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次の日の朝、学校へ向かおうと家を出た創を出迎えたのは、地面に倒れ伏した大人の姿だった。額からは血を流し、全身には無数の痣ができている。どうにか意識はあるようだが、立ち上がって動くことさえ出来ないでいた。
子供に襲われたのだと、一目で分かった。
可哀想に。心にもない同情を頭の中で呟いて、歩き出す。彼を助けると言う選択肢は、初めから創の頭の中にありはしない。低い呻き声を上げながら悶える大人から目を逸らし、視線を通りの奥へと向ける。
気分を切り替えてそこから少し歩くと、視線の先に、地面を転がる大人の姿が見えた。そして、ゆっくりと歩いてそれを追いかける何人かの子供の姿が続く。子供たちの顔には、愉快そうな、爽快な笑顔が張り付いていた。
たった今地面を転がって行った大人の姿は、今もそこで倒れ伏せている大人と同じく、ひどく傷にまみれた姿であることが遠目にも分かった。
子供の怒りに触れた大人は、なす術もなくこうして、子供の気が収まるまでただひたすら暴虐に耐えるしかない。
子供の怒りは気まぐれだ。もし一人を襲うだけで気が済まないようであれば、近くに居合わせた他の大人を襲うこともある。二人の大人を襲った犯人が同じかは分からないが、たぶん、これもそう言う話なのだろう。
まったく、今この場に優花がいなくて本当に良かった。もしもこの場にいれば、怒りに胸を燃やし、すぐにでも目の前の大人を助けようと言い出しただろう。大人を助けると言う行為は、子供達の世界では決して認められることはない。たとえ今こうして目の前で誰かが襲われていようと、見て見ぬ振りをするのがもっとも無難な反応だ。
朝から気分の悪いものを見た。ただそれだのことと自分に言い聞かせ、再び学校へと向かって歩き出す。
頭の奥にこびりつくのは、地面に倒れた大人たちの光景。忘れようと思ったところで忘れてくれないのは、人間の脳の悪いところだ。
そこから五分ほど歩き、だんだんと学校も近づいてきた頃、ようやく嫌な気分も抜けてきた。今日は何となく、優花と同じ講義にでも顔を出してみようか、なんてことを考えた。
その思考は、目の前の光景によって、唐突に遮られた。
男女の大人二人が、五人の子供の集団に襲われている。その五人の子供は、明らかにさっきの子供達とは違うグループだった。
基本的に大人は子供の怨みを買うようなことはしない。怒りに触れぬよう、一歩引いた場所から従順な態度を取り続けている。だからこそ、本来であればこんな光景は滅多に見るものではない。だと言うのに、血を流して地面に倒れる大人を見るのは、今朝だけでもう三度目だ。子供のストレス発散の道具として、何の理由もなしに大人が襲われることもあるが、それにしてもこの短時間で三度は多すぎる。
その光景を前にして思わず立ち尽くしていると、彼ら子供のうち一人と目が合った。
「あん?何見てんだよ。おまえもまざりたいのか?」
「いや。いいよ。興味もないし」
彼らに蹴り飛ばされた二人の大人は地面にうつぶせて、顔は見えない。きっとその顔にも無数の傷が刻まれているであろうことは、ススに汚れた全身から容易に想像が付く。ここに来るまでに見かけた二人の大人と同様、ひどい有様だ。
創の返答に対して、彼はつまらさそうな顔を返した。
「ふうん、まあいいけど。実際こいつらは俺らの獲物だから、混ざりたいって言われたっところで、混ぜてあげなかったし」
彼にとっては創の存在すら退屈しのぎの一つだったのかもしれない。どこまでも上から目線な態度に、いらだちの感情が広がっていく。早くこの場から離れたかったが、まだ訊くべきことがあった。
「なあ、ここに来る前に倒れている大人を二人ほど見たんだが、そいつらもおまえらがやったのか?」
「いや?こいつらが今日初めての獲物だよ」
「ふうん、今日はやけに大人いじめが流行っているんだな。倒れている大人を見るのは、こいつらで三組目だよ」
口にした瞬間、彼らの表情が変わった。おかしな物でも見るかのように、怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだ、おまえ知らないのか?大人狩りだよ、大人狩り。邪魔な大人どもを俺たち子供が狩り尽くすんだ」
「なんだそりゃあ。今はそんなのが流行ってるのか?」
そうつまらなさそうに吐き捨てると、今まで話していた男の隣に立っていた女子が、唐突に顔色を変えて食いかかっきた。
「流行りなんて、そんな遊びみたいなものじゃないの!力もないくせにでかい顔をして町を歩くゴミどもを、私たちの手で粛清してやるのよ!」
熱のこもった声に気圧される。何か強い思想のようなものが、この言葉の奥深くに根を張っているような、そんな感覚を覚えた。
「そうかよ。興味ないし、勝手にやってろ」
ほかの子供がどんな思想を持って、どんなことをしようとしても自分には関係がない。彼らにわざわざ問いかけたのだって単純な好奇心からで、この行為を非難するためではない。なぜこれだけ多くの大人が襲われていたのか、その理由が分かり、創はそれだけで十分だった。
たとえこれから、この大人狩りなんてものが広がって行こうと、自分には関係があるはずがない。
——そう思っていた。
「つれねえなあ。おまえも子供なら一緒に町中の大人どもを狩り尽くしてやろうぜ、ほら」
