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波の音が耳に届く。波も強くなく、それほど大きな音ではないが、規則性のあるその音は頭の中で強く反響する。
浜辺の脇にある高くそびえたつ岩場の影で、水野創は横になっていた。波の音のほかには何も聞こえない。誰の気配もなく、ただひたすらに静かな時間が流れている。
ふああ、と一度大きなあくびが出ると、目には涙がにじむ。眩しい日差しと乾いた空気に誘われて、まぶたの重さは時間の進みに比例して増していった。
初夏特有の少し湿った空気と強い日差し。その中で時折吹き抜ける、塩のにおいをはらんだ風が、余計に感覚をくすぐった。
全身の感覚がまどろんでいき、夢と現の狭間を行き来する。まさに夢見心地の、最高に気持ちのいい瞬間だ。
今にも意識が眠りの世界へと落ちていくその瞬間、目の前を小さな羽虫が羽音を立てて横切っていった。それだけで意識は現実の世界へとすくい上げられる。羽虫はどこか遠くへ行くことをせずに、頭の付近を飛び回っている。頭の中で直接響くような羽音と、目の前を何度も横切る影が、どこまでも神経を逆なでる。
人の眠りを妨げるあまりにも不敬なその虫を、見逃してやれるだけの慈悲なんて、持ち合わせてはいなかった。
足元に目をやると、都合のいい大きさの小石が転がっているのが見えた。これであの虫を狙うのも悪くない。そう考えた次の瞬間、小石はふわりと宙に浮いた。
地面から数センチだけ離れた高さで浮遊させて、虫の方へと狙いを定める。虫の飛行する軌道を読み、タイミングを計る。
虫のサイズはハエ程度のものだが、動き自体は緩慢で、撃ち落とすのはそう難しくないはずだ。 集中力を高めて、一つの強いイメージを作り上げる。それは、この小さな小石がひとりでに飛んでいき、宙を浮遊する羽虫を撃ち抜く光景。
想像をする。ただそれだけで小石は、飛行を続ける虫のもとへ高速で飛んでいく。狙い通り小石は虫へと命中し、鬱陶しいその存在は一瞬にして消し飛んだ。それだけで気分がいい。人の眠りを妨げた罰だ、ざまあみろと、心中で嘲笑する。
だが、そんなことをしているうちに眠気はどこかへ去っていってしまった。ただ寝転がっているのも退屈になって、上体を起こす。
しばらくの間、目の前の景色を無為に眺めていると、背中の方から足音が聞こえてきた。その音だけで、誰が来たのか察しが付く。
「ああ、やっぱりここにいた。ホント、ちょっとでも目を離すとすぐどこかにいなくなるんだから」
わざわざ後ろを振り向いて確認するまでもない。同じ班の“班員”であり幼馴染でもある、西野優花が迎えに来たのだと確信をする。
「けど、そう言いながらも、いつもこうして探しに来てくれる」
身体を起こしつつ振り返る。緩やかに垂れ下がった目尻が印象的な優しい顔で、必死に頬を膨らませた彼女がそこに立っていた。海風が彼女の髪をなびかせるたびに、香気が漂うかのような錯覚を受ける。
彼女がここにいる。それだけで、波音のほかに何もない空間が華やいでいく。
「そりゃあね、創なんて私が探しに行かなかったら、どこにいなくなるか分かったものじゃないし」
「こうして優花が探しに来てくれるから、俺も安心していなくなれる」
おどけた声で創は言う。優花に会うとつい、こうしていたずらするような言葉を投げたくなる。
「もう。バカなこと言ってないで、そろそろ練習に戻ろう?あんまりサボってると、また修也君に怒られるよ」
「それは嫌だな。けど、俺はもう少し優花と二人でいたい」
「またそんなこと言って。どうせ練習終わった後もまた会えるでしょ?」
「俺は今がいい」
「ダメ。次は修也君のいる最後の大会なんだから。引っ張ってでも連れていくからね」
そろそろ本気で困っているのか、言葉からは遊びが消えた。優花とは物心がついた頃からの付き合いだ。わがままが許される範囲も心得ている。引き際を間違えることはしない。
「分かったよ。今日はいつになく厳しいな」
「そりゃあね。創に何度もサボられると、後で私が涼子ちゃんに怒られるんだから」
