湖の街『アートホルン』③
『智と律を司る神』
神階二位の神。世界に時の流れを作り出し、言葉を生み出した。法の国の主神として祀られている。
アートホルンの大聖堂、その中にある小さな庭園。庭園に置かれた小さなテーブルで、サラとプーレは向かい合ってお茶を飲んでいた。
しかし、サラはお茶を片手間に、ある書物を夢中で読み漁っていた。そんなサラの様子を、プーレは朗らかに眺めていた。
「雲は船、風は櫂。空を仰ぎ、涙を乗せ、天を進む。望めば泣き、求めば啼く。我、慈悲を持って大地を潤す、雨の御使なり……」
「……ふふ、熱心だね。まあ、気に入ってもらえてよかったよ」
「……はっ!す、すみません!つい夢中になってしまって……」
プーレに声をかけられて我に返ったサラは、恥ずかしそうに顔を赤くする。今しがたサラが読んでいた本は、プーレがサラには貸し与えたもの。『涙と雫を司る神』の物語が記された書物だった。
サラが熟知する『灰天と冰を司る神』と同じく、天候にまつわる神々の物語。それ故に、サラには分かりやすい内容だった。
「それでも大したものだよ。天候にまつわる神々の物語は、どれも長く複雑だからね」
「え、えへへ……」
プーレに褒められて、サラは嬉しそうにはにかむ。それを見たプーレは、とある昔の出来事を思い出す。
「物覚えが良いのは、あの子と同じだねぇ。ただ、あの子は魔力を練るのが下手くそだったけれども」
「……もしかして、ホムラさんのことですか?」
「そうさね。私はあいつがこんな小さい頃からの付き合いなのさ」
これくらいね、と手で大きさをかたどって見せるプーレ。その大きさは、赤子のそれである。プーレは、ホムラのずっと幼い頃から面識があるのだ。
「あの子は母親がいなくてね、あの子が父親と共にここに来た時は、よく相手してやったもんさ」
「ホムラさんの父親も行商人だったのですね」
「いや、あの子の父親だけじゃないさ。『放浪の民』自体が、そういう生き方をしているんだよ」
一つの地に留まらず、流浪して暮らしているとはいえ、物が必要になれば、それを買う金が必要になる。故に、『放浪の民』の人々は、その殆どが行商を営んでいた。
時には民族全体で大きなキャラバンを形成することもある。しかし、基本的には皆自由気ままなので、バラバラに動いていることも珍しくはない。
「今は、『放浪の民』の殆どが一つになって動いてるみたいだけどね……あの子はまだ一族の元に帰るつもりはないみたいだよ」
「……それは、ホムラさんがお金稼ぎに執着することと関係があるのでしょうか?」
「さて、どうだかねぇ……」
プーレは何か思うことがあったのか、目を細めて庭園の花を眺めながらお茶を飲む。きっと安易に踏み込んでいい話ではない、それをなんとなく感じ取ったサラは、それ以上言及することはなかった。
「そうだ、あの子が連れていた……雌の狼はどうしたんだい?」
「えっと……マカミ(さん?ちゃん?)──さんは、アートホルンに入る前から姿を見てないです。私、どうも嫌われてるみたいで……」
「……まあ、マカミはホムラと一緒に育ったからね。いわば兄妹さね、あの二人は。余所者が気に入らないのは仕方ない」
「炎の魔力を宿す狼の魔物なんて、初めて見ました。最初は使い魔なのかと思いましたが……本当にホムラさんに懐いているだけなんですね」
「あの子は動物や魔物に好かれる才能があるのさ。ふふっ、あの子の父親もそうだった……」
昔を思い出して悲しげな表情をするプーレは、それを誤魔化すように笑う。プーレにとって、ホムラの父親は良き友人だったのだ。
「その……もしかしてホムラさんの父親は……」
「……もう随分と昔に亡くなったよ……そう、昔にね……」
プーレの言葉に思わず雰囲気が暗くなってしまう。サラは、そんな雰囲気を変えようと書物を開いて、物語のある一節を魔力を練りながら読み上げる。
「時雨は哀惜、霖雨は悲歎、霧雨は慟哭。総て御身を裂く嘆き、されど、悲哀の雨は乾きを潤す。祈る君よ、さざめく雫の奏でし歌に刮目したまえ」
そして、サラは指先で空中をなぞる。すると、空中に煙のようなものが吹き上がったかと思うと、小さな雲となり、庭園に雨を降らせ始めたのだ。
魔法を扱うには、その物語の本質を理解しなければならない。今日初めて読み解いた物語を、早くも形にして見せたサラの才能に、プーレは驚きの表情を浮かべる。
