164話 女王の決意と少女の覚悟
「やれやれ、流石に鬱陶しくなってきたね。ボク、弱い者いじめってそんなに好きじゃないんだよね」
ガシガシと頭を掻きながらそう言った女王は、今しがたその行為によって頭部にまるで獣に引っ掻かれたような傷をつけたミセリアを見てはぁとため息を吐いた。
女王の威厳。その効果は物理的な攻撃が致命傷になり得るこの世界においてまさに脅威となり得る物であり、回避不可能という理不尽さも相まって魔王でさえ手を焼くような物となっていた。
ラグナロクにおいて真のラスボス、エンドコンテンツとも呼ばれた少女でさえ手を焼くような……場合によっては彼女でさえ対処不能と言えるような存在を前にして、対人に特化したプレイヤーでしかないミセリアに対処する術はなかった。
特攻隊長としてラグナロクでは恐れられていた彼女であったが、今この瞬間においては、いつまでも女王にひれ伏す事の無い痴れ者というだけだ。彼女が弱い者いじめと言うのも頷けてしまう。
ミセリアが立っている地面は既に彼女の血液でベットリと真っ赤に染まり、そこら辺に散らばる臓物の一部は目を背けたくなるほどグロテスクだ。
きっと、その手の物に耐性が無い人が見れば瞬く間に胃液を吐き出してしまうだろう。
彼女の体の中で起きている事象に関しては未だによくわからないまでも、女王の威厳の効果が続いている限り、ミセリアがスカーレットに攻撃を与える事は無い。
なにせ、瞬きでさえ攻撃と認識されてダメージが入るのだ。
ジンジャー達のような、完璧な状態での時間停止を行っていて痛覚すら遮断しているならまだしも、彼女は怪我を負うたびにそれ相応の痛みを伴っている。もう、膝が笑ってまともに立つことさえ難しい。
「う、うぇぇぇぇ」
「おいおい、勘弁してくれ。これじゃ、ボクが悪質ないじめに加担しているみたいじゃないか。これでも良い勝負が出来ると期待していたんだがなぁ……」
完全に興ざめと言わんばかりにはぁとため息を吐いた女王は、ふと空を見上げてこの先の展開を考える。
ミセリアを引き連れて戦場から遠く離れたのは、イラとミセリアを一緒の場所で戦わせるわけにはいかなかったからだ。
無論一緒の場所で戦わせていようともバイオレットが居れば自分と背中を合わせて対処は可能だろう。
しかし、相手が『疑似的な無敵状態』という奥の手を持っている前提ならば、その均衡はいずれ崩れてしまう。
なにせ、レガシー本人が狙われることになってしまってはバイオレットが機能し無くなり、その瞬間に敗北が決まってしまうからだ。
女王の威厳とバイオレットの圧倒的な強さと奥の手があるので数の差は問題にはならない。
あの場にはシャドウも居たので、最悪の場合は彼が龍をもう何体か呼び出せば事足りるだろう。それで勝てる戦いなのかはともかくとして、時間を稼ぐくらいは出来るはずだ。
(カフカが魔王を連れて戻ってくるか否か……か。でも、そんな不確定な……いや、ほぼ希望の無い援軍に、ボクの友の命を賭けても良い物か……)
実を言うと、彼女は戦いが始まって……。いや、それは嘘だ。
ミセリアを倒す術が……襲撃者を倒し、自分達が勝利するという未来が見えなくなったその瞬間から考えていた事がある。
ラグナロク時代からずっと死線を共にし、唯一背中を安心して任せられる戦友。
自分の欠点も認めてくれ、受け入れてくれて、なおかつ若干世間知らずなところがありながらもずっと傍にいてくれたたった1人の友。
彼女の命を危険に晒す事は、果たして正しい事なのか。
ゲームの中の勝敗が現実の死に繋がる。
そんな、どこかで聞いた事のあるような世界線で生きていた訳じゃない彼女にとって、ラグナロクとは唯一の心を許せる友がいるからこそ続けられたゲームだった。
実際のところ、彼女もゲームに飽きを感じていた時にアリスからギルドへと誘われ、そこで馴染めず苦労していた所へ友と呼べるその人物が入って来たのだ。
(あの子を失う……)
この世界に来てから初めて抱いた感情は、意外にもそんな恐怖だった。
いつも笑い、空気の読めない発言を連発していたような彼女だったが、この世界に来て初めて思ったのは『異世界だ~!』とか『これから楽しみ!』だとか、あまつさえ『友と一緒に暮らせる』なんて浮ついた物では無かった。