「相変わらず涼子は優花に対して厳しいな。俺のせいで優花が怒られるのは忍びないし、今日くらいはちゃんと行くことにするよ」
「当たり前のことだけど、とりあえずありがとう。ほら、いつまでも座ってないで行くよ」
そう言うと優花は町の方へ向かって歩きだす。砂浜の上だというのに、その足取りは軽やかだ。軽やかに歩く優花のその足は、砂の中に埋もれることはなく、それどころかわずかに宙に浮いている。
足場の悪い道を歩くときは、透明な道を作り出して、その上を歩く。今までに何度も目にしてきた、優花のお得意の技だ。そして、いつも創は優花のすぐ後ろを歩き、その道を利用する。
頭の中に浮かべたイメージを具象化する。それは子供にのみ許された特別な力であり、子供が神の使いであることを示す証。
子供だけが使えるその力には、大きく分けて3つの種類がある。遠くあるものに手を触れることなく操る”操作”、自身の身体能力を飛躍的に向上させる”強化”、そして何もない場所から物質を作り上げる”生成”。中でも、”生成”の技術は難易度が高く、比較的に集中力が必要になる。それを、優花は昔から平然とやってのけた。
「これ、普通に歩いた方が楽じゃないのか?」
「そう?でも、普通に砂浜を歩くって結構大変じゃない?」
「いや、優花がいいならいいんだけどさ。ちょっと凡人にはわからねえや」
「凡人って、別に私だって人より少し”生成”が得意なだけで、普通に凡人だよ」
砂浜を超えるとやがて、町の通りへと繋がる階段に出会う。階段までたどり着くと、優花はそこで足場を作るのをやめて、一段飛ばしで跳ねるように登っていく。
階段を上り終えると景色が開ける。足元に向いていた視線を上げると、すぐ目の前に4人の大人の男の姿があった。
彼らみな同じ作業着に身を包み、大きな土嚢のようなものを抱えている。階段を上り終えた二人の姿を認めると、彼らは一様に、 慌てて畏まった。
「おはようございます」彼らはきをつけの姿勢で、次々に挨拶の言葉を口にする。大人たちは必死に腰を低くして、子供達に畏怖と尊敬の感情を伝えている。
相手にするのも面倒で無視をしたが、優花は相変わらず丁寧にあいさつを返している。そんな光景にも、慣れたものだ。
足早にその場を去ろうとした時、優花は大人たちの前に立ち止まり、彼らの抱える土嚢を興味深そうに見つめながら、大人たちに問いかけた。
「みんなは今ここで何をしてるの?」
創はすぐ隣であからさまに頭を抱えてみせたが、優花の目に止まった様子はない。
「はい。最近水路が崩れてしまっているとの報告が多く上がっていたので、島中の水路を補修して回っているところです」
「島中なんて大変そう。きっとすごく広いだろうに」
「お気遣いありがとうございます。ですが、数日に跨って作業をしていますので、ご心配には及びません」
大人たちは時折、この世界のことを“島”と呼ぶ。その呼称に何か意味があるのかは、大人たちの口ぶりからだけでは判断がつかない。
いい加減に大人たちの隣で立っているのも耐えられなくなり、歩き出しつつ優花を急かす。
「ほら、行くならさっさと行こうぜ」
優花は「それじゃあ頑張ってね」と大人たちに手を振り別れを告げると、先を歩く創を慌てて追いかけた。
「もう、ちょっとくらい待っててよ」
「悪かったよ。けど、いきなり大人と話し込まれたらどうしていいか分からなくなる」
「ごめんごめん。でもだからって、何もそんなに避けることないのになあ。みんな良い人なのに」
「良い人とか、そういう問題じゃないだろ。ま、今更とやかく言うつもりはないけどさ。そういう、大人に対しても優しくできるところも、優花のいいところなんだろうし」
「私としては、当たり前のことをしてるだけなんだけどなあ。でも、そんなことを言ってくれるのは創だけだから嬉しいよ。他の人はみんな、大人と喋ってるだけで奇異の目で見てくるし」
そう言うと優花は、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。数いる創の知り合いの中でも、こんな笑顔を持っているのは優花のほかにいない。優花だけは、周りのくだらない子供たちの中でも特別だった。
