108話 ヒーローへ会いに
傍で働いてもらうと言った傍からマリリエッタと共にどこかへ消えてしまったトライソンに若干呆れつつ、そして困惑しつつも、メリーナは翌日から働いてくれるんだろうとあまり深く考えることなく自室へと戻った。
そして午後からは特に予定が入っていない事をカイザーに確認すると、すぐさまシャルティエットの予定を調べるように命じた。
彼女が今日の午後に少しでも時間が空いているようならすぐさまダンジョンに行く許可を貰い、必要であれば護衛部隊の中から数人を引き連れていく事も構わないと思っていた。
この商会でのメリーナの立場は、出自不明、若干記憶喪失気味だが、腕の立つ人見知りの少女……という感じだ。
一部ではそこにシャルティエットの愛人なんて噂も入っているのだが、それは事実無根なので無視して構わない。
だが、彼女の本来の立場としては護衛部隊所属のシャルティエット専属の護衛であり、今となってはその愛人云々という話も、捉えようによってはそうかもしれないと思わされるものに変貌していた。
もちろんこの専属護衛の話は彼女とシャルティエット本人、後は彼女達の身の回りの世話をしているカイザーを始めとした一部の執事やメイド達しか知らない事実だ。
これは彼女の好待遇を知った者達が変な気を起こさぬようにとの配慮であり、今のところ部隊隊長でもあるマリリエッタですら知らないであろう事だ。
そんな彼女が護衛対象であるシャルティエットの傍を離れるのには当然彼女の許可がいる。
ダンジョンを調べる……というような話し合いの場が持たれたのは記憶に新しいし、特に反対もされないだろうことは想像に難くない。
だが、だからと言って何も言わずに出て行くのはあまりにも礼儀を欠いた行為だ。
「シャルティエットお嬢様の午後の予定ですが、シェイクスピア楽団の方達との面会が入っているだけのようです。その面会も先程終わったとの事なので、メリーナ様が面会される時間は十分にあるかと思われます」
「そう。なら、すぐに行こう」
それから想定通り5分足らずの面会でダンジョンへ行く事の許可を取り付けた彼女は、早速周辺の荷物を纏め――と言ってもほとんどないが――カイザーにトライソンへの言伝を頼んだ。
働いてもらうとは言ったが、やる事は無いので自分が戻るまで戦闘訓練をするか、マリリエッタの指示の元に行動しておいてほしいという事を伝えたのだ。
トライソンもある程度は戦えると思っているメリーナだが、それでも自分やマリリエッタに比べるとこの世界の住人という事もあってまだまだだろう。
マリリエッタがプレイヤーなのではないかという説はメリーナの中にもここ最近になって浮上している事実ではあるのだが、今のところ不審な動きはないので見逃している。というか、深く考える前にヒナの話題が出てしまったせいで、そちらに大部分のリソースが割かれているのだ。
マリリエッタ……いや、フィーネを含めたディアボロスの面々にとって幸運だったのは、メリーナがマリリエッタの正体を少しでも疑い、その賢明な頭脳の一端でも向けていれば正体が見破られていただろうに、それが起こらなかったという事だ。
メリーナは母親の徹底的な英才教育と言えば聞こえは良い拷問のような教育方針のおかげで全国模試で一桁以下を取った事が無いほどの秀才だった。
そして、当然ながらその頭脳にはラグナロクで悪名を轟かせていたディアボロスの情報も入っている。
彼女達は覚えていないだろうが、メリーナだって全盛期やギルドに所属していた頃にディアボロスの襲撃を受けて戦った事がある。
彼女が戦って敗れたのはフィーネとアムニス、後はミセリアの3人だけだったが、ディアボロスの幹部級メンバーの情報も、ヒナ程ではないが持っている。
少なくとも、その装備の効果や所持しているスキルや魔法の数々。それは、引退するその日までメモとしてPCの片隅に残していたほどだ。