「……第二章、五節一項。今読んだばかりなのに、大したもんだよ。あんたは将来、とんでもない魔法使いになりそうだね」
素直に賞賛するプーレに、サラは少し得意そうに、またはにかむ。しかし、やはりまだつめが甘かったのか──サラが作り出した雨雲はどんどん大きくなり、遂には二人の頭の上まで雨で濡らし始めたのだ。
「あ、あれっ……?」
「ふむ……やっぱりまだ未熟だね」
急ぎ庭園から避難するサラとプーレ。それからプーレが雨雲を消すまで、庭園は局所的な豪雨に見舞われてしまうのだった。
──
「一塊、五千Gでどうだ?」
「おいおい……それはぼったくりだ。よくて二千Gってとこだぜ?」
「……話にならないな。他所の店で売るとしよう」
「待て待て、そう焦るな。三千Gでどうだ?」
「いや、四千Gが限界だな」
「そこをなんとか!」
「ダメだね、これ以上は値切れない」
「……三千三百でどうだ!」
「悪いが、今回の取引はなかったことに……」
「……畜生、なら三千五百でどうだ!」
「──よし、売った!」
アートホルンの北の大水路、そこは沢山の商船が行き来する市場になっており、今日もあちこちで競りの掛け声や、小売たちの元気のいい声が響く。
その一画で、精肉屋の店主を相手に熾烈な値切り勝負を繰り広げていたのは、大樹の森の近くで仕留めたヘラシカの燻製肉を売ろうとしていたホムラだった。
精肉屋や店主は、勿論安く肉を仕入れたい。ホムラは肉を高く売りたい。そんな二人の値切り勝負、精肉屋の店主が苦い顔をしていることから、今回はホムラに軍配が上がったのだろう。
「はぁ……手強い兄ちゃんだぜ。狩りだけでなく、こっちもやり手だな」
「褒め言葉として受け取っておくよ……じゃあ、商品はここに置いておくぞ」
「おう。ほら、代金だ。持ってけ!」
精肉屋の店主から硬貨のたんまり詰まった袋を受け取るホムラ。その確かな重みに、ホムラの頰は僅かに緩んでいた。
「それじゃあ……流離う行商人、ホムラをまたどうぞご贔屓に!」
優雅に一礼してから、ホムラは広手箱を背負って店を後にする。そして、店主から貰った銭袋を懐にしまうと、上機嫌に桟橋を通って次の店へと向かう。
次に向かったのは、生薬や薬草を取り扱う薬師の店。そこでは、ヘラジカの血や内臓などがそれなりの値段で引き取ってもらえた。
その次は武器や鎧を扱う武具店。ここでは、ハマの街で仕入れたドワーフ製の剣や盾が、これまた良い値で売れた。一気に懐が温まったホムラは、実に嬉しそうに煙管を咥えて、紫煙を吐き出しながら次の店へと足を運ぶのだった。
しかし、その矢先に、ホムラの前である大きな船が止まる。帆を見れば、そこには降り注ぐ雨と大きな雫を模した神印、そして大きな盾の紋様が描かれていた。
(この船……聖堂騎士団の船か……?)
わざわざ自分の前で停泊した聖堂騎士団の船に、ホムラが訝しげに眉を潜めていると、船上から一人の騎士が現れる。
大聖堂の門番と同じく群青のマントに、鋼鉄の大鎧。そして、その兜には他の騎士たちとは違い、トサカのように大きな房が、風になびいていた。その騎士は船上からホムラを見下ろすと、兜の下から重たく低い声を発する。
「……久しいな、狼の息子」
「げっ、ヴァイネマン──騎士団長……!」
船上からホムラを見下ろすその騎士は、トレーネ聖堂騎士団の長、その名はロウ・ヴァイネマン。騎士団長としては勿論、屈強な戦士としても有名だった。
ホムラが伝道師のプーレと古い知り合いであるように、ホムラはヴァイネマンとも面識があった。しかし、ホムラとしてはあまり顔を合わせたくない相手だった。
「な、何の用だよ……俺は別に何も悪いことしてないぞ」
「貴公に用がなくとも、私は貴公に用がある……おい、あれを連れて来い」
ヴァイネマンが他の聖堂騎士に指示を出すと、その聖堂騎士は船倉から大きな鉄籠を引きずってくる。すると、獣の唸り声が辺りに響き渡る。
その声を聞いたホムラは、すぐにヴァイネマンが何を持ってきたのかを察する。その唸り声は、ホムラが幾度となく聞いてきた声だったからだ。
「その声……マカミ⁉︎」
「ガルルルッ……!」
マカミもホムラに気づいたのか、鉄籠から抜け出そうと暴れ出す。しかし、当然その鉄籠はただの鉄籠ではなく、魔法によって魔物を縛る加護が施されていた。いかにマカミといえど、内側から破ることは不可能だった。
「おい、ヴァイネマン!マカミに何してやがる!」
