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111話 レベリオという女と愛という感情

 どろりとした赤い液体が足元を伝い、裸足の足裏にベットリとその感覚が粘りついてくる。

 一歩歩けばネチャッという気持ちの悪い音が響くその空間に、1人佇んでいる女がいた。


 その空間は女の自室という訳では無い。今さっき出会った名前も性格も、趣味も嗜好も何も知らない男の部屋だ。

 出会い系アプリで最寄りの駅に集合し、肌の露出が激しい服を着ていたせいもあって、女が男の部屋に上がり込むのはそこまで難しい事では無かった。


 これは女の持論だが、アプリで少し甘い言葉をかければホイホイ寄ってくる男は全員体目的。なら、こちらがそれを差し出す用意があると分かれば疑う事もなく家にあげる。


 女は自分の容姿には自信があったし、事実女の容姿はモデルや女優と言われてもすんなり頷いてしまいそうなほど整っており、その体はグラビアでもやっているのかと言わんばかりに恵まれていた。

 その姿を見て欲情しない男など男ではないとまで言える、完璧に近い容姿と体を持っていたのだ。

 そんな女を家に迎え入れた男達は、総じてその服の下に広がるであろう楽園を夢見て脳内をピンク色に染め上げ、興奮で下半身を苛立たせたことだろう。


 そんなだから、女が突如として牙を向いて来たとしても、特に抵抗することなくこの世を去っていった。


「はぁ……。つまんない……」


 女は、右手に持ったこの家のキッチンに置いてあった包丁を床に落としつつ、はぁと深い深いため息を吐いた。

 女の名前は■■。趣味殺人、特技殺人という、異様すぎる事を好んでいる女だった。


 その恵まれた体は殺人の対象を選ぶのに苦労せず、それでいて被害者達とは面識も無いし、アプリで出会ったとしても携帯そのものを現場から持ち去ればその痕跡も残らない。

 いつもよりメイクを濃くし、男と会う時はサングラスで目元を隠しているので仮に監視カメラにその姿が写っていようと決定的な証拠にはならない。


 最近テレビやネットのニュースは、都内で次々と発見されている惨殺死体をこぞって取り上げつつも、警察が犯人の手がかりを掴めていないと報じていた。

 それらが全て同一人物の犯行であることは伏せられていたが、世間では恐ろしい連続殺人事件だと既に周知されていた。

 だが先にも言ったように、警察はこの事件に関して未だに有力な手がかりを掴めていなかった。


「つまんないな~……。なにか、面白いこと起こんないかなぁ……」


 女は、部屋に残っているであろう自分に繋がる証拠を淡々と処分しつつ、足裏に伝わる血液の感覚を少しだけ嬉しそうに噛み締める。

 やがて5分ほどすると全ての証拠を隠滅出来たと判断し、男の携帯を持ち帰りつつ家を出る。


 足元には血がベットリと付着しているが、当然靴を履いていればそれは他人からは分からないし、服に返り血が飛んでもいい様に、持参しているバッグの中に着替えとビニール袋を入れている。


 彼女はまた、街中を男共の目を釘付けにしつつ堂々と歩き、先程殺害した男と待ち合わせた駅に戻って来た。


「この世は……腐り切ってるなぁ」


 駅内の構内にある無数の防犯カメラを横目で見つつ、これだけ証拠になりそうな物を残しているのに……。今日で17人目の被害者が出たというのに……。

 それでも、未だに捜査の手が伸びてこない事に、女は辟易としていた。


 捕まりたいという訳では無い。死刑になりたいという訳でもない。ただ、女は退屈だったのだ。

 仕事はしているがその仕事が充実している訳でもないし、特に嫌な思いをしている訳でも良い思いをしている訳でもない。

 ただ、仕事をしている人間なら誰でも分かるだろうが、日々が同じことの繰り返しで去っていく。

 いつしかその生活にも慣れてしまい、仕事も生活もどこか惰性的に行うようになってしまう。

 女は、それが許せなかった。


 ソーシャルゲームのスタミナを惰性で消化するように、もう面白くないと思いながらも初期の方から追ってるという理由だけで漫画や小説の続巻を買ってしまうように。惰性で何かを行うという事に対して、女は人よりも強い嫌悪感と退屈、怒りを感じる性格だった。


