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夏の夜のホラーとエネルギー

作者: 多奈部ラヴィル

その日はAスタジオで収録があった。映画のシンポジウムだ。雰囲気はとても砕けたもので、その中にはお笑い芸人も交じっていから、冗談も入り混じるような、そんなシンポジウムだった。シンポジウムは学生代表とか、社会人代表とか、先も言ったようにお笑い芸人代表とか、音楽家代表、そして文化人代表は小説を書いている俺だった。俺の座る席、その前の簡易デスクに、「作家 二宮崇」と書かれている。俺のペンネームだ。俺はそのペンネームを思う。本名ではないということだ。本当の俺とニセモノの俺がいて、本当の俺が思っていることを、ニセモノの俺は決して口外しない。その卑怯さ、狡さ。俺はそんなことをぼんやりと考えていた。

 「先生、何にもしゃべってないなあ。なにかいいと思う映画、ないんです?」

俺は俺がしゃべらなくてならない場面きたら、こう言おうと思っていたことを話し出す。

「やっぱり、俺なんかもう、無邪気にジブリを見れるんですね。そうそう無邪気にね。でもね、そこにあるメッセージ、それも汲めるじゃないですか。ジブリのテーマっていうのはさ、人間対自然、それにつきると思う。そして人間と自然の共生。それをテーマにしているよね。最終的にはね、それがね、見ている人を傷つけないんだって思うんですね。つまりやさしさなんですね。そこに着陸するよう、エンディングを持っていく。ジブリのね、エンディングは見ているととてもやさしくなるでしょう。そうなんだよね」

 そこで一口水を飲んだ。

「そしてまた一方なんだけど、俺は北野武監督も評価するんだよね。映像がさ、妙に乾いているでしょう? そう暖かい、暖まる場面であっても乾燥しているんだ。そしてやたらと妙に人が死んでいく。そして映画はそれがどうということでもないように進んでいく。多分北野監督の映画っていうのは『どうでもいいんだ』っていう映画だっていう気がする。人の生き死にさえ、意味なんてなくて、俺にはどうでもいいっていうテーマで作られているっていう気がする。北野監督の映画の少しホッとできる、愛情が垣間見えるような場面にしたって、それに足をすくわれず、いつでも逃げ出せるよう、必ず助走を怠らない、そんな風に見えますね。俺には」

 すると俺と同じく、それまで寡黙だったが、水を向けられるとそのたびに

「わかりません」

「知りません」

としか答えなかったロックミュージシャンが、

「そんなに長くしゃべれて羨ましいぜ」

と言う。もちろん侮蔑だ。

「決まったことにたいして『同じく』という意味でしかない言葉を、赤い顔をしてしゃべる猿みたいな男だ」

司会者は眉毛を下げて

「まあ、まあ、いいじゃないですか」

とそのロックミュージシャンをなだめようとする。その司会者になだめられたのか、それともなだめられていないのか、それもわからない。

「認知された芸術を、今俺が初めて認知するっていうような顔をして。もっと嗅ぎまわれよ。雑種の勇敢な犬のようにさ。もっと違うことに情熱を傾けた方がいいんじゃねえか? そう、例えば練習。音がしたってスマホを開かないでね。それを練習と呼ぶんだ」

 そいつの言うことは、みな当たっていた。論破できない。それで俺は『猿みたいな赤い顔』をしてデスクの上に握ったこぶしを置いているしかなかった。

「まあ、諸説紛々。色々なご意見があるわけで」

しかし司会者が引き取るように言うと、そのロックミュージシャンはやっと黙って、足を組んだ。

 俺は小説家だっていうのに、ここ一年以上、作品を書いていない。それはなぜかと言うと、答えはとてもシンプルで「書けない」からだ。そう、今日のシンポジウムにしたって、あのロックミュージシャンに言われたように、既存の作品の評価の焼き直しにしか過ぎない。俺はそれをしゃべっている間、錯覚を起こしていた。それは俺が初めて認知し、それを始めて「これはいいものだ」と人に紹介でもしているような錯覚だ。錯覚? また俺は俺をだます。それをよく知っていて、当たり前の認知を誰も反舶しないだろうと思って言ったのだ。猿面冠者とは俺のことなのだろう。あのロックミュージシャンは間違っていなかった。

「嗅ぎまわれ、雑種の勇敢な犬のように」

 嗅ぎまわる。俺は最近嗅ぎまわっているだろうか? 否。嗅ぎまわることすら、なにもかもの言い訳、それを後ろ盾にするように怠っている。勇敢な雑種のような犬だったことが過去にある。それは俺が作家としてデビューする前のことだ。俺は何作も何作も書いた。あらゆる公募のない期間にも、俺はうろうろするよりも書いていたかった。書かないと死んでしまうような気がしていた。そう、それは外じゃない。コンクリートで固められた、安全だが謎の多い部屋でだった。木造で建てられた家に住む家族であっても、俺はその嗅覚でもって、その謎を見つけることができたはずだ。どの家、一人暮らしであろうと、家族がいようと、俺はそのどこかにある謎を探し出し、物語を紡いだだろう。

 だから俺は待っていた。その情熱みたいなものがまた湧き上がる瞬間を。あのロックミュージシャンのいうとおりだった。今はほとんどの人や動物に心地のいい春だ。キャベツ畑にはモンシロチョウだって愉快そうに飛んでいるだろう。けれど俺はじりじりとじれったい思いを抱えている。

「真夏になれ! 汗をかかせろ! 俺を極東へ連れていけ! 極寒を俺に感じさせろ!」

そのとき、必ずついてくるに違いないのだ。それは「走る」という衝動だ。そいう匂いのするなにかだ。俺はただ、今、ムラサキスポーツで買った、アディダスのゆるめられた紐を結んでいる。そうしてじりじりと待っている。それがくるのを。

 

 その夜には、高校の同窓会が待っていた。

「おお、にのちゃん」

俺は高校の時から、「にのちゃん」と呼ばれていた。それは俺がお昼の休憩中、放送室をジャックし、

「あー、あー、あー、聞こえますか? 俺はね、俺っていうのは、将来偉くなります。偉くなって、誰かの生死を決めることができるほどに偉くなります。その偉くなるっていう姿は、その目標に応じた、努力とかね、そうだね、そうでっかいことをね、それがキラキラしていてね、あー、あー、聞えますか? いやあ、アドリブなんだよ。つまり芥川賞を取るっていうこと。作家になる。あー、ペンネームは「ニノミヤタカシ」です。覚えておけ!」

 俺はむっとした顔つきで、今頃お昼の弁当を食べているだろう、一年二組に戻った。戻って教室のしまっていたドアを開けると、「わーっ」とした声とともに拍手が起こった。さすがの俺も少しは照れ笑いをした。

 それからだ。俺が「にのちゃん」と呼ばれるようになったのは。それからは俺は論戦を繰り返した。たとえ浅い知識であっても、たとえ浅い知恵であっても、たとえ浅い考えでもあってもだ。純純文学とでも言いたいような文学に俺は異を唱えた。するとそれこそが純文学の目指す地点だと誰かが言っていたような気がする。俺はそれにはこう答えた。

「もしそうだとすると、お前の言っている純文学の目指す地点っていうやつは、作者一人しかその作品を読みえない、そういうものになってしまうぜ」

 俺のプライドはそこじゃないところから始まっていた。俺はそうはいっても本を読んでいなかった。カフカ、カミュ、太宰治、夏目漱石のファンだった。いつもどれかの文庫が学生カバンには入っていて、すごいなあ、おもしろいなあ、などと感心しきりと読んでいた。そして公募に挑戦するほど、その頃実力はなかったのだろうが、夏、机の電灯に蛾が止まれば、止まった様子とその蛾の心境を書き、オヤジに怒られたら、しみじみとした、オヤジの気持ちと息子である俺の気持ちをノートに表現した。それは毎日行っていて、それが俺にとっての「練習」だった。俺が意識していたのは純純文学が向かっていく、地点ではなくて、真心、やさしさ、サービス、親切、そんなものがある、それでいてエンターテイメントに過ぎない、そうじゃない、そんなものを書きたいとおぼろげに思っていた。

 けれど小説家になるっていうことは、そう簡単なことじゃないって大学の頃思い知らされた。俺よりうまいんじゃないかっていうやつはブンガクサークルにもいたし、そいつでさえデビューはなかなかできなかった。そして俺もだった。俺の高一のときに描いたプランは、大学一年、しかも七月七日っていう冗談みたいな誕生日の前にデビューできると信じていたのだ。

