162話 少女の夢
女は、日々をただ惰性的に過ごしていた。
政府の機密情報や国の根本に関わる情報なんかを扱うプログラマーとして生活しており、暮らしはかなり安定していたが扱う情報が情報なので常に国の監視下に置かれていた。
他国へ情報を流そうものなら一発で国が滅びかねない類の情報も彼女は所持していたし、自国が過去に犯した重大な罪や他国への侵略や貿易関係での悪事。
その全てをデータを通して知っていた彼女は、ただ無関心に過ごす事で己の命を守って来た。
仮に国のトップが大変な狼藉を働ていようと、国の重鎮が金を横領していようと目を瞑ったし、他国への侵略計画を知った時もその動揺を顔に出さず、素知らぬ顔で流しもした。
それが評価され、女はいつの間にか国を裏から管理する立場へと昇格していた。まぁ、仕事内容としては依然として単なるデータの管理や精査なのだが……。
女は基本政府の目が届く場所で暮らし、家から職場までのわずかな道のりを毎朝日の出とともに歩き、夜更け頃に尾行されながら帰宅する。
そんな毎日を送っていれば、常人ならば心が擦り切れて耐えられなくなるだろう。だが、女は違った。
ただ感情を捨て、ただ無関心に仕事をこなすことで心が壊れるのを防いでいた。
生憎と友達も恋人もいなかったので金は溜まっていく一方だったが、その使い道を考える事すら女はしなかった。
そんな女に一筋の光が差したのは、彼女が住んでいるイタリアでも頻繁にラグナロクの広告が流れ始めた時だ。
経済の流れが飛躍的に良くなり、国民の顔や聞こえてくる話し声、夜道で騒ぐ若者達の歓喜の声なんて何年ぶりに聞いただろう。そう思わされるほどに、女は衝撃を受けた。
たった1つのゲームが、国を、世界を、ここまで変えてしまう物なのだろうか。
女がそのゲームを始めたきっかけは、そんな“憧れと疑念”という相反する二つの想いが重なった事だった。
「種族……攻撃……。分からないことだらけだ」
女は今までゲームだとかアニメ、その類の物に一切触れてこなかった。
子供の頃から遊びと言えば1人で本の世界に入り浸るかパソコンをいじる事だったし、飛び級で12歳の頃に海外の大学へ入学した時には既に将来就職する先(イタリア政府)が決まっていたので、将来に向けていそいそと勉強に励んでいたのだ。
そんな女には、夢も希望も、友達や恋人……恩師と呼べる存在から愛情を注いでくれた人まで、全てが存在しなかった。
彼女の両親は子供には興味が無かったのか育児放棄気味だったし、留学先では仕送りや手紙の類を貰った事すらなく、現地で必死に生活費と学費を稼いだものだ。
飛び級の天才少女という事でメディアでは広く取り上げてもらっていたのが幸いしお金に困る事が無く、彼女自身も親に頼るという発想を持たず、自分の事は自分でなんとかしようと思っていたからこそ、この溝が修復されることは無かった。
無論、大学では彼女を妬ましく思う人間の方が多かったせいで友達は出来なかった。
まぁ彼女自身、大学には自分が知らない事を学ぶためと自分の人生に“箔”を付ける為に通っているという認識しか無かったせいで特に困ってもいなかったのだが……。
そんな性格が災いし、ゲームを始めてからしばらくはギルドに所属する事もなくただ淡々と与えられたミッションやクエストをこなす日々を続けていた。
それはレベリオが最も嫌う“惰性まみれの生”であり、金に物を言わせて急速に強くなっていった彼女はPKの的にされることも非常に多かった。
「私はどこにでも替えがいる存在だ。こんなところで子供のお遊びに付き合っても虚しいだけ……か」
彼女が初めてランキングの上位10人に名を連ねたその日、ディアボロスの面々が30人規模のパーティーを組んで彼女を襲い、その超級装備を複数奪うという事件が発生した。
いくら上位プレイヤーだと言っても1人相手に30人も群がるとは! そんなお節介とも自己の勝手な正義感とも言える事を言って後日ディアボロスに円卓の騎士の面々が戦争を仕掛ける事になるのだが、今はどうでも良い。
