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恋よりさきのその先で  作者: 坂水 雨木
第4章 踏み出す先と踏み出した先と
109/123

98. 雨中のこと、日結花の家にて

「…ねえ日結花ちゃん」

「なに?」

相合傘あいあいがさって恥ずかしくない?」

「え、別に恥ずかしくないけど…」


 手に持った傘をあたしの方に傾けながら、困った顔で問いかけてくる。


「んー、だって楽しいし?郁弥さんは楽しくないの?」

「それは、楽しくないわけないけど…でもさ、ほら、だって相合傘だよ?こんなに距離近いんだし、色々とほら…ね?」


 まあ、この人の言う通り距離は近い。駅で抱きしめ合っていたときほどじゃないけれど、距離はそれなりに近い。雨に濡れないようにするには寄り添って歩くしかないので、不可抗力ふかこうりょくというやつだと思う。


「なに言ってるのよ。さっきあれだけ近かったのに、今さらじゃない?」

「それはそうなんだけど…あれは特別というか、たまたまというか……まあいいか。雨だし、仕方ないよね…」

「そうそう。仕方ないのよ」


 二人ぶんの靴音が響く。水を跳ね上げる音と、傘に雨粒が当たって弾ける音。それに、降りしきる雨の音。ぽつりぽつりと降り始めた雨は少しずつ強くなって、今では道路に大きな水たまりができてしまうほど。

 相合傘で進むこと10分と少し…。もうちょっと経ってるかも。こんな風に相合傘で一緒に寄り添って歩いているから、いつもより時間かかっちゃってるのかもしれないわね。



「……」

「……」


 12月に入り、当然のごとく寒さも厳しくなってきていた。駅で待ち合わせをしていたときもそうだったけれど、今みたいに家までの道を歩いているときもそう。雨が強くなってきたせいか、駅にいたときよりも気温が下がったような気がする。


