岬にて
/最果てへの街道/
[P.M.16:24]
「もうすぐの筈よ……。天くん?」
「あ……、はいっ!」
飛び起きた天の顔を横目に見て、カルミラは少し笑った。
「寝てたの? いいわよ、別に」
「す、すみません……」
短い会話を交わす間も、景色は溶けるような速さで流れていく。
相変わらず、バイクが疾走するスピードはとんでもないものだったが、カルミラは運転上手だった。
つい、うとうととしてしまったが、再び見始めた悪夢から呼び戻されて、ほっとした。
「天くん、海、見たことある?」
「大陸崩壊前の海でしたら。でも『最後の海』は見たことありません」
「そう」
『最後の海』とは、その名の通り、壊れ果てた世界で唯一残った海だ。
とはいえ、今の人間に、この地上を隈なく観測できる能力はない。
大陸は大きく変動をした。
昔の地図なんかは、もう役には立たない。
元々あった場所に海は消えてなくなり、こうしてただ一つ、広大な海が存在するのみとなった。
もしかするとこの海の向こうに、こちらの大陸と通信不可能になっているだけで生き延びている人たちがいるかもしれない。
だが、それを確かめに行く術は今のところない。
海には、地上で見かけられる魔物とはまた別種の魔物が見られるからだ。
「ほら、見えたわ。あれが『最後の海』よ」
大地が途切れ、水平線が目の前に広がる。
懐かしい波の音、吹いてくる潮風。
目を閉じれば見える、何処までも青い海。
……だけど、今は違う。
海は赤く染まっていた。
夕日が落ちるまではまだ間がある。
決してその色は、光のせいなんかじゃない。
大陸崩壊の後から、海は赤く染まっていた。
まるで、飲み込んだ人たちの血の分だけ、その色を帯びたといわんばかりに。
「岬はあっちね。行くわよ」
崖沿いの道を、バイクは滑るように走っていく。
どこまでも赤い海を眺めながら、天は微かに唇を噛んだ。
*
数分もしないうちに、二人は岬に到着した。
そこには、……何もない。
あるのは「セントラル大陸測量局認定、最南端」の看板が潮風に吹かれているのみ。
視界の先には、どこまでも続く水平線。
西から太陽に照らされている海はただ静かに煌めいて、潮騒をたたえているだけ。
赤い海に、白波が立っているのが見える。
その果てには、何も見えない。
どこまでもどこまでも赤い海が続いて、やがて空との境界線に辿りつくだけ。
バイクを完全に止めて降り立つと、カルミラは急に震えた肩を抱いた。
「……嫌な感じ」
首の後ろがちりちりするような感覚がある。
ヘルメットを脱ぎながらサイドカーを降り、天もまたその場所に立って辺りを見回してみたが、特に何かを感じることはできなかった。
「どんな感じなんですか?」
振り返ると、カルミラは長い金色の髪を潮風に梳かれながら、もう一度ぶるっと身を震わせた。
「……何ていうのか、前にもどこかでこんな空気に触れてるのよね。でも……」
思い出せないのだろう、顔をしかめて舌打ちを返す。
「取りあえず、何かないか探しましょう。これ渡しておくから、好きに撮って」
カルミラは手に握り締められるほどの小さなデジカメを天に渡すと、私はこっちを調べるわとだけ告げて、岬の東寄りへと行ってしまった。
天は西寄りに岬を見て回ることにした。
ファインダーを覗いて、とりあえずその場で一枚撮る。
西日が眩しい。
あの太陽が水平に没するまで、後一時間あるかないかくらいだろう。
天は崖のギリギリに立って、そこから身を乗り出すように下を覗く。
潮が引いている時なのか、ちょっとした浅瀬が見えた。
ごつごつとした岩肌が、寄せる波を砕いている。
落ちたらひとたまりもないだろう、と嫌な想像をしてしまう。
『もしかしたら、何か映るかもしれないな…』
そう思って、シャッターを切ろうとしたところで、手が止まった。
