傾げながら口を開いた。
「ヒナねぇ、大丈夫……? 体の具合、どう?」
寝不足や食事を摂っていない事による脱水、栄養失調などは魔法では治らない。
仮にそれで治るのであればルーが呼び出された時点でどうにでもしている。
それに、それらを直すにしても一時的な睡眠で1週間比喩でもなんでもなく寝ていないヒナの体調が戻ったはずも無いし、食事といってもお茶碗一杯分のお粥を喉に流し込んだだけだ。
それで栄養失調が治るなら、この世界から餓死者や衰弱で死亡する人間はいなくなるだろう。
そして、ヒナもその一言でここがギルド本部では無い事に気が付き、自分が置かれていた状況や自らが犯した許されざる大罪を思い出してしまった。
だが――
「ごめんね。心配してくれて、ありがと」
彼女はニコッと、作っているかどうかは分からない程度の笑みを浮かべてケルヌンノスの頭に手を置き、優しく撫でた。
その顔には確かな決意と生気が宿り、眠る前の“生きながら死んでいる”ような状態の彼女とは別人のようだった。
恐らく、ケルヌンノスがずっと目を離さず彼女に付き添っていなければ、何者かの成りすましだと本気で疑っていただろう。
それくらいの、目に見える変化だった。
「……? ひ、ヒナねぇ……?」
「ごめん、そんなに追い詰めちゃって。私がしっかりしなきゃいけなかったよね」
申し訳なさそうに微笑むと、彼女は2人にペコリと頭を下げて謝罪を口にした。
彼女は意識を失う直前に見たケルヌンノスの顔が思いの他心に来ていたらしく、ケルヌンノスやマッハが止めてもなお5分ほど頭を下げ続け、謝罪を口にし続けた。
「も、もうやめてよヒナねぇ……。私やマッハねぇだって悪かったって思ってるよ……? ヒナねぇだけの責任じゃないし、そう言うつもりもないよ。言うなら、私達みんなの責任だよ」
涙目になりながら必死でヒナの顔を上げたケルヌンノスは、その胸に飛び込んで赤ん坊のように大声で泣いた。
今までヒナの不調を知っておきながら“家族だから”という言葉を盾にして何もしようとしなかった自分自身を戒めるように謝罪の言葉を口にしながらも、泣き続けた。
ヒナは自分がラグナロクで魔王などと言われて恐れられている事や、自分がしっかりしていればメリーナの命を助けられたのではないか。そう思って常に自分を責めていた。
イシュタルを操ってまで治療をさせようとしたことだって、到底家族間でやっていい事のラインを超えているし、それは虐待と同じような最低の行為だ。
それも含め、彼女は責任を感じていた。
イシュタルが自分の元を離れたのだって仕方が無いし、見放されても文句は言えない。
だがしかし、彼女はそう思っていながらもイシュタルの事を諦めきれず、家族という関係に人一倍固執し、依存しているが故に諦められなかった。
そんな矛盾した感情を心の内に抱え、さらにメリーナの件も重なっていた事で、少女の胸の内は壊れてしまったのだ。
簡単に言うならば、キャパオーバーという奴だ。
だがしかし、ケルヌンノスに意識を刈り取られる瞬間に気付いた事がある。
それは、自分に残された家族がイシュタルだけでは無かったという事。
そして、その残された2人の家族が自分のことを心配し、自分達の感情をそっちのけにしてまで自分の事を助けようと動いてくれたこと。
それが、たまらなく嬉しかった。
常に孤独で誰かから心配されることも、必要とされることも無かったヒナにとって、2人の行動は言葉以上に心に刺さる物だった。
そして、あの一瞬で考えたのだ。これ以上2人に心配や迷惑をかける事は果たして正しいのか。やっていい事なのか……と。
彼女達の製作者や親としてではなく、単純に“家族”として、これ以上幼い彼女達に、大切な彼女達に負担を強いても良いのだろうかと。
考えてみれば当たり前のそんな事も判断できないほどヒナは弱っていたし、打ちのめされていた。
