4-5
目がさめると、窓の外の暗さに驚いた。一体何時間寝ていたのだろう。慌てて時計を見ると、針はすでに夕方の六時を指していた。講義ならもう、とっくに終わっている時間だ。
今頃優花は一人学校で待っているかもしれないと思い、慌てて布団を抜け出して部屋を出る。都合のいいことに、母は今家にはいないようだった。
家を出て、再び学校へ向かう。講義が終ってすぐのいつもの時間には間に合わないが、それでも少しでも早く着くようにと急ぎ足で進む。
その途中、騒がしい子供の一団がどこかへ走って行くのが目に入った。興奮気味に話しながら進む彼らは、創のことなど目にも入っていないようだった。
「おい、その話は本当なのかよ」
「本当だって!あの鴨居本人がいたんだよ!早く行かないといなくなっちゃうから、急いで急いで」
まるで誰か有名人を追いかけるかのような反応だ。その鴨居という人物に若干の興味は湧いたが、今は学校へ急ぐ方が先決だった。
学校にたどり着くと、再び視線との戦いだった。放課後になって人数が減ったとはいえ、校庭で遊んでいる子供の数は依然として多い。それをかいくぐるようにして校舎の中まで入るのは、簡単なことではない。どうにか校舎の中まで入ることに成功すると、そこから先は急ぎ足でいつもの教室へと向かった。
優花がその教室にいる保証もなければ、まだこの学校に残っている保証さえない。それでも創には、その場所を探しに行く以外に選択肢はなかった。
やがていつもの教室の前までたどり着くと、迷わずその扉を開けた。数歩だけ教室の中に進んで教室中を見渡す。教室の端から端まで、何度視線を往復させても、そこにはもう涼子の姿も優花の姿も見つけられなかった。どうしていいのか分からなくなって、その場で立ち尽くす。
その時、すぐ後ろで声がした。
「あれ、まだいたんだ?てっきり、もう帰っちゃったのかと思ってた」
その声を聞き間違えるわけがない。振り向くとそこには、両腕にいくつかの本を抱えた優花が立っていた。情けないくらいに、安堵していく自分がいる。
「良かった。優花の方こそ、もう帰ったのかと」
「うん、普段だったらもう帰ってる時間なんだけどね。ちょっと図書館でいろいろと用事を足してたらこんな時間になっちゃった」
言いながら、いたずらっぽく笑って両腕に抱えた本をほんの少し掲げてみせた。とても子供が読むとは思えない見た目の本が、いくつも積み重ねられている。
「珍しいな。優花がこれだけ借りるなんて」
「うん。今日は講義の後にね、木下がいろいろとオススメの本を教えてくれたんだ。だから、それでね」
木下とは、この前優花が受けている講義に紛れた時、熱弁をふるっていた講師のはずだ。それがオススメだと言うのなら、きっと今優花が持っているこの本は面白いものばかりなのだろう。
「そうだったんだな。もしも面白かったら、その後貸してくれよ」
「うん、もちろん。ただ、創には合うか分からないよ?」
「ああ。分かってるよ。ただ俺も、あの人のオススメする本はちょっと読んでみたいんだ」
「うん、分かった。じゃあ読み終わったら創にも貸すね」
「ところで」と優花は話題を切り替える。
「創はこんな時間までどうしたの?私のことを待ってくれてたの?」
その質問の答えを、とっさには返すことはできなかった。それを答えてしまえば、今日の出来事をすべて話さなければならない。少しの間逡巡し、やがて覚悟を決めた。
「いいや。実は学校には今来たところなんだ。今日はちょっと学校にはいづらくて、講義が終わるのを待ってたら、こんな時間になってた」
学校中に流れる噂話を、優花は知っているだろうか。ほとんどの時間を教室の中で一人過ごしている涼子ですら知っていたのだから、優花の耳にだって届いていてもおかしくはない。
「学校にいづらかったって言うのは、今学校中のみんなが話しているあの噂のせい?創が大人を助けるために、子供のことを殴り飛ばしたって……」
その噂の真偽を確かめるように、優花はおずおずと尋ねた。この学校の中でも孤立する立場ある優花や涼子ですら知っていたのだ。きっともう、このことを知らない子供なんて、この町にはいないのだろう。