創はそんな彼女の隣を歩きながら、家の前で地面を掃く30代ほどの女性を横目に見た。その女性もまた二人のことを認めると、箒を動かす手を止めて深々と頭を下げた。
大人たちは皆、道の端に避けて仕事に勤しんでいる。それを脇目に見ながら、道の真ん中を、二人で歩く。
特に何か話をするでもなく、ゆっくりと道を進む。一人の時よりも少しだけ緩めた歩幅、わずかにずれた肩の高さ、何もかもが二人にとってのいつも通りだった。
ひび割れた黒色のコンクリートが作るこの一本道は、この地区では一二を争う大通りで、両脇には民家と、まばらな商店が立ち並ぶ。創たちの住むこの町は、ほかの町と比べて大きいわけでもなく、何か気を引くような施設もない。数少ないお店にも、並べられた商品といえば、ありきたりな食べ物ばかりだ。
供物として子供達に捧げられているそれらの商品は、子供であれば自由に受け取ることが許されているが、小腹が空いた時にちょっと拝借する程度で、面白いと思えるものは何もない。何一つ刺激のない、本当に退屈な街。それが幼少の頃から創が抱く、この町への評価だった。
やがて通りを抜けると景色は一変し、山道へと入る。木を切り倒して作った簡素な林道だ。不均一な地面に若干のいらだちを感じながら、一歩一歩進んでいく。
さすがの優花もこれほどの距離となると“道”を作るのは諦めたのか、苦い顔をしながら不均一な地面を進んでいる。
「それにしても、だいぶ熱くなってきたね。朝はだいぶ涼しかったのに」
「だな。だんだんと、夏が近いのかもな」
「やだなあ。今からこの調子だと、今年は結構熱くなるかもね」
空を憎らしそうに見上げながら優花はつぶやく。葉の隙間から漏れる太陽の光が、じりじりと肌を刺激する。今からこの日差しの中で動き回るのだと考えると、どうしても足取りが重くなる。
「まったく、嫌になるな。暑いのはあんまり好きじゃないんだけどな」
額に汗が溜まり始めたのを感じて、思わず恨み節が口を出た。
「そうだね。みんながこの暑さにやられなければいいけど」
「優花の場合、ほかの人の心配をする前に自分の心配をした方がいいと思うけどな」
「私、そんなに弱そうなイメージある?」
「別に弱いって思ってるわけじゃないけどさ、優花にはあんまり無理をしてほしくないからさ」
いつだって優花は自分のためよりも、誰かのためを優先してきた。だからこそ、過保護と分かっていても、ついこうして心配をしてしまう。創にとって、優花こそが何よりも大事にするべき存在で、ほかの誰かのために自分の身を犠牲にするなんてことはあってはならないことだった。
「大丈夫だよ。もしも私が倒れちゃったらどうせ創には看病できないだろうし、無理なんてしたくてもできないよ」
「悪かったな。いつも世話をされる側で」
そんな話をしていると、山道が開け、視界の先に目的地が見えてくる。そこは、山を切り開いて作られた小さな集落。集落と言っても、古びた家が点在するだけで、今はもう住民の一人もいない寂れた土地に過ぎない。だからこそ誰の迷惑にならないこともあって、そこが創たちの班の練習場になっていた。
いったいいつからこの場所を練習場として利用しているのかは知らないが、度重なる激しい練習の中で、民家はどれもボロボロになっている。
その古びた木造の住宅群の中に、3人の子供の姿がある。そのうちの一人、同じ班員である井岡竜司が、不機嫌そうな顔で遅れてやってきた二人のことを出迎えた。
短く切り揃えられた髪は毛先が尖り、その前髪のすぐ下に位置する両目も細く鋭い。彼を知らない人が見れば、間違いなくほとんどの人間が気性の激しい男なのだと印象を受けるだろう。
ただでさえ鋭い目をこれでもかというほどにギラつかせて、威圧的な態度で仁王立ちをしている。
「おせえんだよ。いっつもいっつも遅刻してきやがって」
「悪かったよ。あんまりいい天気だったら、つい」
「ちっ、相変わらず舐めてんな」
