168話 姉妹の愛
時間を少しばかり遡り、イシュタルがジンジャー達と共に過ごし始めて1週間が経過した頃。
ヒナの肉体と精神がともに限界を迎える直前、ケルヌンノスがようやくまともに使った事の無かった魔法での無詠唱使用を成功させた。
「出来た! ヒナねぇ、できた!」
「……うん。凄いねぇ……」
彼女はメリーナを失ったその日からろくに食事を摂らず、睡眠もとらず過ごしていた。
あの日から約1週間とちょっと。人が生きられる限界点など当に超えているような気もするが、彼女はその装備のHP自動回復と状態異常無効という耐性に支えられてここまで命を繋いでいた。
しかしその代償として、体はすっかりやせ細り、顔は見るからに生気を無くして目の下のくまは前の世界でイベントのために数日徹夜をした時よりも酷い物になっていた。
その美しかった髪は今や見る影もなくボサボサになり、今や言葉を発するのもやっとで召喚獣に肩を貸してもらわないとまともに立っていられないまでになっていた。
「ヒナねぇ、ちょっとはご飯食べてくれよ。ほんとに死んじゃうぞ……?」
「そ、そうですよぉ……。ごはん、ちゃんと食べないと元気でないですぅ。胃に優しい物作ったので、食べてくださいぃ」
心配そうにそう呟くマッハと、おかゆのような物が入ったお茶碗をお盆に乗せて涙目になりながらそう言う料理長のだるま。
それでも、ヒナがコクリと頷く事は無かった。
彼女はメリーナという罪のない少女を殺してしまった事に罪悪感を覚え、救えなかったことに責任を感じ、イシュタルが離れてしまった事で言葉に出来ないほど打ちのめされていた。
そんな状態で食事はおろか、睡眠をとるなんて出来るはずがない。
目を瞑れば未だにメリーナの顔とイシュタルの笑顔が瞼の裏に浮かぶからだ。
(もう、あんなのは嫌だ……)
ここ数日、彼女はケルヌンノスの訓練に付き合いつつも自分の鍛錬に励んでいた。
この世界における魔法とは何か。それを事前知識無しでなんとか理解しようと努力しつつ、ソロモンの魔導書込みだろうが無しだろうが、魔法それ自体の出力を上げられないか。
本当なら魔法の事に関して詳しいだろうエリンか、この世界における先輩でもあるマーリン辺りにでも聞きに行くべきだろうが、自分のせいでさらに不幸をまき散らすかもしれない。
そう考えると、彼女達の力を借りに行くのは少々躊躇われた。
普段からポジティブ思考の人間ならばこんな後ろ向きな事は考えなかったかもしれない。
今まで失敗など経験したことが無く、絶望なんて感情から縁遠い生活を送って来た人間ならば、なぜそこまで悲観的になっているのか理解できないかもしれない。
過去に大切な人を失った事の無い人にとっては、ヒナの喪失感と無力感を想像する事も難しいだろう。
今の彼女はそんな状態であり、元々低かった自己肯定感と重度のうつ病の再発によって、いろんな意味でその命が危ない状態になっていた。
人は身体的な傷や怪我もそうだが、それ以外の、例えば精神的な要因からでも容易に死に至る。
ラグナロク内でもほぼ無敵と言って良かったヒナがこの世界で死ぬとすれば、それは外部的な要因と言うよりかは自ら命を絶つ。その可能性が最も高いと言えるだろう。
「なぁける……お前からもなんとか言えって。ヒナねぇ、今のままじゃほんとにヤバいぞ?」
「……」
マッハがきゃぴきゃぴと能天気に喜んでいるケルヌンノスの腕を引っ張り、ヒナに聞こえないように少し距離を離してから耳元で囁くようにそう言う。
しかし、ケルヌンノスは反応しようとせず、ただその喜びの色を顔から失せさせてピタッと動きを止める。
「ける……? なぁ、おい。聞いてるか?」
マッハのその言葉に、ケルヌンノスは小さくコクリと頷き、小さく「でも……」と続けた。
「マッハねぇは知らない。私はここ数日、ずっと言ってる。ご飯食べて、ちょっとは寝てって。でも、ヒナねぇから返ってくる答えはいつも同じ。マッハねぇは私と違って寝ないといけないから知らないだけ。昨日も一晩中……。ひとばん、じゅう……」
そう言うと、ケルヌンノスはしくしくと泣き出してしまった。
その姿を見て、マッハは長女として己を恥じた。
単なる鬼族でしかないマッハが連続して起きていられるのは、その年齢とこの世界に来てからの生活を考えれば2日が限界だ。そして、2日起きていれば無理をした反動からか12時間以上は何をされても起きる事は無くなってしまう。
それを十分分かっている彼女は、短めではありつつもダンジョンに帰ってきたその日からしっかり睡眠をとるようにしていた。
だがしかし、ケルヌンノスは違う。
彼女は元々アンデッドという事もあって睡眠も食事も必要ない。