「ああ、そうだよ。みんながこっちを見ては指をさしてくるんだから、居心地が悪くてしょうがないよ」
「その噂は、本当のことなの?」
「ああ、本当だよ。朝、学校に来る途中で、子供の集団にいじめられている大人がいたから助けた。それだけのことだよ」
「そうだったんだ。なんか意外だな、創がそう言うことするなんて。だけど嬉しいよ、創が助けを求めている人を見捨てるような人じゃなくて」
まるで自分のことのように、誇らしげに笑う。その笑顔を見ると、今日自分のしたことは間違いなんかじゃなかったのだと
、改めて感じさせられる。たとえ学校内でどれだけ立場がなくなっても、優花さえ笑ってくれるのなら、それで十分だ。
余計なことを話して不安にさせたくはなくて、大人狩りのことや、襲われていたのが優花の両親であったことは口にはしなかった。
それを悟られないように、冗談めかして創は言う。
「これからしばらくは人のいない場所で隠居かな」
「隠居もいいけど、ちゃんと学校には来てよ?なんだったら、私と一緒に講義を受けるのもいいかも」
「そうだな。考えておくよ」
そんな話をしながら、優花と二人で帰路につく。誰かに見られることを危惧していたが、もう校庭にはほとんど子供の姿はなく、辺りが暗いこともあって、誰かから指をさされることもなかった。
正門を抜けて、学校の敷地を出る。いつもよりずいぶんと時間が遅いこともあるが、やはりどこか人が少ない。街全体が閑散としていた。
「そういえば、涼子ちゃんや竜司君とは話はできた?」
「まあ一応な。涼子からは一応許しはもらえたけど、竜司は案の定だったよ」
「そっか。やっぱり竜司君は怒るよね。もともと大人に対しては否定的だったし、それ以上に今は修也君もいなくなったばかりで混乱してるだろうし……」
今更あの時のことを後悔するつもりはないが、改めて自分だけの問題ではないことを痛感する。修也が抜けてバラバラになりかけていたこの班に、完全にとどめを刺す形になってしまったのは間違いない。
申し訳ないとは思いつつも、今ここで謝ると言うことは、優花の両親を助けたことを後悔することに他ならない。謝罪の言葉を口にするのは憚られた。
「大丈夫。そのうちみんなこの話題にも飽きて、忘れられていくさ」
「そうだね。きっとそうだといいね」
楽観的言葉で場を濁す。出来たこと言えば、その程度だった。これからどうなっていくのか、結局のところ何一つ分かってはいなかった。
「なあ、優花。もしもーー」
言いかけた、その瞬間のことだった。すぐ近く、硬いもの同士が派手にぶつかったような、そんな音が響いた。そしてその直後、大人のものと思われる低い声の悲鳴が続いた。何が起こっているのかはすぐに分かった。
できることなら、優花と一緒にいるときには、こんな場面に遭遇したくはなかった。けれどきっと今は、それが無茶な願いであるほどに、大人狩りが子供の間に浸透してしまっているのだろう。
優花は途端に険しい顔をして、創の方を振り向いた。
「創、行こう!」
創の返事も待たずに優花は走り出す。もしもこの先に今朝と同じ光景が広がっているのだとしたら、間違いなく優花は間に入って大人を助けるだろう。
創も優花を追って走り出す。それは止めるためではなく、手伝うため。通りを進んで行き二つ目の曲がり角を曲がる。その先に、それはあった。
二人の子供によって虐げられる一人の大人。まるで今朝の光景の焼き増しみたいだ。隣では、わずかだけ先に着いていた優花の顔が強張っていくのが見えた。
この場にいた二人の子供のうちの一人は、よく見知った顔だった。伊崎周吾が、地面に倒れた一人の大人の身体を蹴り飛ばす。その後ろでは、もう一人の少年がその光景を見て満足そうに笑っていた。彼は遠巻きに見ているだけで、自分から直接手を下そうとはしていない。
彼だけは、今までに見た大人狩りに興じていた、どの子供とも様子が違って見えた。
「なにを、してるの?」
