116話 本来あるべき姿
メリーナの体を銀色の刃が貫いた数秒後、ようやく事態を把握したヒナがすぐさま本能に従ってその場にドーム状の防御魔法を展開させる。
そこにマッハは含まれておらず、彼女は武器を失ったレベリオを抑えるために既に刀を振るっていた。
「きさまぁぁぁ!」
「あははははは! 今ので反応されるとは思わなかったやぁ。いや、大したもんだよねー」
マッハにその右腕を切り落とされようが、その腹部を刻まれて上半身が地面へと崩れ落ちようが、彼女の狂気に満ちた笑みは消える事は無かった。
元々メリーナに関してはこの場で殺すつもりはなかった。
もちろん彼女を愛している以上遅かれ早かれその命は奪うつもりだったが、それはこの場でするべきことではない。
メリーナにだって自分の事を愛してほしいし、ヒナ程とは言わずともその殺意の一端だけでも向けられたいと思うのは、別に不思議なことではない。
確かに愛する者を1人に絞らないのは問題だとも思うが、彼女に言わせてみればヒナは自分の嫁であり夫であり、人生の伴侶だ。
そしてマッハ達姉妹は自分達の子供。もしくはヒナの親族という扱いで、子供に向ける好きだとか可愛いだとかの感情が大部分を占めており、ヒナに対するそれとはほんの少しだけ愛情の向けられているベクトルが違う。
分かりやすく言えば、彼女と女の推し……のような関係であり、お互いに好きという言葉も愛という言葉も、向ける感情とそれを表す言葉それ自体は同じだが、好きという感情の向けられるベクトルが違うのだ。
メリーナはそれで言うならば無論マッハ達に近く、レベリオが目論んでいたのはこの場での戦闘能力が一番低いヒナの姉妹の抹殺。つまるところ、イシュタルの暗殺だった。
それは、ここまで怖いくらいに計画が上手く行く事も含め、マッハが自分を警戒して下手に身動きが取れないという卓越した能力と技量を持っている事が大前提だった。
そのうえでヒナの最愛の人物の1人であるイシュタルを殺害出来たのなら、NPCが本物の命を持って生活しているこの世界で生きている彼女にとって、それは本物の殺意を得るに十分足りると思ったのだ。
実際メリーナの見た未来ではそうなっていたし、魔王や残った2人の怒りによってレベリオ自身が死ぬことになろうともそれはそれで構わないと思っていた。
ただ、彼女は仮にそうなったとしても自分は“この場では”生き残る事が出来ると思っていたし、復讐対象の自分が生きている限り彼女達が死を選ぶことは無いだろうということまで想定していた。
レベリオにとってヒナは特別だ。
自死なんて当然許すはずもなく、自分が殺すか自分が殺されてからの自死しか認めていない。
自分が生きている間の自死なんて絶対にさせないし、そもそもそんな選択肢は選ばせないようにその時そのときで最善の行動を取る。
今回、それはつい数秒前まで完璧に遂行出来ていた。あのままであれば確実にイシュタルの命を奪えたはずなのだ。それを――
「ヒナ……さん……」
「ちょっ! あの……えっと……たるちゃん、早く血止めて! この人死んじゃう!」
それを……魔王やマッハですら予期できなかった自分の計画をほぼ完璧に把握し、自らを盾にすることでその計画を阻止するなんて。
あまつさえ、その腕に抱かれながら人生に幕を閉じるなんて、なんて羨ましいんだ。そう、思わざるを得なかった。
いくら愛するメリーナだろうともレベリオの心の内は嫉妬の炎で荒れ狂い、ヒナが悲しみのあまり流した涙を見てペロリと舌なめずりをするほどに興奮していた。
ただそれとは別で、彼女の心の内には激しい嫉妬心がワラワラと燃え滾っていたのだ。
胸に刺さった愛武器は惜しいけれど、あの魔法はアイテムが無ければ解くことはできないし、ヒナ程の力があればその効果はかなり持続するはずだ。
そんな状態で無理をしてあの魔法を破ろうとしても、その前にマッハに止められるだけでなんの意味も無い。
「きさまきさまきさま! なんで死なない! なんでなんでなんでなんで! なんで死なないんだよ!」
「ふふふ。そんなに私の事を考えてくれるなんて嬉しいなぁ……。そうそう、不思議だよね。そこの何にも分かってない奴らもそうだけど、皆普通は死ぬってレベルの傷を受けても死なないもんね。不思議だよねふしぎだよね! あはははは!」
体を切り刻まれようが、腹を裂かれて臓物をそこら中にまき散らそうが、首と胴を何度も何度も別れさせられようとも、女はあえて瞬時に体を再生させてその歪んだ笑みをその美しい顔に張り付けた。
彼女の瞳は完全に狂人のそれであり、その姿には既に体の再生を終わらせたディアボロスの面々も息を呑んで成り行きを見守っているしかできなかった。
