125話 研究者ジンジャー
少女が連れてこられた部屋は、彼女が住んでいる家のリビングとほぼ同じくらいの広さで、研究室と言うにはあまりにも広すぎる部屋だった。
少女はここに来るまで、まるでブリタニアの王城を歩いている時のような奇妙な違和感と、そこかしこに屍のように寝ている白衣を着た男女を怪訝そうに見つめつつ、たまに踏んづけるネチャッとした紫色の液体に嫌悪感で顔を歪めていた。
ただ、不思議とその液体は踏まれた数秒後には彼女の足の裏から消失して元の地面へと張り付き、再びそこを通る者に不快感を味わわせるために鎮座する。
何かの魔法かと思ったが、ヒナでもあんな嫌がらせに特化したような魔法は使えないはずだし、そもそもラグナロクにはその類の物は無いので魔道具と言われる物だろう。
そう結論付け、そこまで深く考える事はしなかった。
廊下には赤い絨毯が敷かれ、通路の左右ではロウソクがユラユラと怪しく灯り、たまにすれ違うスライムのような水色のドロドロした液体状のモンスターはなんだと口を開きたくなる。
だが、当然ながら口を開くことはできないので襲ってこないかどうかだけを不安視し、毎度まいどそれが横を通る度に内心ではぁと息を吐いた。
そんな少女の内心などまるでどうでも良いと言わんばかりに、女は部屋の中央に置かれていた1人掛けのソファにどっかりと腰を下ろすと、ドレスから白衣へと着替えて改めて少女の方を見やる。
その顔は非常に興味深そうで、まるで獲物を捕食しようと品定めでもするような瞳だ。
部屋の中央には大きなソファが2つ向かい合わせで鎮座しており、その他にはメリーナの自室にあったような膨大な資料や執務机、変わった物で言えばボロボロになっているライオンかなにかのぬいぐるみが机の上にちょこんと座っている所だろうか。
後は分厚い本のような物が部屋の隅でぷかぷかと宙に浮きながら不規則に揺れ、時折そのページをペラペラとめくっているくらいだ。
この部屋にあの不快な液体は無いし、あの醜いモンスターもいないようで少しだけ安心する。
「さて、そろそろ魔法を解こうか。どうやら君は、戦闘面で言えば私よりは弱いようだから逃げるなんてことはしないだろう?」
そんな、少々どころの話ではないほど失礼な事を言った女は、ほいっと笑いながら人差し指を立ててそれを横に振る。
すると魔法の効果が解かれて少女に体の自由が戻って一瞬だけ反動でフラッと体が揺れる。
「……どういうつもり?」
なんとか倒れることなく体のバランスを取り戻した少女は、少しだけムッとしながら女を睨みつけた。
確かに自分には戦闘面での実力はほぼ無いと言っても良いし、どこか得体のしれない目の前の魔法使いから感じる力は、ヒナがソロモンの魔導書を持つ以前のそれと非常によく似ている。
つまるところ、ソロモンの魔導書無しの状態のヒナと目の前の女、どちらが強いか。本来迷う事の無いはずのその問いに、少女は即座に答える事が出来なかった。
その異様なほどの力と違和感、そしてここまで連行されたという戸惑いが少女の小さな体を覆い尽くし、全身を再び硬直させる。
だが、女はそれを察したかのように柔らかい笑みを浮かべると、友達に話しかけるような気楽さで「まぁ座れ」と口にした。
それに逆らうとどうなるのか分からなかったので少女はすんなり女の向かいのソファに腰掛ける。
「紅茶で良かったかな? と言っても、ここには”こーひー”なる洒落た物は無いんだけどね」
「……別にいらない。それより、質問に答えて」
「堅いねぇ。でもま、私は長くなりそうだから紅茶を注がせてもらうよ」
ニヤリと笑った女は、人差し指と中指を自分の顔の横でピュッと空中に振る。
すると、その空間が音もなく割れて中から銀色のティーカップと同じ色のポットが出現し、部屋の隅でぷかぷか浮いている本と同様に空中で制止し器用にオレンジ色の液体を注いでいく。
「……」
「あ、気になるかい? やはり君は他国の人間か。私らの国でこの現象を見て驚くのは、今時田舎の村にでも引っ込んで王都や大きな街にすら足を踏み入れたことが無いジジババくらいさ。この国の魔法技術は、他国の数世代先を行っているんだ。それも、完璧に秘匿しているからブリタニアの連中ですら気付いていないよ」
誇らしそうにそう言った女は、紅茶を注ぎ終わったらしいポットを再び割れた空間へと収納すると、ティーカップを右手に持って空間を元に戻す。
それから一口それを口に含んで眉を細めると、うーんと唸りながらも一気に飲み干す。