「聖地の近くで放し飼いをしていたのは貴公だろう?」
「確かに……俺が用事を終わらせるまでは、森で大人しくしてるよう言い聞かせはしたが……」
「この狼は、あろうことか神聖な涙の湖を穢そうとしたのだ。我らがここアートホルンに戻る最中に見つけた。貴様の縁故でなければ、即刻仕留めていたところだ」
そんなの関係ねぇ!──と叫びかけたところで、ホムラはその言葉を飲み込む。ここは聖地、神聖な土地だ。どんな事情があろうと、不敬を働けば罪だ。
だが、だからといって黙ったままでいるホムラではないことは、ヴァイネマンも重々承知していた。ヴァイネマンは何も言わずに船の梯子を下ろすと、ホムラを手招きする。
マカミを返して欲しければ船に上がって来い、そう受け取ったホムラは、すぐさま梯子に飛びついて駆け上がると、船上でヴァイネマンと相対する。
「マカミを取っ捕まえてまで、俺に会いたかったのかよ?」
「私はどうしても果たさなければならないことがあるのだ……狼を解放してほしいのならば、大聖堂までついて来るがいい」
「ちっ……従うしかないじゃないか……!」
選択の余地などなく、半ば無理やりに大聖堂に連れ戻される形になったホムラは、苛立たしげに舌打ちをする。そして、マカミが捕らえられている鉄籠に近づくと、格子の間からマカミの頭を撫でて落ち着かせてやる。
「……クゥン」
「よしよし、大変だったな。ほんと酷い奴らだよな、お前は特に何もしてないだろうに……」
「いや、その狼は涙の湖に糞を垂れ流そうとした。立派な不敬だ」
「……おい、マカミ……」
「ワフッ⁉︎」
ヴァイネマンの思わぬ一言に、ホムラはがしりとマカミの頭を鷲掴みにする。ホムラが怒っていることを感じ取ったマカミは、あわあわと焦りだすのだった。
「さすがにやって良いことと駄目なことがあるだろ?まったく……」
しょんぼりするマカミの頭を荒っぽく撫でながら、ホムラは仕方なさそうに苦笑する。マカミは謝る代わりに、ホムラの手をぺろりと舐めて、耳を力なく垂れさせるのだった。
それから暫く、聖堂騎士団の船は水路を進み、大聖堂の正門の裏にある桟橋に到着する。騎士たちはヴァイネマンを先頭に、マカミが入った鉄籠を引きずっていく。
「さて、私が貴公に望むもの。それが何かは、言わなくとも分かっているだろう?」
「あぁ……このまま修練場に向かうんだろ」
ホムラはヴァイネマンの後ろをついていくが、その足取りは重たい。ヴァイネマンに捕まると、毎度お馴染みの恒例行事となりつつあるアレの相手をさせられるのだ。
「おや、戻ったのかい。ご苦労だったね、ヴァイネマン」
「これは……伝道師様。トレーネ聖堂騎士団、只今帰還いたしました」
大聖堂に帰ってきたヴァイネマンたちを迎えたのは、いつも通り朗らかな笑みを浮かべたプーレ。そして──その後ろで恥ずかしそうにしているサラがいた。
「……なんだい、ホムラも連れて帰ってきたのかい」
「あっ……ホムラさん?」
サラが恥ずかしそうにしていた理由は、その格好にあった。ホムラが渡した簡素なドレスではなく、群青と黒を基調とした修道服を纏っていたのだ。雨に濡れてしまったため、プーレが貸し与えたのだろう。
しかも、ただの修道服ではなく、スカートがやや短めだったり、スカーフの代わりに厚手の外套を羽織っているなど、動きやすいよう実用性が高められている。もしかしたら、かつてプーレが着ていたものかもしれない。
「やっぱり……似合わないですか?」
「……まあ、別にいいんじゃないか」
「そうですか……な、なら良かったです」
「……失礼。伝道師様、この女性は……」
「ホムラの連れだよ。珍しいだろ?」
サラがホムラの連れだと聞いて、ヴァイネマンは何も言わずにホムラの方を見る。そして、また何も言わずに視線をそらすが、なんとなく鼻で笑われたような気がしたホムラは、面白くなさそうにそっぽをむくのだった。
「……おい、ヴァイネマン。やるなら早くやるぞ。面倒ごとはさっさと済ませてしまいたいんだ」
「むっ、そうだな。伝道師様、暫し修練場を借ります」
「あんた達、またやるのかい?……ホムラがアートホルンに来ると、いつもそれだねぇ」
「プーレ、マカミをしばらく頼むよ」
鉄籠に囚われたままのマカミを見たプーレは、すぐにヴァイネマンがホムラとの交渉の材料にマカミを使ったことを見抜く。そして、鉄籠を抱えたままの聖堂騎士に近づくと、籠を下すように指示を出す。