「……あれ何だろう?」
最南端の看板の真下辺りになるのか、崖の下のずっと岩肌寄りの場所に、何かが見えた気がした。
「とりあえず、カルミラさんに…」
振り返り、顔を上げ、遠くにまで行ってしまっているだろう上司の姿を探そうとした視界は、美しい銀色で埋まっていた。
「うわぁあっ!!」
カシャリ。
「あ!」
シャッターを切ってしまった。
天の至近距離、眼前には、音もなく、気配もなく、冷ややかな目をしたハデスが立っていた。
きっとデジカメには、思いもよらず、ひどく驚いて叫び声を上げた天に対し、むすっとしたハデスの顔が激写されていることだろう。
「うわ、驚いた……。ハデスさん、来てくれたんですね」
跳ねた鼓動が治まると、天は屈託のない笑顔をハデスに向ける。
銀色の悪魔は、ふぅ、と小さなため息を吐いただけだった。
「あ、そうだ! カルミラさーん!!」
最南端の看板のほうへ駆け戻りながら手を振る天の様子に気づいたのか、東側を写真におさめていたカルミラもまた、こちらに駆け足で戻ってくる。
「何、何か見つけたの?」
「はい。何なのかは分からないんですけど、崖の下に」
天とカルミラは二人揃って崖のふちギリギリのところに寝転んで、危なげもなくその下を覗き込んだ。
「本当ね、何かしら? あれ」
寄せて返す赤い波に埋もれる岩の一つに、白波とは違う別の白いものが突き立っているのが確かに見える。
カルミラはしばらく目を凝らしたり、デジカメのズーム機能を使ったりしてそれが何であるのかを確かめようとしていたが、がっくりと肩を落とすと、だらりと崖のふちに腕を投げ出した。
「ああ…、ここからじゃ上手く見えない。無理矢理下に下りても、駄目ね、戻ってこれないわ」
当然だが、いまだ生体のよく分かっていない『水棲魔物』のいる海に下りていく道など作る訳が無く、まして好んでこんな崖の下に飛び込みたいと思う者など、そうそういないだろう。
そして、いくらなんでも、ここから崖下に下りるためのロープやクライミングセットを持ってきてはいなかった。
「こんなことになるんだったら、ハデスに来てくれって頼んでおけばよかった…。夜まで本調子にはならないだろうから、無理を言うの止めておいたのに」
項垂れてぼやくカルミラの落胆ぶりを余所に、天はゆっくりと振り返って、寝そべる二人を相変わらずの表情で眺めていたハデスに問いかけた。
「お願いできますか? ハデスさん」
「え? 何? 嘘っ!」
がばっと、カルミラは勢い良く顔を上げた。
天が背後を見ているのを確かめる間もなく、その空色の瞳を後方へとやる。
そのしなやかな腕を組み、やれやれ、とばかりのため息を吐いているハデスの姿に、目を輝かせて立ち上がった。
「うわっ、来てくれてたんだ、ハデス!」
思わぬ嬉しさに、カルミラはハデスに抱きついてしまいそうになった衝動を、すんでのところで耐えた。
さすがに、焦げるのは嫌だったのだろう。
ハデスに向かって両手を広げたまま静止するという、傍から見れば若干情けない姿を数秒曝してから、我に返った。
「…ごほん。で、行けそう?」
気を取り直すように小さく咳払いをしてから、カルミラは改めてハデスに問いかける。
少々照れたカルミラの表情をさめざめと見やってから、ハデスは口を開いた。
「……取りにいけと言うなら無理だ。俺はあれには触れん」
「何? ハデスあれが何だか分かってるの?」
ふー、とあからさまに面倒くさそうな息を吐いて、ハデスは崖の下に目線をやった。
「神具だな。剥き出しの剣だけが突き刺さっている」
その言葉だけで崖の下に在るものが何なのか分かったのか、カルミラの顔色がさっと変わった。
「ヤバイ、なおのこと取りに行かなきゃ。あぁ、でも私も神具は触れないし……」