怒りを押し殺したような声で優花は言った。努めて平坦な語調になったその言葉は、下手に感情に任せた言葉よりも、かえって迫力がある印象を受けた。
優花の存在に気づいた周吾ともう一人の男は、じっと睨むようにこちらの様子を見ている。それに応酬するような形で優花も強い視線を返し、今にも争いが始まってしまいそうなほどの緊張が、両者の間を漂っている。
やがて、周吾が口を開いた。
「何してるって、見りゃあわかんだろ。大人狩りだよ、大人狩り」
できることなら優花には知られたくなかったその単語が、あっさりと周吾の口からこぼれ出た。
「大人狩り?」
「ああ、大人狩り。知らない?俺たち子供の世界で、調子に乗っている大人どもを粛正する、すばらしい活動さ」
「その人たちが何かしたの?」
「でかい顔をして、そこを歩いてた」
あっけらかんとした口調で周吾が言った。
「話にならない。その人から早く離れて」
優花の声は凍てつくほどに冷たい。こんなにも激怒している優花を見るのは、付き合いの長い創であっても初めてのことだった。優花の中で我慢の限界が近づいているのが目に見えて分かる。きっかけ一つで、今すぐにでも飛びかかってしまいそうな、それほどの危うさを持っていた。
「誰が離れるかよ、ばあか。これからがいいところだってのに」
周吾の挑発的なその言葉に、優花の我慢が限界を迎えたのが分かった。けれど、今ここで周吾を叩いたところで、何が変わるわけでもない。確かに、今目の前で襲われているこの一人の大人は助けられるかもしれないが、きっと今も町中ではたくさんの大人が襲われている。今は情報を引き出す方が先だった。
動き出そうとする優花を手で制して、創は一歩前に出る。
「なあ周吾、一つ答えてくれ。今朝からあちこちで起こっている大人狩りを先導しているのはおまえか?」
「さあね、どうだろう」
相変わらず人を小馬鹿のしたように周吾は笑う。こんな小物が元凶なわけがないと分かりきっての質問だったが、返ってきたのはなんともバカらしい答えだった。埒があかないと思い、それをはっきりと本人に伝えてやろうとした時のこと、初めて聞く声がした。
「僕だよ」
周吾の奥に立つ、傍観者を気取る男が口を開いた。
「周吾くんは関係ない、全部僕が扇動したんだ。邪魔な大人どもはみんな狩り尽くしてやろうってね」
彼の言葉を聞いて確信した。間違いない、この男こそが一連の大人狩り首謀者だ。
他の子供達とは違う。彼の語るその言葉一つ一つには確かな意志がある。単なる愉快犯とは違う。彼はまさに、思想犯とも呼ぶべき男だ。
彼の瞳は細く、一見すると柔和そうに見える表情を浮かべているが、その瞳には確かな意思が宿っている。
「どういうこと?あなたが他の子供達にも大人をいじめるように命令したの?」
好戦的な姿勢を崩すことなく、優花が訊いた。
「まさか、僕には命令なんてできないよ。僕はただ呼びかけただけさ。みんなで一緒に綺麗な世界を作ろうって。革命を起こそうって」
「革命だって?」
彼の口から出た言葉の突拍子のなさに、思わず創は問いかけた。
「ああ、革命さ。この世界のあり方を変えてやるんだから」
革命なんて、およそ当たり前の会話の中で使われる言葉じゃない。けれど彼は、そんな言葉の重みに臆することなく、堂々とそれを口にする。
そして彼は一歩こちらへ踏み出して、右手を差し出した。
「僕は鴨居廉。この世界に革命を起こそうという男だ。きみたちも一緒に世界を変えないかい?」
平然と、なんのためらいもなく彼は口にした。それは駄目元の勧誘などではなく、そうすることが当然とでも思っているかのようにも見えた。あまりに想定外なその言葉に、創と優花は虚を衝かれる。
彼は創が大人を助けた本人であることを知っているは分からないが、少なくとも自分にとって協力的な立場をとっていないのは、明らかであるはずだった。それを分かっていながら二人を勧誘すると言う大胆な行動に、不気味さを覚えた。
彼——鴨居廉にとっては、子供と大人は明確に対立するものであり、それ以外の要素は存在しない。一七歳の誕生日を迎えるまでの子供なのか、一七歳以上の大人なのか、彼が基準とするのはたったそれだけの事実なのだろう。