 その後大学を卒業してからは、深夜のコンビニでアルバイトをした。親には「俺は小説になるのだから」と説明した。オヤジは「ふん、そんなもの」っていう風で、おふくろは「じゃあ、頑張るんだよ」って風だった。俺はそれからは猛然と書いた。公募があれば応募した。差し迫る公募がないと焦りを感じた。三か月も書かないでいたら、俺はきっと死んでしまうぞと。そんな時はたいてい、高校の同級生、新ちゃんに電話し、なにか仕事をくれ、と頼むと、新ちゃんはわかっているっていう感じで、

「じゃあ、先生。一〇〇枚のラブストーリーを」

っていう具合にお題をくれた。そして電車と競争する駄犬のように、俺は書いた。

  

 俺の周りには俺のスーツや靴を誉め、マンションや、車を誉める奴らが集まっていた。俺が言えたのは

「や、これは」

とだけだった。俺の学生の頃の目は三角にとんがっていて、加齢だからっていうわけじゃなく、今みたいなにだらしのない目じゃなかったって気がする。そう、俺は洗面所で歯磨きをしながらいつも思う。昨日より顔がだらしない。一昨日よりも顔がだらしない。でも一週間以上前の、あの日の顔よりはましだ。そんな風に。

俺のスーツや靴を誉め、マンションや、車を誉める奴ら。欲しかったら自分で買え。欲しかったら何かしろ。欲しかったら、羨ましかったら、なにかやれ。俺はそう思いながら、そうは言わず、「や、これは」と言って黙るだけだった。そしてそれはもしかしたら俺が歳をとったのかもしれない。俺は今年で三五だ。ここに集まっている奴らは同級生なのだから、おそらくみな三五前後なのだろう。

 二次会には参加せず、俺は帰ろうとした。するとみなが止める。

「にのちゃんに会いたくての同窓会だぜ、どうしても帰ると言うならば、俺たちはにのちゃんを追いかける」

そう誰かが言いだして、二次会を俺のマンションでやろうということになってしまった。俺は別に金持ちじゃない。普通のマンションだ。独身男の住むマンション。その響きには「殺人」というワードがよく似合う。

新ちゃんが俺の隣に座って、酔ったように、

「俺はさあ、実はさあ、にのちゃんに憧れててさあ」

と絡むように言うので、

「そういうのよせよ」

と言うと

「違うんだよ。聞いてくれよ。あの高一の時、にのちゃんが放送室をジャックしたろ。いつもはクラッシックが流れる弁当の時間にさ。あー、あー、あーってさ、偉くなるってさ、そういうの本当はからかい半分じゃなくってさ、いや、からかうしかなくってさ、でもさ、そいういうの本当はみんな羨ましかったんだ。大学に進んでみんな離れ離れになってもさ、なんか会えば、にのちゃんは? 電話で話せば、にのちゃんは? みんなそんな風だったんだ。わかってくれよ。俺たちがどんな気持ちでにのちゃんのことを『希望』みたいに思っていたことをさ」

 俺はそれをきちんと聞いているつもりだったが、それにそぐわない気持ちでそれを聞いていた。「にのちゃんが羨ましい」。いつもの俺だったら、やれよ、やってやれよという気持ちで、いくら新ちゃんであっても、多少はイライラしていただろう。そしてそれが新ちゃんだからこそ、そのイライラを見せただろう。けれど今俺は多少酔っているのだろうか? 今飲んでいるのは俺の家に置かれていた、沖縄の古酒だ。今思い出していたのは、昼間に収録した映画のシンポジウムで、その時のロックミュージシャンの発言だ。誰もが認知している映画を誉める。俺はどうしてそんなに最近臆病なのだろう。

 そしてこいつらには確かな明日や明後日が見えるのだろう。多分こいつらの大半が、会社員だ。明日は日曜だ。朝遅くまで眠っていて、奥さんや娘さんに起こされる。コーンポタージュを飲んで、奥さんと娘さんと、今日はどこに行こうかと話し合う。日帰り温泉でもいいだろうし、ドン・キホーテだっていいだろう。そしてその日を過ごしていき、夜眠る。そうすると必ず行かなくてはいけない、会社、それが奴らにはあるのだろう。

 それを誇っていた時期も多分ある。ルーティンをバカにしていた時期が。その頃の俺にはいつも冒険の予兆があった。そんな勇気のある何者かだった。そして明日にきっとある冒険を見ている俺はやつらよりもすごいんだって思っていた。けれどな、新ちゃん、明日や明後日がとても確実で、とても確実に見えるお前らが、今は本当は羨ましいんだ。おれにとっての日常は決まりも拘束もあまりない。母親が死んだわけでもない。振られたわけでもない。それなのに、来る注文を断っていたら、いつの間にかコンビニ店員にすら戻れない、約束事をきちんと守れる社会人になることも自信がない、そんな俺になっていた。顔はだらしなく崩れ、髪だってそうは切らない。毎日ひげを剃るっていうわけでもない。そう、今日は剃っている。お前らのためじゃない。収録があったからだ。

 多分、俺をみんなよりも「すごい」と思わせていたのは、持てる情熱をすべて一つ所に傾けるっていうことができていて、それが俺を自信過剰なほど自信を持たせていたのだと思う。たいていの奴らが結婚し、サラリーマンっていうやつをやりながら、家族を食わせている今、俺は奴らよりもすごいなんて思えない。多分俺より奴らの方が「苦悩」があるに違いないからだ。

 俺が話し出すとみながしんとして、俺の話を聞こうとする。ふざけている奴なんていない。

「俺さ、みんなよりもよっぽどダメなんだよ」

「なにがだよ、どこがダメなんだよ」。

「俺は目指していたんだ。今は目指してない。だから」

「また目指せばいいじゃんかよ。また」

「そうかな? そう何回もできることなのかな? 目指すっていうことは」

新ちゃんがゆっくりと言う。

「目指せるよ。目指し続けることだってできるんだ。俺んちは豆腐屋だろう? 今はサラリーマンやってるけど、近々継ぐ。家はさ、ごま豆腐が名物で、神楽坂なんかにある店に卸してる。俺はさ、放送室で叫びたいよ。『あー、あー、あー、聞こえますか? 俺の作るごま豆腐っていうのは日本一、つまり世界規模でうまくてさ、食べたくなったら、お金を払って食べてください。とてもおいしい、でっかいごま豆腐なんだ。あー、あー、あー、』ってさ。お前の放送室ジャックは伝統的に有名になったんだぜ。お前っていうやつはさ、何も見てないみたいだった。欲しいものだけを見ているみたいだった。あいまいに受験し、あいまいにサラリーマンになっていく俺たちの憧れだった」

「ふーん。そうかね」

「ほら、今だってそうだ。そんなに昔と変わっちゃいない」

 そうだろうか? またそう思う。みんなを羨ましがっている、明日と明後日さえ見えないことに、もうとうに飽きているそんな俺が、変わっていないのだろうか?

 「おい! 一二時だぜ。怖い話をしようよ」

だれかが提案する。みんな、いいね、いいね、と乗り気だ。

「ちょっと待ってくれ。俺言いたいことがあったんだ」

テレビ局で働く奴が言う。最近ディレクターになったらしい。

「あのさ、俺、テレビ局で働きだしたころ、中学生、高校生の股間をむずむずさたことで有名な11PMに係ってたんだ。みんな、覚えてるか? まあ、覚えてもいないよな、その11PMの最後にさ、温泉に浸かっておっぱい丸出しで、温泉の効能を言う、まあサービスだよな、そういうコーナーがあってさ。それにさ、吉田晴子が出てたんだよ。初めは気がつかなかった。でもあいつ、顔はいまいちだったけど、やけにおっぱいがデカかったろう? そしてものすごいニキビ面だった。メイクさんも隠すのに必死だった。まあ、地デジの時代じゃなかったからな。温泉に浸かるだろう? 撮影っていうのはさ、たとえ短いシーンでも結構長い時間撮っているものなんだけどさ、その吉田晴子も長いことお湯に浸かってるだろう? そうするとさ、そのニキビ面を隠していた化粧が取れちゃうんだよ。それでまた必死でメイクさんが化粧を直す。そしてやっとその収録が終ったらさ、吉田晴子がめちゃくちゃに、号泣しながら、ひたすら謝るんだよ。メイクさんに。本当に本当にごめんなさい。ニキビができちゃうの自分でもなぜかわからない。きちんとお手入れだってしているつもり。でもニキビができちゃうの。本当に本当にごめんなさい。