彼女が考えを巡らせていたのは、ほんの一秒もない短い間だった。
にっこりと微笑み、さも当たり前のごとく、ぽんと天の背を叩く。
「天くん、お願い。貴方なら掴めるわ」
「僕がですか?」
起き上がって外套についていた土埃を丁寧にはらっていた天は、思わず驚いて素っ頓狂な声を上げながらカルミラを見た。
だがカルミラは至極真剣な表情で、天はもう一度崖の下に視線を投げてから、彼女に向き直った。
「大丈夫よ、天くんならきっと持てるわ。あの剣は英雄アルトリアの選定の剣、……何があったか分からないけれど、アルがいないんだったら持って帰らなきゃ」
「でも、僕なんかが持てるはず……」
「いいえ、持てるわ。天くんならね」
自信満々に言い切る、カルミラの言葉に天の顔が疑問に曇る。
「ほら、天くん、もしも誰かに、貴方のその大剣より素晴らしい剣をあげるって言われても、使わないでしょう?」
「ええ、使いません。僕の剣はこれ、だけ……」
何故そんなことをカルミラが聞いたのか、その意味がなんとなく分かって、天は呆気にとられた。
その答えだけが返ってくることを分かっていたと、空色の瞳を細めてカルミラは笑う。
「そういうことよ。ルカも言っていたでしょう? 神具は自分で持ち主を選ぶわ。でも自分で動けない分、ああいうことになっちゃったら、『自分を使う気が全くない者に』は身を任せてくれるのよ」
天の肩を叩いて、カルミラは少し広い場所に移動する。
そしておもむろに、腰回りのベルトにたくさんついていた小物入れをひっくり返した。
「ちょっとだけ待っててね!」
そこから出てきたのは、たくさんの金属の部品。
カルミラは慣れた手つきで、それを一つずつ、物凄い手際の良さで組み立て始める。
そのあまりの器用さに、天もハデスも興味深げに、黙ってカルミラの細い手が動く様を眺めていた。
ものの五分で、それは組み上がった。
遠距離射撃用スコープ付きの狙撃銃。
ポケットから取り出した銃弾を、これまた慣れた手つきで弾倉に込めた。
以前に、一体ベルトについた、全部が全部膨れた小さな小物入れの中身が何なのか、気になったことがあった。
だがそれが、まさかこんな立派な銃になるとは思いもしなかった。
絶句している天を横目に、カルミラはスコープの角度を調節してから、ずしりとした狙撃銃を小脇に抱える。
「水面に近づくと絶対、邪魔な『水棲魔物』がいっぱい出てくると思うから。まあそれは私に任せて」
再び崖の際に寝そべると、狙撃銃を構えてスコープに目を当て、もう片方の目だけでこちらを見た。
「よろしくね、ハデス。またスンのマスターにいいお酒頼んでおくから」
「やれやれ」
ため息を吐いて、ハデスは微かに肩を落とす。
天は慌てて白い外套を脱いで、綺麗にたたんでサイドカーの中に置き、戻ってくるところだった。
朔の法衣服は、かなりの退魔力を持っている。
服の上からならハデスと触れ合っても焦げることがないとはいえ、あの白い外套にハデスが触れたなら、逆にこの悪魔の方が傷を負うに決まっている。
天が戻ってきたのを確認して、カルミラが小さく頷く。
「じゃあ、準備いいわね?」
「はい」
はー、とやる気なさげなハデスは、一つため息を吐く。
そして天の腰を片手で抱くと、そのままの勢いで崖から飛び降りた。
降下の感覚に上がりそうになる悲鳴を、両手で口を押えることで耐える。
今はハデスの飛行能力で飛んでいるのではない。
ただ落ちているだけ。
断崖絶壁から、相当な高さを落下していく。
大きな波しぶきが足の下に届くくらいまで落ちた頃、返っていく波に紛れて、何かが見えた。
「ヤバ…!」
『水棲魔物』の、独特な目の輝きが波の奥に見えた。
天が短剣を抜こうとする動きよりもはるかに早く、波間から爪を出した『水棲魔物』は打ち抜かれた。
ズダン!!