「おいおい、正気かよ!こいつらは大人を助けようとするような異端児どもだぞ!?いくらなんでもこいつらはねえって」
鴨居のその思わぬ提案に対し、周吾は慌てて止めに入る。周吾にとって、創や優花は単なる敵対者でしかないのだから、当然の反応だった。周吾には、鴨居と名乗ったこの男のような思想は存在しない。
そんな周吾の必死の訴えにも、鴨居はしれっと答える、
「別にいいじゃないか。僕たちの敵は大人だ。仲間は一人でも多い方がいいし、何より一人でも多くの子供に共感してもらいたいんだ」
「それはそうかもしれねえかど、こいつらは例外なんだよ。お前だって知ってるだろ?子供が大人を助けたって言う噂、その大人を助けた子供っていうのはこいつなんだよ」
周吾は創の方を指差して言う。噛み合わない二人の会話に、本意ではないが助け舟を出す。
「安心しろ。俺らとしても、お前らの仲間になるつもりはないよ」
創のその言葉を聞くと鴨居は、少し悩むそぶりを見せた後「そうか、それは残念だ」とだけ言った。そして、それ以上勧誘を続けることも、誘いを断ったことを批難することもせず、背を向けて歩き出す。そんな鴨居の様子を見て、慌てたのは周吾だった。
「おい、どこに行くんだよ」
「どこって、新しい対象を探しに行くだけだよ。こいつまでもこんなところにいたってしょうがないし、また新しい大人を探しに行かないと」
「待てよ、こいつらは粛清しなくていいのか?一度痛い目をみせないと、こいつらは絶対にまた邪魔をしにくるはずだぜ」
周吾はこれをいいネタにして、創たちに復讐をしたいのだろう。けれど、そんな周吾の狙いとは裏腹に、鴨居は創たちへの興味を失っている。
「僕らの目的はあくまで力無き者の粛清だよ。彼らはその対象じゃない」
「けど……!」
周吾の呼びかけも聞かず、鴨居はどこかへ歩き去っていく。置いていかれそうになった周吾は一度こちらを振り返り「ふん、運が良かったな」と捨て台詞を残し、鴨居の背中を追いかけて走り出した。
やがて周吾の背中が見えなくなると、優花は倒れている大人へと駆け寄った。「大丈夫!?」、声をかけながら、その身体を優しく揺する。その声色も、その表情も、まさに悲痛そのものだ。
ボロボロになった体を必死に抱き抱えながら、何度も呼びかける。けれど、男は意識を失っているようで、呼びかけに応えることはない。優花の顔にも焦りが見え始めた。
「ひどいよ、こんなの。この人がいったい何をしたって言うの?こんなの、許せるわけないよ!」
憤りの感情を隠そうともせずに優花は叫ぶ。その目はわずかに赤みを帯びていて、いったいどれほどの怒りや悔しさを抱えているのか、わずかにだが推し量ることができた。
「ああ、そうだな。こんなこと、許されていいはずがない」
「ねえ。こんなことが、これからも続いていくのかな?さっきの鴨居って人は、また別の大人を探しに行ったんだよね?」
「考えたくはないけど、きっとそうだろうな。たぶんあいつは、すべての大人を狩りつくすまで止まらないと思う」
鴨居の言葉を、意志の強い瞳を思い出す。間違いなくあれは、中途半端なところでは止まらない。彼の目指す理想の世界を作るまで、歩みを止めることはしないだろう。
「わたしにはわからないよ。鴨居って人の考えも、それに便乗するほかの子供たちも……こんなの絶対おかしいのに、どうしてみんなはそれに気づけないの?」
地面に倒れる大人を抱いたまま、優花は力なくそう言った。いよいよ我慢のきかなくなった優花の両目からは、涙が溢れ始めた。
誰もよりも優しくて、誰よりもいろいろなものが見える優花にとって、これはあまりにも耐え難い現実だったはずだ。慰めの言葉を考えていたその時、男の身体をそっと地面に置くと、優花はすっくと立ち上がった。
「ねえ創。私たちで止めよう?絶対にこのままあいつらの好きにさせたらだめだよ!」
優花の口からこんな言葉が出てくるのは、分かりきったことだった。優しさと意志の強さを兼ね備えた優花は、間違いなく止まらない。