 俺はその時、なんだか吉田晴子は不幸だなあって、妙にしみじみ思ったんだ。吉田晴子はもうその電波に自分のおっぱいを流してしまったわけだろう? そしてすごいニキビ面。俺は吉田晴子を何が救うのか、誰がどうやったら吉田晴子を救えるのか、俺はその時考えちゃったんだよ」

 みなは口ぐちに、ああ、吉田晴子ね、とか、誰それ、覚えてないけど、とか言いだし、だいたいそこにいる三人しか覚えていないようだった。

 俺はよく吉田晴子を覚えている。そしてその後の吉田晴子の運命を聞いたとき、俺は妙に「削られていく」っていう感じがした。なにが削られているっていうのだろう? その時ふっと思い当たったのは「生命への賛歌」だった。けれどその「生命への賛歌」を俺がいつの時代かに持っていたとしても、それは自殺願望のある「生命への賛歌」だった。俺にはそう思い当たる節があった。

 吉田晴子は、燕は、落ちないのだろうか? 俺は燕が飛ぶがごとく落ちてみたい。とても熱く、情熱はエネルギーに変換され燃え、それは不思議な光景と、人たちの視線を集める。みんな見ていてくれ。俺は情熱をもってして、エネルギーをもってして、飛ぶように落ちていく。燕が飛ぶようにだ。それをエチオピアからだって見えるだろう。そんな明るい大きな何かを。そう、見ていてくれ。見てくれ。俺は落ちていく。

 そんな夢想をぼんやりとしていて、酒を口に運んだ時に、その熱さに我に返った。新ちゃんや、ほかの連中が吉田晴子の話を終え、今度は本当に「怖い話」を始めたようだ。中年の男が中年の女子に向かって、

「お前の後ろだ!」

などと脅かし、中年の女子たちも

「キャー」

などとわざとらしく応じて、楽しそうにしている。酒を飲むっていう修行。それは高野山の僧侶と似ていて、臨界点まで達すれば、極楽へ行けるし、神も降りてくる。いつでもそれに身を任せることを拒否してきた俺だった。けれど今日は少しピッチが早い。俺は俺に禁じてきたんだ。酒は嫌いじゃないけれど、極楽や神の幻影に俺自身をだますのが嫌だった。けれど今はそれもいいかな? と思っている。気が弱くなっているのは、多分こいつらのせいだろう。新ちゃんはおいしくてでっかいごま豆腐を作るようだし、ここにいる、いい加減酔いすぎなやつらは、俺なんかより大きくて深い、まるで必死に深い海の底を見ようとしているようなそんな格闘を日々繰り返しているのだろう。それをやつらが露悪的にあらわにしなくても、今の俺にはなんだか見えてくるような気がするんだ。

「今、書きたいものが何もありません」

いい気なもんだ。そのうち引っ越しだってするかもしれない。そうだな。団地の五階に。

 するとまた吉田晴子の話に戻る。俺はまたはっと顔を上げて、その言葉を聞こうとする。

「俺さ、高校の時さ、まあ、割と家が近かったせいでさ、先生に学校を風邪ひいて休んでた吉田晴子にプリントを渡すよう、頼まれてさ、俺は正直、あいつのこと好きじゃなかったし、面倒くさかったし、いやだったんだけどさ、しょうがないから、あいつんちへ行ったんだよ。ああいうのなんて呼ぶのかな? バラックでいいのかな? 平屋でさ、多分部屋は二つしかなかったと思う。そんなトタンの屋根の家でさ、まあそれがだいたい、貧乏そうにも見えたんだけどさ、ノックしたら、あいつのお母さんが出てきてさ、それが不愛想なんだよ。俺はさ、先生に頼まれてプリントをあいつに渡そうと、わざわざ来たわけだろう? それなのに礼の一つもなくてさ、でもあいつんち汚かったなあ。ゴミが散乱していてさ、ペットボトルとか弁当の空き箱とか、使われたティッシュとかね、まあ、きったないんだよ。それでさ、少し俺もビビったんだよね。そのパッカー車が、ゴミを運んで部屋にばらまいたようなそんな部屋と、『わたしたちのことほおっておいてください』その雰囲気にのまれて、それで少しひるんだ。そしたら、その母親がさ、妙にでかい態度で『あの子は今いません』って言うんだ。俺にとってはどうでもいい情報だ。それをだんだん玄関から出てきて、玄関から外に出ながらも、『あの子は今いません』を繰り返し、後ろ手に玄関を閉めて、妙に堂々としてるんだ。不思議な体験だったな。今だってその『不思議さ』と『違和感』は忘れられないんだ」

 「いやあ、本格的にホラーだな」

と誰かが言った。それで妙に張り詰め射てた空気が一気に和んだ。けれど俺は思っていた。吉田晴子。その不思議さと違和感。俺が知っていた吉田晴子はその両方を持つ女だった。

「思い出しついでに言うとさ、あいつ高校の時、別にニキビ面じゃなかったよな。っていうか白くてきれいな肌だって思ったこともあったような気がするんだ」

「そうだよね。わたしが知っている吉田さんもべつに特に目立つほどニキビなんてなかったって思う」

ある女子も言う。

「じゃあ、なんでなんだろうな」

「うん。ニキビができやすいのって中高だよね」

「その後だもんな」

「不思議だな」

 俺もそれは不思議に思っていた。確かに吉田晴子は高校の時、白く、血管が透き通る、きれいな肌を持っていた。それなのにその後「ニキビ面」と呼ばれるご面相となった。そこまで思うと、やはり今日の収録のことを思ってしまう。ロックミュージシャンは嗅ぎま

わり、探し、運が良ければ見つけるのだろう。それなのに俺ときたら、

「団地への引っ越しだってかまわないんです。だって今書きたいものがないのだから」

と椅子に座り、開き直っていた。そして脚を大きく広げていた。それに気づいたのはあのロックミュージシャンの言葉からだった。俺にとっては明日ではないが、遠い未来を見るのが、恐ろしいことだった。そこには何の決定もなかったからだった。けれど作家になれた当時は、俺は心地よい、けれど髪を分ける、強い風が吹いていた。あんなふうに「生きよう!」という気持ちと「いっそいなくなってしまえ!」という感情が拮抗し、何とか助かって生きてきた。その時の欲望や渇望は本物だった。もしかしたら、あのロックミュージシャンだって、その頃の俺を見れば、ああは言わなかっただろう。俺だってあの頃、生きようという感情と、いっそ死んでしまおうという感情を抱いて、南極のジロのように、嗅ぎまわり、探し、俺は運には見捨てられずに、何とか書いていた。書かない日などなかった。どうしても出かける用事があればメモ用紙とボールペンを持参した。そうやって急いでいた。前へ進もうと、とりあえずはそう思っていた。右に曲がった方がよかったのかもしれない。左に曲がればショートカットできる道にぶち当たったのかもしれない。けれど俺は曲がるという能力が足りなかった。そしてジロと同じ姿で、前へ前へと進んでいた。

 

俺は少し酔っていたのかもしれない。

「にのちゃん、にのちゃん」

と呼ばれていることに、しばらく気がつかなかった。だいたい俺は最近「にのちゃん」なんて呼ばれていない。たいていが「二宮さん」だ。そして例えば「二宮君」などと呼ぶ彼女なんてのもいない。俺は彼女なんて作ろうとも思っていなかった。たとえば恋をすると、「恋」がテーマの作品が書けるかもしれないな、ともたまに思う。けれど今、自分への責任だって避けている俺が、彼女なんていう磁場と重力を持った存在とかかわりあいたくなかった。それはきっと俺を揺らすし、歩かせるし、走らせる。そうして女はそんなことをやっているっていう自覚すらなく、俺を拘束するだろう

俺をある程度の大きさと、ある程度の深さのある、プールで自由に泳がせ、けれど限界が見えないような海ではない、そんな安心のあるプールで泳ぐ俺を微笑みを絶やさず、プールサイドでストローハットを浅くかぶって、俺を見ていてくれて、決して笛を鳴らさないような、どうであれ笛を鳴らさないような、そんな女がいれば恋愛っていうのもいいかもしれない。けれど俺の周りにいる女たちは、腕をからめ、手足の自由を奪い、動けないでいる俺を、自分の手が、足が、そしているということに気がつかない。そんな我儘な女ばかりだった。そして揺らし、歩かせ、走らせる。おい、俺にはたっぷりの足かせがついているぜ。お前には見えないのか? めくらめ。そして温いプールを思ったとき、俺は限定を条件として出していることに気づく。そして逃げる手段を考えあねく。もし、拘束をされたなら。腕と足を絡みつかれたら。

 