だが、ヒナはもうあの頃の孤独な獅子神雛乃では無い。
幼い頃に両親を亡くして頼るあてもないままたった1人で生きてきて、誰からも必要とされなかった少女では無い。
ゲームの事だけを考えて四六時中自室に引きこもり、シャワーやご飯も睡眠も、何もかもを必要最低限しか必要としていなかったあの頃とは違う。
ラグナロクで魔王と恐れられ、数々のプレイヤーから尊敬や畏怖などの感情を向けられつつ、1人でなんでも出来ていた頃とは、違う。
今は孤独ではない。マッハもケルヌンノスも、イシュタルも傍にいてくれている。
孤独なんて感じる暇は無いし、そんな事を感じて居ようものなら瞬く間にそれを解消してくれるような存在が常に傍に居てくれる。
彼女達は以前の自分が願った通りの姿で隣に立ち、寄り添ってくれる。自分を、必要としてくれている。
今は自分の事だけではない。家族の事もしっかりと考え、彼女達が幸せに生きられるように行動しなければならない。
その為には何より、彼女達が愛してくれている自分自身の健康を考えなくてはならない。
さらに言えば……ここはゲームの世界では無い。まして夢の世界でもなければ妄想とかそういう安っぽい類の世界でもなんでもない。正真正銘、現実の世界だ。
ここではヒナはラグナロクで言う所の『魔王』では無いし、1人では救えない命もある。
マウスとキーボードを弄っていれば良かったあの時とは何もかもが違うのだ。そんな驕りは早々に捨てるべきだろう。
まだうっすらとヒナの中にあった『魔王だからなんでもできる。しなければならない』という意識は、もう彼女の中から完全に消滅していた。
自分1人で出来ない事はマッハやケルヌンノス、イシュタルに任せれば良い。
彼女達は今や、自分の自由意思で行動する事が出来る1人の“人間”だ。ならば、たまに頼る事くらいはしても良いはずだ。
なにより家族とは、誰か1人が支えている物ではなく、全員がお互いを支え合う物だ。少なくともヒナはそう思っているし、それが理想の家族像だと思っている。
ここ最近の彼女は、自分の力に無意識のうちに心酔し、どこか驕っていた。
慢心していたのはイシュタルだけではなく、ヒナも……言ってしまえばケルヌンノスやマッハもだ。
「私ら全員の……私達“家族”全員の過ちだ、ヒナねぇ。だから、1人で抱え込まないでくれ。私達にも、背負わせてくれ」
マッハが真剣な表情でそう言うと、ケルヌンノスもゴシゴシと目元を拭いつつ、鼻水を垂らしながらではあったもののコクリと小さく頷いた。
「そうだよ。家族だよ、私達。たるも含めて、私達4人は家族なんだよ……? ヒナねぇが1人で抱えきれないものは皆で背負うよ。多分、たるが出て行ったのも、メリーナの事で全部抱え込んじゃってるんだと思う。だから、ヒナねぇが嫌になったとかじゃないよ。私達がヒナねぇのこと、嫌いになる訳ないもん。ずっと、どんな時でも一緒に居るよ」
「まーちゃん……。けるちゃん……」
震える声でそう言ったヒナの胸元に、2人の少女は勢いよく飛びついた。
これから何があっても一緒に居る事を伝えるために。自分達がどれだけヒナを大切に思い、大好きだと感じているのかを伝えるために。
気付けば、ヒナの瞳からはポロポロと雫が落ちていた。この世界に来てから初めて流した、嬉し涙だった。
だるまやルーがその光景を何も言わずただ黙って見ていてから、一体何分……何時間の時が経過しただろうか。
疲れ果ててヒナの膝に頭を乗せて気持ちよさそうに寝息を立て始めたマッハを忌々しそうに見つめつつ、ケルヌンノスが口を開いた。
「たるのこと、迎えに行かない? やっぱり、4人揃ってないと落ち着かない」
それに対するヒナの答えは、もはや聞くまでもない。
マッハが起きるのを待って、イシュタルの大捜索が始まった。