117話 女が望んだ愛
「パパとママ、まだかなぁ……?」
その日、少女は夜の18時には戻ると言い残して家を出て行った両親が19時を回っても帰ってこない事に少しだけ不満を感じつつ、言われた通り大人しくリビングでテレビを見ながら待っていた。
部屋に響いた少女の声は当然ながら少しだけ寂しげで、たまになるお腹の虫がなんだか寂しく聞こえてくる。
とうとう我慢が出来ず、少女は普段はあまり食べないお菓子をキッチンの戸棚の奥から引っ張り出し、母が好きなチョコパイを2つばかり取り出して小さな口で頬張る。
もし今母親が帰ってくれば娘の所業に少しだけぷんすかと怒りながらも、自分もと子供のように笑いながらそのお菓子を口にして少女の頭を優しく撫でるだろう。
父親はそんな2人を愛おしそうに見つめつつ、少女に帰りが遅くなってしまった事を謝罪して夕飯の準備を始めるだろうし、食卓では笑顔と笑い声が響く賑やかで暖かな光景が広がる事だろう。
今日の朝まで、この家に住む人間はその当たり前の日常が今日も続き、明日も続き……この先もずっと続いて行くのだと、そう思っていたはずだ。
それから少しだけ時間が経って、見ていた特に興味の無いバラエティ番組がCMに入ったところで、家の電話がけたたましく鳴り出した。
少女はまだ幼かったので携帯電話という物を持っていなかったが、それだと今回のようにお留守番をしている時に不安だからという事で、彼女の両親が今時珍しい固定電話を自宅にこしらえたのだ。
知らない人から電話がかかってきても絶対に出ちゃダメだと言われているが、モニターに小さく表示されたそれにはママという文字が表示されていた。
少女は喜んだ。もうすぐ帰りつくので、もうちょっとだけ待っててねという連絡だと思ったからだ。
だが、ウキウキで電話に出た少女の鼓膜を揺らしたのは、父親とは似ても似つかないガラガラの男の声だった。
「こちら■■警察署の■■と申します。獅子神さんのお宅でお間違いないでしょうか?」
「……え?」
反射的に電話を切ろうとした少女だったが、なぜこの人が母親の携帯から電話をかけてきているのか。それが分からないという不安と、未だに帰ってこない両親を心配する気持ちが勝ったようで、そのまま少しだけ不安そうな顔で「はい」と力なく答える。
すると、その声の幼さと少女的な怯えに電話の相手も気付いたようで、電話の向こうで何事か少しだけ話し、再び口を開いた。
「えっと……お嬢ちゃん、獅子神■■さんの娘さん……かな?」
「そう、です……」
「そうかい。なら、お祖母ちゃんとか、親戚の人の電話番号とか連絡先、知ってたりするかな?」
男が何を言っているのか少しの間理解できなかったが、しばらくして何が言いたいのかを理解した少女は、どうだったかなと自身の記憶を遡ってみた。
父方の両親は既に他界していたし、母方の祖母は数年前に病気で他界しているのでほとんど記憶には残っていない。唯一存命している母方の祖父に関しては、つい先日認知症と診断されて今は老人ホームで暮らしている。
そこには時々遊びに行く程度だし、そこら辺の事は全て両親に任せていたので少女がその老人ホームの連絡先を知る由は無い。
少女は知らなかったが、母親の携帯に登録されていた番号は全て仕事関係の人達と自宅の連絡先。後は当然彼女の夫である男の携帯番号だけだった。
老人ホームに電話をする時は必ず夫の携帯を使っていたし、緊急時には向こうから電話がかかってくるのでそれすらも登録しないでいたのだ。
そんなわけで、電話の向こうで■■と名乗った男は、まず自宅に電話をかけたという訳だが……今回は、少女と親交のある親族がいなかった事と、少女の母親がある種いい加減な性格をしていたせいで起こってしまった悲劇……とも言えるだろう。
もちろん少女は、親戚の人の連絡先など知らないと答えた。
すると電話の男はまたしばらく誰かと何か話をしているのか、時々申し訳なさそうな「ですが……」という声が耳に届く。
それがどういう意味なのか当時まだ幼かった少女には分からなかったけれど、なにかよくない事が起こっているのだろうという事は分かった。
ただ、少女が状況を整理する前に男が再び口を開いた。
「お嬢ちゃん、今何歳かな? 警察って、分かる?」
「7さい……。けいさつは……うん、わかる」
「そうか。なら、今からおじさんが迎えに行くから、そこで待っててくれる?」