 「俺の番なのか?」

「何言ってんだよ。お前聞いてろよ。お前っていうのはしゃべっているときはもちろん、黙っていても何かを考えてるように見える。っていうことは一日、一週間、一カ月、一年、考えてるんだろう。いったい何を考えてるんだ? そんな風に」

「俺、昔から、それ言われるんだよなあ。でも普通だよ。誰もが何かを考えながら、そうさ、何をしながらでも考えてるだろう? そういうことだよ」

「お前さあ、何言ってんだよ。人っていうのは考えない時だってある」

「新ちゃんはそうなんだろうな。アホだからだろう。日々日本一、イコール世界規模でうまくて、でっかいごま豆腐の作り方をいついかなる時も、酒を飲んでるときも、いいことをしているときも、飯を食っているときも、新入社員にいばってみせるときも、考えてなきゃそんなごま豆腐は作れないぜ。もっと必死になれよ」

 必死? 必死で考える? 俺は昔から「いつでも考えている」と言われる俺だが、俺の考えていることっていうのは、ジブリと北野武の映画の評論。誰かがどこかで言っていた。それとも誰もがそう言っている、それを焼き直し、俺の言い方で話すならばっていうテーマを考えているだけじゃないのか。

「あとさ、にのちゃん、俺昔っから思っていたことがあってさ。おまえ今だって、カマンベールチーズばっかり食べてるだろ? 好きなのか? カマンベールチーズ」

「うん。チーズはだいたい好きだよ」

「それならさ、もっとうまそうに食えよ。お前の食い方っていうのはさ、いつもいやいや食べているように見える。仕方ない。しょうがない。いやだけどしょうがない。まずいなあ。そういう風に見えるぜ」

「別にそんなつもりはないんだ。ただうまいなって食べてる。それだけなんだけどなあ」

「にのちゃんは、お前の風呂に入っているときに考えることはなんだ?」

「俺はそれは意識していて、なるべく交互に、あったかいなあ、気持ちいなあっていうその二つのセンテンスを繰り返すようにしているんだ。けどそういうのって風呂に入っている体力とともに、俺の体力をすり減らすような行為なんだ。だから尻すぼみになって、最終的には、なんの奇声も上げず、バスタブにしばらく潜り込む。そして一気に出て、夢中で頭がおかしくなったようにシャンプーするんだ」

「ふうん。おかしな風呂の入り方だな。昔からそうだったのか?」

「いつからかはよくわからない。でも高校の頃はもうそういう風呂の入り方をしていたっていう記憶があるな」

「ふうん。お前についていける奴なんていねえよ」


 「俺の番みたいだ。俺の話をするよ。でもさ、皆みたいに幽霊とか、ポルターガイストとか、幽体離脱とか、ラップ音とかと比べると、大した話じゃないかもしれない

「おい、にのちゃん! 作家だからってフィクションはダメだぜ」

笑いが起こる。


フィクションでありたい出来事だったんだ。それは。でもノンフィクションなんだよな、みなさんお好みの。

さっき、吉田晴子の話が出たろう? 俺の話は時々、吉田晴子が出てくるんだ。俺と吉田は仲が良かったんだぜ。本当の話。俺たちの高校にどれくらいのタバコを吸う奴がいたかっていうことはわからない。でもその中の二人が吉田と俺だった。別に付き合っていたとかじゃない。ただのタバコ仲間だった。俺たちは弁当を食べ終わると、体育館の裏にある、イチョウが植えられていて、用務員さんが大切に育てているパンジーとか、後は花の名前もよくわからないけど、そんなのが地面に植えられている、ちょうどイチョウの木を眺めるためにあつらえられたような、そんな体育館の裏には座りやすい、そう制服をよごすこともない、コンクリートが段になっていた。そこで俺と吉田はタバコを吸っていたんだ。お前らも多分今、タバコを吸う奴だっているだろう? そうしたら昼、飯を食った後、それと放課後にタバコを吸いたくなるっていう気持ちはわかるだろう? 俺と吉田だってそうだった。放課後にも別に落ち合うわけでもないんだけど、そのコンクリートに並んで座ってタバコを吸ってた。

そしてお前らに吉田晴子がどういう印象を与えていたのかっていうのは、当時も今もわからないけれど、俺の記憶にある吉田晴子っていうのは、堂々としていて、とても力

強く、明るい子だった」

「俺たちはイチョウの葉が緑色の時も、葉が黄色く変わって、落ちてきても、それでもタバコを吸いに、昼飯の後、放課後に体育館の裏にタバコを吸いに行っていた。俺が先にいれば、強い力のある落ち葉をぎゅっぎゅっと踏む、吉田の方を振り向いたし、俺が先に着いていたら、その逆っていうわけだった。俺が死んではいない、まだ生命力のある黄色い落ち葉を踏む音に、吉田がたばこを手に持って、振り返るっていうわけだった」

そしてさっきも誰かが言っていたけれど、吉田晴子っていうのは、とても色が白かったんだ。こめかみに息をする度に血管を空かせるような白さだった。そして冬の放課後、俺はよくホットココアをもって、体育館の裏に行った。吉田は先にタバコを吸っていたり、俺の後に来ていたりしていた。そして葉をだいたい落としたイチョウの木の隙間を縫うように注ぐ落ちる陽を受けた吉田はとてもきれいだった。消えてしまう。そう思った。陽光が、吉田を通過して吉田は徐々に透き通っていくように見えたんだ。

 そしていつものように話したり、それよりも長い沈黙があったりした。けれどそれは決して不自然なものじゃなった。吉田は茶色い瞳を小さくしながら、突然立ち上がって、

「いつかでかいことをして見せる!」

「いつか驚かせてみせる!」

って突然、大きな声で言ったんだ。

そしてその様は湖畔に浮かぶ小さなボートにも見えた。そこには誰も乗っていないんだ。そしてまたぐには遠すぎる。先導する船もない。そんな孤独なボートに見えた。

 「それで、11PMでおっぱいをさらしたのかな?」

誰かが言いう。けれどそれに笑うやつなんて一人もいなかった。

 そして俺も吉田も卒業した。それ以後の吉田との接点は長いことなかった。

 「長いこと? え? 吉田晴子にまた会ったのか?」

おい、俺の怖い話の途中だぜ。

俺はそう言って、適当に置いてある飲み物から、白ワインを飲もうとしたが、気が変わって冷蔵庫からヴォルヴィックを取り出し、部屋に戻って、のどぼとけを上下させながら飲んだ。

「ねえ、男の人がさ、水を飲む姿って、かっこいいよね。その、のどがね」

「わかる! 口の端から一筋、水がのどへ向かって流れるのもくるよね」           

などと言って笑いあっている女子がいる。俺はそれに救われたような気がしていた。これから続く話の行方にはまるでオペラグラスで海の地平線だけを見ることを、見続けることを命じられた奴隷のように救いのない話だったからだ。         


 俺はさ、そうだな、こんな宵じゃない。今は今の時間帯だって散歩好きな奴なら、散歩でもしたいような、温い風の吹く、そんな夜じゃなかった。

 余談だけど、俺は散歩ってやつが苦手でさ、でもこういう職業だろう? 車とかばっかりじゃ、脚が衰えるって思うんだ。今はそうじゃなくてもいずれはね。それで俺だって「散歩っていうやつをしてやろう」って思って外に出てみても、なんだか、意味なんてないのに、穴を掘り続けなければいけない人間っていうやつになってしまったような気がするんだ。もしかしたらって、体裁から整えればって思って、ムラサキスポーツでランニングウェアとアディダスのスポーツシューズを買った。べつにランニングをしようとしているわけじゃない。ジョギングにも興味がない。でもそういう格好をしてみたんだ。散歩っていう行為の特徴は「あてもなく」なんだろう? でもその「あてもなく」にすぐにそれは飽きたし、散歩のお伴、犬だって飼っちゃいない。「あてもなく」に飽きたのだから、俺はなにか折り返し地点を作ろうと思った。それはすぐに決まった。駅の近くにある焼き鳥屋なんだ。中では酒を飲んでいる人たちもいるけれど、外に向かっても焼き鳥を焼いていて、主婦なんかも、夕飯のおかずなんだろうな。そういう人たちも焼き鳥を買い、腹をすかした中高生が安っぽいお財布を握り締めて焼き鳥を買っていたし、そういう風に思い思いにそこで何本かの焼き鳥を買ったりする、そういう店なんだ。俺はランニングシューズとアディダスのスポーツシューズでその焼き鳥屋で焼き鳥を二本買うよになったんだ。そしてそこのオヤジと立ち話するのが日課になった自販機で買ったコーラを飲みながらね。まあ、政治家の悪口とか、政治家は金持ちだとか、人間っていうのは銭で動くとか、そんな話さ。どうでもいいっちゃどうでもいい、そんな話だよね。そういう風にその「散歩」の醍醐味もわからないまま、感じるっていうことがどうやったらできるのかわからないまま、その散歩の折り返し地点をその焼き鳥屋に決めて、俺は散歩をしていたんだ。

 目的地があるんじゃ散歩って言わない? そうなのかよ。じゃあ、俺がやっていたことはなんだったんだよ。「焼き鳥を買いに行っていた」。ふざけんなよ。でもそうなのかな?

