5-3
それからの毎日はとても平和だった。街中を跋扈する子供達が、わざわざこの家の中まで入り込むこともない。家から出ることをしなければ、危険になるようなことは何もなく、ただ静かな時が流れる。退屈を覚えることもあったが、それでも優花と二人の暮らしは、何の不満もない穏やかなものだった。
その穏やかな暮らしを守るため、創も優花もこの家の窓から顔を出すことさえしなかった。もしも他の子供に二人がこの家で暮らしていることが知られて仕舞えば、もうこの家に隠れ潜むことすらできなくなってしまう。だからこそ、少しでも外の子供たちに悟られないに過ごすことに必死だった。
けれど、その努力は三日目の昼に限界を迎えた。
まどろみから覚めた創は段差の急な階段を降りて、一階にある居間へと向かう。「おはよう」の挨拶とともに扉を開けて顔を覗かせる。そこには、いつものように優花の明るい笑顔があるものだと思っていた。
けれど、そこにあったものは渋い表情と、ぎこちない「おはよう」の声だった。
「どうしたんだよ。何かあったのか?」
何かがあったことは間違いない。思わず詰め寄るようにして創は訊いた。
「う、うん。あのね、実はもうこの家にご飯がないの。お米だけだったらまだ少しはあるんだけど、それもいつまで保つか……」
その言葉を聞いて、ハッとする。創にとってご飯なんて黙っていれば勝手に出て来るものであって、それを調理する人がいることも、ましてや料理の元となる材料が必要であることなんて、気にも止めたことがなかった。
買い物に行くと言って家を出て行く母親の横顔が、ふいに思い出された。
「それは、どうしようもないのか?材料をもらいに行けば……」
言っている途中で気づく。料理の材料を取りに行くということは、それはつまりこの家から出るということだ。
「うん、やっぱりいつまでもこの家で隠れているわけにはいかないみたい。ちょうど外の様子も知りたい頃だったし、覚悟を決めて行くしかないね」
優花の中で覚悟はもう決まっているのだろう。それははっきりとした意思のある口調だった。ならば、それを止める理由はどこにもない。
「ああ、分かった。ただし、無茶は厳禁だからな」
「うん、分かってる」
優花ははっきりとうなずいてみせると、そのまま勢いよく立ち上がった。覚悟が決まったのなら、もう時間を待つ必要なんてありはしない。優花の用意してくれた食事を急いで平らげると、すぐに出かけるための準備をした。
少しでも多くの食材を持って帰るため、大きめのバッグを一つずつ持って家を出る。実に三日ぶりの日の光が、創と優花を出迎えた。
そのまぶしさに、思わず目を細める。
「たった三日ぶりだっていうのに、ずいぶんと久しぶりの気分だな。なんだか、目の奥がチカチカするよ」
「うん、そうだね。まさか三日間も日の光を見ないことになる日が来るなんて、ちょっと前なら想像もできなかったもん」
だんだんと光の強さにも目が慣れて、ようやく外の様子が確認できるようになる。ゆっくりと目を開いていき、辺りの景色を見回した。確認できるのは、家の入り口に面した一本の狭い道だけ。そこに子供達の姿は、わずか一つも確認できなかった。
創がこの家に隠れる直前には、こんな狭い道ですら子供の姿があったはずだ。耳をすませてみても、子供達の笑い声さえ聞こえてこない。
不思議に思いながらしばらく歩くと、ある事実に気づく。明かりの点いた家が余りにも多い。今までは外を出歩いてた子供達がみんな、家の中へと隠れているのだとわかった。
「今日は何かあるのか?これだけの人数が揃って家にいるなんてありえないだろ」
その言葉に、優花はすぐに返答をしようとはせずに、あごに軽く手を当てたまま、じっと何かを考えるそぶりを見せた。
「分からない。けど、これは私たちにとっては好都合だね。今のうちに急ごう」
「あ、ああ」
釈然としない気持ちを抱いたまま、優花の後ろをついて歩く。この先の角を曲がれば、商店街である大きな通りへ出る。事情は分からないが、とにかく今は食材を確保するのが最優先だ。やがて角までたどり着き、そこを曲がろうとした瞬間、一歩前を歩いていた優花が手で制した。
「待って。何人かいる」