彼女は本能から、この世界での死は本当の意味での死であると気付いていたのだ。
だから、怖かった。
だから、腕を磨いた。戦闘狂なんて、似合わないキャラを演じてまでも、自分の実力の底上げをした。
いつか来るかもしれないその日に、彼女を、唯一の友を……自分よりも圧倒的に強く、この場にいる誰よりもひ弱なその人を守れるように。
誰にでも特技という物があるように、彼女――スカーレットの特技は、何かを演じる事だった。
時には空気の読めない、だけどどこか憎めないムードメーカー。
時には上司の顔色を窺いつつ、事あるごとに持ち上げるイエスマン。
時には能天気ながらも鋭い事をズバッと口にする天然系参謀。
まるでハリウッドの大女優かのような役作りと圧倒的な演技力。それと持ち前の明るさと頭脳で、これまで誰にも見破られなかったその嘘。
この世界で最初に吐いた嘘は『戦闘はこんなに楽しい物なのか!』と、戦闘に目覚めたという類の物だった。
本音から言わせてしまえば、戦う事は怖い。
当然ながら死にたくもないし、怪我するのは痛い。オマケに言うなら、シャドウが呼び出す龍は普通に怖い。
女王の威厳なんていう滅茶苦茶なスキルは持っているし、ゲーム時代の超強力な装備に身を包んで守ってもらっている。でも、そんなのは関係ない。
スカーレットも1人の女だ。
勇敢な男でもなければ、森で自給自足の生活をしているような部族出身でもない。
平和な世界で生まれ、争いなんて物とは無縁の生活を送っていた、ただの女なのだ。
それでも、自分が怪我を負うより、戦うより……死ぬことより、怖い事がある。
唯一にして永遠の友が、その身を脅かされること。その平穏な生活と現実世界で大変な目に遭い続けて荒んでしまった心が、さらに乱されてしまう事。それが、何よりも怖かった。
だから彼女は戦い続けた。
自分は戦闘狂であると自己暗示し、未だに震えそうになる声を押し殺しながらシャドウに頼み込んで龍と殺し合いをして剣を極めた。
(よく考えろスカーレット。お前の一番大切な物は、人は、誰だ……? お前はなんの為にここまで強くなった? それを、もう一度よく考えろ)
目の前で芋虫のように体をくねらせつつ、醜いうめき声を発している存在は一旦無視する。
腕を組んで落ち着くために一度ため息を吐き、冷静に思考を回転させる。
仮にカフカが魔王を連れて戻って来たとしよう。それでこの状況が改善するだろうか。
否。相手が攻めてきた一番の理由は『不死身だから』その一点に尽きる。魔王にこれを破る策が無ければ彼女が来たところで無意味だ。
無論wonderlandの面々の生存率や逃亡成功率それ自体は上がるだろうが、それでも絶対ではない。
魔王にこの不死身の軍勢を殺しうる術があるのであれば話は別だが、彼女はこの世界に来てからまだ数か月も経過していないはずだ。
なぜなら、そんなに前から彼女がこの世界に来ていたのならカフカがその存在を察知するのが遅すぎるから。
仮に魔王自身が自分の存在を隠匿していたとしても、ある日突然世界が変わってまず初めに彼女がすることがNPC達と過ごす事であれば、1週間ほどで外に出てくるはずだ。
ならば、この世界がラグナロクの世界と違う事は分かるはずだ。
魔王はこの世界に他のラグナロクプレイヤーが来ている事なんて考えもせず、好き勝手にその強大な力を振るうだろう。
ならば、すぐさまカフカの元にその報せが行くはずだ。
(それが最近になって急に出てきたという事は、そんなに長い事この世界にいる訳じゃないと考えた方が自然。なら、魔王に多大な期待を寄せるのは間違ってる)
魔王だからと言っても、恐らくこの世界特有の物だろう”不死”に対して、たった数週間の滞在でその原理や弱点まで把握しているとは思えない。
それに、そもそも彼女がディアボロスの面々の来訪やこの不死性について知っているという確証は何一つない。
ならば、これはもう期待する方が愚かだ。
シャドウも彼女達の奥の手を知ればそれくらいは思い至るだろうし、そもそもシャドウがカフカを救援要請の為に送り出したのは、彼の個人的な感情故だ。