「そんな狭い籠の中じゃ居心地が悪いだろ?ほら、今出してあげるよ」
プーレが小さな声で呪文を呟いて鉄籠に触れると、籠に込められていた魔法が解かれ、ようやくマカミは鉄籠の中から解放されるのだった。
しかし、鉄籠の中から顔を出したマカミは機嫌を伺うようにホムラとヴァイネマンの方を見る。ホムラがまだ怒っていないか、ヴァイネマンがまた自分を捕まえようとはしないか、それを伺っていたのだ。
そして、いつもとは違うそのおどおどした様子が可愛らしかったのか、サラはついつい頭を撫でようと手を伸ばしてしまう。
「ガウッ!」
「わあっ⁉︎やっぱり私は触っちゃダメなんですか〜……!」
マカミの頭を撫でようとして吠えられたサラは慌てて手を引っ込めるも、名残惜しそうにもじもじとする。そんなサラに見せつけるようにプーレがマカミの頭を撫でると、マカミは吠えることなくプーレの手を受け入れるのだった。
「ふふふっ、これが付き合いの差、ってやつさね」
「うぅ……羨ましいです」
「……行くぞ、狼の」
「あ、ああ……」
マカミと戯れるプーレたちを他所に、ヴァイネマンはホムラやその他聖堂騎士たちを連れて、大聖堂の内部にある別の大広間へと向かう。
石畳が敷き詰められただけのその広い空間は、騎士たちが鍛錬を行うための修練場だった。剣や槍を振り回すにはうってつけの場所である。
「お前たちは脇で見ているといい。狼の、早速始めるとしよう」
聖堂騎士たちを修練場の隅で整列させたヴァイネマンは、修練場の中央に立って魔法の詠唱を始める。小さな声で素早く、そして正確に詠唱を済ませたヴァイネマンは、青白い魔力の光を放ちながら空間に二つの円を描く。
そして、青白い魔力の光で描かれた円は複雑な魔法陣となり、ヴァイネマンはその陣の中心に手をかざす。すると、片方の描かれた魔法陣からは剣の柄が、もう片方からは盾の取っ手が現れる。
「貴公との手合わせは久しぶりだ。存分に仕合おうではないか」
「……負け越しているのが、そんなに悔しいのかよ?」
ヴァイネマンが魔法陣から剣を引き抜き、盾を取り出すと、描かれた魔法陣はガラスのように砕け散る。そして、それを振り払うようにヴァイネマンは右手に持つ細身の大剣を振るい、雫の紋様が描かれた青い鋼の盾を構える。
「さあ、狼の。貴公も剣を抜け」
「分かったよ……俺が勝ったら、いつも通り護符を格安で譲ってもらうからな!」
ホムラは背中の広手箱の側面に取り付けられた歯車を回し、底面の取っ手付きの鎖を引っ張る。すると、仕掛けが動く金属音を響かせながら、広手箱の側面が大きく開き、中から一本の剣が弾き出される。
何の変哲も無いただの鉄の剣、ホムラは弾き出されたそれを手に取ると、鞘から剣を抜き放ちゆるりと構える。
「ルールはいつも通り。どちらかが参ったと言うまで、だな?」
「使いたければ魔法を使っても構わんぞ。何をしようと、参ったと言わせた方の勝ちなのだからな」
「そりゃこちらのセリフだ」
挑発するように言葉を重ねるホムラとヴァイネマン。しかし、二人の間には、すでに軒並みならぬ気配が漂っていた。まるで、本当の殺し合いのようである。
ヴァイネマンは、プーレと同じくホムラと、その父親の古い知人だった。ヴァイネマンが団長となる前から顔を合わせることが多かったホムラは、ヴァイネマンにとってある種のライバルのようなものだった。
聖堂騎士としてヴァイネマンは強くあらねばならなかった、故に剣の鍛錬を日々欠かさず行ってきた。その中で、ヴァイネマンにとってホムラは良き手合わせの相手だったのだ。
今までも、何度もこうやって理由をつけてはホムラと仕合ってきたヴァイネマンだが、現在の戦績は三十九戦十九勝二十敗。つまり、ホムラに負け越している状態なのである。
騎士であると同時に聖職者でもある彼にとっては些か不純な動機ではあるが、それ以上に負けたままというのは彼のプライドが許さなかったのだ。
「此度の勝負……私が必ずや先を行って見せよう」
「……言ってろ!」
ほぼ同時に前へ踏み込むホムラとヴァイネマン。互いが手に持つ刃を振り上げ、それがぶつかり合うと、火花と共に甲高い金属音が修練場に響き渡る。それがこの二人の、開戦の合図となるのだった。
『熱と鉄を司る神』
神階三位の神。世界に熱を作り出し、色を生み出した。また、鉄を扱う術を人々に与えた。火の国の主神として祀られている。