そう言った瞬間だった。竜司の足元に転がっていた、一本の太い木の枝が浮き上がる。風で浮き上がったわけではなく、まるで何か目に見えない手に持ち上げられたような、物理法則を無視した動きだ。枝はゆっくりと回転し、折れて鋭くとがった先を創に向ける。一度空中で停止したと思えば、一息に加速をして空を裂く。その枝先は、間違いなく創の身体を目指して進んでいた。
が、結局その枝先が創のもとに届くことはない。枝の切っ先が創の身体に届くまで、そのわずかな間に、近くの民家に庭先に落ちていたベニヤ板が飛来し、枝の進路を阻んでいた。勢いよく衝突をした板と枝は、浮力を失うとそのまま地面に落ちた。
「まったく、かんべんしてくれよ。俺がよそ見してたらどうするつもりだったんだ」
「そんときは自業自得だろ。知ったことか」
「まあまあ、二人ともその辺にしておこうよ。喧嘩したって意味ないよ」
諭すような口調で岸修也が止めに入る。優しい目、体は細く迫力はないが、芯の通ったその目で見つめられると、つい言うことを聞きたくなってしまう。
竜司と揉めるようなことがあれば、いつだってこうして修也が間に入る。いつもの見慣れた光景。
修也は一つだけ年齢が上だと言うこともあって、この班では普段からまとめ役に徹している。まとまりのないこの班だが、メンバーが変わることもなく今日まで続いているのは、修也の存在に因るところだろう。
「喧嘩はそろそろ終わった?」
視界の端から声がした。見るとそこには、民家の脇の日陰で退屈そうに座り込んでいる桐谷涼子の姿があった。いかにもつまらなさそうに、右手の指で髪の毛をクルクルと巻いて遊んでいる。
「ああ、悪かったな騒がせて」
創は素直に謝罪の言葉を口にする。
「別にいいんだけどさ、興味もないし。ただ、さっきからずっと待たされて退屈だし、早く済ませてほしいのが本音」
「どこかの遅刻やろーのせいでな」
竜司が追い打ちをかける。創としても、事実であるその言葉に反論する気はない。言い返すこともせず黙っていると、ふいに修也が手をたたいた。
「ほら、いつまでもこうしていたんじゃ、それこそ時間がもったいない。ようやく5人そろったんだから、そろそろ練習を始めるよ。昨日と同じ状況からスタートしよう」
その声に、竜司はしぶしぶといった様子で練習を開始する位置まで歩き始める。それに続いて涼子もようやく重そうな腰を上げた。
「僕たち3人はもうみんな準備できてるから、二人とも急いで準備してね」
「ああ、わかったよ」
「うん、なるべく急ぐね」
この集落の入り口の脇に、1つの小さな小屋がある。昔から荷物置き場として使われていたのか、中は埃っぽく薄汚いが、創たちはそこを練習のための道具の保管場所として使っていた。
創と優花は小屋の中へと向かい、丸型の小さな薄い瓦を手に取った。それは単なる瓦ではなく、左右には小さな穴が1つずつ空いていて、それぞれに一本の帯が括り付けられている。左右の帯を身体に巻いて結ぶことで、瓦を身に着けることができるという仕組みだ。二人はそれを鉢巻のように巻いて額に瓦をかぶせると、さらにもう一つ手にとって、背中の真ん中に瓦が来るように腹に巻いた。練習のための準備は、これだけで完成だ。準備を終えて外に出ると、修也が待っていた。
「さあ、試合までもう時間もないし、気合を入れていくよ。昨日と同じ立ち位置に着いたら、開始の合図を送るから」
試合では一人ずつそれぞれに開始位置が決められていて、全員が位置についたタイミングで試合が開始となる。
創がうなずいて見せると、3人はそれぞれ持ち場へと向かう。始まりの位置は全員がバラバラで、自分の開始位置がどこになるかは、本来なら試合が始まる直前まで分からない。
涼子と竜司の二人は今頃はもう自分の持ち場で退屈をしている頃だろう。あまり待たせて、また文句を言われてはたまらない。両脚を”強化”し、翔けるように地面を蹴った。
創の持ち場は、集落の奥にある細い路地の途中。路地に入ったところで力の使用を解いて、速度を落とす。そこからゆっくりと数歩歩いて、立ち止まる。周囲を一度、ぐるりと見回した。木造の古い民家と、硬い土の地面。見慣れた集落の景色がいつもと変わらないことを確認して、試合開始の合図を待った。