続けざまに銃声が響く。
ハデスの死角から、確実に天に向かって飛び掛ってくる『水棲魔物』。
また一匹、ぎぎぃ、と断末魔を上げて、海に還っていく。
次から次へと襲い掛かってくる魔物の小さな頭を、カルミラの射撃銃は弾一発たりとも無駄にすることなく、正確に打ち抜いた。
落下する感覚が急になくなり、ふわりと浮遊感を感じた時には、二人は無事、浅瀬の岩の上に降り立っていた。
ブーツに波しぶきがかかる。
岩と岩、波と波の間から、魔物がこちらの様子を窺うように睨みつけていたが、一歩でも天に近づこうものなら、カルミラの狙撃弾が飛んできて魔物を海に還した。
そのため、不用意にこちらに近づいて来ようとするものがいなくなる。
この期を逃す手はないと、天は浅瀬の岩に無残に突き刺さった、波しぶきに濡れた剣に駆け寄った。
……その剣のあまりの美しさに、息を呑む。
白に近い銀色の刃は雫に濡れ、陽の光を吸って輝いている。
伝説が本当であれば、これは人間の手で造られた武器ではない。
妖精が、ただ王のためだけに造ったもの。
持ち主を不死にする能力を秘めた、星をも両断せる、選定の剣。
「天くーん! 悪いけどそこも写真撮っておいてー」
「はい!」
ずっとずっと頭上から降ってくるカルミラの声に、一度顔を上げて返事を返してから、突き刺さったままの剣の姿を写真におさめた。
「撮れたら、それ抜いて、上って来てー!」
「はーい!」
ファインダーを覗いたままの状態で、カルミラの声に反応して再び上を見上げた。
崖の上で狙撃銃を構えたカルミラの姿が、小さく映っている。
その向こう。
カルミラが背に負う空が、歪んでいた。
「あ、…れ?」
カシャリ。
「あ」
また、シャッターを切ってしまった。
慌ててデジカメを下ろし、もう一度目を凝らして見上げたカルミラの向こうの空には、何もない。
天は思わず首を傾げてしまったが、足元にまた波がかかったのに気付いて、改めて美しい剣に向かい直した。
「迎えに来ましたよ。アルトリアさんが見つかるまで、とりあえずセントラルに帰りましょう」
ルカが、神具とは意思の疎通ができる、と言っていたことを思い出して、天はそう言葉に出して語りかけた。
おずおずと、やはりどこか遠慮して、天は美しい剣の柄に手を伸ばした。
カルミラは自信満々に、自分になら神具に触れることが出来ると言っていたが、本当に大丈夫なのか、と思ってしまう気持ちがある。
そっと、柄を握り締めた瞬間、くすくすと誰かが笑う声が聞こえた。
可愛らしい、鈴の鳴るような美声。
それはどうやら、だが確かに、剣の中から聞こえてくる。
思わず目を見開いてしまう。
それでも、力を込めて岩から剣を引き抜くと、美しい刃は何の抵抗もなく、身を任せるように天の手の中に納まった。
それはまるで星の輝き。
もしもこのままこの剣が誰にも見つけられることなく、波にさらされたまま、いつか錆びでもしていたならと想像すると、ゾッとした。
「おい、さっさと戻るぞ」
「は、はい! お願いします」
剣を手にハデスの側に駆け寄る。
ハデスは選定の剣を近くに見て、眩いのか、険しく目を細めたが、天の腰を再び抱くと、風に吹かれる羽根のような身軽さで舞い上がった。
波が届かなくなる位置になってようやく、絶えず聞こえていた銃声が止む。
崖の上に戻り、ハデスがぽいと天を放り出すように地上に戻すと、カルミラは狙撃銃を抱えながら立ち上がった。
「ありがとう、ハデス、天くん」
そして天の手に握られている、むき身の剣に目を落とす。
「あぁ、やっぱり、アルトリアの剣ね。英雄王の剣、エクスカリバー」
どうやら見覚えがあるのか、変わらずに美しい剣の様に、カルミラは目を細め、同時に唇を強く噛みしめた。
