122話 失意の果てに望むもの
「……え」
ギルド『真昼の夜』の本部の第1階層。その、自分が居られるギリギリの場所でヒナ達の帰りを待っていた雛鳥は、ずぶ濡れで帰って来た3人を見て嫌な予感を募らせていた。
なぜそこに居るべき人が1人いないのか。
なぜ、助けに行ったはずのメリーナが、彼女達と共にいないのか。
なぜ……。なぜ、3人共が大泣きした後のように瞼が赤く、ヒナがマッハとケルヌンノスに支えられながらやっとという感じで歩いているのか。
いや、それは正確ではない。本当は、随分と前から予感していた。
遥か遠方の森が突如として轟々とした炎を上げ、その炎に見覚えが無かった彼女としても魔力の流れくらいは自然と感じ取る事が出来る。
そこに含まれる魔力は自分が扱える量と比較してもあり得ないと失笑してしまうレベルであり、それをやったのがヒナだろうことは容易に想像が出来た。
その燃え上がる森とモクモクと立ち昇る煙を見た時、彼女は心のどこかで確信していたのかもしれない。
もう、自分が望んだあの光景は……望んだものは……二度と、手に入らなくなってしまったのだと。
(これで……良かったのかもしれない)
こんな形ではあったけれど、自分の望む物がもう二度と手に入らない。そう分かっていなければ、この先の人生で叶うかどうかも分からない望みに、心のどこかで縋り付く毎日を送っていたかもしれない。
本心の部分では既に諦めた夢ではあったものの、トライソンと名乗る不審人物からメリーナの名前が出てきた時、再び会えるかもとわずかな希望を持ってしまった。もう希望は持たないと……あの瞬間に誓ったはずなのにだ。
希望が絶望に変わり、また再び希望に変わる。それだけであれば悲観した女の惨めな人生の一幕……くらいで済んだだろう。
途中経過がどうであれ自分の望みが叶う事それ自体は幸福な事であり、一度絶望に叩き落されたからと言って『諦めなければ夢は叶う』という綺麗事を最も体現した物ではないか。
だが、その希望が再度絶望へと変わってしまった時。問題はそれだった。
その絶望は最初に訪れた時よりもよっぽど深くその人自身を呑み込むだろうし、人によっては立ち上がれないほどの苦痛を感じる事だろう。
幸いにも雛鳥はその前部分で理性にブレーキをかけていたのでまだそこまでの事態には陥っていない。
正確に言えば、外部的な要因によってその状態に陥れられる前に、自分から必要最低限の被害でその状態に自らを追いやったのだ。
(そうだ……。これで、良かったんだ……)
メリーナが死んでしまえば、自分はもう何年も前の亡霊のような、過去の恋人に残してきた未練のような、そんな複雑な感情に囚われることなく日々を謳歌出来るのだから。
もうあの優しくも強かった少女の腕に抱かれることも無いし、話をすることも、謝る事も、まして……その隣で暮らす事も、もう――
「なんで……。なんで……助けてくれなかったのですか……」
気が付けば、少女は瞳から雨を降らせていた。
膝はガクガクと震えて地面に座り込み、顔を両の掌で覆ってシクシクと悲し気な声を上げる。
情けない弱者のような泣き言を言っている女が誰なのか、雛鳥は分からなかった。
「ごめん……」
ヒナから紡がれたその言葉に、少女は再び号哭を上げた。
それは先刻のそれより悲痛で、聞いているこちらが泣きそうになるほどの物だった。
雛鳥も、少女のその号哭で……心からの悲痛な嘆きでもらい泣きしているものだと思っていた。
この瞳から溢れ出てくるものはそういう理由から流れているのであって、自分はメリーナの死に全く悲しめていないのだと、心のどこかで残酷な人間だと自分を罵った。
「なんで……。なんで……。なんでなんでなんで! なんでっ!」
少女は震える膝に鞭を打って無理やりにでも立ち上がり、2人に支えられながらようやく立っているヒナの胸倉を掴んだ。
その服はびっしょりと濡れていて、髪から滴る水滴が少しだけ色っぽく見えると錯覚しそうになるが、ヒナの顔に生気は無い。まるで殺してくれと言っているような風貌でボーっと少女を見つめ、少しだけムッとしつつも何もしようとしないケルヌンノスにコクリと小さく頷く。