そうか、おれは散歩じゃないことをし続けていたのかな? でもまあ、ここは散歩っていことにしておいてくれ。そしてその焼き鳥屋でたいていタレのカシラとネギまを買って、そう、さっきいったような話をさ、立って焼き鳥を食べながらして、たまにはレバーも食べたりして、そうだな、それが半年くらい続いたんだ。 

 そしてある日、そう桜が咲いてたんだから春だよな。このマンションまで来る大きな道の沿道には通っていく車を愉快そうに、いたずらっぽく囲む桜が咲くんだ。だからそう、春だ。

その日も散歩に行った。そして突然に魔法が解けたんだ。

その日も焼き鳥屋は政治家は金持ちだとか、人間っていうの結局銭だなんて話をしてた。俺はそんな話に突然飽きたんだ。俺はなんていうんだろう。頭のいい奴、頭の切れる奴、そんな奴と話したくなった。そして馬鹿たちの悪口とか、オーディエンスでいることに満足し、キャーって言うやつらをののしりたいとか、頑張れない奴をののしりたいとか、この焼き鳥屋を思い切りののしりたいって、痛烈にそんなことを思った。でも俺の迎合性は店主が話している最中に、『用事を思い出したんで』などとは言えない。ウソが嫌いだっていうわけじゃない。とても大切なウソがこの世にキラキラと輝いているのも知っている。だからウソをつくことに後ろめたさなんて感じない。俺は最後に

『少なくとも俺は、金だけど、金だけじゃないです』

とだけ言って、その場を離れ、そしてまた別の折り返し地点はどこにしようと考えていて、そう、このソファに座ってさ、考えて俺はシャワーを浴びようと思った。バスタオルを洗濯機から取り出すと、ほのかな柔軟剤の香りがした。それはなんだかはっきり覚えてる。

 シャワーを浴びながら、『どこか折り返し地点は?』と考えていたら、なにか、なぜか、何もかもばからしくなったんだ。俺は急いで歩いてきた。その時に空気の温度や、匂い、風景、ささる光、そんなものを感じたことのない俺が、いまさら散歩に目覚めようたって、バカらしいんだ。それで俺は散歩をやめた。バカらしいと言ってしまったけど、それだけでは説明不足かもしれない。ランニングウェアとアディダスにも飽きたんだ。それにこれも余談だけど、そうめったにはバスタブに湯をはらなくなったんだ。入るとしても何かの考えが浮かびそうになると慌ててバスタブのお湯の中に隠れ、すぐに出る。多分三分とかからないだろう。そうなんだ。お湯に浸かる? のんびりとお湯に浸かる? 鼻歌を歌う? ハミングをする? ゆっくりと暖まる? 汗をかく? 

 そんなことがみな馬鹿らしくなった。もしかしたらあの店主の話に対してのように、飽きたのかもしれない。飽きる。これは怖いことだけど、でもまま人生のうちには現れる現象だ。

 俺がその時何を思ったかっていうと、

「とりあえず、散歩はやめよう。一回そういうものをすべて受け入れよう。それからまた始まったってかまわないのだから」

っていうものだった。で、今はじりじりと待ってる。そのアディダスの靴ひもが、結ばれる瞬間をね。

 だいぶ話はそれちゃったけど、つまり俺は散歩向きの人間じゃないっていうことはわかってもらえたと思う。

 そしてここからが本番だ。去年の冬だ。だからまあ、最近の出来事なんだ。このマンションを出て、右に行って、その先の門に、まあ場所柄か土地が取れなかったんだろうな。そんな駐車場の狭いセブンがあるんだ。おれは夜中、寒かったから黒いダウンを着こんでコンビニまで行ったんだ。走っては行かない。コンビニっていうのは走っていくところじゃない。しよんべんがたまっていない限りね。そう俺はその時、多分アディダスを履いていたっていう気がしないでもない。たまに履くんだよ。アディダスとかそういうスポーツシューズっていうのはいいもんだよな。軽いんだ。すごく。多分俺はアディダスを履いてコンビニに向かった。メビウスを買うためにね。おれはタバコをカートンで買わないんだ。それっていうのは危機的な状況に、その危機を敏感に察知する能力を磨きたいからさ。まあ、際限なくだらしなくタバコを吸って、危機的状況に置かれたら少しくらいは我慢したいって言った方が早いんだろうな。

 まあ、そういうわけで俺は一日に何回もセブンに行くこともある。それは朝食だったり、昼食だったり、飲み物であったり、そう、タバコであったり。そういったものを買うためだ。深夜だった。冬の凍てついた風っていうのは、俺にとってはある意味残酷なんだけど、ある意味郷愁を誘う。土手の上をどこまでもどこまでも、目的地もあいまいなまま歩いていける、もしかしたらその先におばあちゃんが待っているかもしれない、それとも違う誰かかもしれない、そんな気分になるんだ。

 もちろんここは住宅地の一角だ。目的地はセブンだ。そんなことはわかりきっている。それでもその時そういう気分になったのは、もしかしたらアディダスのおかげなのかもしれないな。

 そしてタバコをいつも通り一箱買って、店の外へ出た。入るときはいなかったんだ。それが店を出るといた。大きな犬だったんだ。犬には詳しくないんだけど、土佐犬とか、そういうバカでかい犬だ。俺はお近づきになりたくないと、その犬にたいして「なにも、思っていませんよ。俺はただタバコをね、一箱買いに来ただけです」っていう風に振舞って、俺をその犬が無視してくれるのを祈った。とても静かだった。その犬は立ち上がれば俺の身長を超えるだろうと思った。そして静かに、その犬は自分を店につないでいるリードを、若い女の子がくちゃくちゃとガムを噛むみたいに、噛んでいた。俺は少し早足になった。それでも背中には精一杯の、「僕は君に特に興味はないし、何も危害を加えるようなことは企んでいませんよ」っていうのを表現しているつもりだった。マンションに近づく。後ろ、だいぶ後ろに、かしかしかしかしという音が聞こえた。俺は犬とともに人生をすごさないできた。だからその音をその大きな犬の爪がアスファルトに触れる音だってことをやっと理解したのはマンションのエントランスの前だった。俺は恐怖のあまりどこでブレスを挟めばいいのかさえ分からなくなって、急いでエントランスの中に入り、エレベーターは八階にいて、俺の部屋は五階だ。ロビーにその大きな犬がいるかなんてわかりゃしない。けれど俺は非常階段を走って登った。そして部屋に入り鍵をかけると、やっと安心できた。


俺はしばらくの間、吸っていなかったタバコをゆっくりと吸っていた。それってういのも俺はタバコが切れたとき、このまま寝ちまって、明日あったかくなってから、そう俺は職業的っていうと変だけど、お昼近くに起きる生活を送っているから、明日のお昼に目覚めて、セブンに行けば今行くよりもあったかい、そう思ったんだ。でもどうしても眠れなかった。タバコ依存のせいかなって思った。依存っていうのは本当いやなものだなとも思った。まるで一人で立っているのを嫌がるみたいだ。本当は背負わなければならないのに。そういう風に感じたんだ。そしてまたパジャマから着替え、ダウンを着て、セブンに行った。そういういきさつだったから、俺はタバコに飢えていて、そのタバコは大きな犬から逃げおおせた安堵感も手伝って、俺はゆっくりとタバコを吸っていたんだ。

すると、コツコツとドアを叩く音がするんだ。俺は犬だ! と瞬時に思った。なぜ俺を執拗に追いかけるのだろう? 俺は何も持っていない。小説家だった過去はあるけれど、今は死んでいるようにタバコを吸うだけの毎日だ。俺は本当は聞いてみたいんだ。山手線に乗って、乗客の一人一人に「俺はまだ小説家ですか?」って。山手線は回る。誰かが降りても誰かが乗ってくる。そういう仕組みになっている。俺は永遠でもいいと思える。