覚悟なら、とうにできていた。優花の両親を助けたあの瞬間から、もう後戻りができないことなんて、分かっている。
「そうだな。俺らが止めなきゃだよな」
「ありがとう、創。無理言ってごめんね。危ないことに巻き込んでるってことくらい、私だってわかってるの。だけど、やっぱりどうしても許せなくて」
「わかってるよ、全部。優花の考えてることくらい。だから、気にすんな」
「ありがとう」
その時、今までの間、ずっと気を失っていた男が目を覚ました。わずかなうめき声をあげながら、目を開く。虚ろな瞳がすぐ隣に立つ優花の姿を捉えたのが分かった。少しの間をおいて、その両目が見開かれる。
「ひいっ」
子供という存在に恐怖を植え付けられたのか、まるで拒絶反応を示すかのように、男はボロボロの両腕を使って逃げ出そうとする。けれど、力が入らないのか、立ち上がることさえできないでいた。
優花は身をかがめ、安心させるように穏やかな声で言った。
「大丈夫、私はあなたを襲ったりしないから」
その言葉を男は想定していなかったのか、状況を呑み込めずにいるかのように面食らった表情を作った。
「なあ、あんた。家は近いのか?」
「え、はい。すぐそこですが……」
困惑をしながらも男は答えた。やけに掠れた声をしているのは地声なのか、それとも怪我の影響なのか、判断がつかなかった。
「よし。外は危険だから、家の中でおとなしく隠れてろ。家の前までは送っていってやるから」
「ごめんね。ずっと守ってあげられればいいんだけど、ほかの人たちも助けないといけないから」
ようやく状況を把握し始めたのか、その表情は次第に怯えから困惑へと変わっていく。
「あ、あなたたちは大人を襲わないのですか?」
「襲うわけないよ。大人とか子供とか関係なく、みんな同じ人間だもん」
優花のその言葉を受けると、男は少しの間言葉を失ったようにして、呆然とした。やがて少しずつ意味を理解していったのか、困惑の表情が次第に崩れていく。ああ、と彼が呟く。
「そう、ですか」
あまりにも短い、たったそれだけの言葉。けれど、それを口にする男の表情には、たった一言では片付けられないほどの意味が込められているように見えた。単なる助けてもらった恩義を超えた何かが、そこには確かにあった。
「さ、家はどっちだ?悪いけど、あんまり時間がないんだ」
「すみません。ご案内いたします」
よろけながらも自力で立ち上がろうとする男に、優花は手を貸した。男はどうにか立ち上がって、自分の家へと案内を始める。
足を引きずりながらゆっくりと進む男の案内に従って、町の中を進んでいく。こんな場面を、もしも他の子供に見られでもしたらどうしようかと不安に思ったが、男の家は本当に近く、そんな不安は杞憂に終わった。
家の前までたどり着くと、男は大袈裟なまでに頭を下げた。
「この度はありがとうございました。本当に、なんとお礼を言ったらいいのか」
「いいよ、いいよ。私たちが勝手に助けただけだし。それに、こんなの全部、私たち子供が悪いんだよ」
「あなたは本当に不思議なお方ですね。あなたのような子供が多くいれば、もう少し違った世界になっていたのかもしれませんね」
男はそう言って、自分の家の敷地へと入っていく。玄関のドアの前まで行くと、最後にもう一度頭を下げて、家の中へと消えていった。
それを見届けて、創は優花と視線を合わせた。もはや、ただ一人を助けて、それで満足というわけにもいかない。今もどこかで襲われている次の大人を探すため、一息をつく間も無く、優花と二人で再び歩き出した。
進む道に当てなどはなく、ただ足の赴くままに町を歩く。これは、ただそれだけの旅だった。
大人の間でも大人狩りの噂は広まっているのか、町を歩いていても大人を見かけることはほとんどない。ときたま、大人が襲撃を受けた跡のようなものを見かけることはあったが、実際に誰かが襲われている現場を見つけることはなかった。
歩き始めてから二時間ほどが経過して、ようやく辺りが暗くなっていることに気がついた。町の中心に伸びる大通りでもなければ、道を照らす街灯の数も多くはない。すぐ隣に立っているはずの優花の表情さえ不確かで、これ以上は続けられそうにもなかった。