だが、そんな彼女でも数年も経てば流石にヒナ以外のプレイヤーの装いやアバターの外見など細やかな情報は忘れているし、マリリエッタより先にヒナがこの世界にいるという情報をもたらされてしまっては、そちらに意識の大部分を持っていかれるのは何も不思議な事ではない。
現段階ではお互いがお互いの事をあまり深く考えていないからこそその隙に付け込んで相手の正体や実力を見破るチャンスでもあったのだが、幸運にもフィーネらに女神が微笑んだという事だ。
「申し訳ないです、少しフィー……マリリエッタ師匠と話してました。本日からお世話になりますトライソンです」
ちょうど出発の準備が終わって、後は武器の点検をすれば出られるという状態になった頃、部屋にトライソンが帰還した。
その顔はどこか沈んでおり、マリリエッタに酷い叱責でもされたか、それとも何か別の事で気分が沈んでいるのだろうことは容易に想像が出来る。
だが、今のメリーナはヒナに会えるという期待と不安、そして残してきたもう1人の心残りである雛鳥への心配。そして自室を見られていないかという羞恥心でそれを気にする余裕はなかった。
その服に付着している赤い液体が血液であろうことはなんとなく察しているし、微妙に血の匂いがトライソンから漂ってくるのには気付いていたが、事が事なのでそれは一旦無視する。
「そうなの? ごめんね、今から私は行かなくちゃならないところがあって……」
「そうですか。では、お供します」
あまりに無関心……いや、事務的なその申し出に少しだけ違和感を覚えるが、彼女はすぐにヒナの妹である少女が発したという言葉を思い出していた。
あのダンジョンには、自分達以外の人が入れば死ぬだろうという、傲慢にも大袈裟にも思えるその忠告は、恐らく当たっている。
この世界の住人の基本レベルがかなり低いというのは既に分かり切っているし、そのダンジョンがもし本当にギルド『真昼の夜』のギルド本部であるなら、この世界の人を招き入れると非常に面倒な事態になりかねない。
その事についてどう説明するべきなのか一瞬迷ったが、どちらにせよ部下を何人か連れて行くようにシャルティエットから言われているので、マリリエッタと付き添いで来ていた2人も誘っていく事にした。
そうと決めたら行動は早く、彼女はすぐさまマリリエッタの自室へと足を向ける。
数日前まで寝床にしていた護衛部隊の宿舎は大きな木造の建物で、一見すると馬小屋か何かのようにも見える。
正確には馬小屋だった場所を宿舎に改造したのでそれは当たっているのだが、それでも妙に豪華な今の自室より、前まで暮らしていた部屋の方が、メリーナにとって居心地が良かった。
「あの3人を同行させるのですか?」
「うん。マリリエッタはかなり腕が立つし、見ただけでもあなたの付き添いに来てた2人が強いのは分かったからね。正直、少人数の方が私の都合も良いから」
「……参考までに、どちらに行かれるのか聞いてもよろしいですか? 武力が必要というのは分かりますが」
「最近ブリタニア王国周辺で発見されたダンジョンに行ってみたくて。丁度調査の話も出てたし、会いたい人がいるかもしれないから」
そう言った瞬間、本当に一瞬ではあった物のトライソンの頬が歪んだ気がした。それも、笑みとか喜色を浮かべたそれではなく、苦虫を嚙み潰したような苦し気な物だった。
ただ、メリーナが瞬きする間に「そうですか」と笑みを形作る事に成功したトライソンに不審な点は無く、彼女はただ気のせいかと流す事にして、まっすぐマリリエッタの部屋へと向かった。
宿舎は3階建てになっており、緊急時に対処する速度が速くなるようにと設計されているので、腕の立つ人間ほど入口から近い部分に部屋が割り当てられている。
護衛部隊の中でメリーナと同等の実力。加えて、剣士という魔力を必要としない存在であることを考慮するとそれ以上かもしれないマリリエッタは、もちろん入口から一番近い部屋を自室としている。
優しくそこをノックすると、中から少しだけ驚いたようなマリリエッタの普段より高めの声が響き渡る。