つまるところ、彼女を逃がしたのだ。なら、彼だって魔王が援軍に来るとは思っていないだろう。単なる時間稼ぎ、その側面が大きいはずだ。
一応最悪のパターンを考えるのであれば、カフカが魔王の協力を得られずに戻ってくる事だ。
その場合は今と状況は変わらず、この場で命を落とす存在が1人追加されるだけになるだけだろう。
この圧倒的な絶望は、カフカ1人の力ではとても好転しない。
魔王やその傍に付き従っている、呆れるほどの強さを誇るNPC3体が全員揃っていて初めてどうにか五分になる……程度だ。
なにせ、彼女達の中でも一番厄介なイシュタルは、圧倒的な魔力量に加えて理不尽なまでの魔力やHPの回復力が売りなのだから。
(彼女がいれば、疑似的にではある物の私達にも不死性が担保される。だが、それでも条件は同じ。この場から逃走できるかどうかという戦いにシフトするだけ……)
未だかつてないほど高速で頭を回転させ、何が友の命を救う事に最善なのかを考える。
そして、スカーレットは数分もしないうちに最初から決まっていた結論を出した。
「……そうだな。そんな不確定な物に――」
友の命は預けられない。そう、口にする直前。
「スカーレット!!」
その場に、聞こえるはずのない声が響いた。
「マジかよ……。ここで加勢とか……冗談だろ」
一瞬だけ不安げな顔をしたミセリアを、彼女は見逃さなかった。
その瞬間再びあの違和感を覚えるも、目の前に姿を現した友の“分身”とも呼べるその人物の登場に驚きを隠せず、自分でも驚くほど甲高い声を上げてしまう。
「ば、バイオレット……? な、なにしてるんだ……?」
彼女はこの場に残っている面々の中では誰よりも強い。
ランキングの順位は言わずもがな、機械故に一切の鍛錬を必要とせずゲームと変わらない性能を発揮する。それも、この世界ではほとんど傷付ける事が叶わないとさえ思えるような硬さの金属を纏った体で……。
そんな彼女がなんで敵方の戦力が集中しているだろう向こう側ではなく、比較的余裕のあると思われるこちらに加勢に来ているのか。
聞きたい事はあったが、バイオレットから聞こえてくる友の焦ったような、どこか決意に満ちたような一言で、全てを悟った。
「私と来てくれ!」
「……ッ! ハハ」
キラリと八重歯を光らせ、女王は笑った。
バイオレットが差し出している無機質で冷たい右手が、今だけは幼い頃手を引いてくれた母の温かい手と重なる。
「君は?」
「もちろん、連れて行ってもらう。しばらくはおんぶにだっこだ!」
「アッハッハ! 絶対にそんな堂々と言える事じゃないけどね! 君のそういうところ、ボクは好きだよ」
レガシーのそれは完全に開き直ったが故の言葉だったのだが、スカーレットはそんな事など知らない。
むしろ、彼女が自分と同じで仲間よりもたった1人の友の命を優先してくれたことが、何よりも嬉しかった。
「シャドウ達はどうする」
「Even sacrifice,」
「余裕があれば救う、だな。素直にそう言えば良い物を」
呆れたようにそう言ったスカーレットだったが、それでもその顔はとても嬉しそうだった。
そしてミセリアがなんのことだと苦し気に口にしたその時、レガシーではなくバイオレットが口を開いた。
「マスター、悠長に話している時間は無い。すぐに行動に移すべきだ」
「分かってる。じゃあ行くよ!」
「ああ。やっぱり、君はボクの最高の“友”だ」
女王とバイオレットは、その言葉を最後にその場から忽然と姿を消した。
残された1人の少女は、数分かけてようやく体の修復を完全に終えると、いつの間にか更地になっていたその広場をグルりと見回し、ポツリと漏らした。
「まぁ……本来の目的はこっちだし、結果オーライって奴か。タイマンじゃ分が悪いって言い訳くらいは通用するでしょ」
その言葉を最後に、ミセリアは妹の元に戻る訳でも2人を追いかける訳でも無く周りの家にめぼしい物が無いか物色を始めた。
この判断が彼女と妹の運命を大きく変える事になるなんて、まだこの時は知る由も無かった。
最後に出てきた英語は『時には犠牲も必要だ』という意味で使わせていただきましたm(_ _)m