「…郁弥さん、寒いわ」

「大丈夫?でも、どうしよう。僕のコートかけて…っていっても日結花ちゃんもコート羽織ってるし、さすがにかさばっちゃうよね…」


 心配そうにあたしを見つめてくれる。こうした些細な気遣いがすごく嬉しくて、胸の奥が温かくなる。ただ、身体的に寒いのは寒いまま。


「そうね…もうちょっと、くっつくのはどう?」

「くっつく…かぁ」


 しんみりと呟いた。


「そうだねぇ…そうしよっか」


 そのまま続けて言い。


「ちょっとごめんね。嫌だったら言ってね」

「え……んんぅ…あったかい」


 きゅっと、優しくあたしの腰を抱いて身体を引き寄せた。少し距離を縮めただけなのに、互いの体温のおかげかすごくあったかく感じる。


「えへへ、なんか照れちゃうわね」


 変に気恥ずかしくて、頬が熱くなった。


「あ、あはは、そうだね。でも、今できることはこれくらいだから。日結花ちゃんの家はもうすぐ、なのかな?」

「え?ええ。もうすぐよ」

「それなら…それまでこのままで歩こうか」

「ん…ありがと」


 さっきよりもゆっくりとした歩みにはなったけれど、そのぶんすごく暖かくて、身体だけじゃなくて心までぽかぽかと満たされる。

 家までの距離が短く名残惜しいくらいで、降りしきる雨に感謝を込めながら足を進めた。



「ここが日結花ちゃんの家…」


 あたしの家の前まで着くと、すぐ隣から小さく声が聞こえた。


「どう?感想はある?」


 半身を完全に預けながらの問いかけ。歩いているときとは違い、立ち止まっているときは体重を預けてしまった方がいいと思う。その方が密着して暖かいから。

 あと、単純に幸せ度が高いわ。


「うん…。大きなおうちだね」

「…まあねー」


 それはねぇ…。門とかあるし外観からして結構大きいし、そう思われても仕方ないわねー。


「…とりあえず入りましょ」

「うん」


 まだおやつ時ですらないのに、気分は夜。雨模様のせいか、一層景色が暗く見える。

 のろのろと門を開けてくぐり、玄関の前に立つ。


「ふぅ、着いたね」

「ええ」


 あたしに雨がかからないよう傘を畳む郁弥さんを見ながら、玄関で手のひらを壁にぺたりと。指紋認証が通った電子音とドアのロックが解除される小さな音が雨音に混じる。


「すごいね。指紋認証なんて初めて見たよ」

「ん、そう?割と普通じゃない?」

「ううん。指ならともかく、手のひら全体は初めてかな」

「へー。珍しいんだ」


 どこの家もこんなものかと思ってたわ。言われてみれば、たしかに指紋認証は指だけのことが多いかも。


「えっと、傘ってここに置いちゃってもいいのかな?」

「ん?ええ。いいわよ」


 ドア横に置いてある傘立てに傘を置いてもらい、あたしはドアを開ける。


「じゃあ入るけど、覚悟はいい?」

「…うん。大丈夫」


 …なんか変な感じ。別に結婚の挨拶でもないんだから、覚悟もなにもないでしょうに。郁弥さんも郁弥さんで変に緊張してるし…。早く入ろう。


「ただいまー…」

「お、お邪魔します…」


 なんとなく小声で帰宅の挨拶をした。


「……郁弥さんいる?」

「…いるよ」


 まるでお化け屋敷にでも入ったかのような雰囲気。ほんの半歩下がれば恋人(こいしてるひと)にぶつかって、しっかり受け止めてくれたことに安堵あんどする。


「どうしたの?寒い?」

「…ううん。平気。ありがと」


 電気はつけなくてもまだ明かりはある。いくら外が曇っていて雨で暗く感じても、実際はまだ15時前。

 結局は気持ちの問題。だから大丈夫。あたしには郁弥さんがついているもの。


「よし、行くわよ」

「うん。どこへなりとも連れていってくださいな」


 二人で軽く笑いながら靴を脱いで、玄関からリビングルームへ足を進める。途中の執務室や客間に洗面所などを抜け、リビングへの扉の前まで。リビングからは明かりが漏れていて、ただ相変わらず声はどこからも聞こえてこない。

 うちを出る前はママもパパもいたはずだし、どこか出かけるって話もしてなかったから普通にいるはずなんだけど…。


「…ごくり」

「ごくり…っ…ひ、日結花ちゃん」

「…なに?やっぱりやめるとか言わないでよ?」


 揃って喉を鳴らした。

 まさかのこのタイミングで帰りたいコールは怒るわ。


「いやそうじゃなくて、だ、誰かが僕の肩に手を置いてっ!」

「え!?な、なにそれ?怖いこと言わないでよ!」


 急いで振り返ればたしかに郁弥さんの肩に誰かの手が―――。


「きゃああああ!」

「わああぁ……うん?」

「んんむぅ……ん?」


 誰かの手を見た瞬間に抱きついちゃったのはいいんだけど……手って、おかしくない?


「ええっと…こんにちは」

「こんにちは。あなたが郁弥君ね?それと日結花、おかえりなさい」

「あ、はい。藍崎郁弥です」

「ただいまー…」

「うふふ、いきなりごめんなさいね?日結花の母の咲澄さきすみあんずです」


 さらっと返事しちゃったけど、幽霊どころか普通にママだったわ。


「でも…ふふ、うちの日結花とは聞いていた通りに、いえ?聞いていた以上に仲が良さそうでなりよりだわ。電話で話したときより…うふふ、ええ、ずいぶんと親しいみたいね?」