「あいつがそれを置いて行くなんてあり得ない! ……よっぽど、…きっと、何かあったんだわ。……急ぎましょう、セントラルに報告を…っ」
天を促し、慌ただしく身をひるがえしたカルミラは、途端に、目の前でバランスを崩してよろめいた。
彼女のブーツの下で、何かがごりっと音を立てたのが天の耳にも届いた。
「だ、大丈夫ですか、カルミラさん」
「えぇ、平気。何か踏んだけど……」
よろめいた体を支えてくれた天の手に寄りかかって、カルミラは足を上げる。
ブーツの下には、何かの機械が砕けて、壊れて散らばっていた。
「何だろ? まだ新しいものみたいですけど……」
天が、一番大きな機械片をつまみ上げて、カルミラに手渡す。
それをしばし眺めた後、カルミラは天の手を解いて、残りの機械片の側に膝を着けて屈み込んだ。
「……これ、レコーダーだわ」
「レコーダー?」
「うん、ボイスレコーダー」
細い指先が金属片を探る。
そのうちの欠片の一つに見知ったマークを見つけて、確信する。
これはウインズゴッド社の作った、最新型小型ボイスレコーダーだ。
どんなものにせよ、あらゆるものの最新モデルは世界の上層部の人間にしか渡らない。
十二英雄の一人であるアルトリアが、これを持っていたと考えてもおかしくはないだろう。
そしてそれを、容赦なく破壊してあるということは、何か、聞かれては困るようなやり取りがこの中に納められていたと考えてもいい。
「何が録音してあったんでしょうか? でも、こんなに粉々じゃ、データなんて」
天の落胆した声に、カルミラは深く同意して頷く。
このレコーダーにアルトリアの行先の手がかりになるような一言でも録音されていたら、大きな収穫になるはずだ。
「そうよね、……うん、確かめるしかないか」
今度は一人納得すると、カルミラは左足のガンホルダーから白い銃を抜いた。
今のところ、周りに魔物の気配はない。
何故銃を抜いたのか、と疑問に首を傾げる天に微笑みながら、カルミラはもう少し離れるようにと手で示した。
「これさ、かなり術力消費するのよね。この後、夜になって戦闘になったりしたら、天くん、頼らせてもらってもいいかしら?」
指示通り、素直にその場から数歩離れた天は、左手に握られた白い銃を大地に向けて構えたカルミラの言葉に、逆に何故そう聞かれるのか疑問にさえ思っているような様子で答えた。
「え? はい、必ず守り抜きます」
当然と言わんばかりに、守り抜くと断言する。
天のその当たり前の潔さに、カルミラは微笑んだ。
「よし!」
僅かに頬を染め、上機嫌に笑うカルミラは、白い銃で、地面に転がる機械片たちに狙い定めた。
銃を構えたカルミラのまとう空気が、一瞬、張りつめた。
「告命天使」
カルミラが一つの名を口にし、同時に発砲した。
銃弾が機械片に当たり、キィン、といやに高い音が辺りに響き渡る。
そして、機械片を包むようにその場所だけ、小さく空間がたわんだ。
小さな円形の空間は、その中だけ帯電しているように渦を巻き、壊れた機械片を寄り集めていく。
まるで時間を逆光させていくように、小さな空間の中で機械片は修復を見せる。
最後に、円形の空間が音も立てずにシャボン玉のように弾けると、地面にはカルミラが思っていた通りの最新型ボイスレコーダーが転がっていた。
「さ、これでいいわ。行きましょう」
レコーダーを拾い上げたカルミラは顔を上げ、今度こそ天を促して出発しようと思っていたのだが、呆然と、だが目をキラキラさせて自分を見ている天の顔に面食らって、思わず硬直した。
「す……ごい! カルミラさん!」
天のキラキラした尊敬の眼差しに、悪い気はしないが、カルミラは多少苦笑いを浮かべて、頬をかく。
