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こんな事があったばかりだというのに、足が向かう先は学校だった。たどり着く頃にはもう、噂は広がっているだろうか。高坂の口の軽さを考えれば、学校中に噂が広まるのは時間の問題だ。歩きながらも、足は鉛が付いたように重い。
優花や涼子は間違いなくもう学校来ているはずで、竜司だって居てもおかしくない時間だ。創が大人をかばってほかの子供を殴り飛ばしたと知られたら、三人はどんな反応をするだろうか。
やがて、いつもの倍以上の時間をかけて学校の校門の前までたどり着く。校庭には子供のたちの賑やかな声が響いている。そのどれもが、さっきまでのことを噂する声に聞こえて、校門の前で足がすくんだ。
それでも、いつまでもこんなところで立ち尽しているわけにもいかない。覚悟を決めて、その門を抜けた。近くを通る子供たちの視線に怯えながら、うつむきがちな姿勢で足早に校庭を抜けていく。
どうにか目線を躱しきって、玄関までたどり着く。あとはいつもの空き教室まで少しの距離を歩けばいい。ホッと一息をついた矢先、いくつもの目線が身体に突き刺さるのが分かった。
まるで、創がここにやって来るのを待ち伏せていたかのように、何人もの子供達がそこで待っていた。その誰もが嘲笑うような笑みを浮かべて創の方を見つめている。
それだけでもう、すべてが手遅れであることを悟り、彼らの視線をかわすように、足早にその場を立ち去った。
わざわざそれを追いかけてくる者はいない。振り向いてそれを確認すると、いつもの空き教室へと入った。
ドアを開けて中を覗くと、いつもの席に涼子の姿がない。ドクンと心臓が跳ねた。
噂が広まったことによって、同じ班のメンバーである涼子にも何か危害が加えられたのではないかと、そんな考えが頭をよぎった。
だが、そこから少し視線を上げると、窓の外、ベランダに立って外を眺める涼子の姿があった。心配は杞憂に終わった。
教室の中を進み、ベランダへと続くドアに手をかける。ベランダへ出ると、涼子がこちらを一瞥した。創はそのまま進んで、涼子の隣に立つ。涼子は今日のことを知っているだろうか。ただ立って、言葉を待った。
やがて、涼子が言った。
「噂、かなり広がってるよ」
「やっぱり、涼子の耳にも届いてたか」
噂が広まっていることは想定していたことであり、それほど驚きはなかった。あるのは、少しのやるせなさと、同じ班員への申し訳なさ。
「もう学校中その話で持ちきりだよ。話題に疎い私の耳にさえ届くほどにね」
「悪い……涼子にも迷惑をかけた」
「別に私はいいよ。どうせ、もともと学校に居場所なんてないし。まあその点、竜司は怒るかもしれないけどね」
「そうだな、竜司にも後で謝らないと」
竜司は学校での時間を、他の班の子供に混ざって遊ぶことも多い。他の二人よりも一層、創の作った悪い噂に振り回されることも多いだろう。謝りにいけば、手酷く怒られることは目に見えていたが、それでも折を見て竜司に会いにいかなければいけない。
「私には別に謝罪なんていらないけどさ、一つだけ教えて。どうして大人を助けるような真似をしたの?」
じっと、涼子の目が創の顔を捉えた。すぐ隣、至近距離から見つめるその目は、はぐらかすことを良しとしていない。
だったら、今の創にできるのはありのままを答えるだけだ。
「優花の両親が襲われてた」
いつもは薄く開いている涼子の目が、わずかに広がった。
「家に行ったときに何度か顔を見ていたからすぐに分かったんだ。襲われていたのが他の大人なら、どうってことはないさ。だけど、優花の両親が襲われているのを、見て見ぬをふりをするなんて、できるわけなかった」
くだらない理由と一蹴されるだろうか。少し怯えて、涼子の審判を待つ。
やがて、返ってきたのは穏やかな声だった。
「創らしいね。下手な理由じゃなくて安心した。いいよ、許すよ。そういう理由ならさ」
何か根本の問題が解決したわけではない。けれど、両肩にのしかかっていた重みが、たった一人からの許しによって随分と軽くなった。
ありったけの感謝を込めて、「ありがとう」と口にする。涼子は「いいって」と言いながら手を振って応える。言い終わると涼子は、すぐに穏やかな顔を崩して、険しい真剣な表情へ切り替えた。
「ねえ、一つだけ訊かせて。創はこれからどうしていくの?」
その質問はあまりにも不意打ちだった。今まで通りでいられないことは分かっていて、けれどこれから自分がどうして行きたいのかなんて、まるで考えていなかった。とっさに言葉が浮かばず、答えに窮していると、涼子は言葉を重ねた。
「襲われていたのが優花の両親だったから、大人を助けるようなことをしちゃったんだってことを、私は知ってる。その理由に納得だってする。だけど、創が大人を助けたという事実は変わらない。客観的事実として、それはずっとついて回るんだよ」
