第五幕
練習の時間にジェラルドは舞台袖まで移動すると、何やら人だかりが出来ていた。男性陣は冷やかすような感嘆の息を上げ、女性陣は甲高い声でさえずりあっていた。
一体何事だろうか。人垣から少し離れた位置でジェラルドが戸惑っていると、彼の存在に気付いたソフィが声をかけてきた。
どういうことだかソフィは興奮していた。血の通った身体ならば、頬は薔薇色に上気していただろう。彼女は細い手でジェラルドの掴み、輪の方へ引っ張る。
「何があったんだ」
ジェラルドが問うとソフィは視線を彼に向けた。
「いいから、来てご覧。アンタ、絶対驚くからさ」
人を押しのけてソフィはジェラルドを輪の中心へと連れ立った。不可解な行動に眉をひそめていたジェラルドだったが、人々の中心にいる人物を見て言葉を失った。
少女だ。
まだ十代半ばの。
年頃の少女らしい可憐な装束に身を包んでいる。流行物ではないが、どこか田舎っぽさを感じる彼女の魅力を栄えさせるコーディネートだ。
ショートボブに切りそろえられた亜麻色の髪。サラサラとしたその髪を飾るのは薔薇の髪飾り。
まだ幼さの残る、その輪郭。触れるとスポンジケーキのように柔らかだろう。その感触がジェラルドの指に蘇る。
そして、彼女の瞳がジェラルドを映した。その瞬間、確かに動かないはずの彼の心臓が飛び跳ねた。
忘れるはずのない。
雲ひとつない夏の空。高い高い蒼の色。
恋焦がれた太陽と同じ輝きを持つ瞳。
「き、みは……」
言葉にならない。言いたいことは何も見つからない。ただ衝撃がジェラルドを襲う。
彼女はジェラルドを見て花咲くように微笑んだ。
止まったはずの心臓が大きく脈打つ錯覚に囚われた。
彼女が口を開く。
「はじめまして」
「え……」
頭の中で少女の声を反芻する。
ハジメマシテ。
確かに彼女はそう言った。
「もぉ。アンタすっかり忘れてんじゃない」
キィキィとした声でソフィが笑う。嗚呼、五月蝿い。耳障りだ。
きょとんとする少女の肩を白い指が掴んだ。嫌味なほどに手入れされた指。その持ち主が誰なのか、嫌でも分かる。
「そうだよ。リトルロゼ。彼はジェラルド。何となくでもいいから覚えていないかい?」
頬に人差し指を立ててリトルロゼはしばし思案する。
「えーと……おぼろげにある、かもです」
その視線はジェラルドに向けられない。リトルロゼが見つめるのは彼女の背後の人物ただ一人。
「何となく、記憶にある気がします。モンドさま」
「そう。えらいね」
モンドは優雅に微笑み、リトルロゼの頭を馴れ馴れしく撫でる。その手を叩き落とした衝動にジェラルドは駆られる。しかし、体は凍りついたままだ。
鐘の音が反芻するかのごとくリトルロゼの言葉が頭の中でぐるぐる廻る。
「しかし、お前が雛鳥を持つとはな」
顎に手を当ててそう言ったのはこの劇団の用心棒だ。常時は険しく光らせるその目も今は懐かしい再会に穏やかな色を浮かべている。
しかし、ジェラルドはそれに気付かない。
さらに強い衝撃が彼を襲った。
雛鳥、だと?
それを意味するのは、一つ。モンドが彼女の血を飲み干し、吸血鬼にしたということだ。親鳥と雛鳥と呼ばれるその間柄は、血の繋がりよりも強い主従関係となる。例えどちらかが身を滅ぼしても、その関係は消え去ることはない。
絶句するジェラルドの横でソフィが手を合わせ声を上げる。
「本当。ビックリしたよ。だってモンドが今まで雛鳥を作ったことなんてないでしょ」
「えぇ。だけど、彼女は僕の特別だからね」
モンドがリトルロゼの頬を撫でる。彼女はそれを甘んじて受け入れる。お互いを見つめる眼差しは暖かなもので、その様子は誰が見ても恋人同士のそれを連想させた。
違う。
「どうしたのさ、ジェラルド?」
異変に気付いたソフィがジェラルドを呼びかけるが、その声がどこか遠くのものに聞こえる。
いつのまにか掌は硬く握られていた。強く強く。手入れされた爪がきめ細かい肌に刺さることすら厭わないほどに。
ただじっと腹の底から湧き上がるふつふつとしたどす黒い感情がジェラルドの身を焦がす。
彼女は自分にとっての光の象徴、聖域だ。自分を納得させて諦めた存在だ。それが、今目の前にいる。自分たちと同じ、闇夜の住人として。
こんなのは、間違っている。こんな結果になるのならば、あの時自分の手元に残しておけばよかったのだ。
そう、彼女の隣に立つのは自分のはずだ!
