1月20日
和樹は自室で、あの地下室から持ってきた酒をグラスにそそぎ、味わいながら飲んでいた。
今までは、この施設で製造された安酒も美味しいと感じていたが、やはり本物は違った。
何しろ、ちゃんと穀類からできていることを考えると和樹は嬉しくなった。映像でしか知らない、どこまでも続く麦畑を想像しながら、ゆっくりと口に含んだ。
苦みの中にコクがあり美味しいうえ、何より香りがすばらしい。
和樹はいい気分で一日中酒を楽しんだ。
あの地下室からは他にもいろいろな物資が手に入った。食料は沢山あって、まだ食べられるものも多かった。部品や貴重な素材もあり、この施設の修復に使えそうだ。
かなりの成果を上げたので和樹はしばらくは休むことにした。一日中うまい酒を飲んで、だらだら過ごすことを楽しんだ。
何回か文江が部屋の前に来て、ドアをたたきながら何か言っていたが無視した。護衛ロボットと戦闘になった話をしたら真っ青になっていたが昔から心配性な性格は変わらない。
文江とはいわば幼馴染のような関係だ。この閉鎖された施設で同じ時期に生まれ、ずっと一緒に成長してきて夫婦にまでなった仲である。
夫婦仲も悪くなかったが、子供ができなかったことで次第に関係は冷めていった。特に文江のほうが気にしていたようで、いつも申し訳無さそうな顔をしていた。
和樹自身は子供ができなかったことに関して、あまり気にしていなかった。むしろ、ホッとしていた。
子供が産まれたところで、この先の未来にどれだけの可能性があるというのか?
この気持ちの差も、関係が冷めていった要因になっているのかもしれない。
もう過ぎ去ったことだ、文江もいつまでも気に病む必要はないのにと和樹は思っている。
そうぼんやりと過去を振り返りながら酒を飲んでいると、いつの間にか眠ってしまった。
次に目が覚めたのは、アイが話しかけてきたからだった。
「ファザー、起きてください。確認してほしいことがあります」
和樹はアイの声で目を覚まし、体を起こした。どうやら床の上で眠っていたらしい。背中が痛い。
「なんだ?」
和樹は寝起きのガラガラ声できいた。
「施設廊下の動態検知センサーに反応がありました」
「文江じゃないのか?」
「マザーは違う場所で確認がとれました。侵入者かもしれません」
「侵入者だと?ふっ」
和樹はアイの答えに鼻で笑った。
侵入者?
外の惨状を考えてから言え。もしも生きている人間がいたら大歓迎だ。
おそらく機械の故障だろう。
和樹は見に行ってみることにした。堅い床で寝ていたせいで、こわばっている体をほぐすには丁度いい。
動態検知センサーに反応があったところは、和樹の部屋から30分ほど歩いた場所にあった。もう使われていない区画で、何年も人が来た形跡がなく埃が厚く積もっていた。
まさか和樹もこんなところまで歩くはめになるとは思ってなかったが、何年も放置されていた場所の機械が壊れるのも仕方がないことだろう。
反応があった付近に来てみても特に変わったところはない。埃が積もっているので、もし誰かが来たとしても足跡くらいは残るはずだ。やはり機械の故障だろう。
動態検知センサーは天井に設置されているはずだ。
「アイ、映像はあるか?」
「イエス、ファザー」
和樹はポケットから端末を取り出し、送られてきた映像を見た。
何の動きもない床が映っているだけの映像に見えた。
「映像の右端に小さいですが動くものが確認されます」
「なに?」
アイの説明に和樹はもう一度映像を見た。映像を拡大してみる。
「これは何だ?見たことがない」
「これは、ゴキブリと呼ばれる虫です。地球が汚染される前の環境では人類にとって最も身近な虫だったとされています」
「すごい!まだこんなものが生き残っていたのか!」
和樹は興奮を隠せなかった。
「黒く輝く姿が美しいな!」
和樹は生まれてから今まで人間以外の生き物を見たことがなかった。映像や資料で知識はあるが実物を見たことがない。
「アイ、この虫はいまどこにいる?捕まえるぞ」
「イエス、ファザー。映像から、この虫の行き先をトレースしてみます」
アイが調べている間、和樹はゴキブリについて調べてみた。どうやら本当に身近にいたようで、昔の人々からは嫌われていたようだ。
和樹はなぜ嫌われていたのかは、あまり理解できなかった。こんなに美しい生き物なのに嫌う理由があるのか?
数分が過ぎたところで、アイのトレースは完了した。
「約50メートル先のトイレ付近で確認がとれなくなりました。トイレには監視カメラはありませんので、トイレの中に入った可能性があります」
「よし」
和樹はトイレに向かった。中に入ると視線を動かしてよく探した。トイレには便器と手洗場しかなく、隠れるところもないのですぐに見つかるだろうと思った。
見渡したところ見当たらなかったので、個室を調べていくことにした。一番目、二番目と調べていき、ついに三番目の個室でゴキブリを見つけることができた。
和樹は便座の下にいるゴキブリを、顔を近づけてよく観察した。
黒光りする体に、細くしなやかな六本の足が美しい。
まだ他に生き残っている生物がいることに和樹は感動した。なんて生命力の強い生き物なのだろうか。
ただ、このゴキブリは和樹が、かなり近づいて観察しても少しも動かなかった。頭の触覚がわずかに動いているので生きてはいるのだろうが、あまり元気はなさそうだった。それとも、もともと動かない虫なのだろうか?