「俺はまだ小説家ですか」

「俺はまだ小説家ですか」

「俺はまだ小説家ですか」

「俺はまだ小説家ですか」

「俺はまだ小説家ですか」

っていう風にさ。俺が孤独死していたっていう新聞記事を読んでも、ああ、俺は死んだんだんだなあって思う程度さ。

 俺は部屋の端に体育座りをして顔を膝につけ、視界を真っ暗にした。小さなころ遊んだ、押し入れの中の記憶。夏。汗をかいてオトナには見せられぬことをする。その一対の俺たちは、いとこたちを次々に誘い込んだ。そこには快楽があって、何も知らない俺たちが、快楽だけを求めて汗をかく。湿った布団。カビの匂い。

 なぜそんなことを思ったのかよくわからない。けれど少しわかるのは、そのスリルが快楽を求めていたっていうことだ。スリルと快楽は一対だからだ。

 それでもドアのノックは止まらなかった。俺ははじめ論理的にこう考えたんだ。「犬だからチャイムを押せない。よって犬はノックをする」って。でもそれにしてはおかしいなっていう気もしてきた。犬っていうのは、一体、ドアをノックするもだろうか? 犬は本当にエントランスを抜け、ロビーに侵入し、俺の匂いを嗅ぎながら、五階にあるこの部屋にたどり着き、俺の部屋をノックし続けるものだろうか。アニメに出てくる犬っていうやつは主人に従順で、優しく、ドアなんてノックしない。俺は静かに立ち上がり、静かに玄関まで行き、静かに、音をたてぬよう、靴下のままで、ドアののぞき窓を覗いた。

「おい、お前の文才とやらはどうでもいいから、結論から話せよ」

結論からなんて話せないんだ。そういう種類の話じゃない。まあ、戻るとさ、そののぞき窓から見えたのは、大きな犬じゃなかったんだ。女性だった。カーキ色のロングダウンを着ていた。そしてその女性は前髪がとても長いのに、真ん中とかで分けることもせず、だらんと前髪を垂らしたまま、ノックしていた。俺はこんな夜更けに尋ねてくるような、そんな女性なんていないんだ。よせよ、本当だよ。

 俺はドアのチェーンを閉めたまま、その女性に、

「誰ですか」

と尋ねた。別にあほらしい質問だとも思わない。深夜にダウンを着て訪ねてくる女性? まったく身に覚えがないんだ。だから

「誰ですか」

という質問を訪ねてきた女性に向かって尋ねたんだ。

「吉田晴子です。覚えてませんか?」

「えっ? 吉田さんなの?」

「うん。こんな時間にごめんね。あなたの一年前に出版された本についての感想を言いたくて訪ねてきたの」

「今、開けるね」

 吉田さんはまるで昨日の放課後に一緒に黄色いイチョウの葉を踏んだっていう感じで話す。それらは別に俺の一年前に出された本の話でもなかったし、吉田さんの最近の近況っていう話でもなかった。まあ、世間話って言ってもいいような、そんな会話さ。吉田さんは、なぜかそれを知っていたみたいに電子レンジの扉を開け、そこに肉まんとあんまんと、ピザまんを入れて、一分にセットして、暖め始めた。『だって、にの君、なかなかドアを開けてくれないから、肉まんもあんまんも、ピザまんだって冷えちゃった』

そう言って、電子レンジの庫内を覗いている。そして一分の合図の後、キッチンで適当な皿を取り出して、その肉まんとあんまんとピザまんを乗せ、リビングへ運ぶ。

「さあ、食べましょう」

そう言って、持っている白いセブンの袋からホットココアを二本取り出し、俺の前と吉田さんの前に置いた。

「元ホットココア」

そう言って昔のように笑ったけれど、昔のようではないこともあった。

 すごいニキビ面だったのだ。顔はあちこち噴火のように腫れあがり、まるで洋画に出てくるようなモンスターみたいな顔をしていた。

 吉田さんは平気な顔をしてあんまんを食べていた。下を向くと伸ばした前髪で、顔が隠れるが、それだって日本ホラーの幽霊みたいだった。ふっと思いついたように、

「こんな、夜更けにあんまんを食べてしまったら、ニキビによくないかしら?」

と言ってあんまんを食べ終わり、

「わたし、こんな夜更けにあんまんを完食してしまった。ニキビが悪化しないかしら? ニキビが増えないかしら?」

そう言って、しくしくと泣いている。そして「しくしくと」泣いたまま語りだしたんだ。

「わたしね、遠い昔、クイズ番組に出たことがあるの。バニーちゃんの格好をしてね、質問が書かれたパネルを大きく掲げて、壇上に立つわけ。そしてね、それが終ったら、メイクさんに謝ったの。本当に本当に心から本当に謝ったの。謝り続けたの。けどね、今よりはましだったのよ。ニキビ。でもやっぱりメイクさんはわたしのニキビをカバーするのって、大変だったみたいでね、仕事、もう来なくなっちゃった。わたし、いろんな化粧品を試したの。ニキビに効くっていう化粧品は全てっていうくらい試した。皮膚科にも通った。皮膚科の先生は増え続け、悪化し続けるニキビを見ながら、変だなあって言った。今はね、エステに通ってる。ニキビに有名なエステなの。わたしね、まだあきらめない。終わらない。にの君だって、まだ始まったばかりなのでしょう?」

吉田さんは元ホットココアをぐびぐび飲んだ。まるで枯渇した兵士みたいだった。

「そんなわけでね、今仕事がないの。つまらない仕事をやるようなタイプじゃない。わたし。ティッシュを配ったりね、トイレ掃除をするとかね、そういうことをするタイプじゃない。フレームの中で輝けるのがわたし」

「そしてね、わたし円形脱毛症ができたのね。見る? 見たい? 見るよね?」

そういってうつむいて、髪がすべて下に降りる。本物の幽霊みたいに見える。そして

見当をつけるようにして、髪を分け、俺にその脱毛の部分を見せる。それは長い時間だった。俺はとても長い時間、その脱毛を見ているような気がしていた。少なくとも一〇分は経過していたと思う。そして気づいたことがもう一個あったんだ。俺は吉田さんが髪を治しているときに、思わずその手の爪が視界に入った。そしたらさ、おしゃれっていう感じでもないんだけど、すっごく爪が伸びていて、その伸びた部分がたてに折れる? 裂ける? まあ、なんていうかギザギザだったんだよね。それで吉田さんのノックの音はこれが原因なのかななんてぼんやり考えてた。

そして顔をあげた吉田さんは言う。

「まあ、どうということもないの。こんなものすぐに治るしね。スクリーンには多分映らない場所」

 「でもね、だからね、一刻も早く、ニキビを直して仕事に復帰したいのだけど、今のままじゃ無理。こんなこと、にの君にしか言えないんだけど、そうね、少しだけ、お金を貸してほしいの」

俺は、そうくるかと思ったね。それでつっけんどに、

「いくら?」

って聞いた。そしたら、

「とりあえずは十万」

って答えたんだ。おれはその「とりあえず」っていう言い方に引っかかって、

「じゃあ、三十万貸すよ。その代わり、お金の話はこれっきりにしてほしい。また、なにか他の話でもゆっくりしたいよね。今日は俺はもう寝るから、帰ってほしい」

 俺は三十万渡して、これですむはずだって思った。すると吉田さんはバッグから小さな棒のようなものを取り出して、テーブルの上に置いた。安全ではないカミソリ。安全カミソリの反対。その先の刃にはガードがついておらず、ソリッドで、柄はピンク色だった。俺はストラトを思い出した。

「わたしね、このエステにかけてるの。もし、エステでダメだったらこれで頸動脈を切って死ぬつもり。ああ、体育館の裏のイチョウが懐かしいな。そしてわたしの唇ににのくんが、口づけてくれたこと一生忘れないってわたし思う」


 「おい、吉田にキスしたのかよ。お前。聞いてねえぞ」

部屋がざわめく。そして俺もこう、困ったように言うしかなかった。

「俺、吉田さんにキスした覚えがないんだよな。真面目な話」

「イチョウが緑だろうと黄色だろうと、そうか、体育館の裏、コンクリの段に座り、キスをする。いいじゃねえか。青春だなあ」

「いや、本当にキスしてないんだよなあ」

「じゃあ、吉田の記憶違いっていうわけか?」

「いや、もうほんとはそこいら辺はどうでもいいんだ。ただ俺は無残に裏切られたっていう気がしてる。ニキビとか顔とかじゃない。そういう風に吉田さんが、『なり果てていた』っていう現実にさ」