一度諦めたはずの存在に、ジェラルドは心をかき乱された。横取りをされた、そんな言葉が頭を占める。
だけどリトルロゼはジェラルドに一瞥もしない。彼女が微笑み、熱っぽい視線を送るのはあの胡散臭い毒蛾に対してだけだ。
「俺が先に見つけたんだ」
そう、あの時。
あの廊下で、すすり泣く彼女を最初に見つけ最初に声をかけたのは他ならぬジェラルドだ。
なのに!
「ねぇ、ジェラルド。どうしちゃったんだい?」
心配そうにまとわり付いてくるソフィがこの上なくうっとうしい。払いのけてやろうかとも思ったが、それよりもモンドに対する嫉妬心の方が勝った。
そんなジェラルドの気迫を察したのか、一瞬だけモンドが彼を見た。
モンドは、笑った。優雅に煌びやかに、まるで挑発するように。
「貴様っ」
屈辱に耐えられず、ジェラルドは我を忘れてモンドに掴みかかった。途端、波紋のように混乱と驚愕が広がる。
リトルロゼの悲鳴を背にして、ジェラルドはモンドの襟首を締め上げる。華奢なその体のどこにそんな力を蓄えていたのか、掴まれたモンドの足が床から浮いた。周りの吸血鬼たちは事態を収めようと懸命にジェラルドを宥める。だが、逆にそれがますますジェラルドの神経を逆なでにした。
殺してやる。
本気でそう思い、恋敵の首を絞める手に力を込めた。なのに。
「ふふ、いい目だ」
のんびりとした声が、周囲を沈黙させた。
今まさに渦中の当事者となっているモンドがその声を発したのだ。殺されかかっているというのにもかかわらず、普段と変わらぬ優雅で飄々とした表情で。
流れるような動作でジェラルドの手首を掴むとあっという間の早業で彼の腕を捻り返した。手加減などない。骨の軋む音がジェラルドの中で響く。
苦痛に呻くジェラルドに対してモンドが耳元で囁く。
「さすが当劇団のトップスターだ。その迫真の演技なら、またご婦人方の心を独り占めだね」
徐々にざわめきが収まっていく。
──なんだ。ただの演技か。
──驚かせやがって。
──本当にびっくりしたわ。
次々と漏れる安堵の息。誰もがモンドの言葉に惑わされ、ジェラルドの真意を見ようとしない。例えジェラルドが声を張り上げたとしても、もはや誰も信じてくれないだろう。
鮮やかに蟲毒を撒き散らし、人心を掌の上で意のままに操る。そして誰もそのことに気付かない。これがこの男の汚らしい手口だ。
反吐が出る。
すがるようにリトルロゼの顔を見た。どうか、自分を見て欲しい。心で訴えかける。
きっと彼女も騙されているだけだ。このおぞましい悪魔に付け入られているだけなんだ。
だって、その髪飾りは僕が飾ったものだ。それをまだ飾っていてくれている。僕を思っていてくれている。そういうことだろう?
お願いだ。どうか神よ。
彼女の目を覚ましておくれ。
「あぁ、リトルロゼ。その髪飾りはまだ付けていてくれたのかい?」
モンドがジェラルドを押さえつけたままで少女に声かけた。その声音はごく自然で場の繋ぎに不自然さを感じさせなかった。
リトルロゼは頬を赤らめる。その可憐な姿。やはりあの頃と変わらない、純真な姿のままだ。そして、変わらず残酷であった。
「はい。だってあの時、モンドさまからの頂いた物ですもの」
頭に銃弾を撃ち込まれた気がした。
涙すら浮かばない。
深い深い絶望の底にジェラルドは今度こそ突き落とされた。這い上がることすら困難な大穴。それに容赦なくモンドは土砂を被せた。
「ふふ、大切にしてくれて嬉しいよ。僕からの贈り物をね」
「はい」
もはや立ち向かう気力すら沸かなかった。床に倒れこんだまま呆然とジェラルドは微笑みを交し合う親子を見つめる。
二人をからかう周りの声もジェラルドの耳に届かない。いつの間にかやってきた団長の存在にすらジェラルドは気付けなかった。稽古を開始した、その時になっても彼はまだ己を取り戻す術が無かった。
スポットライトが彼を照らす。舞台に注がれた視線は全てジェラルドに注がれている。
だが、ただ一人。ただ一人だけ、ジェラルドを見ていない人物がいる。
欲して手に入れようとして、叶わぬ存在として諦めた真昼の空。
リトルロゼ。
──何故、私を見ようとはしない!
かつて彼が演じた暁の王の台詞が胸に浮かんだ。しかし、それは同時に彼の切実なる叫びであった。
──悲劇の始まりはどこからだったのか、と問われたのならきっと最初から。
彼と彼女の出会いから始まっていたのだろう。 【暁の王 開幕の口上】
【了】
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
このあとの展開としましては、リトルロゼ-モンド-ジェラルドのドロドロの愛憎劇になっていく感じです。
鬱展開は避けられない状態なので、気力が満タンの時にその話をちまちまと書きためているところです。
公開はかなり先になると思います。