和樹はおそるおそる両手を伸ばし、そっとゴキブリを手で包んですくい上げた。手のひらにのせても、ゴキブリはぴくりともしない。
和樹は少し心配になりながらも、落とさないように、また手で包んで施設の研究室まで急いだ。
研究室に着くと、和樹はゴキブリを分析用の機械の中に入れた。
「アイ、このゴキブリを分析してくれ。健康状態とかどこから来たのか調べるんだ」
「イエス、ファザー」
そして、和樹は腕時計の機器を操作し文江に連絡をとった。腕時計からは3D画面が飛び出し、和樹は画面を操作し、文江を呼び出した。
「文江、すごいものを発見したぞ!すぐに研究室に来てくれ!」
興奮する和樹に対して文江の反応は冷ややかだった。
「いきなり何なの?あなた、私がいくら連絡しても無視してたくせに」
「いいから、とにかく来てくれ!」
「はあ、まったく」
文江を待っている間、和樹は機械の中のゴキブリを愛おしそうに見つめていた。
しばらくして文江が研究室に入ってきた。
「いったい何事?そんなに興奮して」
文江はあまり見たことのない和樹の姿に困惑していた。
「これを見てくれ!」
和樹は機械の中のゴキブリを指し示すと、文江も驚きの顔を浮かべた。
「これは、虫?まだ生きてるの?」
「ああ、もう使われていない区画で見つけた」
「信じられない。いまだに生き残りがいたなんて」
文江も初めて見る虫に興味津々の様子だった。
「いったいどこから来たのかしら?」
「わからない。それもいまアイに調べさせている。どこから来たのかがわかれば、まだ他にも見つかるかもしれないぞ。そしたら繁殖させて数を増やそう!」
「いいわね!」
文江も和樹の考えに同意した。
しかし、本当にどこから来たのだろう?
この施設は完全密閉されているが、どこからか入りこんだのか?それとも、もともと中にいたのだろうか?
どっちにしろ大きな発見である。もし外から来たのなら汚染物質に耐性があるのかもしれない。
そんなことを考えていると、アイが分析が終了したことを告げてきた。
「分析が終了ました」
「どうだった?」
「結果ですが、まずこの個体は瀕死の状態であることがわかりました。間もなく死ぬと思われます。原因は汚染物質によるものと考えられます」
「そんな」
和樹は絶句した。生まれて初めて見た人間以外の生き物だったのに。
「どういうこと?じゃあ、外から入ってきたということ?」
文江がきいた。
「いいえ、おそらくは元々この施設にいたものと考えられます。分析の結果、この個体には汚染物質に対してまったく抗体がありません」
「ここで生まれたっていうのか?そんな、今までどこにいたっていうんだ。一度も見たことなんてなかったぞ」
「そうね。それに何を食べて生きていたのかしら?」
二人の疑問にアイがこたえた。
「地下にある有機物循環システム付近から来た可能性があります。汚染物質とは別に、有機物循環システムからでる廃棄物も検出されました。その廃棄物を食べて生存してきたのかもしれません」
アイの答えを聞いて、何かを思いついたように和樹が顔をあげた。
「じゃあ、そこにまだ他の個体がいるかもしれないな」
「可能性はあります」
「すぐに地下の有機物循環システム付近を調査しろ!」
和樹が強い口調で言った。
「イエス、ファザー」
和樹がアイに調査を命令してから数時間が経った。今ごろ地下では、排水管の中も通れるような小型ドローンたちが、ゴキブリを探しているはずだ。
待っている間、和樹はガラスケースの中に入っている、もう死んで動かなくなったゴキブリを見つめていた。
何とか生き残っていてほしい。和樹は切実に願っていた。
この世界に自分たち以外の種がいないのは寂しい。もしかしたら、どこかにはいるのかもしれない。深海の奥深くや、奇跡的に汚染が少なかった場所に生き物がいる可能性はある。ただ、和樹の知る世界にはいない。
和樹はこの荒れ果てた世界に自分たち以外の希望を見つけたかった。
「調査が終わりました」
和樹がゴキブリに見入っているとアイが言った。
その言葉に、同じ部屋でパソコンに向かって別の作業をしていた文江も顔をあげた。
「どうだった?」
和樹は思わず立ち上がって聞いた。
「地下の施設においてゴキブリの生息していた痕跡が見つかりました」
「いたのか!?」
「はい。ただ、生き残っている個体はいませんでした。地下の施設には配管の破損で外部からの汚染物質が流入しており、その汚染物質で全滅したと考えられます」
「そんな・・・」
和樹はショックで、その場に膝から崩れおちた。そのかがんで丸くなった背中に文江がかけより、そっと背中をなでた。
「結局こうなったか・・・」
和樹が消え入りそうな声でいった。
「何も変わらない。おれたちは孤独だ」
文江は何か言おうとしたが、言葉は出なかった。どんな慰めの言葉をかけても、和樹の心に響かないことはわかっていた。
ただそばで小さくなった背中を、そっとなで続けた。




