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第一幕

 私は全てを手にした。この世は私の思うがまま。──【暁の王 第一幕】


 納得がいかない! 全てにだ!

 薄暗い廊下をジェラルドは足音を響かせて歩く。

 艶やかな黒髪を乱暴にかきむしり、吐きつける息は獣のように荒い。夜毎に美女を魅了する紅い瞳は、恥辱と憎悪の色に燃え上がっている。

 ひんやりとした夜の空気は、喧騒としたジェラルドの心を冷やすことは出来なかった。

 今彼の心中を占めるのは、ただ一人の男への怒り。

 モンド・S・ウィアード。

 あの蛾虫のような男め!

 この俺に、|Splendid vampires《華麗なる吸血鬼たち》の看板役者でもあるこの俺に、演技指導だと?

「……ふざけるなっ」

 拳を壁に叩きつける。木製の壁に亀裂が走った。手に突き刺さった木屑を振り払うと紅い血が木色を艶やかに彩った。

 痛みは無い。激しい感情の高まりが、鎮痛の役割を果たす。震える手を広げ、瞼を押さえる。呼吸を繰り返し、乱れた前髪を直す。

「あの、害虫めが」

 呪詛を次々と吐き捨てるが、彼の気は晴れない。それどころか、ますます憎悪が深まってゆく。

 初めて会った時からジェラルドはモンドに対し、生理的な嫌悪感しか沸かなかった。それは数年経っても薄れない。それどころか、日に日に不快感が増してくる。理性が無かったら、あの緩んだ顔に向かってツバでも吐きつけたいぐらいだ。

 演技だって、表現力だって、ジェラルドの方が優れていると自負している。だというのに、団長は首を─に振って稽古中のジェラルドに向かってこう言ったのだ。

『違うね。この役はそういう言い方はしない』

 さらには、モンドにその役の演技を習えとまで言い放った。

 これ以上にない屈辱だった。

 呆然とするジェラルドに、モンドはいつものようなふざけた態度で近寄ってきた。

『さぁ、練習しようか? 聞きたいことがあったら、何でも聞きたまえ』

 気付いた時には、ジェラルドはありったけのスラングを吐きつけて舞台から飛び降りていた。

 俺は悪くない! 理解の無い奴等が悪いんだ。

 奥歯が、ぎりりと音を立てる。血の猛りに身を任せていると、歌が聞こえた。

 小さな子供の声だ。

 震えながら、かすかに涙も混じりながらも懸命に紡ぐその歌声にいつしかジェラルドの黒い感情が幾分か抑えられていく。顔を上げて、声の出所を探す。猫のように気配を消して、一歩一歩歌声に近寄った。

 この歌を、ジャラルドは知っている。遠い昔、顔も忘れてしまった母が寝しなに歌ってくれた歌だ。

 ゆったりとしたテンポの子守唄。心地よく身に染み渡るメロディ。

 たどたどしい言の葉の一つ一つが、ジェラルドに安らぎを与えていく。

 廊下には小道具の仕舞い込まれた木箱いくつもつまれており、歌声はそのどれかから聞こえていた。耳を澄ませて木箱を一つ一つ覗き込む。一つ外れるごとに、歌声は近くなってゆく。そして、ついにジェラルドは見つけた。そこにいたのは、幼い子供だった。長い亜麻色の髪を三つ網にし、それをお守りのように小さな手でぎゅっと握りしめていた。

 彼女がジェラルドに気付くと同時に、歌がぴたりと止んだ。そして、そっと子供が顔を上げた。

 あぁ、空の色だ。

 子供の大きく見開かれた目の色を見て、ジェラルドは思う。

 夏の空だ。雲一つ無い晴れた空の。

 太陽が透かす、晴れ渡った蒼の色。

 二度と見ることの無いはずだった世界の色。

 その色が、ジェラルドの困惑した顔を水鏡のように映し出す。

「……おじさん、だぁれ?」

「おじ……!」

 それは、彼にとって何よりも耐えがたい禁句であり暴言であった。

 一気にジェラルドの怒りが蘇った。突き刺さるような殺気に子供の表情は恐怖に染まった。嗚咽に近い吐息が子供の口から漏れた。限界まで広げられたアイスブルーの瞳から透明な雫が一筋、丸みを帯びた頬を伝って流れ落ちた。

「やあやあここにいたのかい、ジェラルド!」

 呑気な声にジェラルドの手が止まった。

 脂汗を流して振り向けば、毒蛾のような男がいた。彼は肩まで伸びた自身の緩やかに波打つ金髪を指で絡ませながら、ジェラルドの元へと歩を進める。

「いきなり飛び出すだなんて、君らしくもない」

 あくまでこの男はだらしなく緩んだ笑みのままだ。そこがジェラルドには気に入らない。まるで全てを逆撫でするような、そんな表情。

「モンド……」

 奥歯を噛み締めながら、彼の名を口にした。嫌気を隠さずに顔に浮かべる。

 しかし、モンドは特に気にせずに白い指先を薄い紅を付けた自身の唇に押し当てる。

「ダメじゃないか。まだ稽古中だろう?」

 テノールの声が若干の艶が帯びている。気色悪さを覚え、ジャラルドは彼を睨みつけた。

「気分が乗らない」

 そっぽ向いてから、眉をしかめた。これでは聞き分けのない子供のようだ。そのことに気付き、ジェラルドは、ますます恥辱された気分になる。

「わがままはいけないね……おや」

 モンドの視線がジェラルドからそれた。その先にいるのは、怯えて震える幼女。小さな体を丸め込み、手足を畳ませ外界から必死で自分を守っていた。哀れなほどに弱い生き物だということを、周囲に知らせている。