「やはり虚数空間に対する熱物保存はまだ試作を重ねなければならないか……? 今のままだと熱すぎて不便だな。いやしかし、これ以上密度を高めると器の耐久値と食材などを収納した時のやり場に困るか……? 魔力の制御をもう少し完璧にする必要もあるか……」
それから数分、虚数空間がどうのと独り言を呪文のようにごちゃごちゃ言っていた彼女だったが、やがて結論が出たのか、それとも目の前の少女が危ない奴を見る目を向け始めていたからなのか。ともかく、その独り言を止めてコホンとわざとらしく咳払いをした。
そして再び偉そうに腕を組んでその豊満な胸を強調しつつ、にやりと挑戦的な笑みを浮かべる。
「改めて……という訳ではないが自己紹介をしておこう。私の名はジンジャー。この国で魔法の研究をしている者だ」
「……質問に答えてと言った。なんで私をここに連れて来た」
「手厳しいな。まぁ良いだろう。端的に言えば私の性格が原因だ。私は君のようなおかしな異物、本来存在しない物、するはずの無い物、そしてこの世の不思議や自分が知らない事に関しての探求心というのを、ほぼ無限に等しいほど持ち合わせている。それを満たせる最高の天職が研究者ということで研究者をしているのだが……っと、これはどうでも良いな。そう、君をここに連れてきた理由だな。まぁ言ってしまえば、君に興味がある」
これまた大変な人物に目を付けられてしまった。そう、少女が思うのも無理はなかった。
メリーナを殺した奴しかり、サンとかいうヒナに手を上げた魔法使いしかり……この、ジンジャーという得体のしれない超が付くほど強いだろう魔法使いしかり、呪われているのかと言いたくなるほどだ。
いや実際あの一件から呪われていると感じる事はあるけれど、それは今関係ないだろう。
問題はどうすればこの場を出て行けるのかだ。
少女は今傷心中であり、絶望している最中であり、許されるのであれば死にたいとすら思っている身だ。
そんな中で頭のおかしいジンジャーの研究とやらに付き合っている暇はないし、仮に時間的余裕があったとしても付き合うつもりなどなかった。
今の少女はそこまでの精神的な余裕がある訳ではないし、人を無理やり連行するような人間がまともであるはずがないので、出来るだけ関わり合いになりたくなかった。
「見たところ、君も相当な魔法使いだろう? だが、そんな魔法使いなのに魔力の扱い方は感覚に頼り切っているように見える。なぜ魔力そのものの扱いがそこまで上手くないのにそれ程の実力を持っているのか。私はそこに興味がある」
「……魔力の扱い? 何言ってるの……?」
少女にとって魔力とは、体の中を血液のように流れている物質であって目に見える物でもなければ手に取れるような物でもないし、存在を知覚出来る物でもない。
ただそこにあって、自分の中にどれだけの魔力が残っているのか。この魔法を使えばどの程度魔力を消費して残る魔力がどの程度になるのか。それが分かるくらいだ。
魔力の扱いというのが魔法を行使する術だと言う事であれば、魔力を使って魔法を行使するというだけであってそこに上手いも下手も無いだろう。
少女は、そう言いたかった。
しかし、ジンジャーは違った。
この『魔法大国ステラ』で一番力のある魔法使いと謡われながら今まで戦場に出た事はおろか、争いごとにその力を使ってこなかっただけで、実力はムラサキやワラベと比べるまでも無い。
この国の上層部が彼女の研究成果によって爆発的な魔法技術の革新があった365年前からその技術や情報の全てを閉鎖して鎖国に近いような状態にしているから外の国に漏れていないだけで、魔法だけで言えばこの国の兵力は全盛期のブリタニアといい勝負が出来るはずだ。
今や相手方の戦力が消え去ってしまい、ジンジャーを始めとした多くの実力者の魔法使いは自分の力を研究という武力とは違う道に利用する事で日々を過ごしているので、戦争になって勝てるかと言われると現状では不明と答えるしかないだろう。
そして、この国の魔法使い全員に共通しているのが『ヒナ以上に完璧な魔力の制御と技術』を持っているという事だ。
「魔力の制御も技術という括りにしてしまうのは簡単なんだけど、私達にとってはそんなの技術と言えるほど大層な物じゃないんだ。まぁ、他国の人間や冒険者達を見ていると魔力の扱いがおこちゃまレベルだから失望の念を隠せないんだけどね」
「……」
ハハッと笑ったジンジャーは面白そうに少女を観察し、まるで魔力の流れが見えているかのようにふむと意味深に頷いた。