「あはは……、そういや私のこと、ほとんど何も話してなかったわね」
妙に照れたカルミラは、ボイスレコーダーを大事に胸ポケットへと仕舞った後、双銃を抜いて見せてくれた。
「黒いのが告死天使、白いのが告命天使。私のためだけに造られた、私だけの銃なの。だからよほどのことが無い限り他の人には引き金は引けないし、会話はしないけれど、ルカが言うように意思の疎通はしていると思う、昔からの相棒たちなの」
対になった形。グリップには見覚えのある羽ばたく鷹の姿のロゴ。
カルミラが器用に手首を返すと、双銃は白い指先で踊るようにくるくると綺麗に回転した。
「弾は全部私の術力よ。空っぽになるまで撃てるわ。それから、この子らの真名を告げてぶっ放せば、告死天使はどんな奴でも魂ごと消滅させられるし、告命天使はちょっとしたものなら直せるの。死んでなければ、生き物も。まあ、どっちも術力と精神力大いに削ってくれるけどね」
ほぉー、ととても感心した様子で声を漏らす天は、カルミラのバイクに描かれている白と黒の鷹のロゴを振り返り見て、頷いた。
「バイクと一緒なんですね……、凄い」
「いや、バイクのデザインの方が一緒にしてあるというか、してくれたというか」
珍しく滑舌悪く、言葉の語尾を濁すカルミラ。
「え?」
「あのバイクを造ってくれた人が、その…」
更に言葉を選んで、詰まってしまう。
どうやら言うべきか、言わないでおくべきなのかを迷っている様子だった。
それを深く追求しようと思った矢先、背後から、ハデスの機嫌の悪そうな声が飛んできた。
「おい、和気藹々しているのはいいが、あれを放って行くのか」
そう言って、親指で背後を指す。
天とカルミラは揃って、ハデスの指先を目で追う。
指を指された先にある岬の先端には、何も見えない。
ただ赤い海の先に、空が続いているだけ。
「何? 何かあるの?」
問いかけるカルミラの様子に、ハデスは呆れてため息を吐きだし、もう何も言ってくれなかった。
ハデスが指を指したところは、先ほどまでカルミラが狙撃銃を構えて寝転んでいた場所のあたりだ。
天はふと思い出してデジカメを取り出し、崖下で、間違えて撮ってしまった写真を見返した。
そして絶句する。
がばっと顔を上げて、写真に写った場所と照らし合わせてみたが、何もない。
そんな天の慌て様に、さすがにカルミラも気づいたようで、神妙な面持ちでこちらを見やる。
「カメラ、…カメラだ、カルミラさん! ファインダー越しに見てみて下さい!」
持っていたデジカメのファインダーを覗いてもう一度絶句した天は、カルミラが自分のデジカメを取り出すより早く、それを彼女に差し出した。
渡されたデジカメのファインダーを覗いて、天が指差す方向を見たカルミラが、言葉を失くす。
岬の先、ちょうど崖から一歩進んだ辺りの空中。
空間が歪んでいた。
真っ黒い穴がぽっかりと口を開け、どこかへと続いている。
ハデスが言ってくれていたのはこれだと、天は確信する。
「あぁっ、ちくしょう」
カルミラが憎々しげに汚い言葉を吐く。
細い手で、首の後ろを押さえる仕草。
この場所に到着した最初から感じていたものは、これのせいだったのだと理解した。
思い出すことがある。
この穴の正体だ。
二年前、ロキが朔を攫い、連れ去った時に使ったものと同じ気配。
「これは、…道だわ。……魔界に通じる、道なんだわ」
「じゃあ、この穴の向こうって」
「十中八九魔界じゃないかしら?」
そう言いながら苦笑いを浮かべるも、カルミラの表情はいつも以上に険しい。
「なん…っ、なんでこんなもの、開いたまんまなんですか? 普通、魔界と繋がったままなんて、ありえないでしょう?!」
