第四幕
幕が下りても拍手は鳴り止まない。それどころか、さらに大きさを増してゆく。カーテンコールを終えても今だ観客たちの興奮は冷め止むことはない。
「へへ。やるじゃん、王様」
からかうようにジェラルドの背中を叩いたのは踊り子役のソフィだ。褐色の肌に青の口紅。切れ長のオニキス色の瞳。リトルロゼとは似ても似つかない容姿だ。
彼女の隣に立つのは細身の女性。骨が肌に浮かぶくらいの細い体躯。身に付けている衣装は晩年の踊り子──王妃役の物だ。練炭色の双眸に尊敬の意を込めてジェラルドを映していた。
「本当に。……舞台に立つ私まで惹き込まれてしまいましたよ」
「うんうん。一時期はどうなるかって心配したけど杞憂だったって感じ」
さえずる二人の声をジェラルドは意識していない。舞台袖を見渡して人を探す。
お互いの熱演を称え合う共演者たち。道具の回収を勤しむスタッフ。眩しいほどの照明が照らされるその中に、ジェラルドの求める人物はいなかった。
「どうしたのさ、ジェラルド。何をそんなにキョロキョロしてるんだ?」
ソフィが訝しげに尋ねる。
「いや、あの子は……」
口を開いてからジェラルドは思い出した。リトルロゼが誰にも本名を教えていなかったことに。
何故だか知らないがジェラルドは彼女を【リトルロゼ】と呼びたくはないと思っている。だが、他に彼女の呼称は無い。仕方なくジェラルドはその名を口にした。
「……リトルロゼは何処に?」
思いがけない人物が出てきたといったように女性二人は顔を見合わせる。同時に首を傾げて辺りを見渡す。
「そういえばどこにもいませんね」
「モンドのところでしょ、きっと。アイツもいない……ってことは二人で受付でもしてるんじゃない?」
「なんだと」
チリッと胸は痛んだ。モンドとリトルロゼが同じ場所にいる。その事実にジェラルドは腹を立てた。
舞台衣装も着替えずにジェラルドは受付へと続く廊下へと進もうと足を踏み出す。が、彼の眼前に団長が立ちふさがった。
「やぁ。お疲れ様」
呑気に片手を挙げるその様にジェラルドの怒りがじわじわと上昇してゆく。
早くリトルロゼをアイツから取り戻さなくてはいけないのに。その思いがジェラルドの表情に表れたのか、団長は肩をすくめた。
「やれやれ……あぁ二人とも、お疲れさん。早く着替えておいで」
はーいと二人声を揃えて去ってゆく。甘い異国の香水の残り香だけがこの場に漂う。
「さてと」
団長は改めてジェラルドに向き合う。顔つきも真剣なものだ。思わず身構えたジェラルドに彼は静かに言った。
「リトルロゼは家族の元に帰ったよ」
「なっ……」
「上演中に警察から連絡が来てね。手が空いていた者に連れて行かせたよ」
畳み掛けるように団長は続ける。
「モンドなら放送室にいる。リトルロゼが辛くなるだろうからと彼は一度もそこから出ようとしなかったよ」
ジェラルドは何も言えない。いや、何を言えば良いのか分からない。身体の芯がまるで真冬のように凍てついたように感じる。周りの雑音が遠くに聞こえる。
「僕はね。これで良かったと思うよ」
呆然とするジェラルドの肩を団長が力強く叩いた。その瞬間に、ジェラルドは悟った。
自分よりも遥かに長い時を過ごしている彼に、とっくに自分の思惑が見透かされていることに。
バツが悪い思いでジャラルドは俯いた。そんな彼を、団長は感慨深く見つめていた。
「キミは彼女と出会ったことで役者として一皮剥けた。見ただろう。観客たちがキミの演技に飲み込まれていく姿を」
指摘されて思い返す。己の声、仕草、吐息。その一つ一つが観衆の心を掴む。舞台に注がれた大勢の熱視線がジェラルドにそれを実感させた。
今まで舞台に立った時よりもさらに強い手ごたえを感じたのだ。
吸血行為とはまた違った快感があった。はるか昔に置いてきた興奮が、熱が蘇ったかのように思えた。
「夜は終わったんだ。妖精は立ち去り、残された職人は夢の残骸を物語として紡ぐ。キミがすべきことは、僕が言わなくても分かるだろう」
「団長、俺は」
瞼を下ろす。暗闇に浮かぶのは透き通った蒼。青空を連想させるリトルロゼの眼。
世界は幸福に満ちているという信念を持った純粋な眼差し。その目線に合わせて彼女が映す世界を覗いて見たかった。