「今日はここまでにしておこうか。さすがにこの時間に出歩く奴は、大人も子供もいないだろ」
「でも、この時間なら、まだ外を出歩いている大人の人だっているかもしれないよ?まだもう少しだけ見回らないと」
そう言う優花の顔からは完全に余裕が消えている。止めなければこのままずっと夜通し歩き続けそうな雰囲気さえ感じられる。こうなった優花のことを止めるのが自分の役割なのだと、創は自覚をしている。
「いや、今日はもう終わりだ。初っ端から張り切りすぎて俺らが体調を崩したら、いったい誰が大人を守るんだよ」
創は努めて厳しい口調で言った。優花も頭では分かっているのだろう、悔しそうに顔をゆがめながら、渋々と言った様子でうなずいた。
「うん、そうだね。私たちが倒れちゃったら元も子もないもんね」
「ああ。だからまた明日に備えて、今日はもう休もう」
「うん。分かった。ごめんね、振り回しちゃって」
「いいんだよ、別に。もっと振り回してくれたって、俺は構わないんだ」
これ以上先に進むのはやめて、それぞれの家へと進路を変える。今日一日の疲れのせいか、それぞれの家へと続く分かれ道に差し掛かるまで、これ以上の会話が交わることはなく、優花は最後まで不安そうな表情を崩さなかった。
「それじゃあ、また明日ね」
「ああ、また明日」
わずかな別れの挨拶を交わしながらお互いに手を振って、それぞれの家へと向かっていく。別れの挨拶がこんなにも簡素になったのは、これだけ長い間一緒にいて初めてのことのように思えた。
優花と別れて考える。こんな日が、いったいいつまで続くのだろうか。鴨居はきっとすべての大人を狩りつくすまで止まらない。島中の子供たちを巻き込んで、この大人狩りと呼ばれる行為を続けて行くのだろう。
優花と二人。たった二人で彼らの行動を止めることなどできるのだろうか。考えれば考えるほど途方も無いことに気づいて、考えるのをやめた。
そんな先のことなんてどうだっていい。今はただ優花を守る。それだけのことだ。
「おかえりなさい」
家に帰ると、母親が真っ先に出迎えた。顔や手など、露出しているその肌に傷はなく、怪我をした形跡はない。どうやら、大人狩りの被害にあった様子はない。無事である様子を見て少しだけ安堵した自分がいることに気づいて、自分で自分が恨めしくなった。
テーブルの上に用意された夕食を食べる。遅い時間の夕食は、いつもよりずっと胃にしみた。
早いペースですべての料理を胃にかき込み終えると、自分の部屋へと向かって歩く。そこでふと立ち止まる。
「なあ。明日は家から出ないでくれないか」
食器を片付けようとする母親に、顔も見ずに言った。
「大人狩りって知ってるか?今子供たちの間で流行っているそうなんだけど、町を出歩いてる大人を見つけ次第、みんな襲撃して回ってるらしい」
「まあ、そんなことが?」
「ああ。そのせいであんたに怪我をされたら面倒だ。だから、とりあえず明日はここに引きこもってろ」
「お気遣い、痛み入ります」
「忠告したからな。それじゃあ」
優花と二人でこれから守って行くと決めた大人の中には、自身の両親だって当然含まれている。他の大人に話をするよりもずっとやりにくさを覚えたが、大人を守って行くと優花と約束をした手前、ただ一人として例外を作るわけにも行かなかった。
部屋の中へと入り、扉を閉める。その瞬間、全身を強い倦怠感が襲った。布団の上に、そのまま倒れこむ。うつ伏せになって、そこからもう動けない。思考ばかりがやたらと働くが、身体は糸を切られた操り人形のように動かない。まるで意識と身体が完全に分離をしてしまったような感覚を覚える。
なんだかもう、何もわからない。疲れているはずなのに目が冴えて、まるで眠れそうにもない。
ただひたすらに疲れた。頭にあるのはそんなことだけだった。
何も考えないようにということを必死で考えて、身体の下にある布団の感覚に身を預ける。そんな時間が一時間ほど過ぎた頃、ようやく意識は眠りの奥へと潜っていった。




