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御高祖頭巾の女

  旧暦3月のある夜。

桜の香りに誘われて鏑木かぶらぎ数馬はふらっと屋敷を抜け出した。

徳川の御代みよも11代家斉公の世となれば幕府は安泰・・・・いや、必ずしもそうではなく、筆頭老中松平定信が出した寛政の改革以降、武家だけではなく庶民の暮らしも慎ましくなった。だがそれでも尚、各地で起きている暴動は幕府のお偉方の頭痛の種となっていた。


  数馬の生家、つまり鏑木家は将軍家より目付け職を任ぜられる旗本3500石の家柄で、現在は鏑木静馬、数馬の兄が継いでいた。冷や飯食いの数馬は次男であり、他家へ養子に行くか、武士を捨てるかの二者択一を迫られる身分であった。しかし兄静間は生来身体が弱く、家督を継いでからは一層具合が思わしくなく床に伏せがちになっていた。そのせいか早々と自分亡き後は数馬に家督を譲ると表明していた。

  それでも当の次男坊はそんなものには一向に頓着がなく、用人の佐々岡が心配するほどのやんちゃな男であった。また、千葉道場でも免許皆伝で敵なし。と思えば、昌平坂学問所でも他にに類を見ないほどの秀才でもあった。それは寛政の3博士。柴野、尾藤、岡田をも唸らせるものだった。それに加えて眉目秀麗。ちょっと位悪さをしてもその整った笑顔を見ると、まぁいいか。という気持ちにさせてしまう何かをも備えていた。


  「粂。今宵は暖かいな。日に日に風が温んでくる。」

独り言のように呟く数馬にどこからともなくスッと黒い影が近寄った。

「旦那。あの角を曲がった所でお武家のお女中が難儀してやすぜ。」

粂と呼ばれた影のような男はそれだけ言うとまたスッと離れていった。

「ふむ。俺に助けてやれってことか。こんな夜に無粋なことだ。」

とはいうものの、人が困っているのに黙って見過ごすのは男がすたるとばかり粂の言った角を曲がってみた。なるほど3人のやくざ風の男に絡まれている御高祖頭巾の女がいた。


  「無礼者!」

懐剣をかざしているものの相手はそういったものには滅法強い連中だ。一向に効き目がない。それどころか、あれよ!という間にその手をひねられ汚らわしい手がその胸元に入ろうとしていた。

「うぬら!何をしておる!」

  突然背後から大声を出された連中は、ビクッとしたように振り返り、一瞬たじろいだがすぐ応戦にでた。

「何だとぉ!さんぴん!怪我したくなかったら黙ってすっこんでろ!」

生憎あいにくだが難儀している人を見殺しには出来ない性質たちでね。」

「なに!」

その中の1人が刀を振り翳すと、

「たわけ!」

声もろとも懐から出した扇子でその手を叩き刀を落とした。次の瞬間、その刀を取り上げ振り向きざまに残った2人の足を払った。

られた!られた!」騒ぐ奴らに

「峰打ちだ。桜の花に免じて今宵は許してつかわす。さっさと消えろ。」

事もなげに答える数馬。

「覚えてやがれ!」

捨て台詞を残して去ろうとする連中に、「忘れ物だ。」と奪い取った刀を投げつけた。

「全くせっかくの花見が台無しだ。」

袖のほこりを払いながら呟いて振り返ると、その女が震えながらこちらを見ていた。

「怪我はないか?」

数馬の問いに言葉を発する事が出来ないらしく、ただ頷くばかり。

「どのような仔細か分らぬが、このような夜更けにお女中が1人で供も連れず歩いているのは関心しませんな。送って進ぜるゆえいずれのご家中かな?」

ところが娘は、

「い・いいえ。大丈夫でございます。た・ただ今は危ないところを助けていただきありがとうございました。」

深々と頭を下げると数馬に背を向け歩き出した。しかし自分の行く方角が判らないらしく、間もなく立ち止まってしまった。それを後ろから見ていた数馬は、そのまま行ってしまおうかと考えたが、深い事情がありそうな娘を放ってもおけず近付いて声をかけた。

「こんな夜更けに提灯も持たず供も連れず歩いておったのでは先程のやからの格好の餌食にされてしまいますぞ。屋敷は聞かぬからそなたの名前と、どこへ行こうとしていたのかだけ聞かせてくれ。次第によってはそこまで送り届けてやろう。」

  初め、口をつぐんでいた娘はさっきの光景を思い出したのであろう、すがりつくような目で数馬をみた。やがて意を決したように話し出した。

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