119話 責任の所在
その場からディアボロスの面々の姿が消えた数分後、その周囲を煉獄の炎が舞った。
それは魔王の、その臣下達の怒りを、悲しみを、絶望を体現しているかの如く瞬く間に燃え広がり、辺りを太陽よりも赤く熱い炎と炭より黒い煙が包んだ。
それらは不可思議な光によって守られているヒナ達4人と1人の魂を失った少女の亡骸を燃やすことなく、ただ周りの草木をパチパチと燃やし続ける。
「守れ、なかった……。わたしが、もっとしっかりしていれば……」
警戒している相手の前で悠長に瞬きなんて、一流の剣士なら絶対にしないだろう。
事実、マッハは戦いの最中、それが自身と同様の強さを誇っている相手ならば文字通り瞬きの隙も無いほどの熱戦を繰り広げる。
トライソンの実力は完全なる未知数だったにも関わらず、ラグナロク時代での輝かしい功績と身を包んでいた強力な装備に驕って致命的な油断があった。
それによって守られた命は確かにあったけれど、それと引き換えに1人の罪のない命がこの世界から失われてしまった。もう、彼女を元に戻す事は出来ない。
「違う、ヒナねぇ……。私がもっと完璧にあいつを抑えてたら、メリーナは死ななかった……。私の責任だ」
マッハは、メリーナの亡骸を大事そうに抱きしめているヒナの肩に手を置いて、申し訳なさそうに目を伏せた。
自分がもっと完璧にトライソンを抑えていれば……少なくともその武器を叩き折っていれば、この悲劇が起こる事は無かった。
ケルヌンノスの実験では、HPの数値がデータ上の物でしかなくなってしまうのはあくまで刃物等による外傷的な傷のみであり、魔法や手刀、その他体術等で傷を負おうともHPの数値が参照されて絶命する事はない。
無論魔法によって心臓を焼かれたりすれば話は別だが、その貫通能力は刃による物理的な手段に比べると遥かに劣る。
仮に物理的な手段でプレイヤーの体を傷付けようとした場合の貫通力やダメージ能力を10とする場合、魔法なんかの貫通能力は高く見積もっても4程度に収まる。
つまるところ、魔法でプレイヤーを殺害する場合は順当にHPを減らさなければならないが、剣などにしてみればその限りでは無いという事だ。
唯一例外となるのは、実体のある、だが人体を貫通する『死霊の腕』などのケルヌンノスが使うスキルとなるだろうが、プレイヤーが死霊系の魔法やスキルに関して……それも即死系の物に関して完璧な耐性を揃えていないとは思わない方が良い。
なので、対プレイヤーに関して言えばケルヌンノスは戦えるヒナ、マッハの誰よりも役に立たない……と言っても良かった。
「…………」
そんなケルヌンノスだが、ディアボロスの面々が去った後も腹が煮えたぎるような激しい怒りでどうしていいか分からず、半ば放心状態に近い形でヒナの隣に突っ立っていた。
一応ヒナを心配する素振りは時折見せる物の、しくしくと泣いているイシュタルや、自分の責任を痛感して分かりやすく凹み、悲しみに打ちひしがれているヒナを心配しているマッハに比べれば心ここにあらずといった具合だった。
「わたしの……わたしのせいで……。ごめんなさい……ごめんなさい……。ほんとに、ごめんなさい……」
ただ、3人に比べて一番心の傷が深いのは、誰あろう自分の命を救われたイシュタルだろう。
彼女は、メリーナの命を助けたという認識はない。ただ傷を負っていたから治癒をしただけだし、それが自分に与えられた役目だったので完璧に果たしただけだ。
マッハに言われるまでもなくヒナに与えられたサポート役という役割を完璧にこなそうとしていたし、実際そう出来ているだけの十分な自信があった。
しかし、あの瞬間は違った。
マッハに頼まれた『メリーナを守れ』という命令に背き、瞬間的な恐怖と不安、そしてブリタニア王国でヒナを守れなかったという十字架を背負っていた彼女には、ヒナに殺意が向けられていると分かった時点で動かないという選択肢は存在しなかった。
なにせ、自分が任されていたのは4人全員のサポートだ。そこには本来メリーナは含まれていないし、何より優先するべきはヒナの命。そう考えて動いてしまったのだ。
これで、この世界に来てから何度目の失態だろう。
もう、自分の過去の事を掘り起こす気力すら当に無くなっていた。
彼女が最後に残した言葉すらも、イシュタルにとっては死刑宣告よりも辛い、呪いの言葉より辛い呪詛のような役割を果たしていた。
こんな自分が……。こんな、何の役にも立たない自分が……。
姉の命令を無視して自分勝手な行動をした挙句、罪なき人の尊き命を奪ってしまった自分が……。
あの場でヒナのサポートすらできず、ただ悲しみに囚われて泣く事しかできず、今もなお涙が瞳から溢れ続けてくるだけの自分が……。