この時、温かい光で部屋を照らし、大きなモニターの前ではぁと項垂れていた女は、死亡を示す文字列と赤く点滅しているゲーム画面を見つめて、そんなことを呟いていた。
数分後にアリスから『私のギルドに入れ!』と、文面だけ見れば非常に子供っぽく、かつ自分勝手な勧誘が来なければ、彼女はその世界から去っていただろう。
「初めて2週間!? お前、マジでそんな短期間でそこまで成長したのかよ! やってんな! いくらつぎ込んだんだよ!」
「ギルドに入って初めての会話がこれっていうのはなんだか釈然としない……。大体2000万くらい」
「お前、さては金持ちだな!? 貯金額いくらだこの野郎!」
ギルドに加入してすぐ、彼女はそんなデリカシーの欠片も無いスカーレットからの詰問を受けていた。
アリスが適当にランキング上位の人物――魔王や既にギルドに所属している者達を除く――に声をかけて結成されたギルドだったので、そんな金の話にはオープンな人が多かった。
だが、とりわけスカーレットと女――レガシーは、友達が少なかった事と普段から人と関わらないプログラマーという職業という事もあり、話す事に飢えていた。
だからだろう。まったく配慮という物を見せない無神経なスカーレットが唯一本当の意味で友と言える存在として、どんなことを言われようとも心を揺らさず、むしろどんな時でも一定のテンションで接してくれるレガシーを選んだのは。
「お前ってサイコパスなのか、それとも感情が死滅しててなんも感じないのか、どっちなんだ?」
「相変わらず突拍子も無いと言うか、無神経すぎる事を聞く人だね。でもそうだな、どっちかと言えば後者じゃないかな。幼い頃から人に頼るとか、人に頼られるって事が無かったから。ほら、よく言うだろ? 数か月人と話さないとおかしくなるって。私は幼い頃、誰とも話してこなかったからね」
「へー! じゃあなんでそんなに金持ってんだ!? 去年の誕プレが数千万もする高級外車だった時は流石に引いたぞ!」
「仕方ないじゃないか。何を上げれば良いか分からなかったんだ。金には困ってないからね」
「うっざ!」
夢も希望も、友や恋人、愛を知らなかった女は、ラグナロクを通じてのみ、その全てを得る事が出来た。
夢とは、あいつに勝つ。あれが欲しい。あれを手に入れたい。そう思う心だと、30歳を超えて初めて知った。
希望とは、絶体絶命の状況でもスカーレットを始めとした心強い仲間達が助けに来てくれる、助けてくれる時に抱く気持ちだと、戦いを通じて知った。
友とは、スカーレットのように遠慮などせず沈黙も気まずくない相手の事を言うのだと知った。無論、スカーレットの他にも友と呼べる仲間は出来たのだが、とりわけレガシーとスカーレットは相性が良く、共に戦場に立つことも多かった。
恋人とは、アリスとカフカの事を言うのだ。そう、スカーレットが言っていたので恐らくそうなのだろう。
彼女達は恋人と言うよりは腐れ縁と言うか大親友と呼ばれる枠組みだったのではないかと思わなくも無いが、スカーレットがそう言うなら何も知らない自分が思うそれより正しいはず。女は、そう思って疑わなかった。
そして愛とは……。
愛とは……自身が選択した機械遣いという、自身では戦わず、自身の身代わりとなる機械を制作・カスタマイズして戦う特異なクラス。その、自分の身代わりとして戦ってくれるバイオレットに向けるような感情だと知った。
バイオレットの名付け親は無論スカーレットだが、女は密かにこうも思っていた。
(愛とは……。恋とは……私が彼女に向ける気持ちの事を、言うのだろうか……)
仕事柄外国人と会う事は避けなければならず、なによりスカーレットとは国籍も違えば顔も、本当の性別も知らない。
お互いの住所は一応把握しているので誕生日プレゼントを贈り合ったりすることは出来る。無論、彼女が贈る物、受け取る物は国の役人がしつこいほどチェックした後なので、綺麗な包みが届くことは無いのだが……。
それでも、女は家に帰ってゲームにログインする度、チャット欄に届いている無数の『まだか!? 遅い!』という彼女のメッセージに心躍らせた。