イシュタルも含めて家族の中でそんな特異……と言ってしまっても良い体質なのは彼女だけで、それが仲間外れにされているようで嫌だから。そんな理由から、ケルヌンノスはこの世界に来てからも皆と変わらない生活を送っていた。
それでも、ヒナがその生活をしないとなれば話は別だ。
仲間外れでは無いのだから無理する必要は無くなるし、なにより一晩中ヒナと共に語り明かせるし、その隣を独占出来るから最高……と、思っていた。
だが、その暢気すぎる考えも最初の数日間だけで、ヒナが自力で立てなくなってしまったあたりから練習もそこそこに、夜中は説得に費やしていた。
だるまに日持ちの良い食事を作るよう頼んで邪魔にならないところに置いてもらい、一緒に食べようと言った事は数知れず。
時には魔法やモンスターを使って、半ば強制的に眠らせてしまおうかとも思ったほどだ。
「でも……。でも、ヒナねぇにそんなこと……。そんな……そんな酷い事、出来ないもん……」
「っ! そう、だよな……。そんなこと、できないよな……」
それは、言い方を変えれば反逆とも言える。
ヒナに創られた彼女達にとって、それは制作者に歯向かう行為であり“通常のNPC”では設定に書き込まれでもしていない限り、考えすらしない行為だ。
いや、彼女達を普通のNPCと一緒にするのは彼女やヒナに対する侮辱だ。
家族に対してモンスターを差し向け、気絶させるように眠りにつかせる事を是とする人間は、一体どれだけいるだろうか。
魔法を用いて半強制的に眠りの世界に誘う事に賛成する人間が、一体どれだけいるだろうか。
いくら心配だからといって、して良い事と悪い事はある。
ケルヌンノスは、その線引きがキチンと出来る“いい子”だった。
その事を十分よく分かっているマッハは、自身も瞳に大粒の涙を浮かべながらその小さな背中を擦り、小刻みに揺れるその体をギュッと力強く抱きしめる。
(私が……。長女の私が、なんとかしないと……)
人が睡眠をとらずにいられる時間はせいぜい11日とちょっと……という記録があるが、飲まず食わずで生きられるのは3日~7日が限界だ。それを考えるなら、ヒナは既にその期間を超えているが、それでも危険な状態であることに変わりは無い。
つまるところ、早いところこの状況をどうにかしなければ、復讐云々以前に、ヒナの命に終わりが来る。
この事態に、ケルヌンノスだってただ傍観していて良いとは思っていない。
しかし、彼女はその設定に書き込まれているとかいないとかそんな事とは別で、ヒナの身に危害を加える事は出来ないし、したくなかった。
それが仮にヒナの命を助けるためだとは言え、ヒナに手を挙げる事になってしまうのであればしたくない。涙ながらではあっても、彼女はそう答える。
ケルヌンノスはそれほどまでにヒナの事を大切に思っているし、同時に死なせたくないとも思っている。
そしてそれは、マッハも同じだ。
マッハだって、出来る事ならたとえ命を救う為とはいえ、大好きな人に手を挙げるような行為はしたくない。
だが、このままでは本当にヒナが衰弱死、または餓死して死んでしまう。
ならば、ケルヌンノスにそんな重荷を背負わせる訳にはいかない。こういう事は姉であり、長女でもある自分がするべき事だ。
そう自分の心に何度となく刻み込み、呪文のように唱え続け……そして、決心したように口を開く。
「……なぁだるま。ちょっと聞きたいんだけどさ」
「……? なんですかぁ?」
「寝てる人でも食べれるような物ってあるのか?」
「……」
マッハの隣でヒナの事を心配そうに見つめていただるまだったが、飛んで来た予想外の質問に一瞬どういう意味だろうと頭を悩ませる。
そして、彼女がしようとしてる事を察し、小さくコクリと頷く。
「喉に流し込むとか、そういう類の物なら作れると思いますぅ。カテーテルとかで体の中に栄養を取り込むとか、もはやそういう段階では無い気がしますし……しっかりした食事も難しいでしょうけど……無い事はないですぅ」
「例えば?」
「例えばですかぁ? おかゆとかリゾットとか……スープとかですかねぇ? 軽い物とかなら、すりおろしたリンゴなんかも、多分大丈夫ですぅ。でも――」
「寝てる人にご飯なんて食べさせるのは危険って、前にたるが言ってた。いたずらでやったら怒られたもん」
「ですぅ」
そう。
本来、睡眠をとっている人間の口の中になにかを入れる行為、果ては食べさせる行為は大変な危険を伴う。過って気管支にでも入ってしまえば最悪死に至る事もある危険な行為であり、無理やり眠らせる事と同様、家族に対して行うべき行為ではない。
しかし――
「良い。このままヒナねぇが死んじゃうよりずっと良い」
「で、でもマッハねぇ――」
「後で謝るのは私だけで良い。だからける、少しの間で良いからちょっと向こうに行っててくれ」
寂しそうにクスっと笑ったマッハは、そのままだるまとケルヌンノスを置いて召喚獣に心配されながらも虚ろな目をどこかに向けているヒナの元へとことこ歩みを進める。