「なんで吉田晴子はそんなにフレームに入りたいと、願うんだろう。その願いが、ニキビを悪化させてるんじゃないかって思うんだけど」

「だって吉田晴子の家は、貧乏だったぜ!」

その言葉にみな一斉に黙る。だいたいが親が金を持っていた、そういうバッググラウンドしか持たない俺たちだ。その「貧乏」を初めて皮膚で触れて、湿ったその肌に驚くような、そんな気分でいる。


「でもさ、その怖い話はまだ終わらないんだ。俺はさ、吉田さんが帰った後、しばらくその暖められた肉まんとピザまんを食べ、元ホットココアを飲んでいたんだけど、なんとなく鏡でも見てみるか、っていうような気分になった。俺は少し思ったことがあって、深夜に食べるあんまんよりも深夜に飲むココアの方が、ニキビには悪いんじゃないかってね。それは俺は詳しくない。そういうことはよくわからない。けれどあんまんは否定してココアを牛飲するように、吉田さんはちょっとずつちょっとずつずれていってるんじゃないかって思ったんだ。一瞬鏡を見ようとした気持ちも失せて、ソファに横になって、タバコを吸った。煙の後を目で追う。だからどうだっていうこともなくね。灰を落とす、口にくわえ、その煙の行方を見る。それを繰り返していた。時計を見ると二時五八分だった。この時計はだいたい四分くらいずれていて、つまり遅れていて、その時の時間はおそらく三時二分くらいのはずだった。俺はやっと訪れた、本当の安堵を感じていた。タバコはゆっくりと吸えるし、妙な客も帰った。俺が寝ている時にドアをノックされ、あと十万貸してくれと、そんな客はもうごめんだって思った。俺はあいつとキスをした?

正直に言うと、俺は高校の三年間吉田さんのことが好きだった。いや、誰にも言ってなかったけど本当なんだ。透き通ってしまいそうで、次の瞬間にはそこにいなくなってしまうような、吉田さんが好きだった。でもどうしたっていうわけでもない。放送室ジャックも、いろんなクラスを回って、ホームルームジャックをするような俺だったけど、そういうこと、人を好きって思うこと、これに関してはやたらと小説を開いてみるだけで、どうしろっていうことは書いていなかったから、俺はどうすることもできなかった。だからさ、キスなんてしてないよ。俺には何もできなかった。

それから俺はやっと寝ようっていう気持ちになれて、時計をなんとなく見たら、三時四十八分だった。つまり三時五十二分っていうわけだ。俺は別に見ようとするでもなく、ベランダを見た。そこにはキューピーちゃんがいたんだ。俺は急な尿意とともに、ものすごく怖かった。そして部屋をぐるりと見回す。そしてキューピーちゃんが姿見にも映っている。俺はものすごく怖くなって固まるばかりだった。キューピーちゃんってさ、なんか、なんでかわからないけど、笑っているだろう? 俺はその笑顔に恐怖を感じるとともに、不思議なことに気がついた。俺は最初、そのベランダにいるキューピーちゃんが姿見に映っているのだと思っていた。けれどそれは少し違うんだ。その姿見の角度からいって、俺が映っているはずなんだ。俺は正直混乱した。そしてあくまでもベランダにいるキューピーちゃんも姿見に映るキューピーちゃんも、笑っている。俺の思いは微細に変わっていく。そう、恐怖もあくまでもへばりついたままなのだけど、その中にもくもくと怒りも湧いてきたんだ。お前、なぜ笑っている。お前が笑っているのは俺のことか? なぜ笑う。俺のどこがおかしい? バカにしているんだろう? 俺は最初ベランダにキューピーちゃんを見つけたとき、とっさに逃げようとしたんだけど、その時になって俺の気持ちは変わった。退治してやる。

 おれは一回玄関に戻って、叔父さんにもらった、巨人軍のバッドをしっかり握り、リビングに戻る。まずベランダにいるキューピーちゃんを退治してやろうと、窓ガラスを割った。そしてそれからはあまり記憶にないんだ。とにかく部屋中で猛烈にバッドを振り回していた。

 ふっと我に返るとどこにもキューピーちゃんはいなかった。ベランダにもいなかったし、姿見は粉々に割れていた。ついでに言えば、リビングに置いてあった、でっかい花瓶とか、、イームズの椅子、そういうものがみな割れていた。俺は両手で握りしめていたバッドを離そうとした。でも離せない。両手が固まってバッドにくっついたみたいだった。俺はそのままソファに座った。バッドをよく見る。あの格闘の最中は気付かなかったけれど、バッドには「橋本」というサインがしてあった。悲しいけれど俺はその選手に疎い。その時思った。真冬の冷気は案外心地いい。


誰ももいなかった。俺は粉々になった鏡とか、ガラス、割れてしまったもの、肉まんやあんまん、ピザまんのゴミとか、皿とか、ココアの缶とか、そういうものは、もう全部明日でいいやと思った。俺の誇りはもうだめだというところであと一歩だけ踏ん張れる、そういうところだと思っていたけど、その日はできなかった。そしてそれができないっていうことに不安を感じた。今日できないのなら、明日だって明後日だってできないんじゃないのか? 俺は買ったばかりの羽毛布団を頭までかぶって寝た。そしてその不安は今でも解消できない。今だにキューピーちゃんを見れない俺だけど、そんなことよりそっちの方が怖かった。

 

 空が白みはじめた。サラリーマンとしての習慣か、それとも飲み過ぎなのか、それとも両方ゆえなのか、寝ている奴もまばらにいる。燕じゃない。カラスが鳴いた。それはスズメでもない。

 次は新ちゃんの番だった。

「俺の番がきたのに、寝てるやつがいる。なんだよ、畜生」

新ちゃんはなんだよなあ、とこぼしながらも、新ちゃんのホラーを語りだした。

 「俺は残念ながらね、誰かさんのように文才がないからすぐに終わっちゃうんだ」


 「俺は、高校のとき、憧れている奴がいた。仮にAとしよう」

新ちゃん足を左右に大きく開き、腕の肘をその両足に置き、真ん中で手を組み、うつむいて話し出す。

「そいつはいつでもかっこよかった。なにかをゲリラ的に占拠すること、その自分のかっこよさ、それを大声で言ってはばからない奴だった。そして大学を卒業するとセブンで深夜アルバイトをし、俺にいつも『俺は負けないぜ』って言うような奴だった。それはとてつもない作業だった。探し、求め、欲しがり、手に入れること。これは誰にだってできることじゃない。特別な人間ができることだ。俺はAをそう思ったし、俺はできないってサラリーマンになった。

それだってもちろん中途半端だったんだ。サラリーマンとして優秀であろうとも思わないで、言われたとおりに働いた。というのも俺はいずれ家業を継ぐっていう約束をオヤジとしていたからなんだ。

その間もAは輝いていた。Aはやっと輝ける場所を見つけた。そこには痕跡があった。たとえばうめきであったり、例えば涙であったり、そういう痕跡が残っていた。それにオーディエンスはまるでこぶしを振り上げるように感動を見た。

それなのに、十年位経ったころ、Aはまるで死んでるみたいになった。Aは安全な場所を見つけたんだ。それはそれなりにそれなりのふさわしい位置で、誰にも非難されない場所だった。そして言うには、「俺にはもうできない」そういうことだった。俺は俺とAが違わないような気がしてきた。言われたとおりに働く、出世の意欲もないが、取りあえず食い扶持と、少しの贅沢ができるだけの給料。そういうものが象徴するものと、Aの今いる場所は同じだ。そう俺は思って、俺はAに憧れるのをやめた。Aはもう輝いてなんていなかった。シェービングフォームを顔に塗る、男なら誰しもやるような、そんなことしかしない屍みたいだった。

 そして俺にはわかっていた。Aがとても死に近い場所にいることを。もう情熱の火が灯らないならば、いっそ俺に一斗缶すべての灯油をかけてくれないか? きっとAだって自覚しいてたんだ。俺、随分かっこ悪くなったなあって。それならば嗅ぎまわればよかったんだ。あの高校の頃の獰猛だった犬のように。俺はAの話を聞きながら思った。そのセブンにいたリードを噛みちぎり、追いかけてきた大きな犬は、本当は、Aの憧れだったんだ。もしかしたらAだったのかもしれないんだ。それなのにAは逃げ、新聞の死亡欄に俺が載っていたならと夢想する。Aは嗅ぎまわり追いかける大きくて獰猛な犬だったはずだ。

 そしてAは俺が知っていたころ、多分支持してくれるオーディエンスさえバカにしていたんだ。お前はどうせそっち側にしか行けないんだろう? 俺はあがくぜ、あがいてここに上るぜ、っていう風にね。