「誰かがすんごい魔力で、空間と空間を歪めて繋ぎっぱなしにしてるとしか考えられないでしょう! そんなことより、塞ぎ方よ、塞ぎ方! このままだったら夜になるたび、ここからわんさか魔界の魔物が出てくるわよ?! シャレにならないわ!」
苦々しげに歯を食いしばったカルミラを見て、天の顔色が若干蒼くなる。
二人は息を合わせたわけではなかったけれど、照らし合わせたように同時に、既に我関せずを決め込んでいた銀色の悪魔に助言を求めて、勢いよくハデスを振り返った。
「潰せばいい」
さらりと、冷めた口調で当然のようにそれだけを言って、ハデスはまた口を閉ざした。
「どうやって潰せるのよ…」
さすがのカルミラも、ため息を吐きだしながら肩を落とした。
腕を組み、眉間に深くしわを寄せながら、考え始める。
天もまたファインダー越しに、闇の底に続いているような穴を見て、頭を抱えた。
くすくすと、笑う声が聞こえる。
「え…」
デジカメを握った手をゆっくりと下ろして、もう片方の手に大事に持っていたアルトリアの剣に視線を落とす。
くすくすと、また声がする。
念のため、カルミラを見てみたが、彼女にはもちろんこの声は聞こえていないようだった。
「あの、カルミラさん」
「何?!」
「アルトリアさんは、これを潰しにここに来たんだそうです」
思考を巡らせているところを邪魔されて、多少苛立って返事をしたカルミラは、そのまま言葉を失っていた。
真昼の青空色の瞳が見開かれ、天を見上げる。
「それから、アルトリアさんがいないから、これを潰すために一回だけ力を貸してくれるそうです」
「そ、天くん? ……それって、まさか」
カルミラの視線が、自然と天の握る美しい剣、エクスカリバーに注がれる。
天は黙ったまま、頷いた。
鈴の鳴るような可愛らしい、そして美しい声で、天の頭の中に直接語りかけてくる声の主。
それは間違いなく、この神具そのもの。
「……そうね、そう言ってくれているならお願いしましょう。天くんも、お願い」
「はい」
カルミラは天から少し離れた。
天は岬の先近くまで足を進めると、そこに在るはずの魔界への道、暗黒の穴を睨みつけた。
自分が神具を使えるわけがない。
ましてや、これは英雄アルトリアの剣なのだ。
だから、今ここで剣を揮うのは、僕じゃない。
僕はこの体を貸すだけ。
この一太刀だけは、妖精の剣エクスカリバーの意、そのもの。
『力を貸してくださってありがとうございます。……とても、感謝します!』
先だって礼を述べて、天は心の中を空っぽにした。
意識を剣に預ける、まさにその感覚。
高々と上段に構えられる、エクスカリバーの白銀の刃が西日を反射して輝いた。
――――音もなく、剣が振り落ちる。
まるで空に星が流れるような、軽やかで心地よい響きだけが残り、一迅の風だけが吹き抜けた。
遠く、海の水面が、空にあった雲が、その凄まじい剣圧で真っ二つに切り裂かれる。
しかし、岬には目に見えて分かる変化は、何も起こらなかった。
だがそれでも、天は疑うことはなかった。
くすくす、とまた笑い声が聞こえる。
そしてそれを最後に、エクスカリバーは沈黙した。
「終わりましたよ、カルミラさん」
天が笑顔で振り返る。
カルミラがデジカメのファインダーを覗き、確認すると、もうそこには先ほどまで見えていた黒い穴は姿を消していた。
はぁ、と心底安堵した息が、彼女の口から洩れる。
「よかった…。ハデスもありがとう、教えてくれて」
カルミラが笑顔でハデスを振り返っても、銀色の悪魔はつまらなさ気にしているだけで、大した反応は返してくれなかった。
「さぁ、今度こそ行きましょう。日が沈むまでに休憩所に着かなくちゃ」
天が頷いて返すのを見て、カルミラはバイクに駆け寄ると手早くヘルメットを被り、シートに跨った。