だが、ヒナに掴みかかった少女はそんなやり取りが交わされているとも知らず、両手でその胸倉を掴みなおし、再びうぅ……とその胸に顔を埋めながらうわ言のように呟いた。
「あなたは……。あなたは、全てを持っているはずなのに……全てを、叶えられるはずなのに……。どうして、私の願いは叶えてくださらないのですか……」
それは、ヒナに向けて言われた言葉なのか、それとも神と呼ばれる存在に向けて放たれた恨み節だったのか。それは言った少女にしか分からない。
だが、少なくともヒナは自分に向けられたものだと解釈し、囁くように「ごめんなさい」とだけ口にした。それ以上の事を言える気もしなかったし、言う必要も感じなかった。
いや、それは違う。何を言えば良いのか、分からなかったのだ。
ヒナだって大切な人を奪われた当事者になった事はあったけれど、あの時は幼すぎて自分の現状を理解するのに精いっぱいで、それをしでかした人間に罵声を浴びせるなどと考える事も無かったのだ。
一応遺影を持って裁判の傍聴席に座った事はあったけれど、それも警察官の人達に先導されて半ば無理やり行っただけにすぎず、自分でも何がしたいのか、これはなんのためにやらなければならない事なのかは分かっていなかった。
そういう意味では、彼女が自分の置かれた状況を正しく認識して加害者に恨みを募らせる前に加害者が持病であの世へと旅立ってしまった事は幸運だったかもしれない。
ただ、そういう経験の無かった……培う機会を与えられなかったヒナには、少女の気持ちは分かりこそすれ、こういう時にどういう言葉をかけてあげれば良いのか分からなかった。
人を助けられるのは、自分が満たされていると自覚している余裕のある人間だけ。そんな言葉をどこかで見た気がしたが、本当にその通りだと、ヒナはこの時実感していた。
自分にだって余裕がなく、許されるのなら今すぐにでもあの世に行って楽になりたい。
なんとかしてメリーナを蘇らせて今回の件を謝りたい。そう、願わずにはいられなかった。
知恵も力も、そしてそれを起こす術を持たなかったあの時とは違い、今回は防げたものだった。
そうするだけの知恵はゲームの物ではあったが確かにヒナの中に存在していたし、彼女を守るだけの力も十分すぎる……いや、過剰なほど持っていた。
ただ、何もかもがかみ合わなかった結果そうなってしまっただけ。傍から見れば、それだけの言葉で済ませられるのかもしれない問題。
だが、ヒナにとってはもちろんそんな軽い言葉で済ませて良い物ではない。
(もっと、私に力があれば……)
油断する事の無い強者独特の余裕と風格があれば、後れを取る事など無かっただろう。
この世界の理をも超越するだけの圧倒的な力があれば、あの状態からでもメリーナを助けられたかもしれない。
最初から全力で魔法を放ち、相手を観察するような、神に挑む時のような慎重さを見せずに切り札を全て惜しみなく投入していれば、あの女を葬れた。
少女に言われずとも、ヒナは分かっていた。今回の件は自分の失態であって、今この場にいないイシュタルの責任ではない事を。
それでも、彼女に今イシュタルを探しに行こうとするだけの気力は……残っていない。今後探しに行こうとするかも……分からなかった。
なにせ、彼女は自分からヒナの元を離れていったのだ。こちらから出向いたとして、素直に帰ってきてくれるとはとてもじゃないが思えなかった。
仮に説得して戻って来てくれたとしてもその態度はどこか他人行儀になってしまうだろうし、以前の仲の良い家族には程遠い状態になるに違いない。
人一倍家族にこだわりを持っているヒナにとって、偽りの家族ほど虚しい物はない。強制的に家族を演じさせるのでは意味がなく、それならば戻ってこない方がお互いの為なのかもしれない。そう、思い始めるようになっていた。
「あなたはいつもそうです……。わたしの欲しい物は簡単に手に入れてしまうのに、自分は恵まれていないなんて愚かなことを口にする……。それがどれだけ幸せな事なのか、まるで理解していない!」
「ごめん、なさい……」
少女は再び地に膝をついて、嗚咽を漏らした。