その中で創はどうしていきたいの?まるでそんな言葉が続きそうな口ぶりだ。これからどうしていけばいいのか、ずっと目を逸らしてきた命題が、目の前に突きつけられた。
確かに涼子の言うことはもっともだ。裏にどんな事情があったとしても、他の子供達からすれば、創は大人に加担する異端者であり、平たく言えば子供の敵だ。だとすればもう、取るべき立場は決まっている。
いっそのこと、とことん敵になり切ろう。子供同士の同族意識なんて、これっぽっちも持っていないし、大人狩りという行為がなぜ突然流行しだしたのか、その理由にも興味がある。
子供の敵として、被害にあう大人を守る立場として、その理由を探っていくのも悪くない。
「これからのことなんて考えてもなかったって顔してたけど、何かいい案は思いついた?」
「ああ、おかげさまで。ただ、涼子たちにはまた迷惑をかけるかもしれない」
子供たちの敵に回ること、大人を守ろうとすること。それがどれだけ涼子たちに影響を与えるかは分からないが、きっと周りの子供からは、大罪人の仲間のような扱いを受けることは容易に想像がついた。
「いいよ別に。創に迷惑をかけられるのには、もう慣れているから」
「悪いな、ありがとう」
「うん。創がこれからどうしていくのかはわざわざ訊かないけど、中途半端はやめてよね。なんだかんだ言って私は、創の奔放なところ嫌いじゃないからさ」
「ありがとう。そう言ってもらえると、本当に助かるよ」
涼子は好意的な反応を示す時、“嫌いじゃない”という表現をよく使う。今その言葉を引き出せたことが嬉しくて、同時に申し訳なさを覚えた。涼子のその優しに対して、返せるものなんてなにもない。
「じゃあ、そろそろ竜司に怒鳴られに行ってくるかな」
「うん、行ってらっしゃい。死なない程度に殴られてあげてきて」
冗談めかした言葉だが、それが冗談にならないことを知っている。だから今はもう、覚悟を決めていくしかない。小さく手を振って、ベランダを後にした。
教室を出ると、再び視線が出迎えた。時折廊下を通る子供からは奇異の目線を向けられ、それを無視して進んでいく。ひどいのは、玄関を抜けて校庭に出てからだった。校庭で遊んでいた子供たちは、創の姿を見ると、遊ぶのをやめてざわめき出す。仲間同士でヒソヒソと噂をする者もいれば、あからさまに指をさして笑い出す者もいる。これでは、まるで見世物だ。
けれど、今朝に比べれば随分と心が軽い。いっそうのこと、開き直って仕舞えば意外と気にならないものだった。
校舎とは反対側の校庭の奥に、竜司はいた。他の班の子供に混じって、楽しそうに遊んでいるのが目に入る。たとえどれだけ開き直っても、やはり自分の班員は特別だ。心臓の鼓動が次第に激しくなっていくのが分かる。
遊びに夢中になっている竜司はまだ創の存在に気づかない。叫ぶことをしなくても声が届くほどの距離まで近づくと、竜司と遊んでいる一人の子供が創の存在に気づいた。「おい」と、慌てたように声をあげて指を指す。その声に、竜司がこちらを振り向いた。
「竜司」
声をかける。
「あ……」
竜司は少し驚いたような表情をして、反応に困ったような声を漏らした。そこに創は畳み掛ける。
「竜司、俺はーー」
その声を、竜司の声が遮った。
「帰れ。お前と話すことなんて何もない」
それは、一切を拒絶するような、ひどく冷たい声だった。言い訳することも、謝罪することすら許さないと、そんな響きを持っている。思わず、言葉を失った。
けれど、どうにかもう一度名前を叫ぶ。
「竜司!少しだけでも話を!」
「黙れ!帰れって言ったのが聞こえなかったのか?今すぐ俺の目の前から失せやがれ」
激しい怒りに包まれた竜司の視線が突き刺さる。そこにあるのは、分かりやすいほどの拒絶。もうこれ以上の呼びかけは意味をなさないと、そう悟ってしまった。
そして、これ以上この場に留まれば、竜司にもきっと迷惑をかける。それを思うと、諦めて身を引くしかなかった。
悪かった。そんな言葉を言いかけて、けれど、それは卑怯だと思い、喉の奥に飲み込んだ。
「遊び、邪魔して悪かった。それじゃあ」
代わりに、遊びを中断させてしまったことを謝って、この場を後にした。これ以上、竜司が何かを言うことはなかった。
結局、最後まで竜司は自分の感情を口にすることはしなかった。もっと怒鳴ったり、暴力を振るったり、そう言う分かりやすく怒ってくれた方がまだ良かった。いつもの竜司であれば、分かりやすいくらいに自分の感情をさらけだしてくるはずなのに、今回はそれをしなかった。それが、今回の一件がどれほど決定的だったのかを物語っているように見えて、ひどく寂しい気分になった。
けれど、もう止まれない。戻れない。去っていく創のことを、竜司は呼び止めることもしなければ、創が竜司の方を振り向くこともしなかった。