なぜか深刻そうに、それでいて同情的なその声音に、少女は再び不安に襲われた。
まだ両親が帰ってくるかもしれないので家を離れる訳にはいかない。そう言おうとしたのだが、電話口の男がなにか文句を言いながら女の声へと変わった。
「ちょっと、あんたの言い方だと余計に怖がらせるでしょ! 変わりなさい!」
「あっ! お、おい!」
「ごめんねぇお嬢ちゃん。パパとママのことで大事な話があるから、さっきのオジサンと一緒に病院まで来てくれるかな……? あ、そうだ、お姉さんも一緒に行ってあげるよ」
病院。その不穏な言葉に、少女は生理的な拒否反応を示しそうになる。
つい数日前に風邪の予防接種で注射をされたばかりでまだ腕にはその痕が残っているし、病院独特の消毒液のような匂いがどうも好きになれず嫌いだったのだ。
しかし……両親の事で大事な話がある。そう言われれば、少女に断る事は出来なかった。
またバラエティ番組を見る気にはなれずにただジッと主人の帰りを待つ猫のように玄関先でちょこんと座っていた少女は、数年前に怖いと言ってから少しだけ音量の小さくなったインターフォンが鳴った事でピクリと肩を震わせた。
すぐさま玄関の扉の先から「■■ちゃん、迎えに来たよ~。警察署の■■です~」という女の声が聞こえ、扉を開けた先に待っていた制服姿の2人の大人にひぇっと怯えた声を出してしまう。
この頃から少女は人見知りの傾向があり、両親やたまにあうおじいちゃん以外の人間には少しだけ緊張してしまっていた。
まぁ、その数年後にまったくと言って良いほど外に出なくなったので余計に酷いことになるのだが、それはまた別の話だ。
動物園で見たパンダのような色をした車に乗り込んでタクシーに乗った時のような心地の良い香りに包まれつつ、少女は何も話そうとしない隣に座った母よりも少し若い女の人を不思議そうに見つめる。
だが、その女はやわらかくふふっと微笑むだけで特に説明する事も無く、車は20分ほど走った後に予防接種で訪れた病院へと到着した。
「お疲れ様です。連れてきました」
「そうか、御苦労だったな。っと……こんなに小さな子1人だったのか?」
「はい。この子だけのようです。親戚の者は探せば見つかるかもしれませんが望みは薄いと思われます」
少女の手を引いて病院内へと入った女は、中で待っていた同じ制服姿の少し年老いた男に敬礼しながらそう言うと、未だに首をかしげている少女と目線を合わせてその肩に両手を置いた。
そして、少しだけ怯える少女に申し訳なさそうに口の端を歪めながら残酷な事を口にする。
「パパとママね、事故に遭って亡くなっちゃったの。相手の運転手はもう逮捕されたけど、2人を助ける事は出来なかったの……。ごめんなさいね」
「っ! おい、そんな言い方する奴があるか!」
少女は知らなかったが、女は警察官になったばかりで今回が初仕事と言っても良かった。
被害者遺族に対する配慮なんてものはベテランのそれに比べるとまだまだだし、先輩刑事に対しても昔からの年功序列を気にしているという私怨の気持ちから少々態度が悪かった。
それはこの世界の事をまだほとんど知らない少女にとっても例外ではなく、世界が決して優しい物ではなく、むしろ残酷で厳しい物だと教えなくてはならないという勝手な使命感から、そんな残酷な事を平気で口にした。
もっとも、女にしてみれば幼いうちから甘やかされて育ってもまともな大人には育たないので、これから辛いだろうからこそ、ここで厳しい現実を突きつけた方が今後少女が強く育つであろうと確信しての言葉でもあった。
彼女に過去大切な人が出来た経験や、子供が居た経験があればまた違ったかもしれない。
しかしながら、女にそんな経験はなく、未だに男という生き物とは一線を引いて生活をしている近年珍しい人種だった。
少女にとって、それは不幸な事だった。
もちろん亡くなったという意味はいくら幼くても分かる。なにせ、記憶はおぼろげながらもお祖母ちゃんのお葬式に出た事だってあるし、母の会社の人が病気で亡くなった時だって、お通夜に行ったことがあったからだ。
父が経営者ということと、母が一流企業の重役というポストに収まっていたからこそ、社内の人間や身内に不幸があった場合にそういった場に行くことが多く、離れるのが嫌だと駄々をこねて毎度まいど着いて行っていた事も、ここでは少女に厳しい現実を理解させるための手伝いをしていた。
