恋はいつも幻のように
夜の匂いは不思議だった。特に春が終わりかけた頃の夜の匂いが俺は一番好きだった。そこには何とも言えない甘さがあり、その甘さは周りの景色をやたらとくっきりさせた。ちょうど今夜のような匂いだ。
俺はみっこちゃんを待って電柱の陰に座り込んでいた。もう30分も同じ体勢で待っている。彼女の部屋の電気はまだ明るく、ピンクのカーテンが暖かみのある色に染まっていた。俺はずっとそれを見ていた。
みっこちゃんと別れたのはもう4年も前だ。別れた理由は未だによく分からない。特に大きな喧嘩もなかったし、性格が合わないという訳でもなかった。しかし彼女には彼女なりの別れる理由がちゃんとあったんだろう。みっこちゃんは何を考えているのがよく分からない女の子だが、変な所で自分を曲げない真っ直ぐさがあった。
再び会うようになったのは一年前だ。最初に連絡をしたのは俺で、それからちょくちょく連絡をとるようになった。
でも俺には別に付き合ってる人がいた。そしてみっこちゃんにも。
俺達は自然と夜に会うようになった。夜中にぶらっと訪ね、部屋の電気がついているのを確認してから電話をする。しかしみっこちゃんはそれからすぐには降りてこない。短い時で15分、長ければ1時間近く俺は蛍光灯に照らされたピンクのカーテンを眺めることになる。まるで対岸の灯を見つめるジェイギャツビーのように。
ピンクのカーテンが暗転する。
灰色のパーカーを羽織ってみっこちゃんが降りてきた。いつものロングスカートを履いている。
「待った?」
「どれだけ待ったか知ってるだろ?着いた時に電話したんだから」
俺は少し怪訝な顔をした。
「ごめんね」
みっこちゃんは顔の前で手を合わせ、謝るポーズをした。一応謝るのだが結局何も変わらない。
まだ少し肌寒い風の中を俺達は歩きだす。等間隔で並んだ街灯の灯りは薄暗く、10秒ごとに俺達を照らす。
みっこちゃんと付き合っていた頃、俺はまだ大学の2回生で20歳だった。
その頃の俺は割と友達も多く、毎日遊びに明け暮れ学校にもあまり行っていなかった。この頃、俺はよく知り合いから恋愛相談をされた。当時から気の利いたことが言えるような人間ではなく、上手なアドバイスなど皆無であったのだが、相談を受けて俺が2人の間に入ると何故か上手くいくことが多かった。そんなジンクスを聞きつけ、俺は多くの人から相談を受けた。
その中で一番印象に残っているのは赤井と平尾だった。
俺はその当時、2つ後輩の赤井とよくつるんでいた。赤井は18歳で、右も左も分からない地方から出てきたばかりの大学一年生だった。背が高く痩せていて、一見するとバレーボールでもやっていそうなのだが、実際はスポーツはからきし駄目で麻雀だけがやたらと強い男だった。何かの飲み会で知り合い、割と馬が合い2人で夜な夜な街へ繰り出していた。
平尾は俺と同級生で語学の授業が一緒であったため、よく話す女友達だった。平尾は俺と違いちゃんと授業に出ていたので、全然授業に出ていない俺はよく平尾からノートを借りた。お礼にいつも食堂で定食を奢った。平尾は親から十分な仕送りを貰えず奨学金を借りて大学に通っていた。学校以外の時間はボサボサの髪を後ろで括りバイトに明け暮れ、いつもお金に困っていた。対して俺はこの頃、ギャンブルの調子が良く金回りは良かった。
そんな平尾に赤井が惚れたのは春学期の試験の前だった。そろそろ試験の用意をしなければいけないと思い、例にもよって平尾にノートを借りに行くとそこに赤井もいた。待ち合わせた食堂で2人は向かい合い定食を食べていた。
「赤井君が定食奢ってくれたの。だから今日はお礼はいいわ。ちゃんと授業出なさいよ」
俺は正直面くらった。平尾に赤井を紹介したのは確かに俺だったが、それはあくまで友達としてで、俺自身まったく深い考えはなかったのだ。なんでこの2人が一緒に?と思ったがそれ以上に赤井が背筋を伸ばして椅子に座っているの事が不思議だった。赤井は酷い猫背で、いつも雀卓に覆い被さるように麻雀をしていた。そして平尾は髪を綺麗に巻いていた。
赤井から胸の内を打ち明けられたのはその数日後だった。
「俺、平尾さん好きです。なんかもうどうしようもないんですよ。家に1人でいたらいつも平尾さんのこと考えてしまって」
よくもまぁそんな恥ずかしいことを言えるなと思い俺はビールを流し込んだ。
「だったら言ってみろよ。多分あいつもお前の事意識してるぞ。この前だってあんなお洒落な髪型して。びっくりしたよ。絶対意識してる」
「髪?」
赤井はビールを居酒屋の安机に置いて訝しげにこちらを見る。