これは“抗争”と呼ばれる、戦闘形式の競技。5対5のチーム戦であり、どちからのチームが全滅するまで試合は続く。個人の敗北の条件は、額と背中の二か所につけた瓦の、そのどちらかを割られてしまうか、競技のフィールドから出てしまうこと。戦闘に関する細かいルールは存在せず、必要以上に相手を傷つけることをしない限り、どれだけ力を利用しても違反行為には当たらない。百メートル四方程度の狭い空間の中で行われる、制限のない単純な潰し合い。
一般に親しまれている主要競技の中でも、もっとも自由度が高く、そしてもっとも激しい競技だ。
子供達が自由に力を使える遊びやスポーツはそう多くない。鬼ごっこのような単純な遊びでは力の使い方が限られてしまい、力を試すときは大人や山の動物をなど適当な相手を利用する。満足に力を使えない状況の中でこの”抗争”は、子供同士が存分に力を使って遊べる機会を作る、貴重な役割を持っていた。
そして、これは単に遊びにとどまらず、班と班とが争い合う、スポーツとしての一面も持っている。いったい誰が作ったのかは知らないが、一年に一度、島中の子供達を集めた大会が開かれる。班ごとの対抗戦となるそれは、毎年全ての班が参加する。島中で最も強い班を決定するその大会は、子供達にとって重要な意味を持っていた。
大会の日程は毎年変わらずに、8月10日と決まっている。今年もまた、大会の期日まであと1ヶ月と迫っていた。
今日はその一か月後に向けた、実戦練習の日だった。
そのとき、どこかから破裂音が響いた。それは、試合の開始を告げる合図。この音を合図に、各地に散っていたメンバーは行動を開始する。
実戦であれば5対5の班対抗戦だが、練習である今回は人数が足りないため、そうもいかない。今回は竜司と修也の二人が別の班として敵となり、創と優花、涼子の3人と争うことになる。
試合運びの定石は、まずできるだけ早く味方と合流し、単騎で浮いた敵から潰していくところにある。
定石通りに仲間と合流をしようと、周囲に気を配りながら動き出す。その時のことだった。
ふと、何かが空を切る気配がして、空を見る。見上げた先、そこにあったのは、創をめがけて一直線に落下してくる、竜司の姿だった。
「な……!」
あまりに突然の展開に不意を突かれ慌てたが、とっさに飛び退いて竜司の攻撃をかわす。攻撃を外した竜司は、若干バランスを崩しながらも着地をし、舌打ちとともに第二撃を繰り出した。力によって”強化”された竜司の動きは素早く、紙一重でかわすのが精いっぱいだ。”強化”を得意とする竜司を相手に、接近戦を続けるのはあまりにも分が悪い。今は一度、間合いがほしい。
無心で攻撃を避けながら、その裏で頭に神経を集中させる。現状を打破するために必要なのは、竜司の攻撃を受け止められるだけの強固な壁。
――想像をする。鉄よりも硬い、堅固な壁を。上から下、奥行きから内部まで、細かな質感さえも頭の中に想い描く。
竜司の高速の右手が創の額にある瓦を打ち砕こうとした、その瞬間のことだった。創の頭の中の世界で描き出されたその壁は、世界の垣根を超えて、現実のものとしてその姿を現した。
竜司の繰り出した右腕は勢いをそのままに、その壁へと打ち付けられる。鈍い音と、がれきが崩れるような音がした。壁には、大きな亀裂が入っていた。
「ちっ、小癪なまねしやがって!」
寸前で攻撃を防がれた竜司は叫びをあげる。あれほどの勢いで打ち付けた右手が痛まないはずはないが、それを物ともした様子もなく、竜司は単騎で追撃を続ける。
今回の練習の目的は、あくまでも仲間同士の連携の確認にある。
こうして一人で特攻を続けてしまっては練習の意味がない。
「まったく、何を熱くなってるんだか」
おおかた、今日の遅刻を根に持っているのだろう。間合いを取ることに成功し、少しだけ冷静になった頭で考える。
竜司との間に生まれた間合いは、ほんの数メートル。それはどちらかが一歩を踏み出せば、一瞬にして詰められてしまうほどの距離であり、間合いとしての意味をなしていない。