 そんな彼女が、日々を惰性で生きる事に……惰性で過ごしてしまう事に、納得するはずがない。

 そのありふれた日常を変えるために始め、そして趣味としたものが殺人だったのだ。


 通常の精神状態では、この話を聞いても「異常だ」と、その一言で済ませてしまうだろう。

 しかしながら、女は誰になんと言われようと『人を殺した理由』を聞かれれば、迷うことなくこう言うだろう。

「だって、退屈だったから」と……。


 被害者遺族の事など特に考えるまでもなく、それでいて自分に下るだろう極刑という判決が妥当な物であると分かっていつつも、平然と、なんの後悔も無く、そう言い放つだろう。

 たとえ彼女が逮捕され、弁護人が心神喪失や心神耗弱で無罪や減刑を訴えようとしても、彼女は一貫して「自分はおかしくない。おかしいのはこの世界であり、そこで生きる人間だ」と、高らかに宣言するはずだ。


「私を……助けて……」


 そんな異常者とも言える女は、ブラブラと特に意味も無く駅の構内をうろついていた。

 しかし、ふとそんな声を聞いてピタリと足を止めた。


「……?」


 幼い少女の声だった。迷子だろうか。

 迷子なら、駅の迷子センターか職員がいる場所にでも送り届けた方が良いのではないか。女が足を止めたのは、意外にもそんなまともな理由だった。


 女は殺人を趣味とし、最低でも週に1人、多い時に3人を殺害していた。

 だが、それでもまだ一般常識というか、弱い者には救いの手を差し伸べるべきだという社会通念、人として当たり前の良心は持っていた。

 ただ彼女が許せないのは『日々を惰性で生きる』という行為そのものであり、その件に大きなモニターの前で泣きそうな顔をしている幼い少女は関係なかった。


「お嬢ちゃ――」


 女が声をかけようとしたその時、目の前のモニターに映像が投映され、大音量のゲーム音と共に女の声のナレーションが耳に響いて来た。

 その声に自分の声が掻き消され少しだけ不快な気分になるも、女はそれくらいでは既に内心を顔に出さない程修羅場をくぐってきていた。

 その美しい顔には作っていると分からないような作り笑いが張り付けられ、少しだけしゃがみ込むようにして少女の肩へ右手を――


『ラグナロク第3回イベント! 週末に開催! 2連続首位を収めているヒナに勝てる者は現れるのか!?』


 あまりにも大きなそのナレーションに、思わずビクッと肩を震わせてしまう。

 流石の女でも、そこまでされると不快な感情を顔に映さずに済ませるのは非常に困難だったようで、少女に差し伸べようとしていた救いの手を瞬く間に引っ込め、声が聞こえて来たモニターを睨みつける。


(……誰だ、こいつ)


 女がヒナを最初に見た時に浮かんで来た感情は、純粋な怒りと殺意、そしてちょっぴりの好奇心だった。


 女は今までの20年余りの人生でゲームという物をプレイしたことがほとんどなく、あったとしてもそこまでハマることなく数日で投げ出してきていた。

 なにせ、そのほとんどのゲームが、ある程度進めて行けば、女が嫌いな“惰性でプレイする”ことになるだろうと早々に察してしまったからだ。


 しかし、そんな女だからこそ、その広告に映されている少女には不思議と心を惹かれた。

 女が好きという訳でもなく、画面に映っているプレイヤーだろう少女に何かしらの好意的な感情を抱いたわけでもない。

 ただ、彼女の直感が、彼女の本能の部分に囁いていた。彼女こそ、お前を退屈から救い出してくれる存在だ……と。


 気が付けば、女は少女から少し離れた、通行人の邪魔にならない位置で少女と同じようにそのモニターの広告から目が離せなくなっていた。

 なんてことないゲームの広告が、孤独だった少女と殺人鬼。似ても似つかないような2人の人間を長時間その場に拘束するという異常事態が発生し、通行人達は美しすぎる女に目を奪われつつも、自分には一生縁のない女性だろうと遠巻きに眺めるに留めた。


 女は知らなかったが、女がその場に留まってほとんどの大人達の目を引き付けていたのも、少女が迷子だと通報されなかった原因の一端だ。

 少女の生まれ持った運はこんなところでも密かに発揮されていたのだが、この場にいる全員がその事に気付くことは無い。


 やがて少女が母親らしき人物と共に帰っても、女はその場に居座り続けた。

 何度も何度もその広告を目に焼き付け、画面の中で戦っている少女の雄姿を脳裏に焼き付けていた。


 女がようやくその場を去ったのは、女がそこで足を止めてから実に6時間ほどが経過した後だった。


 それほどまでに長い時間駅の構内で足を止めていた女だったが、その日のうちにラグナロクのゲームをインストールして、自室のパソコンから初期設定を済ませた。

 その後すぐさまランキングを確認してその1番上に名前を連ねているヒナのアバターを確認すると、自分の想像通り、広告に写っていた少女だと確信する。


(……この子、惰性でプレイしてる訳じゃ……ない。本気で、この世界で生きてるんだ……)