俺の憧れていた犬。もう放送室ジャックもホームルームジャックもできないことは知っているだろう。それは大きなでっかい夕日みたいな、青春だったんだ。大人になりました。情熱が湧いてきません。だから死のうかって思っています。ばかばかしい。Aだって味わっているはずなんだ。大人になるっていうことの苦しみを。青春も苦しい。けれど大人はもっと苦しいんだ。なにかに向けて情熱を燃やすっていうことは徐々に難しくなっていって、ノンフィクションしか書けなくなる。写実的な静物画や風景画しか書けなくなってくる。それを踏ん張れよ。もっとあがけよ。格好悪い姿っていうのも、ある種芸術だし、そのかっこ悪い姿がとてもかっこいいんだ。死を身近に置いて暮らしていくなんてばかばかしい」

俺はなんだか、こいつの話を聞いていたら、無性に恥ずかしくなってきた。そうなんだよ。お前のいうとおりなんだよ。俺の食い扶持っていうのは昔書いた本じゃなくって、今はニュース番組なんかで時折、誰もが知っていることを俺が最初に知ったんですが、とべらべらとしゃべることに過ぎなかったんだ。昨日の収録、あのロックミュージシャンに俺が絡まれた部分はおそらくカットされるだろう。そうするとあの番組を見た人は、そのミュージシャンを、「知りません」「わかりません」とだけしか言わない愛想のない変わったロックミュージシャンだと思うだろう。結局そうなってしまうのだ。


 そして吉田晴子。同学年なのだから、だいたい三五前後だろう。そいつが今必死でニキビを治そうとしている。ニキビさえ治れば、あのキラキラしたフレームの中に入れる。そう信じているのだろう。あの安全カミソリとは反対のストラトみたいなピンクの柄のカミソリは捨てろ。

みんなにはあんな言い方をしたけれど、本当は俺はお前をずっと好きだった。ずっとだ。高校を卒業しても、大学を卒業しても、セブンで深夜働いていても、作家となっても、だ。好きだった。憧れていた。そして今だって好きだ。さっきのは照れ隠しさ。俺は体育館の裏、イチョウが降る中で、眠っているように見えた吉田さんの唇に、人差し指をそっと置いた。それ以外は何もできなかったっていうのは本当で、今だって、嗅ぎまわり、探し、欲しがる吉田さんをかっこいいと思ってるし、憧れているんだ。そうだ、吉田さんは大きな声で堂々と、言った

「いつかでっかいことをしてみせる!」

「いつか驚かせてみせる!」

そんな吉田さんが、俺にはとてもまぶしかった。憧れだけじゃない。俺は女性を好きになると、その女性をまぶしくて正視できなくなる病気が今だに治らないんだ。

 俺はきっと明日も明後日も生きているだろう。けれどそれを「本当に生きている」って断言できる自信はなかった。そして日々だけが過ぎる。でも吉田さんは十万を持って、エステに行くだろう。そして明日も明後日も生きているだろう。そう、生きるだろう

 

 眠っていたと思っていた岸田が言う。まるでねごとみたいだ。笑いを含みながらだ。

「にのちゃんさあ、にのちゃんの姿見に映っていたのは、ほかでもないにのちゃんなんだ。にのちゃんが映っていたんだ。つまりその時のにのちゃんは、洗面台ににのちゃんを写して見ても、暗いセブンのガラスに、己を写してみてもそこにはキューピーちゃんがいたに違いなんだ。あはは。つまりにそのキューピーちゃんっていうのはにのちゃんっていうわけ。

 そのさ、姿見に映るそのキューピーちゃんをにのちゃんはバッドで打ち、粉々にさせた。それっていうのは、にのちゃんがにのちゃんを粉々にしたんだぜ。そうだ、バッドで打たれたかったのは、文化人っていうマゾヒスト、にのちゃんだったんだ。たいてい文化人っていうのは、マゾヒストにできているんだろ? ああは、そうでもないのかな。俺はどっちかっていうとサドでさ。あはは、そんなことどうでもいいことなんだけどさ。そうしてにのちゃんは打たれ、粉々になった。だからここにいるにのちゃんっていうのは、にのちゃんの姿をした幽霊っていうわけ。どうだ、怖いだろ」

 またカラスが鳴いた。長くのびるような鳴き方だ。そういえばあの時の吉田さんも、ずっとしくしく泣いていた。それは新ちゃんに言わせると、青春の苦しみから泣いていたのだろうか? それとも大人の苦しみから泣いていたのだろうか? しくしくしく………そんな風にずっと泣いていた。そして俺はなんだか吉田さんが、円形脱毛症じゃない、その顔中のニキビが吉田さんの宿命みたいに思えた。生まれが貧乏だったことは、吉田さんにとって、「飛び越えたい」という渇望を感じさせただろう。そう飛び越えたい。飛び越えてみせる。そういう真夏にアスファルトに寝転び、厳しい陽射しに身体を刺されるような、そんな渇望だ。

 

 俺は岸田のいうとおり、俺を打ちつけ俺を粉々にしたのだろう。でも聞いてくれ。俺はその時、地面から何かが俺の身体に上ってきて、ぶるぶると震える身体にそれは充填し、それは頭の中にまでも充填され、俺の頭の中をかき回し、ジューサーのように攪拌し、おれは大声を、なにか、大声で何かを叫びながら、ああ、そうだ、俺は「死んじまえ」と叫んで鏡を打ち続け、俺を粉々にしたんだ。でもその時、俺の身体はとても熱くなって、なにかがみなぎり、そう、情熱みたいなものを身体からはみ出させるようにもって、その鏡を打ち続けた。そうなんだ。俺にはその時、はみ出るほどの情熱が俺の身体を熱くさせていたんだ。そうやって「死んじまえ」と叫び、俺は俺を退治した。そう、俺の中の何かが余り、それは俺にもなにだかわからず、時に長電話をしたいということが、発作みたいに湧き上がる、女子であったらそんなようなもの。それを持って行きどころがわからなくなって、苦しんでいる俺を退治した。

 

女子二人が、台所に立って何かを作っている。甘い香りと、バターの香りが漂う。

「そろそろ起きなさいよ。始発で帰るんじゃなかったの?」

部屋がにぎやかになる。女子連中は目の下が黒くなっていて、それをマスカラが落ちたせいだということくらいの知識は、彼女なんていない俺にもわかる。出来あがった暖かいフレンチトーストを食べながら俺は思う。誰かが牛乳を二本買ってきたみたいだ。

 誰もみな、誰かに頼って生きているのだろう。妻であれば旦那と子供を頼ってそこにいて、男だって妻や子供に頼ってそこにいる。そう誰もが居場所をもらっているんだ。

 俺が頼っていたのは、ブンガクとかレースとか、そういうものじゃなかった。それは放送室ジャックであったりホームルームジャックだったりした。いつまでも反芻した。そしてそれが遠くなり淡くなって、見えなくなり、俺は隠れた。


玄関にどやどやとみんなが向かう中、俺は新ちゃんに声をかけた。

「おい、うまくてでっかいごま豆腐の試作品ができたら、持ってこいよな。どんなにでかくても俺は全部食べて感想を言ってやる。遠慮ない感想を言うぜ」

「おう」


 早朝なのにみんながわいわいとうるさくしゃべりながら、エントランスから出ていく。俺はベランダに出た。

「おい、ここは、飲み屋じゃねえぞ、早朝の住宅街だ。そんなにうるさくちゃ迷惑だね」

「おめえの声が一番うるせえよ」

「頑張ろうな! おい聞いてるか? 頑張ろうぜ!」

「おう!」

とみなが口々に言う。

「パパ―、ママ―、おしこっこ漏らしちゃった!」

「なんだかかっこいいな」

と誰かが言ったら、みなが笑った。

そして俺は更に続ける。

「新ちゃん、次の仕事だけど」

「先生、100枚くらいで、初恋をテーマに」

「おう!」

                                  

 女子どもがだいたいのゴミは片付けてくれ、フレンチトーストの皿も、酒や牛乳が入っていたグラスも洗っていってくれたみたいだ。あいつらは高校の時はそういうことをしなかった。グラスも洗わなかったし、ゴミだってまとめるどころか捨てさえしなかった。大人になったんだろう。あいつらも。笑っていてもどこかに苦悩は置いてる。男連中だって大人になってしまったんだろう。責任を持つっていうこと。俺だって大人になったんだ。さあ、最後の一始末、俺はこの部屋を片付けよう。そうして短い時間眠り、起きよう。そう、俺はきっと短い時間眠り、起きるのだ。                                    


                                              了


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