そんなわずかな距離を隔てて、二人は対峙する。
「まったく。連携のための練習だっていうのに、単身で突っ込んでくるバカがいるかよ。後で修也に怒られるぞ」
「うっせ。とりあえず一発おまえを殴っとかないと気が済まないんだよ。今日は朝から機嫌が悪いんだ」
その竜司の言葉にはささくれのような棘がある。こうして恨みを買うこと自体は珍しいことではないが、今日はやけに当たりが強い。普段よりも少しだけ近寄った二つの眉の距離を見て、言葉通り単に機嫌が悪いのだけだろうと悟る。竜司の機嫌が悪くなった原因なんて知るわけもなく、おとなしく殴られてあげるだけの理由もない。
まったく、ずいぶんと間の悪い時に遅刻してしまったものだ。
思考を研ぎ澄ませ、両の足に意識を向ける。太ももの筋肉に大きな力の塊を溜め込むような、そんなイメージを頭の中に描く。そうして力の蓄えておくことで、急な動き出しにも備えることができる。
だが、今回のような練習試合を繰り返すうちに、もはやお互の手の内は、お互いに知り尽くされている。創が力を蓄えようとしていることに気がついたのか、ちっ、と一度舌打ちを鳴らすのが聞こえた。
それが合図だったのか、竜司の身体が瞬く間に眼前に迫る。さっきの頭上からの急襲よりもずっと速い。とっさに後ろに飛んで、攻撃をかわす。一撃目をどうにか避けると、すぐに二撃目が迫り、またそれをかわす。
だが、前進を続ける相手の攻撃を後ろに下がりながら避けるのでは、あまりにも分が悪い。息つく間もなく繰り出される攻撃に、かわしたりいなしたりするだけ手いっぱいだ。状況を変えるために何かを”生成”しようと試みるも、頭の中でイメージを創り出す隙すらない。悪あがきのように足元に散らばる小石やがれきを飛ばしてみても、意に介した様子もない。
どうすることもできずに後退を繰り返しているとき、背中が何か大きなものにぶつかった感触がした。背中に当たったのは木で出来た古民家の壁。気が付けば、直線の道の終わりまで追い詰められ、完全に退路が断たれた形になっていた。
まずい。思った時には、すでに眼前まで竜司の腕が伸びていた。とっさに額に意識を集中させ、頭を守るための薄い膜を張る。額の瓦が割られるのはもはや避けられないと、そう察知した。
頭を動かしてかわそうとすることさえできない。竜司の腕はまっすぐに迫ってくる。そして次の瞬間、瓦の割れる高い音があたりに響いた。
身体から力が抜けていき、ゆっくりと腰を下ろす。
勝負がついたようだった。
「あ?」
目の前の竜司は何か不思議そうな顔を浮かべている。まるで、今の状況がつかめていないかのような顔だ。その顔の持つ意味を少し考えて、そして理解する。
瓦を割られたのは、竜司の方だった。
「あんた、背中ガラ空きすぎ。そんな背中丸出しで攻めてたら、狙ってくれって言ってるようなもんでしょ」
いつの間に現れたのか、竜司のすぐ後ろには涼子が立っている。戦況を読んで相手の隙をつくのが、涼子の得意とする戦法だ。創のことを追い詰めることに夢中になっていた竜司の背中にある瓦を、涼子は相手に気づかれることもなくあっさりと破壊していたようだった。
「てめえ、涼子。なに横槍入れてくれてんだ。ちょうど今にもこいつを倒せるところだったってのに」
「あんたバカなの?今は敵同士なんだから、邪魔するにきまってんじゃん」
「いや、それはそうかもしれないけどさ。一発くらい気持ちよく殴らせてくれよ」
拗ねたような声で竜司は言う。自分でも無茶苦茶を言っている自覚があるのか、竜司の声は徐々に弱々しくなっていっていた。それを涼子は、呆れたような目で見つめている。
「ああ、一足遅かったか。まったく、開始早々こんな奥地まで突っ込まれたら、フォローも間に合わないよ」
遅れて、修也もこの場に駆け付けてきた。慌てて駆けつけきたのか息が荒い。それでも、勝手な動きをした竜司に対して怒ったような様子はなく、困ったよう笑っている。
「悪かったよ。なんとかなるんじゃないかって思ったんだ」
「実際あと一歩のところまではいったみたいだし、作戦としては悪くなかったと思うよ。ただ、今回は連携を試すための練習だから」