同時にそれを破壊したかった。手元に置き、育て上げ、いずれは光の世界から連れ去りたいと思ってしまった。あの無垢さを、自分の手で理想の闇に落とし込みたいという願望が無意識に芽生えていたのだ。
「これでよかった。そう思ってあげるんだ。あの子を宵闇の楽園に連れてくることはない。彼女だってそれを望んでいるわけはないんだ」
心を見透かしたような団長の言葉にジェラルドは歯を噛み締める。それでも言い返す気持ちはない。
恐らくリトルロゼの滞在が長引けば長引くほど、ジェラルドは誘惑に勝てなくなっていっただろう。無理やり押さえつけて生き血を飲み干し、死の抱擁を与えただろう。
暁の王のように。
「分かっていますよ」
それが愚かな行為だということはジェラルドは理解している。胸に刺す痛みはしばらくは残るだろう。けれどそれは時が立てば消え去る。
一際小さな薔薇を見たらあの笑顔を思い出そう。
陽の光がどこまでも広がる青空のような微笑み。
手に入れられなかったからこそ、心の中で宝石のように輝く。
分かっている。自分は闇の世界の住人で、あの子はその真逆を生きる人間だ。年を重ね、成長し、命を繋いで死すべき種族だ。
目を見開けば心配するような団長の顔。彼を安心させるためにジェラルドは微笑んだ。
団長は驚く。目の前の青年はこのような時、こんな表情を浮かべなかった。
改めて彼はリトルロゼに感謝した。ジェラルドを役者としてだけでなく、その器も大きくさせた。きっと良い役者になるだろう。
忙しくなる。脚本の書き甲斐が出来そうだ。
「さ、キミも着替えておいで。今晩はお祝いだ。役者ジェラルドの新生を祝って、ね」
* * *
会場の放送室にはさまざまなモニターが設置されている。舞台左右に中央。さらには舞台袖に楽屋。一見すると警備室をかねているようにも見える。その部屋の照明は落とされ、モニターの明かりだけが青白く室内を照らしていた。その中にモンドは一人佇んでいた。
彼の視線の先には舞台袖を映したモニター。そこに映されていたのは団長とジェラルドの二人だ。
諭すような表情を浮かべる団長に黙ってそれを聞き入るジェラルド。
「やれやれ」
鮮やかな紅を差した唇を指で擦り、モンドは呟く。
「落ち込むかと思ったけど、大丈夫そうだね」
嬉しそうな口調とは裏腹にその視線は冷ややかなものだ。じっくりと獲物を見定める獣のような目つき。
口から除く鋭い牙が青明かりに反射して鈍く光る。
* * *
──私はあの方をお慕い申しております。
どんな金品財宝よりもあの方の暖かな眼差しが私にとって宝物なんです。
ですから、王様。私のことは忘れてくださいまし。 【暁の王 第四章】
主演の数をこなせばこなすほど、ジェラルドの名声は広まってゆく。
今や彼は一流役者としてこの世界に名を知れしめている。そのことを彼は自負し、誇りに感じている。
かつて演じた「暁の王」は彼の代表作として語られている。夜会で当時のことを尋ねられることも多々ある。その度にジェラルドは胸に甘い痛みが疼くように感じた。あれから十年の月日が経っていた。
ため息を吐き、ジェラルドは真新しい脚本に手を伸ばす。今度の彼の役どころは脇だが主演に近い存在だ。
世の中の酸いも甘みも見分けたハードボイルドな男。なかなか演じ甲斐がありそうだ。
そう思いジェラルドは右手を伸ばす。薄い唇が紡ぐは役柄の台詞。
クライマックス目前の、愛する女を前にして述べる長口上の一節。
「ならば、捨て去るんだ。その想いを」
男は女を背にする。ハットのひさを掴んで目元を隠す。背後から聞こえてくるのは女のすすり声。
──いやよ。あたしはあんたが好きなの。
女は半歩前に進む。
──ねぇ、あんたも同じ気持ちなんでしょう? だからお願い。あたしを連れて行って。
女はまた半歩だけ前に進む。そして湧き上がる感情に耐え切れず、ついには駆け出そうと前のめりになる。
「いいや、違う」
男の拒絶に女は怯む。男は間を置かず、女に言い放つ。
「キミが私に向ける感情はただの憧れだ。決して『愛』なんかではない」
──でも、でも!
すがりつ女の声を男は冷たく引き離す。
「さよならだ。もう逢う事はないだろう」
男はその場から早足で立ち去る。女はその場で崩れ落ち、ただただ行かないでと繰り返す。だが、男は決して振り返ることはなかった。
【続】