 何も知らないゲームの世界。

 今まで経験したことの無い、VRゲーム以外のバーチャルの世界。

 ゲームのシステムなど、つい数分前に軽い説明を受けて全体の数パーセントにしか満たないゲーム性しか分かっていない女でも、確信出来ることがあった。

 このヒナという少女が、単なる遊びの延長でこのゲームをプレイしている訳では無いという事だ。


 なぜそう感じたのか。なぜそう思ったのか。詳しいことは女自身にも分からなかった。

 だが、ランキング2位に位置付けている『BLUE』という名のアメリカ国籍のプレイヤーからはそんなものを感じ取れず、それでいてこいつは間違いなく遊びの延長でしかやっていないと嫌悪感を催すほどだ。

 ついでに言えば、ランキングの3位に名前を連ねていた『アーサー』からは別種の“遊び”という匂いを本能的に感じ取っていたのだが、そちらは嫌悪感や殺意というよりも、興味を失せさせるような圧倒的無関心の気持ちしか湧いてこなかった。


 ともかく、女がランキングの上位3名を見て強く興味を惹かれ、それでいてこのゲームを遊びではなく“本気”でプレイし、この世界で生きているかのように感じ取れたプレイヤーは、ヒナだけだった。


 そしてそれは、女にとっては酷く衝撃を受ける物だった。


 ゲームは遊びでやる物。それは誰もが抱いている感情であり、女もそれは例外では無かった。

 そういう感覚がどうにも好きになれなかったので今までは長く続かなかったのだが、ヒナから感じ取れるのはそういった浮ついた気持ちではなく、この世界しか生きる場所が無いとでも訴えてくるような、必死であり、悲痛な叫びだった。

 その叫びを女は本能で感じ取り、初めて味わうその衝撃と感覚で胸を高鳴らせ、躍らせ、その鼓動をかつてないほどに早めた。


 この瞬間、女は世界から退屈という色を無くし、生きる世界をヒナの住む世界へと強制的に移動させた。

 仕事も辞めたし殺人も止めた。

 稼いでいた金は全てそのゲームにつぎ込んでヒナに迫る事だけを考え、退屈だったあの日々を全て捨て、新たに刺激的で面白さが溢れるバーチャルの世界へと移動したのだ。


 いつからか、自分をあの世界から救い出してくれたその人物に恋心……いや、そんな安っぽい言葉で表すには到底無理な程の愛を抱くようになった。

 あの時一緒にモニターを眺めていた少女も、恐らくは自分と似たような感覚に陥っていた事だろう。

 彼女も日々を退屈に、無意味に、惰性で生きてきていた。

 だがそんな時、ヒナに救いの手を差し出され、その手を力強く握り締めて少女に恋焦がれたからこそ、あの場で何時間も足を止めていたのだろう。


 女は、勝手にそう解釈した。


「お姉ちゃん……。私の……私だけの……お姉ちゃん……」


 女を退屈な世界から救い出してくれたのは感謝してもしきれない。

 今では惰性で生きるという言葉を忘れ、比喩でもなんでもなくラグナロクに全てを賭け、その世界で生きている住人の1人になったのだ。


 女がヒナに対し重たすぎるその愛を向けたのだって、彼女の性格や送っていた日々を考えれば当然だと、そう言えるのもまた事実だった。

 だが、あの場で足を止めていた少女と違ったのは、女の愛し方とその異常なまでの執着心。そして嫉妬心、独占欲、性欲、愛情といった全ての感情が、人の数百倍というレベルで重たい事だった。