「普段はもっとボサボサの髪してるよ。あいつは苦学生だからな。バイトとかああいうお洒落な髪型より一つ括りの方がやりやすいんだろ」
「そんな苦学生なんですか?」
「まぁ聞いてる範囲では」
俺は枝豆を口に放り込みモゴモゴ話す。
「ねぇ、こんな事言うと笑うかもしれないですけど。俺は本気で平尾さんの事考えてるんですよ。彼女の生活が苦しいなら俺が守ってやりたい」
赤井は今まで見た中で一番真剣な目をしていた。1ヶ月前に勝負所で国士無双を聴牌した時よりもずっと真剣な目をしていた。
「バカ、先ずは付き合うとこからだろ?正直に言ってみろよ。俺、協力するからさ」
「そ、そうか、そうですよね。先ずは正直に気持ち伝えないとね。協力お願いしますよ」
赤井はその日俺の家に泊まった。慣れない酒を飲み過ぎてしまったのだ。
そんな赤井の話をみっこちゃんに話すと彼女はいつも喜んだ。
「可愛いわねぇ、赤井君。ほんとどうなるか気になるわ。私、応援してるのよ」
「俺だって応援してるよ」
でも俺は心の中ではどこか冷めていた。何故恋愛にそんなに熱くなるのか、それが分からなかったのだ。その頃にはもう既に何組もの恋愛を成就させていた。でも俺にはその全ての恋愛が幻に見えた。若い時の恋愛は幻だ。いつかその全てが闇に消えていく、そんな風に見えて仕方なかった。
俺はみっこちゃんに対して赤井の平尾に対するような熱い気持ちは持っていないと思っていた。みっこちゃんを生活面から支えたいなんて思ったことはなかったし(もっともみっこちゃんは平尾のような苦学生ではなかったのだが)彼女の全てを受け入れる覚悟なんて俺にはなかった。
ただ、みっこちゃんの話し方や笑い方は心地良かった。それだけで一緒にいる意味はあるのだと思っていた。
赤井と平尾が付き合ったのはそれから1ヶ月後だった。俺を含めた3人での2回目のデートで赤井が告白したのだ。
2回目のデートは3人で郊外で行われるロックフェスに行った。俺はもうこういった恋愛シチュエーションには慣れていたため、ロックフェスが一番の盛り上がりを見せる頃にさりげなく姿を消した。
「俺、あっちのステージで見たいバンドあるからちょっと行ってくるわ」
2人っきりになった赤井と平尾はこのロックフェスの一番の目玉の外タレバンドを遠巻きから見ていた。アンコール2曲目でバンドの代表曲のイントロが流れる中で赤井は平尾に思いを伝えたらしい。この日のライブは出演者の異例な豪華さから伝説と語り継がれたが、あの会場で最もロックだったのは間違いなく赤井だっただろう。俺は今でもそう思う。
2人が付き合ったことをみっこちゃんにメールで教えた。みっこちゃんからの返信には一言「努力の上に花が咲く」とだけ書いてあった。
赤井と平尾は付き合い出してからも度々俺を誘ってくれた。俺は「2人でいる方が楽しいだろ」なんて言っていたが、誘ってくれるのは嬉しかった。傍目から見ても2人の交際は上手く行っていた。半年程経つと2人は元々平尾が住んでいたマンションに一緒に住み始めた。ボロボロのマンションで壁も窓も汚かったが、2人は幸せそうだった。
ある日俺は2人に招かれて彼らが住むマンションに行くことになった。
俺はパチンコの景品のお菓子と酒屋で誂えた赤ワインを持って出掛けた。マンションへ続く歩道を歩いていると、マンションの前に2人がいるのが見えた。
2人は手を振っていた。満面の笑顔で手を振っていた。2人の横を車が通って行く。マンションの前は車通りの多い国道なのだ。ヘッドライトが2人を照らす。何台もの車が照らす。
俺は思った。完全な幻はなんて美しいんだろう。そしてそれは幻なのだ。幻だからあんなに美しいのだ。残酷なくらい美しいのだ。
昨年、赤井は大学の後輩と結婚した。平尾は会社の同期と一昨年に結婚して来年には第一子が生まれるらしい。
薄暗い路地を抜け、俺とみっこちゃんは国道沿いに出る。ここをずっと真っ直ぐ行くと昔赤井と平尾が住んでいたマンションがある。あんなボロマンションがまだ潰れないで残っているのは奇跡としか言いようがない。
みっこちゃん、俺は今でも君の話し方や笑い方が好きだよ。だけど俺は来月結婚するんだ。妻になる人のお腹には子供がいる。俺の子供なんだ。
伝えねばならなかった。俺達も幻なんだよ。俺達はもうとっくに死んでいるんだ。幻だけがそこにいる。だけどそれはもう色褪せてしまった。2人の手で幻を消し去ろう。
俺は切り出すタイミングを見計らっていた。みっこちゃんは気にせず隣を歩き、寒そうにパーカーのチャックを首元に上げる。国道を行く車のヘッドライトが夜の匂いを切り裂いて行く。俺達を照らす。