「くそ、あと一瞬だけ早くとどめを刺しに行ってたら俺が勝ってたのに」
「このバカ、修也の言ってることの一割も理解してないっぽいね」
涼子が呆れたように息を吐く。修也もそのとなりで困ったような表情を続けている。
「お待たせ、ってこれどういう状況?」
一番この場から遠い場所から始まることになっていた優花が、遅れてこの場に現れた。状況が把握できていないようで、その顔には疑問符が浮かんでいる。
「井岡のバカが一人で勝手に暴れて、それで後ろからその隙を突かれて、あっさり負けたところ。まあ、要はいつも通り井岡が自爆したってこと」
「ああ、なるほど」
それだけの説明で、優花はやけに腑に落ちたような顔をする。竜司は自分の敗北を言葉にされて、恥ずかしさと悔しさが混ざったような低いうなり声を上げる。
「くそ、涼子が応援に来なけりゃ、俺が勝ってたんだからな」
「あー、はいはい」
竜司の弁明も涼子は軽くあしらった。気が付けばこの狭い一本道に5人全員が集まっていたが、勝負を続ける雰囲気はなかった。
「ねえ、これって試合は続いてるの?なんとなく、勝手に終わりかと思ってたんだけど」
おずおずと優花が訊く。
「うーん、なんだかうやむやになっちゃったし、仕切り直しかな。なにより、竜司君が負けちゃった今、僕一人で3人の相手をするのは無理があるし」
修也はそう言って、お手上げだと言うように両手を上げてみせた。
「それがいいかもな。もし継続するって言ってたら、俺たち3人から今から袋叩きだよ」
「それは勘弁願いたいな。優花ちゃん以外容赦なさそうだし」
「人の試合を観戦してるだけってのも退屈だから、さっさと仕切り直そうぜ」
つまらなそうに竜司が言う。試合早々に負けた時は、いつもこんな調子で試合のやり直しを訴える。
「竜司君もこう言ってることだし、また初めからやり直そうか。今後はちゃんと連携を取ってね」
「やり直すのはいいけど、組み合わせと初期位置はさっきと同じ?」
優花が確認すると、修也はそれにうなずいて見せた。
「うん、さっきとまったく同じでやり直しにしよう」
一応、さっき上手くできなかったことのやり直しだから。と最後にちくりと言葉を足した。
「はあ、またあそこまで戻るのかあ。ようやくみんなと合流したばっかりなのに」
優花はため息交じりに恨み言をこぼす。優花の初期位置は今の場所とちょうど反対の、この集落の端にあった。日ごろはあまり泣き言を言わない優花だか、今回ばかりはそうもいかないようだった。
少しだけかわいそうになって、思わず声をかける。
「変わろうか?」
「ううん、大丈夫。それに、位置を変えちゃったら、やり直しの意味がないでしょ?」
いたずらっぽく放たれた優花のその言葉は、竜司の耳にまでは届いていないようだった。そのやり取りを見ていた修也が小さく笑う。そして、表情をそのままに創たち4人に告げた。
「さ、もう一回やるよ。早く持ち場について」
その号令を合図に、それぞれがさっきと同じ持ち場へと向かう。その歩幅はみんなバラバラだ。創は誰よりも持ち場までの距離が近く、その歩調も自然と緩やかになる。
前を歩く4人の背中を見て、ふと思う。この5人で一緒にいられる時間も、あと1カ月しか残されていないのだと。1か月後、ここにはもう修也はいないのだと。
修也の誕生日は来月の大会の次の日。今日からちょうど1ヶ月後の8月11日だ。
その日に17歳の誕生日を迎える修也はそこで大人の仲間入りをして、この班を抜けなくてはならない。これはどうしようもなく避けられない、決められたことだった。
今日ここまでのやり取りは、普段と何ら変わりない。それでもどこか感慨深く思うのはきっと、残り一カ月と言う節目のせいだ。
やがて開始の位置まで辿り着くと、壁に背中をもたれ開始の合図を待った。こうして今のメンバーで大会に向けた練習をする回数も、そう多くは残されてはない。いったいあと何回残されているのか、数えようとしてすぐにやめた。
そこから1分ほど経ってから、開戦を告げる合図が鳴った。