 彼女に近付く他の男や女は誰であろうと許せないし、彼女が他の人物に笑顔を向けようものならその人物を本気で殺してやりたいと思うほどに激しく嫉妬した。

 自分という人が居ながら、なぜ他の人間と親しくするのか。笑顔を向けるのか。そう思うほどに、女の愛は歪んでいた。


 幸いにもヒナが誰かと親しくなることは無かったのでその感情はしばらく表に出る事は無かった。

 女は、自分だけのヒナを、浅ましくも自身のギルドに来てほしいと勧誘する者達に罰を与え、いらぬ虫が寄り付かないようにするためPK集団であるディアボロスに入った。

 殺人を生業としているその集団は、実際に連続殺人鬼として活動し、今や迷宮入りとなっている事件の主犯である彼女には居心地が良かった。


 だがしかし、女の性格が豹変したのはヒナがマッハを創り出した翌日だった。


 当初、女はヒナが創り出したマッハに激しく嫉妬し、激怒し、かつてないほどの殺意を覚えた。

 出来る事なら今すぐにでも彼女を殺し、その座を奪い取ってやりたい。いや、事実そう出来るだけの力を、彼女はその時点で有していた。


「私のお姉ちゃんなのに……。私だけの、お姉ちゃんなのに……」


 狩場で見かける彼女達は、まるで本当の姉妹のように会話をし、マッハはヒナの事を姉と呼んで慕っていた。

 単なるゲームの中のやり取りだと割り切れる者ならそこまで気にしなかっただろう。

 それも、プレイヤーではなく単なるNPC相手の会話。相手は生きている人間でもなければ、データ上でしか存在していない高性能AIだ。気にする方がおかしいとも言える。


 しかし、女はラグナロクを単なるゲームだとは考えていなかった。

 女にとってそこは、今や唯一自分が生きていられる世界であり、唯一生きる希望を見いだせた世界であり、想い人が暮らす世界でもあった。


 そんな、いわば神聖なる世界に……2人だけの、2人だけの為の神聖なる世界のはずなのに、そこに突如として乱入してきた少女を許せるはずがなかった。


「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さな許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さな許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない」


 頭を抱え、長い黒髪を引きちぎり、瞳孔を開きながら、女は自室で発狂した。

 念仏のように、呪詛のように、まるで彼氏に浮気されていたと知った時のように、ただひたすら『許さない』という言葉を吐き出した。


 彼女はその瞬間、ヒナに対して初めて殺意を覚えた。それも、今まで数多く殺人を犯してきた彼女が初めて本気で覚えた、好奇心や退屈しのぎなんかからくる殺意ではない、正真正銘本物の殺意だった。

 だが同時に、女は理解していた。ヒナにとって、マッハの存在は唯一の家族である事。心の拠り所、精神安定剤と言っても過言ではない存在である事を。

 そして……彼女には、マッハしか頼れる相手がおらず、縋り付ける相手もいないということを。


 そう思えば、心の奥底から湧き上がって来た殺意や怒りといった負の感情は、完全に収まりはしないものの、多少の落ち着きを見せた。

 ペットやぬいぐるみを愛でるような物。必死に自分にそう言い聞かせ、ヒナに対するマッハの気持ちを黙認し、彼女がそう望んだのならと寛容な心で許した。


 しかし、この時から彼女はヒナに対し本物の殺意と恋心、愛……いや、もっと別の、好意的でありながらも決して通常のそれとは言えない、歪んだ感情を持つようになった。

 いつからかその感情は女の中で正当化され、整理され、もっとも都合の良い形で解釈される事となった。


 つまり『愛とは相手を殺す事であり、死してなお共に生きる事であり、変わり果てたその姿すらも余すことなく、それでいてその人の全てを受け入れ、好意的に思う事だ』と認識し、考えるようになった。


 生前の姿や性格、趣味嗜好や考え方や過去に至るまで、その人物をその人物至らしめている全てを愛し、尊敬し、崇拝し、好意的な感情を持つ。

 そして、その尊くも儚い命を自分の手で終わらせ、死してなお共に暮らし、共に生き、変わり果てた姿すら愛する事。

 それこそが本物の愛であり、自分がヒナに抱いている感情だ。


 女――レベリオは、本気でそう思っていた。


 そして、その愛とは何もヒナにだけ向けられている訳では無い。

 無論、絶対的で圧倒的にその感情を向ける対象がヒナであることに変わりはないし、それ以外の人間に向ける愛を数値化した際、それが10程度だとすれば、ヒナに向けるそれは億や兆、果ては那由多や不可思議、無量大数という、もはや意味の分からない領域に達している事は言うまでもない。


 そして、数値に換算すれば10程度にしか満たないと言っても、女から“愛”を向けられている対象は、無論ヒナの隣にいる事を許され、彼女自身が望んだ3人の姉妹と、それからもう1人。

 あの場で、自分と同じ感情をヒナに抱いたであろう、少女だった。

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