どうやら、大通りでは今までのようにはいかないようだ。こっそりと角から顔を出して、向こうの様子を覗き見る。一〇〇メートルほど先に、こちらへ向かって歩いて来る子供の姿が三つほど並んでいるのが見えた。その三人の姿に、思わず目を見張る。
本来であれば、少し様子を確認してすぐに顔を引っ込めるつもりでいた。けれど、その三人の顔は、そんな考えすら忘れさせるほどに、意外なものだった。
「なあ優花、あいつらに何かあったのか?」
ほんの三日ほど前まで、彼らの表情は歓喜と期待に満ちていた。理想を手にした喜びに満ちた溌剌とした表情を、その顔には浮かべていたはずだった。
だが今は違う、彼ら三人ともがつまらなさそうに表情を消して、退屈を顔に貼り付けている。
やがて、優花がポツリと問いに対する答えを口にした。
「たぶん、逆じゃないかな。きっと何もなかったんだよ。始めはこの子供だけの世界に浮かれていたけど、慣れてしまえばなんてこともない。今までと変わらない退屈なだけの日々だった。どうせそんなところじゃないかな」
それは、どこか冷めたような口調だった。きっと優花には、こうなる未来が見えていたに違いない。
「それにしたって、たった三日だぞ。たったそれだけの期間で、こんなにも変わるものなのかよ」
この革命が遂げられたその瞬間、公園に集まって仲間たちと共に、拳を空に突き上げていた子供達の姿を思い出す。あれだけ興奮していたのに、あれほどまでに子供だけの世界を切望していたというのに。
大人のいない子供だけの世界、そういうものに子供達は、必要以上に幻想を抱きすぎてしまったのか。あるいは、三日経てばどんな変化にも人は飽きてしまうのかもしれない。
そうして眺めていると、三人の子供は通りの途中にある角を曲がって、視界の外へと消えていった。
それを確認してから少しの間を置いて、人目を忍ぶようにしながら商店の並ぶ大通りへと出た。こんな場所に長居はできないと、いつもたくさんの料理や食材の並べられていた商店へと急ぐ。
この角からその商店までの距離はそう遠くなく、少し走ればすぐにたどり着いた。店の中に誰もいないことを外から確認すると、慎重に扉を開ける。
「良かった。誰もいないみたい」
言いながら優花は店の奥へと進んでいく。店の中を歩く優花の足が、不意にピタリと止まった。安堵したのもつかの間で、その背中からは言葉にし難い不穏な空気が漂った。
「どうした?何かあったか?」
その声に優花は答えない。不思議に思って優花の隣に立ち、見つめる視線の先を見た。目の前に広がる光景に、創は愕然とする。
「嘘だろ、おい」
そこにあったのは、奥行きの深さを持ちつつも横に広い大きな棚。そこにはいつも、所狭しとたくさんの食料品が並べられていた。今だって、それと変わらない光景があると、そう思っていた。
だが、棚の上には子供に人気のない料理がわずかに置かれているばかりで、いつもは棚の上を賑わせているような食料は何もない。
優花が思わず動きを止めてしまうのも無理はない。この程度の残りでは、明日にでもすべての食べ物がなくなってしまうであろうことは明らかだ。そして、なくなってしまった食べ物を補充してくれる存在は、この世界にはもういない。
食べ物を作る人がいなければ、食べ物はいつか底を突く。そんな当たり前のことさえ気づかずに、今日まで子供達はのうのうと生きて来たのか。
どうしてか無性に憤りが湧き上がってくるのを感じたが、それが誰に対する感情なのかは、創自身分からなかった。
「とりあえず、もらえるだけもらっていこうか。毎日同じのばっかりになっちゃうけど、仕方ないよね」
「あ、ああ。それは構わないけど……」
食料が無くなっているのは、きっとこの店に限った話ではない。この世界からすべての食料が消えてしまえば、たとえどんなに鈍い子供であっても、この非常事態には気づくはずだ。そうなれば、異変に気付いた子供達が各地で騒ぎ出すだろう。その時、果たして鴨居は今のこの世界を維持することが出来るのだろうか。
いずれにしても、もう数日と待たずにこの世界は、大きな変化を迎えるのは明らかだった。
「どうなるかな、これから」
優花がつぶやく。
「きっとどうにかなるさ」
適当な励ましなどではなく、心から思った言葉を返した。
ただ耐えるだけの時間は、もう今にも終わりを迎えようとしていた。