 それに、モンドが手を差し伸べた。

「どうしたんだい? 小さなお嬢さん」

 鼻につく様な甘い囁き。下品な例えだが、思わずツバでも吐きそうな声だ。

 しかし、子供は違った。恐る恐ると頭を覆う手を緩め、潤んだ瞳でモンドを見上げた。濡れた頬が紅く高揚していた。

「可愛いね、まるで|little rose《小さな薔薇》だ」

 害意のないその言葉に緊張の糸が緩んだのか、子供は火の点いたように泣き出した。差し出されたモンドの手を掴みながら。

 耳に突き刺さる騒音にジェラルドは顔をしかめた。対照的にモンドは子供を抱き上げ、あやすようにその背中を撫でた。

「ジェラルド、団長を呼んできてもらってもいいかな?」

 加減の知らない目覚まし時計のような物体を抱えながら、よく平然としているものだ。

 そんなことを思いながら、ジェラルドはモンドの言葉に従った。……本心は嫌で嫌でしょうがなかった。


  * * *


 泣きつかれて眠る子供を見下ろして、団長は言った。

「迷子だね」

「見れば分かるでしょう」

 呆れたように団員の一人が続けた。

「どうするんですか? よりもよってただの人間の子供ですよ」

「誰かが引き取って、餌にしたらどうでしょ?」

 きひひと不気味な笑いを発しながら、大道具係の団員が言う。

「特に子供の血だなんて……想像しただけで涎が溢れますよ」

 その言葉に思うところがあった者も数人ほどいたのか、生唾を飲み込む音が聞こえた。血走った目で子供を見下ろす輩までいる。

 品の無い奴等め。それでも誇り高きヴァンパイアか。

 子供を囲む輪から外れた位置で、ジェラルドは乱れた前髪をかきあげた。せっかく時間をかけてセットをしたのに、もう台無しだ。それもこれも、全てモンドのせいだ。

 なぜか自身の隣にいるモンドを横目で睨みつける。が、彼はへらへらとした表情を崩さない。それがさらにジェラルドの心をかき乱す。

「団長。一応警察に連絡を取りましたが、迷子の届け出は出てはいないようです」

 事務室から戻ってきた腰まで届く髪を赤く染め上げた女が言った。若干彼女の瞳には困惑の色が浮かんでいる。

「それで……その。しばらくこちらで保護していてほしいと」

「どうやら君を対応した警官は怠慢のようだね」

 落ちた照明がぶら下がる空を見上げて、団長が嘆きの声を上げた。

「やれやれ。どうしたものかね。あ、言っておくけど餌にする方向は無しでね。警察に連絡入れてあるし」

 挙手しかけた大道具係の手がゆるゆると垂れ下がった。それでも、口をもごもごさせて何やら文句を呟いている。

 ざわついた空気の中、朗々とした声が響き渡った。

「だったら、しばらくこの劇場で寝泊りさせたらどうだい」

 その発言に驚き、皆一様に声の主に注目した。視線のスポットライトを浴びた金の吸血鬼は、特に臆する様子もなく言葉を付け加えた。

「誰かが面倒を見るんじゃなくて、全員で面倒を見ればいい」

「だけど、私達は吸血鬼よ? 夜の世界でしか生きていけないのに、人間の子供と共に過ごすだなんて」

 紅い髪の女の抗議に、周りの吸血鬼らからもそれに同意する声が上がる。

 ジェラルドは胸のすく思いで、その囃し立てる声を耳に入れる。

 さぁ、どうするんだ。ペテン師め。せいぜいその化けの皮を剥がして恥をかくことだ。

 口元に笑みを含んで動向を見守っていれば、モンドは小首を傾げるという似合わない仕草をさせた。

「正体なら隠さず話してしまえばいい」

「モンド! お前何を……」

「だって彼女はまだ子供だ。時が経てば、愉快な夢だと片付けるよ」

 あるいは、エニグマの一つだと処理するだろう。

 語るモンドの声は不思議と説得力があった。五歳ほどの記憶なんて、おぼろげなものだ。子供の言葉なんて、大人は真剣に取り合わないだろう。やがて過去を振り返る時が来たならば、不可思議な体験をしたんだと自身を納得させる。

 それが『人間』だ。

「まさしく『夏の夜の夢』といったことかい?」

 茶化すような団長の物言いに、モンドは恭しく礼を取りながら返す。

「その通りでございます。オーベロン様」

 モンドの道化た仕草にたちまちに辺りの空気が軟化した。同時に、彼等の方針も確定したようだ。

「では、この可愛らしいお嬢様の親元が判明するまで、我らが劇団は彼女に奇妙で不可思議な夢をお送りしようではないか」

 団長の掛け声に、皆小さな拍手で応えた。それをただ一人、ジェラルドだけはおもしろくない表情を浮かべていた。


   【続】

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