他愛のない会話
「虚数がわからない。虚数とはなんだろうか」
目の前の少女は、またぞ変なことを言い出した。
この秀才は、時折奇妙な疑問を抱く。
先ほどまでの話は数学の話と縁が遠かったはずだが、何故そんなことを言い出したのか。
真面目な表情をしているのだが、その口にはスプーンが浅く咥えられているのであまり締まらない。
「負数の平方根として定義された数だろ」
「誰が定義の話と言った」
呆れたような視線が向けられるが、一体どんな返しを期待していたのだか。
「他に何があるんだ?」
「文脈を理解して欲しいものだよ。君の頭に詰まっているのはメロンパンかい?」
「誰の頭がメロンパン入れだこの野郎」
「私は女だ、その言葉は正しくないね」
この女郎、とでも言えばよかっただろうか。
フルーツゼリーを頬張っていた先ほどまでは可愛げもあったのに、今はどうにも頬をつねりたくなる。
「……で、結局どういう話なんだ?」
「仕方がない。メロンパン入れにも分かるように、順を追って説明しようじゃないか」
今度は言い切りやがった。
「ゼラチンだとか、ガラスだとか、透明な――見えない物が存在するだろう」
「……まあ、そのフルーツゼリーは多分寒天だけどな。パイナップルが入ってるとゼラチンは固まらない」
「……上げ足をとって話の腰を折るんじゃない。兎に角、だ。寒天やガラスのような透明なものであっても、その実態はそこにあり、組成も知られている」
あ、言いなおした。
「炎や電気ならば、形はなくとも熱や光でその存在を認識できる。空気ですら、それが在ることを……少なくとも知識では共有しており、直接的では無くとも簡単に存在を確認する手段もある」
そういって手で扇ぐのは、風がその手段の一つと言いたいのだろう。
「だからこそ、これらはそれが何であるかを"理解できる"というわけだ」
そう強調されれば、先ほどの言葉に意味が通る。
「虚数はその実態が無い、だからこそそれが何であるか"理解できない"、ってことか」
「うむ。そういうことだよ」
通じたことに満足したのか、まだ半分ほど残っていたフルーツゼリーを頬張り始める。
それ程の量も無いので、食べるのを見届けてから話を再開した。
「でも、虚数ってそういうもんだろ?その実態がどこにもないから虚ろな数なわけだし」
「……誰の言葉だったか。『人間が想像できることは、人間が必ず実現できる』という格言があるだろう」
「フランス人の小説家、ジュール・ヴェルヌだな。言葉自体は捏造の可能性があるとか」
「うるさい。今はそんなトリビアを求めてなどいない」
ごめんなさい。
「全く、君はいつも一言余計だ。相当に質の悪いメロンパンが入ってるに違いない」
「まだ引っ張るか」
気に入ったのだろうか。メロンパン入れネタ。
「とにかくだよ。虚数は人が想像して生み出されたものだ。なら、その実態も理解できなくてはおかしいだろう」
「……随分と飛躍が過ぎる気もするが、何がそう必死にさせるんだ?」
妙な発想に熱が入るのは度々あることだが、今日はまた何かが違うような気もする。
質問された当の本人は、一瞬の間を置いて絞り出すように答える。
「……直接的に私の口から言うのは憚られる。それくらいは察して欲しいものだ」
「そういわれても、何かヒントは無いのか?」
今のところのヒントは、文脈を考えろというものしかない。あとは、"理解できない"の定義くらいか。
それまでの話を思い返してみても、今後の予定を話していただけである。
それもどこに行くか、というようなものではない。
「……仕方ない。f(x)=x+a (a>0)の二次曲線を想像したまえ」
脳内に十字に交わる矢印と上開きの曲線を描く。
「この二次曲線は決してx軸に触れることはないだろう?」
「まあ、そうだな」
底が触れていない以上、どこまで行っても上にしか向かわない曲線は決して届かない。
「しかし計算上は、x=±√aiでx軸と交わることになる」
「……それで?」
「察しが悪いな。それとも、わざと言っているのかい?」
「なんのことだか」
「まあ、いいだろう。つまり、虚数軸上でこのf(x)はx軸に触れているのだよ。たとえ離れていてもね」
なるほど、確かに。なんとなしに話は繋がったが、なかなかどうして。
毅然とした態度とは裏腹の、可愛らしい発想に頬が緩みそうになる。
「つまり、結論は?」
「……君、もう分かっていて言っているだろう」
「さて、どうだろうね」
バレているようなので、表情が緩むのを隠しもせずとぼけて見せる。
「むう……最後まで言わせてくれるなよ」
「俺の頭には質の悪いメロンパンが詰まっているからな。どうにも答えが分からない」
「虚数がわかれば離れていても触れることが出来る。
そうなれば、今すぐにでも抱き着くことが出来るじゃないか」
何とでもないように言おうとしているが、その頬は確かに赤らんでいる。
じいっと見つめていると、ついには我慢出来なくなったらしい。
「もういい、切るぞ!」
「ごめんごめん……ああ、最後に。おやすみ」
「……おやすみ」
それを最後に、今日のビデオ通話は終了した。