それだけでこの場に来たのが自分ではなく他の誰かだと思っているのだろうと察したメリーナは、中にいる彼女の耳に十分届くよう、普段よりも少し大きめの声で、それでいてどこか申し訳なさそうに言葉を口にした。
「メリーナです。少しお話よろしいですか?」
「ん、メリーナか。良いとも、入ってくれ」
いつも通りの声色に戻った彼女に、彼氏でも来る予定なのかと少しだけ気まずく思いつつ扉を開ける。
そこは自分の部屋と違って質素という言葉が最もふさわしいほど物品がほとんど置かれていない。
唯一彼女の仕事道具である制服や予備も含めた刀や剣が数本壁に飾られるようにして鞘の中でその役目が来る時を待っているが、言うなれば目立つ装飾品となればそれだけだ。
ベッドの上が少し乱れているのはそういう行為でもしていたのか、それともまったく別の、自分が考えるよりももっと健全な理由なのか。
ともかくそんなことを聞くわけにもいかないので、メリーナは部屋の中を懐かしそうに一瞥した後、ここに来た理由を口にする。
「実は、例のダンジョンに行くことが決まりまして、マリリエッタさんと一緒にどうかな、と。出来れば先程付き添いで来られていた2人も同行してほしいのですが、今どちらに?」
そう言うと、マリリエッタは意外そうな顔をした後チラリとトライソンへ視線を送り、しばらくうーんと考えるそぶりを見せた。
だが、数分も経たないうちに答えを出したのか、力強く頷いて問題ないとの返事を口にした。
「でも、いつ頃出発するつもりなのかな? ミセラブルとコレールは、今は私が頼んだ所用で出かけていてね。多分、明日になるまで戻っては来られないと思うんだ」
「明日……」
ダンジョンに行くのに、万が一のための戦力は必須だ。それは、メリーナの身を案じたシャルティエットから設けられた、ダンジョンに行く際の最低条件だ。
商会の戦力のおよそ3割強を同行させることを義務付けられており、1人で商会の護衛部隊全員とやり合えるだろうマリリエッタ1人でもその条件は十分に満たせる。
しかし、所用を任せていると言うのなら彼女達が帰ってくるまでマリリエッタもこの場から動けないと考えた方が良い。
もしもマリリエッタ以外の者達で商会の戦力3割強を集めようと思えば、実に護衛部隊の精鋭を数十人は連れて行かねばならず、万が一にもシャルティエットが襲撃された際に守り切れるかどうかは天の運に任せる事になってしまうだろう。
マリリエッタは忙しい身故、その非常事態に姿がないということも往々にして有り得るのだから。
そこまで手強い敵や刺客の情報は今のところ入っていないので心配のし過ぎだとは思うが、自分を助けてくれた恩人に対し、それはあまりに無責任という物だ。
ここで優先するべきは自分の気持ちではなく、恩人であるシャルティエットの命とその願い。
それをしっかりと弁えている彼女は、逸る気持ちをなんとか抑えて明日出発する事を決めた。
ヒナに会いに行くのに1日程度遅らせたところで問題は無いだろう。そう思っての決断だった。
「すみません、お仕事を貰って早速で申し訳ないのですが、明日は実家への引継ぎやら何やらで一度戻らなければならない事を思い出しまして……。ダンジョンへはマリリエッタとミセラブル達と向かってください」
「あ、そう……。いや、そうだよね。突然今日からお願いした私にも責任はあるし、その申し出も当然だよね。うん、分かった。無理言ってごめんね」
そう言ってトライソンへ頭を下げた彼女は、その日眠れぬ夜を過ごした。
それは、明日からの冒険や、長年待ち望んだ出会いに向けた期待から眼が冴えてしまった事による弊害なのか。
それとも胸の奥に引っ掛かっている激しい違和感が眠りを妨げているのか……。
いや、そんなものとは全く別……本能が何かヤバいと警鐘を鳴らしているせいで、変に不安になっているからなのか。
その答えが分かるまでは、あと少し時間がかかる。




