バロットの愛し方
指先から一筋の赤い糸が滴ると、焼けるような痛みが走った。反射的に離した包丁は真っ逆さまに落ちて床に刺さる。母の悲鳴の中で、少女の瞼は下りていった。
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鳥の雛を食べたことがあるか、と彼は問うた。行きつけの大衆レストランは満席で、彼の質問は数多の会話の中に溶けていった。
「若鶏ってこと?」
店員がグリルチキンをテーブルに置き、一礼して去ったところだった。ソファ側に座る彼はヒナミの発言に首を振った。
「チキンじゃない、ダックだよ。孵化寸前の卵をそのまま食べるの。結構グロいよ。フィリピンでそれを売ってた屋台を思い出した」
ハンバーグに添えられた目玉焼きを頬張りながら言うから、ヒナミは顔を顰めた。洋介のこういうところが苦手だ。そういえばつい先週も、自分がトマト嫌いだからって「こんなの食うなんて頭おかしい」みたいなことを言いながら、カプレーゼを食べるヒナミにうげって舌を出した。
それでもヒナミは、洋介とパートナーでいることを望んだ。彼は自分にはないものをずっと多く持っている。
「そういえばヒナミちゃん。来週おれ、中国だから」
「また海外出張?」
そうそう、と軽い口振りで洋介はハンバーグにナイフを落とす。正直食欲が失せてしまったヒナミは、チキンには手を付けず伝票を指で弄んだ。
「私も来週からテストだし、お互い忙しくなっちゃうね」
とは言うものの、ヒナミのやる気はすでになかった。馬鹿なんだもん、うちの女子校。適当に選んで適当に受験した学校だ、何もしなくても成績上位は獲れる。人は簡単に手に入るものから杜撰に扱いだす。そんなもんだ。
だが彼女たちは高校生のくせに、大学生や社会人の彼氏をつくる。「頭が悪けりゃ賢い男に頼ればいい」とのこと。ヒナミも、彼女らに倣って洋介を手に入れた。
「ヒナミちゃん? 冷めちゃうよ?」
洋介が心配そうにヒナミの顔を覗き込んだ。確かにさっきまでは鉄板がじゅうじゅういっていたのに、とうに静まり返ってしまっていた。
「あー……」
「洋介くんが食べちゃって」と言おうとしたがやめた。せっかく来たのにドリンクバーしか堪能していないのはなんだか悔しい。気は進まないままだったが、柔らかいチキンにナイフを入れた。やっぱり、自分は食にがめつい。
勉強は嫌い、学校も嫌い。でも食べることは好き。料理に詳しいわけではないが。それに食は、「ヒナミちゃんは千円でいいよ」なんて興ざめするようなことも言わない。
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「ただいまぁー」
ランチデートから直帰したヒナミは控えめに玄関のドアを開けた。十歳も離れた彼氏がいるなんて打ち明けていないから、なんだか後ろめたい。
声が聞こえなかったのか、返事はなく、包丁が忙しなくまな板にぶつかる音がキッチンから聞こえた。母が気づいたのはヒナミがリビングに姿を現したときだった。母は水を被ったかのように手を止め、包丁を隠した。
「おかえりなさい。楽しかった?」
ヒナミは母の挙動に何も言わなかった。
「うん。夕ご飯つくってるの? 手伝うよ」
鞄と上着を半ば雑に置いて、シンクで手を洗った。デートで食べたグリルチキンを忘れたかったのだ。
「ヒナミ、大丈夫だから」
せっかく娘と料理できる機会だというのに、母は乗り気でない。その理由は知っているけれど、鍋を監督するくらいは出来る自信がある。
「お母さんだって疲れてるでしょ。このお鍋見てればいい?」
「ヒナミ」
しん、と辺りが静まった。外から下校中の小学生の話し声が聞こえる。母は少し俯き、独り言のように冷たく呟いた。
「やめて、お願いだから」
鍋が沸騰してきたようで、ぐつぐつと音を立て始める。
「……洗濯物、しまっちゃうね」
ヒナミはリビングを出てベランダに向かった。母はあの出来事をまだ気にしている。
六年前、ヒナミが十歳のときそれは起こった。母とキッチンに立ち、母と同じように振舞えていることが誇らしかった。だから、油断してしまったのだ。
カレー用の人参を切っているときに、自分の左人差し指も切ってしまった。サクッという軽快な音が聞こえたときには視界はすでに真っ赤で、四針縫った。その日を境に母はヒナミを料理から遠ざけた。キッチンに立つことを許さず、包丁はヒナミがいるときには絶対出さない。さっき母が忙しそうに包丁を使っていたのは、ヒナミがいない間に済ませようとしたのだろう。
手伝おうとしたものの、ヒナミ自身も料理が怖かった。また切ってしまったら、今度は火傷してしまったら、なんて考えてしまう。