ただ彼女達に1つ言える事は、本来の目的は達成された。
その手段や過程はどうであれ、ディアボロス内での掟の一つに『最終的に任務を達成出来るのならどんな手を使おうともお咎めは無い』という物がある。
途中過程で裏切っていようとも、自分達を殺そうと画策していたとしても、今回の任務の最終目的であるメリーナ暗殺をやり遂げたのなら、彼女を責める事は出来ない。
なにせ、それがディアボロスの数少ない掟だから。
彼女ももちろんそれは分かっており、腹立たしいだろうが決して自分には手を出せない仲間達を見てさらに笑みを深くし、視線の先で息絶えようとしている愛する少女へ視線を向けた。
「たるちゃん! たるちゃん、早く治して! アイテムも使って良いから!」
「……ヒナねぇ、無理だよ。この傷は……。だってこの人……心臓がもう、動いてないもん……」
「そんなこと言わないで! なんとかなるでしょ!? 時を巻き戻す系のアイテムだって持ってるじゃん!」
「あれは物体にだけ有効で、人体に影響は及ぼさない……。ヒナねぇが、一番よく分かってるはず……」
ポロっと瞳の端から涙を流したイシュタルは、これで何度目の失敗だろうと静かに顔を俯けた。
最初の失敗はヒナをブリタニア王国の騎士団の連中から守れなかった事。
その次の失敗は、ダンジョンで最初にトライソンと相対した時、マッハを危険に晒した事。
今まで、自分のせいで人の命が奪われるかもしれないという可能性は確かにあった。
しかし、そのどれも守るべき対象が自分よりも遥かに強かったという事もあり、どこか安心していたのも確かだった。
ヒナはなんだかんだ言っても自分の身やマッハ達3人の身に危険が及んだ時には助けてくれるし、マッハに関しても膨大なHPを一瞬で奪い去る事が出来なければ自分がなんとか出来る。
蘇生魔法の類がプレイヤーに効果が無いことは既に証明されているし、プレイヤーの血を引いている者なら有効であることも分かっている。
それでも、ヒナ達はそのプレイヤーの中でも別格の強さを誇っていたし、なんだかんだ自分が“それなりに”しっかりしていれば大丈夫。そう、思っていた。
だが、今回はその驕りが、ヒナを想うその気持ちが、裏目に出てしまった。
結果、メリーナが助けてくれなければ、その驕りの代償を支払う事になっていたのは他ならぬ自分だった。
その後悔と絶望。そして、見た事も無いようなヒナの動揺と悲しみの表情を創り出してしまった責任感で、その小さな体は押し潰されようとしていた。
「そ、そんなわけないよ……。まだなにか……まだなにか方法があるはずだよ……。さがして……」
「ヒナねぇ……私には……」
「っ! イシュタル!」
腕に抱いたメリーナに振動が行かないように最大限注意しつつ、ヒナは叫んだ。
イシュタルの服の裾をギュッと掴み、その瞳に激情と深い悲しみを募らせ、叫んだ。
ヒナは、恥ずかしい思いをしつつも相手が女の子という事もあって、メリーナの想いに対してはそこまでの恐怖を感じていなかった。
資料室での日々は確かに忘れたい思い出であると同時に、誰かにここまで純粋な好意を向けられた経験が無かったせいで、純粋にその人と話してみたいと思ったほどだ。
エリンが自分に向けてきているそれは、マッハ達と同じような親愛。それは分かっている。
だが、メリーナという少女が向けてきているそれは疑いようもなく愛情そのものだった。それも、両親から注がれるような愛ではなく、恋と分類される類のものだと自覚していた。
だから、聞いてみたかった。自分のどこにそんなに惹かれ、どうしてそこまで想ってくれるのか……と。
人とは、自分が思っている以上の好意を人にぶつけられると、嫌悪感を抱いている相手ではない限り、一定の興味をその人物に持つように出来ている。
メリーナの愛が人のそれの何倍もの濃度であることに疑いようは無いが、他の人のそれと比べる事が出来ないヒナにとって、それは通常の何倍も濃い物でも、まして薄い物でもない。
それが普通な事であり、世の中のカップルが全員こんな感じでお互いの事を好きでいるのかな……と思うだけだ。
だから別に重いとか軽いとかそんな次元で物を考える事はなく、レベリオが向けてくる愛が異常という事には気付きつつも、メリーナのそれに不快感を示す事は無かった。
そんな相手が目の前で、それも自分の対応が数秒遅れたばかりに命を落とすとなれば、それを看過出来るはずがない。
手に伝わるドロドロとした生々しい血の感触は二度と味わいたくないと思っていた死の感覚に近い物があり、霊安室で変わり果てた両親と再会した時のような深い絶望が彼女を襲う。
「いいから、回復魔法かけて……。まだ、戻るかもしれない……」
「ヒナ、さん……」
「あなたは喋らないで! イシュタル、早くして!」