そこから、病院内をどこをどう歩いたのか、記憶はない。
ただ、女の警察官に手を引かれて霊安室まで案内され、警察関係者が数名集っていたので怖かった。それくらいしか、初めの印象は無かった。
しかし、少女の自室よりも狭苦しいその空間に横たわっている2つの体を見た瞬間、少女の体を深い悲しみと絶望が襲った。
「ぱぱ……まま……」
今までの死は、ほとんど感情に響かず葬式でも泣いている人がほとんどだったにも関わらず涙の一滴すら出なかったので、密かに自分はおかしいかもと父に相談していたほどだった。
そんな時、彼女の父親は「おかしくないよ」と優しく笑って頭を撫でてくれたものだが、それがこれ以上ないほど残酷な形で証明された結果となった。
少女は瞬く間に膝から崩れ落ち、瞳の奥からポロポロと雫を垂らした。
両親の体にはあちこちに赤黒い跡があり、痛々しいという言葉でも生ぬるいくらいの傷が全身に広がっており、その顔は苦痛に歪んでいるように見えた。
顔には白い布がかけられているのに、少女にはその布の下が透けて見えるようで瞬く間に鼓膜を破壊するような絶叫で泣き喚いた。
それから、警察の人が幼い少女の代わりに必要な手続きを全て行ってくれたので少女がこの先生きていくのに困らないだけのお金を使えるようにはなった。
だが、結局事故の影響で父親のスマホは修復が不可能なほど破壊されており、辛うじて無事だった母親の携帯にも頼れる親戚の情報は一切残されていなかった。
警察は民事に不介入。たとえ少女が1人残されることになったとしても、それ以上の事が出来る訳ではない。
まだ7歳ばかりの少女を1人ぼっちにしてしまう事に関して罪悪感が無かったわけではないのだが、警察という立場上はそれ以上の事は出来ないので諦めるしかなかった。
それから、少女は1人で生きていくことになった。
それは比喩でもなんでもなく、蝶よ花よと大切に、壊れ物のように丁重に育てられてきた少女の人生は、瞬く間に一変した。
誰も頼る事が出来ず、誰も助けてくれない絶望の淵に立たされ、たった1人で生きる事になったのだ。
………………
…………
……
少女は、数年ぶりに味わう深い絶望にただ叫んでいた。
マッハとイシュタルが自分になんら相談することなくダンジョンを出て行き、それも消息が全く掴めなかったので魔力の半分ほどを使用して数百という数の召喚獣を召喚し、ダンジョン周辺を徹底的に探させるほど心配していた。
装備は万全なれど絶対ではないし、何よりトライソンと名乗る女には何かヤバいと感じさせる確かな狂気を感じた。
それは、初めて会った時には一切感じなかった物だ。
より濃厚に死の香りを漂わせる女に恐怖を感じ、この世界で初めて魔力の残量が残り3割になるまで魔法を行使し、軽く意識が飛びそうになりつつもケルヌンノスに力を借りてなんとかここまで辿り着いた。
そして2人が無事だったことにホッと息を吐いて、一瞬だけ瞼を閉じた。
普段であれば瞬きという単純すぎる行為にしか満たないそれは、トライソンが動き出したタイミングと絶妙にマッチしてしまった。
もしもそのタイミングが合わなければヒナは彼女の視線から本来の目的であるイシュタルの存在に気付き、すぐさま魔法を発動して女の計画を真正面から防ぐことに成功していただろう。
だが……それが出来なかったせいで――自分の失態のせいで、人が死んでしまった。
その、自分に対する怒りと悲しみ、そして死んでしまった少女に抱いていた少なくない興味と好意的な感情が、少女の心をわずかに破壊した。
「あ~……やっば。そうそう、それだよそれ! やっぱりお姉ちゃんは凄いや! 私が期待した通り……いや、それ以上の愛を、殺意を、感情を、私に向けてくれるんだね! いつも、いつでも、いつまでも、こっちの想像を超えてくるお姉ちゃんで居てくれて、私はとっても嬉しいよっ! 私ももっとも~っと、お姉ちゃんのこと好きになっちゃう!」
「……」
ヒナはその瞬間、ほぼ感覚で魔法を発動した。
詠唱なんて必要ない。むしろそんなものは煩わしいとでも言いたげに防御魔法を解除しつつ、自分が放てる最大威力の魔法をそのままぶっ放す。
ソロモンの魔導書の効果もあって本来の数倍の威力を誇る魔王の怒りは、女の体を刺し貫いた。
だが、当然ながら女の命が終わる事は――