「だけど、君は別だ。魔力の制御はほぼ完璧に近いのに、その扱いの術を知らないかのような不自然さを併せ持っている。例えるならそうだな……文字は書けるのにそれが読めないというような違和感だ。実に興味深い」
怪しくふふっと笑ったジンジャーは、顎に手を当ててそのプルっとした唇をペロっと舐めてわずかに湿らせる。
それから、まるで教師のように少女へ教えを授けるべく口を開いた。
「通常魔力っていうのは、私達魔法使いの体の内部だけじゃなく、空気中にも無数に広がっている物なんだ。本来はそれを使う事で魔法を使い、この世の物ならざる現象を起こす。でも、君達はそれを理解することなく体の内側にある物だけで全てを解決させようとするだろう? 仮に炎を創り出そうとするなら体の内部にある物じゃなく、そこら辺にある魔力を使った方が早く済むし、威力も高くなる。魔力を体の外に放出して何かを創り出すというステップを踏む必要がないからね」
「別に興味ない。私は、今以上に強くなりたいなんて思ってない」
「おや、そうなのかい? 高みを目指そうとしない魔法使いなんて珍しいね」
正確には、強くなりたいという気持ちはある。
もっと強くなってヒナの役に立ちたい。姉達の役に立ちたい。そして出来る事なら……あの人を、メリーナを蘇らせて、謝りたい。
だが、それは既に意味をなさない。
この世界で唯一の居場所だったヒナの隣という場所を自分で捨てておきながら、強くなって帰っていくなんて虫が良すぎる。
それに、どんなに魔力の扱い方を学んだところで『輪廻転生』以上の蘇生魔法なんて存在するはずがない。
魂の導き手でも蘇生自体は出来るけれど、それでダメだったのだから、そもそも蘇生魔法なんて意味をなさないと思った方が現実的だ。
「でもね、君に興味は無くても私にはある。無論力への探求心なんてものは心底くだらないしどうでも良いんだが……この、心の内から無限にも思えるほど湧いてくる知識欲には勝てない。私の気が済むまで、君の体やその構造を研究させてもらうよ」
「誰も許可なんてした覚えはない」
「良いじゃないか、どうせ帰る場所も行く当てもないんだろう? こう言っちゃなんだが、あんなところで待っていても君の待ち人が追ってくるとは思えない。どうやって君のような幼い子がこの国の警備を突破したのかは知らないけれど、今この国は鎖国状態だ。冒険者だろうとなんだろうと、この国には今立ち入れないし出て行けない。そういう国なんだ、ここは」
「……私は”さっき”普通に入った。正面から堂々と」
そう言い放った少女に最初は冗談だと笑い流したジンジャーだったが、少女の瞳が冗談でもなんでもないと言いたげで、思わず目を見張ってしまう。
この国では現在、密かに軍事演習が盛んに行われていて近々大規模な戦争が起こるのではないかと言われている。
その予兆を他国に知られない為に出入国はよほど国にとって重要な人物でないとできない決まりになっているし、街の入口の警備は普段の何倍も厳しくなっているはずだ。
仮に最高峰と言われるダイヤモンドランクの冒険者だったとしても門前払いを喰らうだろうことは間違いなく、余計に少女に対しての疑念が募る。
「ますます気になるね。君の事をもっと――」
ニヤリと笑いながら少し身を乗り出し、ジンジャーがそう言った瞬間だった。室内にコンコンと優しいノックの音が響いた。
そのタイミングで部屋の隅の本が勢いよくパラパラとめくられ、周囲が赤黒く変色する。
「ッチ。また失敗したのが脱走したのか。死人が出てるな」
そう言ったジンジャーは、扉から数メートルは離れているだろうその場所から手を触れることなく扉を開いた。
その先に立っていたのは――
「め、メリーナ……?」
恐らく、少女が今最もその姿を見たくない、この世で最も罪の意識を感じている少女が、そこに立っていた。
あの時の辛く悲しそうな、それでいてどこか幸せそうな表情を浮かべて、にっこりと微笑んでいたのだ。
「ふふっ。驚いた?」
だがその声は、メリーナの物とは似ても似つかないほどねっとりと鼓膜にこびりつくような気持ちの悪い物だった。
少女はその姿を見た瞬間、津波のように激しい勢いで襲ってきた罪悪感や後悔、絶望といった負の感情と、そのドロドロにかき混ぜられたような不快な声を聴いて、朝食べたサラダやトーストを、胃液と共に吐き出した。
その瞳には涙が浮かび、全身を恐怖でわなわなと震わせている小さくて孤独な少女が、そこにはいた。