英雄の名を讃えながら、誰もが思う
『英雄の名を讃えながら誰もが思う、その背にあるのはまるで龍の翼だと』
食事の後片付けを終えると、カルミラは戦闘装備を整えてやってきた。
「天くん、準備できてる? もうそろそろ出るわ」
「はい!」
意気込んで振り返った天に向かって、カルミラはひょいと何かを放った。
泡を食ってそれを受け取る。
半ヘルメットとゴーグル。慌てて追いかけたカルミラの小脇にも、それが抱えられていた。
「カルミラさん、岬まで、何で行くんですか?」
天の質問に、カルミラのほうが不思議そうな顔をして振り返った。
「何って、岬までは自力で行くしかないんだし、私、車は運転できないし、それにどう考えてもこっちのほうがスピード出るから、これで行くわよ?」
一階奥のガレージにやってきたカルミラは、ぽん、とそれの革シートを叩いた。
最新型、大型限定解除級バイク。
白地に、白と黒の二羽の鷹のロゴ、ボディはきれいに磨き上げられている。
昔で言う、ハー…、なんとかというバイクを思い出せなくもない、大型バイクだ。
ちゃんとサイドカーまで付いていて、既に必要になりそうな荷物と食料が積み込んであった。
カルミラがバイクを乗り扱うことは、樹管理所に来た初日に知り及んでいたが、さすがに、この手の大型バイクを駆るとなれば、カルミラの体躯ではいささか頼りない。
「さっ、朔さんの、とか?」
うっすら苦笑いのようなものを浮かべた天は、どこか心配そうな目でカルミラとバイクを交互に見やる。
「いいえ、これは私のよ? 朔のはあっち」
まだ奥に続くガレージには、車が一台と、赤と黒の大型バイクが二台、ちゃんと整備された状態で置いてある。それはガソリンで動くほうの、旧式タイプのようだった。
それに呆然と見惚れる。
旧文明時代の技術と現代技術が一線を置いて変わってしまったとはいえ、全てが全て変わり果ててしまったわけでもない。
例えて比べるのに容易なのは、交通手段だろう。
大きな街から街へは、魔法陣システム(ゲート)という特殊な移動方法がある。
その名の通り、術で形成された魔法陣と魔法陣を繋いでいるため、繋がっている場所には一瞬で移動できる。だが、そう簡単に使えるものではなく、使うにはそれなりの機関から許可を取らなければいけない。
そして、魔法陣システム(ゲート)で繋がっていない街へ行く場合は、当たり前だが、交通機関を使う。
地図に名を載せる街や町は、それなりに整備された道で繋がっているので、決して行き来不可能ということはない。
一般的に人々が使う交通手段は、バスだ。
しかしながら、街から街間は結構な距離があり、必然的に長距離バスということになってしまう。
そして、こんなご時世だ。
昼間と言えど、街の外をうろつき、走れば、人を狙って魔物がやってくる。
そこそこ武装しているとはいえ、長距離バスを運営している会社は一苦労だ。
もちろんそのため、どこかでバスか魔物に襲われれば、つられてあちこちで欠航してしまう。
それでも人々の為にバスを走らせているのは、こんな時代だからこそ人々の行き来を耐えさせないためにという彼の会社の心意気というか、意気込みのおかげなのだろう。
だからカルミラのように、また、朔のように、個人で車やバイクを所持している人は、今となれば大変少なくなってしまった。
こんなもので道を走れば、魔物たちの恰好の標的になってしまうのもまた、理由の一つだろう。
だが、そんなデメリットがあったとしても、バイクや車に対して、憧れを抱かないでいられるわけがないのである。
英雄樹朔が、あのようなバイクを駆って戦闘を熟している姿、などというものを想像してしまうと、自分も乗れたらカッコいいだろうなあ、なんてついつい妄想して、陶酔してしまうのだった。
「ほらほら、ボーっとしてないでシャッター上げる」
「はっ、はい」
後ろからカルミラに突かれ、妄想から帰ってくると、彼女と一緒になってシャッターを上げた。
差し込んできた陽の光に照らされたバイクはギラリと独特の光を反射し、また一段と格好よかった。
「天殿、カルミラ殿、お客様です」
背中に投げかけられたルカの声に、二人して振り返る。
そこにはルカだけでなく、もう一人。
「あれ、金大師」
「やあ、どうやら間に合ったようだな」
そう言って、金は笑顔を浮かべ、腕に抱えていた油紙を広げた。
取り出されたのは、見事な一着の法衣。
輝かんばかりの白地の着衣、というよりも、どちらかといえば外套に近い。
詰襟で、胸をまるで十字になるように布で覆って止める形を取っている。腰を絞るベルト、腰周りから下は足を運ぶのに全くの支障が出ないように作られている。
一体どんなものを使えば、これほど強力な破邪をまとった法衣が出来上がるのか。
今着ている、この前仕立ててもらった法衣も大変なものだったが、これは見るからに段違いの対魔力が込められている。
しかし、それ以上に、この法衣には見覚えがあった。
「…こ、こ、これ…、朔さんが、愛用してた、服じゃ……」
あまりの驚きに、天の言葉がたどたどしい。
それは過去、何度も写真や新聞で見たことがある、英雄樹朔を代表する法衣服(戦闘着)と言ってもきっと過言ではない。
「そうよ。ちょっと綻びてて修復に出していたの。丁度よかったから天くん用に詰めてもらったのよ。これから何があるか分からないし、朔も一着くらいケチケチしないわ」
なんていう、至極軽い物言い。
ヘルメットを被りながら、カルミラはひらりとバイクに跨った。
「ケチケチって、そんな……」
そんなレベルの問題ではないのでは……?