「あ、あはは。日結花さんにはお世話になってばかりで、いつも助けられています」


 うん。そりゃそうよね。深夜どころか夜ですらないのに幽霊なんているわけないわよね。


「ふふ、日結花からは逆に聞いているけど?」

「え?そ、そうなんですか?」

「ええ。いっつも郁弥さんと一緒で楽しかったーとか郁弥さんとデートして今日はいつもよりかっこよかったーとか、そんな話ばかりしてくるんだから」

「あ、あはは。それは…ええと、ありがとうございます?」


 は、恥ずかしいぃ!ママってばなんてこと言ってくれるのよ!郁弥さん困っちゃってるでしょ!?顔あげて…あげたいのはやまやまなんだけど、この、今の抱きついてる体勢がいい感じに幸せで離れたくないのよね。至福だわ。


「どういたしましてっ。さて、じゃあリビングに来てもらえるかしら?正道さんが郁弥君と会えることを楽しみにしていたのよ。あの人、ずーっと郁弥君から日結花との話を聞きたい聞きたいって、そんなことばかり言っていたんだから」

「えええ…」


 それはあたしも初耳なんだけど…。なにそれ、パパそんなこと言ってたの?郁弥さんから話って…もしかしなくても小説にあたしたちのこと使おうとしてるでしょ。


「ごめんなさいね?うちの娘と夫がどちらも迷惑をかけちゃって。ほら日結花。リビング行くから郁弥君から離れなさいな。郁弥君困っているでしょ?」

「…郁弥さん困ってる?」


 肩から少し顔を離して聞いてみる。郁弥さんは変わらずリビングの方を向いたまま。ママはあたしたちの隣に立っていた。あたしが至福の時を味わっている間に横に移動したらしい。


「困ってないよ」

「えへへ、そうよねー」


 "もぅ、しょうがないなぁ"みたいな顔で笑って言ってくれた。頬が若干赤くなっているのがポイント。あたしがとろけた声を出してしまったのも仕方ない。

 大好きな人の大好きな表情ですっごく嬉しいこと言ってくれたら、幸せ満開になるのも当たり前。


「…はぁ。本当に日結花の言っていた通りなのね。これなら日結花が骨抜きにされるのもおかしくないわ…」

「骨抜きだなんてそんな、僕は本当に困ってなんていませんから。ただ日結花さんが喜んでくれることをしているだけです」


 顔は見えないけれど、どんな表情で言っているのかは声だけでもわかる。きっと心の底から優しく笑ってくれているはず。

 だって郁弥さんだもん。


「そう…。私からしたら娘のことをそれだけ気にかけてくれるのはありがたいけど…郁弥君。あなた、私が思っていた以上に重症なようね」

「…自覚はしていますから大丈夫ですよ」


 二人の声にほんのり真剣さが混じる。


「それに、今日はそういった話をするために伺いましたから」


 どこか力強さを感じる声。

 なんとなく、あたしにとって大事な話のような気がするけど…まああれよね。どうせあとで話すんだから、今はこのままでいましょ。ほんっとあったかくて幸せなんだからこれ…はぁぁ。


「…ん、そう?ならいいわ。親が口出しすることでもないでしょうし、郁弥君ならどう転んでも日結花に悪いようにはならないでしょ?」

「あはは、信頼してくださっているようで助かります。はい、日結花さんに悪いようには絶対なりませんから、その点だけは大丈夫です」

「あら、うふふ。良い自信をありがとう」


 これまた色々と恥ずかしい話をされているのはいいとして、一つだけ気になることがある。


「それじゃ、リビングにいらっしゃいな。廊下で長話をするのもなんだし、早く入っちゃって?」

「あ、はい。失礼します…ええっと、日結花ちゃん?」

「…むぅ」


 恋人から離れてリビング側に一歩下がったところで不満げな声が漏れた。ていうか不満。


「…お、怒ってる?」


 困った顔で聞かれた。好き…じゃなくて。


「怒ってないわ」

「…もしかして、僕の服が生乾きだった」

「ないから。それならさっさと離れてるわよ、おばかさん」

「…じゃあなんだろう」


 匂いがどうとかなんてほんとおばか。嫌どころかむしろすっごくあたし好みな落ち着く良い香りで…そうじゃないでしょあたし。


「リビングに行きたくないとか?」

「別にいいわよ。もう郁弥さんのこと堪能したし、パパを待たせるのも…いえ、パパなら待たせてもいいかも」


 郁弥さんからお話を聞くだけならまだしも、あたしたちのハートフルイチャラブストーリーを小説にしようとするなんて許せない。作るならあたしたち二人で作るわよ。他人には任せられないわ。許してもアドバイスくらいね。