天がサイドカーに乗り込んだのを確認して、滑るようにバイクを走らせ始める。
飛ぶのに飽きたのか、ハデスはちゃっかりカルミラと背中合わせにタンデムに乗っている。
天は大切にエクスカリバーを抱え直すと、もう一度振り返って、遠ざかっていく岬を眺めた。
十二英雄の一人、アルトリア・B・ルイス。
彼の姿は、こここにはなかった、と。
/休憩所跡/
[P.M.18:02]
「……なんてこと」
バイクを止めるなり、カルミラはそう呟いて唇を噛んだ。
目の前には、瓦礫と墨とすすしかない。
どうやらそこにあったらしい建物は見事に、無残なまでに全壊して焼失していた。
四方の名を持つ大きな街からも、そしてあちこちにある小さな町からも離れた場所に、一定距離を置いて休憩所が設けられている。
家三件分くらいの小さな集落。
それなりの危険は伴うが、田舎暮らしをするような気分で、元魔物退治者たちが現役巡回魔物退治者のために開いてくれている宿などがある場所を、休憩所と呼んでいた。
「……この様子じゃ、やられてそう時間は経っていませんね。昨日の夜か、その前か」
「アルトリアのことも聞けるかと思ったけど、これじゃ何も残ってないわ」
墨と化した建物の中に、どうやら形だけを取り留めた黒焦げの遺体がある。
目を逸らしはしない。
ただ黙って、歯を食いしばった。
「天くん、荷物の中から水筒出してくれる?」
「はい、……どうぞ」
「ありがと」
水筒の口を開けて、コップに一杯分注ぐと、カルミラはそれを天に差し出した。
「夜はきっと戦いになるわ、今のうちに飲んでおいて」
天が黙ってそれを受け取ると、カルミラは残りをゆっくりと地面に垂らしながら休憩所跡を一周して帰ってきた。
「昇華するわ。ハデス、ちょっと離れてて」
水筒の残りも天に渡し、カルミラは建物のあった場所に向かって静かに目を閉じ合掌した。
「私、術を使うのは苦手で、出来るのはこれだけ。天くん、貴方なら治癒術系得意だから、これもすぐ覚えられるはずよ」
カルミラの伏せられた瞳を縁取る、長い金色の睫毛。陽の沈んだばかりの空に残る微かな光に揺れて煌めいて、彼女が泣いているのかと一瞬、錯覚した。
うっすらと目を開けると、カルミラはその両手を真っ直ぐ前に差し出した。
「天の理、地の理、時の流れに従い、逆らわず、我等残されし者は嘆き、願い、祈る」
静かに、歌うように、呪言がカルミラの花びらのような唇から零れ落ちる。
この休憩所を囲って地面にまいて来た水が、微かに光を放ち始める。
夜が迫りくる薄闇の中、カルミラの唱える言葉で光を増す水たち。術力の放出で、金色の髪がふわりと舞う。
天は思わず、目の前にある全ての光景に見惚れた。
もしも今、ここでカルミラが昇華を行わなければ、もう一昼夜後には、ここの遺体は全て生ける屍となってあたりを徘徊し始めたことだろう。
自分が死んだことにも気づけず、何故ここにいるかも分からず、ただ手当たり次第動くものに襲い掛かる哀れな屍に。
「背負いし罪すら抱いて安らかなる眠りを、導きの光は再び汝を在るべき場所へ還し、新たなる生へと廻る。我ここに天と地の理において昇華す」
ふわりと身を屈め、白い指先で淡く光る水に触れると、それは音もなく美しく円に輝いてから、……消えた。
「……行きましょう。ここを当てにしていた分、もう後はセントラルまでつっ走るしかないわ」
カルミラはバイクのシートの上に地図を広げ、天に示して見せた。
確かに、今からならサウスシティに戻るよりも、セントラルに向かうほうが近い。
「整備道路まで出られたら少し楽なはずよ。急ぎましょう」
「はい」
陰った大地に、禍々しいものが増えていく。
バイクに飛び乗る頃、陽の光は完全に地平からも消え失せていた。