今まで自分を求めてくれる人がいなかったというのも影響しているのかもしれない。
ただ、心の安らぎを求めて彼女にそんなことを思っているのかもしれない。
ただ……。ただ、こんな感情が死滅し、壊れてしまった自分を懲りずに相手してくれる彼女の傍に居たかっただけなのかもしれない。
だが間違いなく、女は理解した。
その感情が“スカーレットの言う”愛であり、恋であり……人類がもっとも尊ぶべき感情であるという事を。
(願わくば、あなたと共に生きたい……。死ぬ時は、共に死にたい……)
女が人生で初めてそんな事を願ったのは、奇しくも彼女達の生きる世界が一変する数分前だった。
『もうすぐボクらの青春も終わりか~!』
『青春と言えるほどお前は若くないだろ』
『カフカ、こういう時は素直にそうだなとか言っとけばいいんだよ! 全員アポカリプスとかいうゲームには行く気ねぇんだから、もう会えないだろ?』
そう。このゲームが終わるその時にギルドに集まっていた面々は、既に同じ会社がリリースしている新規ゲームの方には手を出していない数少ない者達だった。
無論付き合いで一度はインストールしたこともあるし、パソコンのデスクトップにそのゲームのアイコンが表示されているのは女だけではない。
しかし、あのゲームには魔王が……ヒナが、いない。
ラグナロクの終着点でもあり、永遠の目標でもあり、絶対に敵わない存在でもあり……このゲームのエンドコンテンツとして認識されていた本当のラスボス。そんな彼女が、アポカリプスの方へ一向に姿を見せないのだ。
ここに居る面々は『あいつが居なければやる気が出ない』だの『そもそも忙しくてゲームする時間が無くなった』だの、様々な理由を持っていた。
その中でも『スカーレットが行かないなら私もいかない』なんて特異な事を思っていたのは女だけだったはずだ。なにせ、彼女の事をそこまで大切に想い、真剣に考えていたのは女だけだったから。
「あ~あ。もうお別れかぁ。また会えると良いけどなぁ~!」
「お前、本業の方がマジでヤバいとか言ってしばらくゲームする気ないって言ってただろ」
「ボクだって一応寂しさは感じてんだよ~! 良いよな、同郷のカフカとアリスは! ボクなんて、レガシーと一緒のとこに住んでたら毎日ダル絡みしに行くぞ!?」
「やめろ、可哀想だろ」
そんなアリスのツッコミに残っていたギルメンのほぼ全員が同意とばかりにチャットへ意見を述べて行く。
だがそのどれも、女の本意じゃ無かった。むしろ、そうしてほしい。そうあったらどれだけ良い事だろうか。そう思わずにはいられなかった。
その想いが叶った……。そう、言って良いのだろうか。
女が生きる世界が、周りを取り巻く環境が一気に変わったその時、女は内心で歓喜した。だが、そんな女の喜びも長くは続かなかった。なぜなら――
(無理無理無理! あんな可愛い女の子と私みたいなおばさんが話すとか無理なんだけど! ていうか人と対面で話すってどうすればいいの!? 無理じゃない!? ていうか、なんで私幼女になってんの!? 色々おかしいし無理なんだけど!)
全てが変わっても、女とスカーレットの仲が進展する事は無かった。
いやむしろ、スカーレットは戦闘に目覚めてしまい、レガシーはバイオレットが思いの外有能でなんでもしてくれるので引きこもりがちになり……2人は遠ざかってしまったという他ない。
だが“レガシーの”スカーレットを想う気持ちは、この場所に来たその時から……。いや、初めて彼女を好きだと自覚したその時から、一片たりとも変わっていない。だから、真っ先に動いた。
(バイオレット、スカーレットを救え!)
相手方の秘策の正体が分かった今、最も優先するべきは想い人の命だ。
その指令は即座にバイオレットに伝わり――
「おいバイオレット! どこに行くつもりだ!」
シャドウとチャンをその場に残し、バイオレットは戦場を離脱した。
「トウボウカ? ワタシガオウカ?」
「いや、彼女には剣士の私が当たった方が良いだろう。でも何よりまずは、奴らを始末してからだね」
ニヤリと笑ったフィーネのその声が、その場に静かにこだました。