「もう、大丈夫……です……」
口の端から血を流しつつ、肺の中に残された残り僅かな酸素を使い、メリーナは必至で言葉を紡いだ。
自分の想い人が、普段は理想の家族のはずの名前も知らない少女と……自分を助けてくれた少女と喧嘩をするところなど、見たくなかった。
それも、自分が選んだ選択で相手を悲しませるなんて……そんなこと、絶対にあってはならなかった。
「わたしが……のぞんだん、です……。あなたのとなりで……ひなさんのとなりで……いきる、ことを……」
「だから喋らないで! イシュタル、いいから早く回復魔法かけて!」
己の大好きな姉の言葉にも、イシュタルは首を縦に触れなかった。
初めて見る自分にとって大切な人の死もそうだが、何より自分の失態のせいで人の命が失われる事の恐怖を、全身で味わっていたのだ。
良い意味でも悪い意味でも幼い子供の彼女達は、マッハは怒りで我を忘れ、ケルヌンノスは怒りで逆に身動きが取れず、イシュタルは恐怖で動けなくなっていた。
それは、ヒナが彼女達に与えた性格が災いしているともとれるし、その非情な現実を受け入れるための限られた時間と捉える事も出来る。
なにせ、彼女達は防御魔法や支援魔法は別として、回復魔法に関しては完全にイシュタルに頼っている。彼女が動かなければ、癒すというその行為自体、出来るはずがない。
いや、ヒナだって本当は分かっている。
掌に伝わってくるはずの心臓の鼓動が無くなっている事も、メリーナの体がだんだんと冷たくなってきているのも……。そして、この傷はもうどうしようも無い事も……全て、気付いていた。
だがそんな事、受け入れられるはずがない。
「私は魔王なんだ……。出来ない事なんて……できないことなんて……なにもないんだ……。どうしようもないことなんて……なにもできないことなんて……あっちゃダメなんだ……」
うわ言のように呟き、唯一ケルヌンノスに託さず自分が所持している服従系の魔法で無理やりにでもイシュタルを従わせようと魔力を練り始める。
しかし、誰よりもヒナの事を想っているメリーナだからこそ……。いや、その手に抱かれながらその視線の動きを誰よりも愛おしそうに見つめていた少女だからこそ、気付けた。
そしてその右手を必死で動かし、彼女の頬に優しく触れる。
ヒナの美しくもどこか幼さの残るその顔に赤い液体がベットリと付着して少しだけ罪悪感に見舞われるが、それを懸命に隅の方に追いやりつつ、必死で口を歪めて笑顔を作る。
そして、肺の中に残っていた最後の酸素を使ってイシュタルへと言葉を向けた。
最愛の人物であるヒナに対して自分の気持ちを伝えるのではなく、唯一残してきた心残りである雛鳥に対しての伝言を頼むでもなく、残された本当に少ない時間を、イシュタルの為に使う事を決めたのだ。
「わたしを……わたしを、たすけてくれてありがとう……。そのおんは……かえせた……でしょ?」
「っ!」
意識が朦朧とし、視界がだんだんとぼやけてくる。
ヒナの頬に触れている右手も、いつの間にか自分の血まみれの腹へと落ちてきていた。もう、体中のほとんどすべての感覚が消えていた。
それでも、イシュタルの驚いたような、泣き叫びたそうな涙と鼻水で溢れた幼い顔は、なぜかしっかりと確認できた。
「おねえちゃんと……みんなと、なかよく……ね。あなたは、わるくない……。これ……は、わたしの……。わたしの、せき――」
「っ! メリーナ!」
イシュタルのその言葉が鼓膜を揺らしたその瞬間、少女の瞳から光が消えた。
魂は天へと上り、どのような手段を使おうとも二度と地上へと返ってくることはない。それが彼女達に定められた運命であり、この世界の異物が本来あるべき姿に帰る場所だ。
いつしか、彼女の体から溢れ出る真っ赤な液体はその流れを止め、目の端からは綺麗な雫が一筋彼女の頬を伝い、ヒナの小さな指へと流れ落ちた。
『魂の導き手』
一縷の望みを託して、半ば放心状態だったケルヌンノスが密かに発動させた蘇生スキルでも、その魂の在処は掴めなかった。
アンデッドであり、魂や死体の扱いには4人の中で誰よりも長けている彼女ですらそうなのだ。その場に、メリーナを蘇らせることの出来る人間なんて、もう、存在していない。
世界のあるべき姿であり真理。それは……失われた命は、二度と戻らない。
人生で2度目の、自分にとって大切な人の……大切になるかもしれなかった人の死を目の当たりにして、ヒナは自分の心の中で何かが壊れる音を聞いた。
次に彼女が聞いた音は、世界が割れるような耳障りな音だった。
それが怒りと悲しみ、そして絶望に支配された自分が発した声だと理解するには、まだまだ時間が足りなかった。
「いやああああああああ!」