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料理は怖いけど料理を食べるのは好き。少しでも食に関わっていたいから、選ぶバイトはいつも飲食店だった。サーブ担当しか出来ないが、それを雇い主が気にしたことはない。テスト週間でいつもより早く帰れるから、先週の倍のお客を消化した。もちろん疲労も先週の倍で、こわばった体から制服を外した。
その帰路で事件は起こった。
夜でも夕方でもない、老若男女が活発に街を闊歩する時刻。空は夕陽を覆うように紺が下り、月が昇りかけている。雑踏は全てぼやけて、彼だけにピントが合った。――洋介だ。後ろ姿しか見えなかったが、彼がふと横を向いたときに確信した。
なんで彼の隣に、知らない女がいるんだろう。
会社の先輩、もしくは学生時代の友達かもしれない。二人に引っ張られるかのようにその後を着いていきながら、その可能性を望んだ。しかし彼らが繁華街に消えていったとき、糸が切れたようにその場に立ち尽くした。雑踏の流れを妨げ、群れの中で一匹だけ遅れた魚みたいだった。
人は簡単に手に入るものから、杜撰に扱いだす。
彼にとって自分とは、どれほど安く手に入れられたものだっただろうか。高校生なんぞ、卵から孵りたてのヒヨコ程度にしか思っていなかったに違いない。いや、そもそも孵化すらしていないのかも。先週彼が話した卵のことを思いだした。あれから少し気になって調べてみたが、孵化寸前の卵はバロットというらしい。黄色く濡れた羽根の雛が、卵の形に収まった画像が目に焼き付いた。十分成長しているにも関わらず、殻を破る間もなく人の胃に入ってしまう。未熟と成熟の間の不安定なそれは自分に似ていた。子どもでも大人でもない、中途半端な時期を生きている。相違点があるとすれば、バロットはとても栄養がある。
洋介は、ヒナミを食い物にしたのだ。
自分だって、洋介を金の持ってるストラップくらいにしか思っていなかった。だから彼らを追いかけて責める資格はないが、この胸の締め付けられる感覚から目を逸らすことも出来ない。ヒナミは何かに追われるように、家を目指した。
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両親は仕事中で、自宅には誰もいなかった。内心ヒナミはほっとした。涙で濡れたぐしゃぐしゃの顔と、今からすることを見られるのは嫌だった。ヒナミは冷蔵庫を開けて、目に入ったものを次々に掴み口に放り込んだ。作り置きのおかず、食べかけのポテトチップス、食べきれなかったホールケーキ。こんな気持ちで腹に入れたものが自分の体になるのは心底嫌だったが、やけ食いは加速した。
だが、それを止めたのもやはり洋介だった。べたべたの右手が新たな食物に手を伸ばしたとき、ケースに整列する真っ白な卵が目に飛び込んだ。人の手で成長を絶たれた、傷一つない無精卵。伸ばした右手は一瞬宙をうろついて、膝に落ちた。
「何やってんだろう、私」
荒らされた冷蔵庫の中で卵だけが綺麗に並んでいるのを見て、ヒナミは腹が立った。こいつも割ってやろうか。
「……あっ」
そうだ、食ってしまおう。私が孵りかけの雛だというなら、ただ割るよりも食べてやる方が卵も不服だろう。
ヒナミは汁やクリームまみれの手を洗い、母がいつも使う卵焼き器を取り出した。だし巻き玉子なら包丁を使わず、このフライパンと箸だけでできる。
大きめの茶碗に卵を二つ割って、白だしと塩と嵩増し用の牛乳、みりんを入れて乱暴にかき混ぜた。頑丈な白身を箸で断ち切り、油を敷いて火を付けた。正確には火ではなく、ヒナミの火傷を恐れた母がリフォームしたIHヒーターだ。そのおかげで加熱調理への恐れは思ったよりなかったが、フライパンを持つ手は震え、跳ねる油はどんな猛獣よりも怖かった。
卵液が茶碗から箸を伝ってフライパンに流れる。第一陣の卵液が少し固まったら、箸で表面を優しくかき混ぜた。この作業で完成品がふわふわになる。
「意外と覚えてるもんだなぁ」
料理から疎遠だったが、子どもの記憶力は馬鹿に出来ないものだ。フライパンと茶碗を箸が往復しているうちに、くるりと巻かれた黄色い卵焼きが出来上がった。甘く優しい香りがヒナミの心をゆっくりと溶かしていく。
角皿に盛り付けて、箸で均等に切り分ける。すこし焦げ茶色が気になるが、六年ぶりにしては上々ではないか。
そうだ、この瞬間が好きだったのだ。ただの材料だったものが、自分の手で鮮やかな料理へと変わっていく過程が。食べることは好きだ。でもそれと同じくらい、作ることも大好きだったのだ。キッチンから離れた年月を経て、すっかり忘れてしまっていた。
確かに、強くて賢くて金も持っている男にくっついて生きるのは賢いと思う。だけど私は、自分自身が輝きたい。
「ヒナミ?」
振り返ると、リビングの前で立ち尽くす母がいた。仕事用の鞄とスーパーのビニール袋を両手に提げ、顔には疲労が見える。そのせいか、キッチンの光景をぼんやりと、叱ることもなく眺めていた。
「お母さん、私高校辞める」
卵の殻にヒビの入る音がした。
「……料理の学校に行きたい」