そう言って、男が足元に転がる大人を蹴り飛ばした。ゴロゴロと転がり、仰向けの体勢に変わる。無数の傷が刻まれた、その顔があらわになった。顔面は血にまみれ、表情や顔の特徴すら読み取ることが難しい。
けれど、分かってしまった。たった今蹴り飛ばされた大人の顔を、創は何度も見たことがあった。
子供達によって虐待をされていた二人の大人は、間違いなく優花の両親だった。
蹴り飛ばされ、創の足元まで転がった優花の母親と目が合った。その瞬間、頭からすうっと血の気が引いていくのが分かった。
両親はきっと自分の顔を覚えている。いや、覚えていなかったところで関係ない。とにかく、今すぐにでもここから逃げ出してしまいたい。そんな思考と衝動が頭を駆け巡り、思わず息をすることさえ忘れてしまったような気がした。一歩、足を引いた。
けれど、今ここで逃げ出せば、優花に合わせる顔がなくなってしまう。この子供達の機嫌によっては、ひょっとすれば二人の命すら危ういかもしれない。
それを思うと、優花の泣き顔が自然と頭に浮かんだ。そんな顔は絶対に見たくない。
「なんだ、どうした?」
創の異変に気付いた男は疑問の声を上げる。けれど、男の顔にはわずかの警戒心すらなく、退屈そうに足元に転がる優花の父親を踏みつけて遊んでいる。今ならやれると、そう確信した。
次の瞬間には身体が自然と動いていた。両方の足に力の塊をイメージし、一気に飛び出す。あっという間もなく男の元までたどり着くと、右の拳を握り、男の顔面に向けて振り抜いた。創のその行動を予想もしていなかった男は、何もできずにただ迫る拳を見つめることしかできなかった。
そこから先はもうヤケだった。すぐ隣で呆けた顔をして立っている残りの数人の子供も、そのままの勢いで殴り倒す。
同じ子供相手に襲われるわけがないと油断している相手を殴り伏せるのは、あまりにも容易い作業だった。全員が完全に気絶したことを確認して、ようやく事の重大性に気づく。
大人を助けるため、子供を殴り倒す。それは、子供としては認められるはずのない行為だった。
優花の両親は、この光景を呆然として見つめている。やがて、信じられないと言った表情で尋ねた。
「助けて、いただいたのですか……?」
「こいつらがむかついたから殴った。それだけだ」
「それでも私たちは助かりました。だからお礼を言わせてください。ありがとうございます」
優花の両親は、痛む身体に鞭を打って、必死に身を低くしようとする。こういう律儀なところは優花にそっくりだ。ばつが悪くなって、二人のことを直視できない。
「おまえらも早くどこかへ逃げろよ。また別のやつらが襲ってくるとも限らないからな」
それだけ言って、どこかへ逃げ出そうとしたその瞬間、どこか聞き覚えのある、別の声が聞こえてきた。
「あれ?水野君じゃん。こんなところでなにしているわけ?」
声のした方角を慌てて振り向く。声の主には見覚えがあった。同じ学校で同じ学年である高坂が、四人の仲間を連れてそこに立っていた。最悪の場面を、最悪の人に見られてしまった。
「今、そこの大人を助けてたよね?ねえ」
どこまでも愉快そうに、高坂は意地の悪そうな笑みを浮かべている。創が今何をしたのか、その全てを完全に理解している様子だった。もはや言い訳も無駄だと悟り、ごまかす言葉も浮かばなかった。ならばもう、開き直る他ない。
「だからどうした?」
「いやあ、子供としてその行動はどうなのかあって。そこに転がってるやつら、全部水野くんがやったんでしょ?こいつらに虐められてた大人を助けるために」
「悪いか?あんまり偉そうにしてたから、ムカついたんだよ」
「いやいや、別に責めてる訳じゃないんだよ?たださ、こんなに面白いニュースはみんなに共有しないとねえ」
高坂はこれでもかと言うほど口角を釣り上げて、ニヤリと笑う。新しいおもちゃが手に入ったことが、どこまでも嬉しくてたまらないと言った風だ。
周吾がこの間の大会で惨敗した時も、彼はそれをネタにして、他の子供と盛り上がっていた。高坂は今回もきっと学校中の子供に、見たことすべてを言いふらして回るに違いない。
そして、そんなことをされたたらどうなるか、想像するのは難しくない。創の学校での立場はなくなり、周りの子供からは常に白い目を向けられる。そんな日々が、たぶん永遠に続いて行く。ともすれば、その対象は創だけでなく、他の班員にも向けられる可能性だってある。
今ここで、彼らを止めなければならない。分かっていながらも、その方法は見当たらなかった。笑いながらも、彼らにはわずかな油断すらない。今ここで彼らに刃向かったとして、勝ち目がないことくらい明らかだ。
「じゃあな。学校に来るときは、せいぜい楽しみにしてきてよ」
言い残して、彼らは歩き去っていく。その背中を引き止めることなど、できるはずもなかった。
「申し訳ありません。私たちを助けていただいたばっかりに……」
今もそこで倒れていてる優花の父親が、どこまでも申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にした。どうしてか、その言葉がやけに気に障った。
「うるさい、子供の世界の事情に口出しすんじゃねえ。おまえらは早く家にでも帰って安全なところで隠れてろ」
「ですが……」
「黙ってろ!頼むから、黙ってろ……」
創は唇をかみしめる。いつまでもここにはいられない。気絶させたはずの子供たちだって、いったいいつ目を覚ますかもわからない。
どうしようもないことは分かっていて、逃げ出すようにこの場を立ち去った。