その足取りはいつものそれより幾分か重く、まるで今から命を賭けた決戦に挑むのかとケルヌンノスが思う程だった。
それほど、マッハの後姿は決意と覚悟、そして罪悪感でいっぱいになっていたのだ。
「っ! マッハねぇ!」
姉のその背中が凄く頼りなく、そして小さく見えて……ケルヌンノスは、気付いたらその小さな背中めがけて走り出していた。
間もなくして追いつくと、力いっぱいギュッと抱きしめて言う。
「私も、一緒に行く。一緒に、謝る」
「……でも――」
驚いたように目を見開いたマッハだったが、ケルヌンノスの決意に満ちた瞳を見てその先の言葉を引っ込めた。
自分が頼りないから……自分の力不足だから……。
今までの彼女であれば、そう後ろ向きに考えて妹にまでその責任を負わせてしまう事を酷く後悔しただろう。
しかし、今回は違う。一緒に罪を背負ってくれる人がいる事が……一緒に謝ってくれる人がいるという事がこんなに心強いのだと、初めて理解した。
周りに頼る事で自分の精神がこんなにも楽になるなんて……。そんな、衝撃といっても良い事実に、本心から驚愕していた。
無論可愛い妹に……自分と同じか、悔しいがそれ以上にヒナの事を想っている少女にこんなことをさせるのが心苦しいのは変わっていない。
もう二度とこんなことが無ければいいなという願いにも似た思いと、ここまで彼女を追い込んだ女に対する殺意と怒りがふつふつと湧いてくる。
だが、今はそんな感情は全て自分の心の隅に追いやる。
「一緒に、行くか」
「うん。ありがと」
そう言って手を繋いで再び歩き始めた2人は、ヒナの後ろで歩みを止めると、その背中を優しくトントンと叩く。
「ヒナねぇ、ちょっと良いか?」
「私も、話がある」
その言葉が耳に届くと、彼女は召喚獣に支えられながらゆっくりと振り返り、弱々しくなってしまったその顔でなんとか笑顔を作って膝を折り、2人と視線を合わせる。
「どうか……した?」
その掠れた声に泣きたくなるのを必死で堪え、ケルヌンノスはここ最近毎晩言っている事を小さく呟いた。
「ヒナねぇ、ご飯、一緒に食べよ……? その後は、マッハねぇと私と、一緒に寝よ? もう、限界だよ……」
消え入りそうなその声に申し訳なさそうに笑ったヒナは、やはりいつもと同じ答えを口にする。
「ごめんね……お腹、空いてないんだ。それに、私は大丈夫……だよ? ありがとう、心配……してくれて」
お腹が空いていないわけでは無い。
ただ罪悪感と申し訳なさ、そして絶望に浸っているせいで食欲が湧かず、腹が減ったとしてもそれに気付けない状態にあるだけだ。
もちろん眠くもあるだろう。だがしかし、尊い命を奪い、救えなかった自分に休息をとるなんて許されるのか。
そんな考えが彼女の頭の中を支配し、眠らないという選択肢を取らせ続けているだけだ。
「……どうしても、ダメか?」
「だめ……とかじゃないよ。ただ、大丈夫……って、だけだから。ね?」
2人の頭に手を当てて力なく撫でる彼女の姿に、傍に付き従って肩を貸していたレベル90後半の魔術師の女も心配そうに瞳を細める。
だが、傍の“邪魔者”が一瞬気を緩めたその瞬間を、一流の剣士であるマッハは見逃さなかった。
「るーちゃんごめん! 『神龍の息吹』」
まだギルド本部で過ごしていた頃、何度かヒナに呼び出してもらって共に遊んだ仲でもあるその魔法使い相手に、神相手に使うような強力無比な一撃を叩き込み、数メートル先まで吹っ飛ばす。
その威力は高レベルの彼女であっても一撃でHPの半分を削るほど理不尽で強力な一撃だ。
だが、今重要なのはそこではない。
ヒナに呼び出された邪魔者を、守るべき対象から遠ざける。彼女に手を挙げたのは、それが理由だ。
「……ごめんね」
涙を浮かべながら剣を振るうマッハと、目の前で数歩後ろに下がり魔力を練り上げるケルヌンノスを見て、ヒナは全てを悟った。
その末に出て来た言葉は、たったそれだけだった。笑顔で放った、そんな言葉だった。
「後で……。あとで、ちゃんと謝るから……」
その言葉を最後に、無詠唱で放たれたケルヌンノスの魔法によってヒナの意識は優しく、一瞬で刈り取られた。
それは通常の彼女であれば避ける事も容易く、それどころか仮に喰らったとしても微々たるダメージに抑えて意識を刈り取られるなんて事は無いだろう魔法だった。
しかし、衰弱していた事が幸いしたのか、それとも装備までもが着用者であるヒナの身を案じたのか。
その真相は分からないまでも、ヒナは実に1週間ぶりとなる睡眠に入った。
だが、彼女達がするべき事はこれだけではない。
この後、ヒナの護衛である魔法使いに弁明して協力を要請し、寝ているヒナに食事を摂らせるという最終ミッションが待っているのだから……。