この場で最も辛い思いをし、絶望を味わい、誰よりも深い怒りを覚えているヒナを慰める事の出来ない自分が、彼女の隣に居て……彼女の隣で生きて、本当に良いのだろうか。
イシュタルは知っていた。メリーナが何を望み、何を想い、なぜその夢を捨てたのか。
それは資料室に全て揃っていたし、メリーナの事は雛鳥が聞けばほとんどの事を教えてくれた。
彼女が好きな物や嫌いな物、どんな性格だったのか。雛鳥や仲間達にどんな言葉をかけ、どんな悩みを抱き、どんな人を好きになり、どんなところが気に入らなく、どんなことに苛立ちを感じるのか。
そして……ヒナに対する想いとラグナロクの世界を去った理由までも。
メリーナは、自分がヒナに及ばない。相応しくないと思ったその時には、既に夢を諦めて潔くその身を引いた。
だからあの場に自分の名前が無いのだし、ここに来る道中に読んだ小説の中にもイシュタルの名前だけはどこを探しても出てこない。それは、時期的に仕方がないと既に割り切っている。
今問題なのは、メリーナは『ヒナの隣に自分がいるのが相応しくないと悟ったその時、潔く身を引いている』という事だ。
(私は……わたしは、ヒナねぇにとって必要のないにんげん……)
いや、それだけじゃない。
メリーナを守れと命じておきながらそれを遂行できなかったのだ。マッハだって自分に対してそのような感情を抱いている可能性は高いし、ケルヌンノスに関してはブリタニア王国の一件でヒナを頼むとさえ言われていた。
だが、そのどちらもイシュタルは完璧にこなせなかったし、あまつさえどちらともに誰かの力を借りて危機を凌いでいた。
ブリタニア王国の一件では処刑を免れるために守らなければならなかったはずのヒナの力に助けられ、処刑場から出られないとなった時には飛び込んで来たマーリンに救われた。
そこから出られることになったのは少なからずヒナの力があってなのだが、それは良い。
その時は辛うじてこちら側から死者が出る事は無かったし、唯一死亡していたシャトリーヌはマーリンが蘇生を施して事なきを得た。
そう、あの時は蘇生が利いたから良かったのだ。
しかし今回は、それが作用しない。出来ない。プレイヤーが……メリーナという少女の命が奪われた。
それは、紛れもなく何もできなかったイシュタルの罪・責任だった。
パチパチっと周りが焼け焦げ、天空を黒い煙が覆い尽くし始めた頃、ヒナがのっそりと立ち上がり、すっかりコツを掴んだ無詠唱の魔法で土を数メートルほど盛り下げた。
まるでお墓だ。イシュタルがそう思ったのと、ヒナが抱えていたメリーナの遺体を優しくその穴に横たえたのは同時だった。
「ごめんね……。今はちょっと、冷静になれそうにないんだ……。今のまま私達の家に帰ると、多分あそこを壊しちゃう……」
聞いているこちらが泣きそうになるほどのか細く震える声で、ヒナはそう言った。
それから両手を合わせてポロっと頬に一筋の涙を流し、言った。
「私が冷静になれて、あの家に帰れると思ったその時……また、来る。絶対、あそこに埋めてあげるから……」
「ヒナねぇ……」
「…………」
それから優しくメリーナの遺体に土をかぶせ、分かりやすい様に少しだけ盛り上げた後、その場に大理石のような光り輝く白い大きな石を創り出す。
攻撃魔法の応用だが、ヒナはそこら辺の事は深く考えず、ただできるからやるだけと言いたげな表情でススっとそれを墓石のように加工すると、その中心に綺麗な日本語で『メリーナ』と掘った。
「ほんとうに……ほんとうに、ごめんなさい……。わたしのせいで、あなたの将来を……人生を、奪ってしまった……。ほんとうに、ごめん……ごめんなさい……」
彼女はもう、まともに立っている事すらできなかった。
怒りは既に大部分が悲しみと絶望に変換され、今になってそれが彼女の小さな体に濁流のように押し寄せていた。
瞳から大粒の涙を零したのは、この世界に来て以来だった。
それ程までに、人の命が奪われるという事の衝撃を、痛みを、絶望を、彼女は味わっていた。
そして、そんな彼女の悲しみが最後の一押しとなり、イシュタルは決断した。決意した。確信した。
自分は“この人にとっていらない存在だ”と。
(じゃあね、ヒナねぇ……。元気で……)
魔法に関する耐性は揃えているし、もし仮にダメージを受けたとしてもそれは自分に対する罰だと受け止めよう。
そう心の中で決意し、少女は煉獄の炎の中を進んでいった。その場の誰にも気付かれる事の無いよう気配を消し、サポート用として与えられていた一時的に索敵スキルから逃れるための魔法を自身に施して、身も心も焼かれるような炎と孤独へと歩み始めた。
その小さな背中は、辺りを焼き尽くさんとする真っ赤なカーテンによってすぐさま掻き消された。