ただ、ヒナが発する言葉は……発する事の出来る言葉は、変わらなかった。
それ以外に本心から物を言える気がしなかったし、それ以上の事は、やっぱり言う気にならなかったのだ。
「あの人は……。メリーナは……最後、なんて言ってましたか……」
「“イシュタル”に、私達と、仲良くって……」
「っ!」
その瞬間、少女は目を見開いてヒナの頬を引っ叩いた。
ヒナの顔や髪に付着していた雫が辺りに飛び散り、少女の瞳には先程よりも大量の雫が浮かんでいた。
「最後の最後まで、メリーナはあなた達に尽くしたというのに! あなたやその妹達の為に使ったというのに、私にはその仕打ちですか! 急に現れて、あなた方はいったい何がしたかったんですか! メリーナの最後の望みくらい、責任をもって叶えてあげてくださいよ! 自分の責任でメリーナの命を奪ったって言うなら、それくらい最低限の責任じゃないんですか! 私じゃ叶えられなかった望みを、願いを、その想いを一身に受け持っているというのに、今のあなたは私やメリーナが憧れたヒナ様じゃありません! 今のあなたはまるで、ただの小さな子供じゃありませんか!」
そこまで言って初めて、雛鳥はそれが……その、大切な人を失って悲しみに暮れ、激昂している少女の声が自分の物だと分かった。
自分の口からスラスラとそんな言葉が出てくる言葉にも驚いたが、マッハ達の性格を知っている身としては、ここまで言ってもなお彼女達が殺意を持って襲ってこない事に、心底驚愕していた。
メリーナの最期を看取った訳でもなければ当時の詳しい状況が分かっている訳でもない身でありながら多少言いすぎだったか。そう思った。
だが、彼女を止める要因は、今この場になかった。
いつもならヒナに対する非礼に激怒するマッハ達はヒナの事が心配でそれどころではなかったし、ヒナ自身は雛鳥の言葉が本当にその通りだと自分をさらに追い詰めていたからだ。
そうなってしまえば、雛鳥自身ももう止まらなかった。
今まで心の内に秘めてきていた感情を全て吐き出し、この世に存在しているだろう罵詈雑言を全て浴びせるかのようにヒナにぶつけた。
最後にメリーナが望んだことすら叶えられないのでは、自分がなんのために創られたのか。それが分からないと泣きたくなる気持ちを必死に抑え、その瞳をただ“メリーナの死”という悲しみと憎しみ、怒りの感情で揺らすだけに懸命に留める。
「はぁ……。はぁ……」
一体、そうしてからどれほどの時が経過しただろう。
気付けば雛鳥は肩で息をしていたし、ヒナの体には無数に刀傷のような物や火傷のような跡が出来ていた。
それは、雛鳥が怒りのあまりに放った魔法の数々が残した傷だったが、残酷な事に彼女の装備は彼女の意志とは無関係にその効果を発揮する。
死神ですら倒せるのではないかというほどの攻撃の数々を浴びながらも、ヒナの受けたダメージはHPを2割減らす程度に留まっていた。
それによって伴う痛みは、まるで彼女自身に罰を受けさせることを認めないかのようにくすぐったいという領域に踏みとどまり、それ以上の苦痛を与える事は無かった。
その残酷な仕打ちに、与えられた試練に、ヒナはただ黙って耐えていた。これこそが、自分が受けるべき本当の罰だという心持ちでただひたすらに痛みを伴わない拷問に耐えた。
鋭い言葉の刃で何度心臓を突き刺されようとも命を失わないように、身体的な痛みを伴わないように……。ヒナには、雛鳥の罵声をただ聞き入れるしかなかった。
その攻撃も空気を読まずに効果を発揮する装備によってほとんどダメージを与えられることなく、それどころか瞬く間にダメージを回復して身体的な外傷をなかった事にするそれが、憎らしくてたまらなかった。
だが、それこそが自分が受けるべき罰なのだと、ヒナは悟った。
こんな自分に、メリーナを想って泣く資格など無いのだ。お前に出来るのはただ戦う事のみで、あの女を殺したその時にこそ、己を殺す事を許してやると……。そう、神に言われているような気がした。
であるならば、それまでは、いかなる理由があろうとも死ねない。
(もっと、強くならなきゃ……)
ヒナが拷問を受けている間に心の奥底で決意したのは、ただそれだけだった。