「いや、それは可哀想なんじゃないかな」

「いいのよパパだし。それより、さっきママと話していたときのこと」

「さっき?」

「そ」

「さっきって、何かあったかな…」

「あったあった。すごくあった。いきなり他人行儀たにんぎょうぎになったじゃない」

「え?」


 そ、そんなぽやっとした顔したって無駄よ!可愛い!好き!惚れちゃい…そうじゃなくて。


「だから、すっごく他人行儀になったでしょ?」

「…それって、もしかしてさん付けのこと?」

「ん、そう」


 優しい目であたしを見てくる。なにその微笑ましさ全開の表情。ずるい、好き。


「ふふ、そっか。そのことだったんだね。別に他人行儀になったわけじゃないよ。今だってほら、日結花ちゃんには日結花ちゃんって呼んでるし」

「…でも、さっきは?」


 自分でもばかなこと言ってるとは思う。どうしてかな。こんな小さいこと気にしててもしょうがないのに、なんでか我慢できなかった。郁弥さんにはずっと身近でいてほしい、心の中でもちゃんと側にいてほしいって思っちゃう。


「さっきのは杏さんがいたからね。お母さんの前で娘さんをちゃん付けは礼儀が足りないでしょ?」

「……」


 礼儀…かぁ。この人がその辺ちゃんとしてるのはわかってたけど…もやもやする。それが…。


「…むぅぅ」


 それが普通っていうのはわかるわ。他人の家に上がり込んで挨拶するのに礼儀が大事なのはわかるもの。マナー的にさん付けが当たり前なのはわかってるの。でも…でも、なんか嫌。


「ええっと…ごめんね。僕がもう少し日結花ちゃんに配慮できていたらよかったんだけど…」

「あ…」


 もやもやした気分でうなっていたら、申し訳なさそうに目を伏せて謝られてしまった。その悲しげな表情を見てもやもやが全部吹き飛んで罪悪感でいっぱいになる。


「ご、ごめんなさい。あたしがわがままばかり言ってるから」

「ううん。いいんだ。僕がもっとちゃんとしていればよかっただけだから」

「本当にごめんなさい。そんな表情させるつもりはなかったの。謝らないで。あたしが悪かったから。あなたには…もっと笑っていてほしいわ」

「あっ…」


 郁弥さんの言葉を遮って、それから彼の手を両手で包み込んだ。


「…少し、あたしも子供っぽくなってたみたい。うちに帰ってきていつも以上に気が緩んじゃってたのかも。ごめんね、許してくれる?」

「あぁ……」


 しっかりと目を合わせて問いかければ、顔から暗さが消えていつも通りの柔らかさが戻ってきた。ほっと胸を撫で下ろした。よかった。


「本当に君はずるいなぁ…」

「え?」

「許すもなにもないよ。日結花ちゃんが素直でいられることは僕にとってすごく嬉しいことだからね」


 言いながら柔らかく微笑んで、軽くあたしの頭をなでて歩き出す。


「それじゃあ行こう?正道さんにも挨拶しなくちゃいけないから」

「…うん」


 一瞬だけ見えた泣き笑いのような表情に驚きつつも、ゆっくりと足を進めた。



「…手は離さないんだね」

「…どうして離す必要があるの?」

「…まあ、うん。いいや」

「ならこのままでいいわね」




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