半ば呆然とカルミラを見つめる天の手に、金はそっと朔の外套を握らせた。
途端に、それを抱えた天の手が、緊張のあまり小刻みに震え始める。
全身を硬直させたまま、ヘイゼルの瞳は助けを求めるように、黙って成り行きを見守っていたルカに向けられた。
「……破ったりしても、朔様は怒られないと思います」
天の心情を、一体どこまで察してくれているのか。
ルカは淡々とそう告げてくれた。
「ほら、さっさと着る!」
「はっ、はいぃ!」
ほぼ脅されているのと変わらない心境で、天は大剣を下ろし、ジャケットを脱ぐと、純白の英雄の外套に袖を通した。
最後の詰襟のボタンを止め、十字になる布を止める。
確かに、自分のサイズに直されていると言われた外套は初めて袖を通したというのに、やけにしっくりと体に馴染んだ。
「うんうん、いいじゃない。あ、そうだ、金大師、ルカの服もお願いするわ」
「了解した」
今成されたカルミラと金の何気ない会話の内容にルカはハタと気付き、ひどく物言いたげな表情で、隣に佇む、自分よりも遥かに長身な金の顔を見上げた。
まだ落ち着かない様子の天が大剣を背負い直し、ヘルメットを被る。
金と視線を交えたまま、にしし、と何かをたくらんで笑っているカルミラの様子に不安を覚えながらも、ルカは懐から見覚えのある布を取り出して、彼女に差し出した。
「これは私が髪につけていた護符の残りです。万が一夜になっても、お二人だけなら一晩ほどはお守りすることが出来るでしょう。持っているだけで効果はあります。どうぞ、持って行って下さい」
二本に切られた、護符の布。
二人はそれを一つずつ受け取り、大事にポケットに仕舞った。
「ありがとう、ルカ」
黙ってうなずくルカを見てからゴーグルを着けると、天はサイドカーに乗り込んだ。
そしてカルミラは、バイクのエンジンをかける。
主に太陽熱を使い、補助で電気を使う。その上、自分の術力をエネルギーに転換することも出来る優れもの、そのエンジン音は静かなものだ。
現世界最大企業、ウインズゴッド社に特別製作された、カルミラのためだけのバイクだということは、この時の天はまだ知らない。
「じゃあ、ルカ、留守を頼んだわよ」
「行ってきます」
「はい、お二人ともお気をつけて」
手を振って見送ってくれるルカと金を残して、カルミラの運転するバイクは滑るように走り出した。
「夕方前には着きたいわね。飛ばすわよ、天くん!」
「はい! ……え?」
勢いに乗って返事をしたが、天は前に一度、彼女の運転がどんなものなのか味わったことがあるのを、この時になってようやく思い出した。
街を出た瞬間、カルミラの駆るバイクは想像を超えたスピードに加速する。
『うっぎゃああああああああああああっ』
叫んでも、声は全て風にかき消されていった。
/サウスシティ・樹管理所/
[P.M.15:31]
三度目の、ロンギヌスと己の鎧の手入れを終えて、ため息混じりに顔を上げた。
正直、……暇だった。
カルミラと天を見送った後、金は手早く自分の寸法を測ってから頭に手を乗せて言った。
「いくら英雄といえど、年頃の娘が着たきりの地味な戦闘服ばかりではいかんぞ」
まるで自分の娘でも愛でるような態度で、いかめしい表情を崩し、わしわしと頭を撫でられた。
大きなお世話だ。
そのまま黙って、長身の、金の後ろ姿を見送った。
自分の荷物はまだ、手元には届かない。
借りているカルミラの服は自分の嗜好とは大きく離れすぎていて、とてもとても落ち着かない。
やはり自分には、黒いローブに戦闘着と鎧が似合っている。
日が西に傾きだし、光が入ってこなくなった薄暗い部屋。
二人が居ないことで、異常なまでに静まり返ったこの建物。
いくら英雄樹朔の結界に守られており、安心できる場所と化しているといっても、言いようのない寂しさは片隅の影から這い上がってくる。
ガラス越しに外を見下ろしている自分は、まるで籠に囲われた鳥のよう。
眼下の大通りを、笑いながら帰路についている子供たちの声が微かに聞こえる。
自分の生まれたこの世界が全て。
昔の、病んだほど平和な世界も、人間同士の戦争も、誰かが語る昔話でしか知らない子供たち。
戦いのある生活が当たり前で、不思議と思わない子供たち。
それなのに、あまりに純粋で明るい笑顔。
この胸のうちの暗闇を、思い知らされるほど明るい笑顔。
「……あぁ、そうか」
彼らの笑顔に、どこか既視感を覚えた。
それが何と重なっていたのか、ようやく気付く。
一瞬、強く閉じたまぶたの裏に浮かんだのは、天の笑顔だった。
あの屈託のない、まるで少年のような、心から優しい笑顔は、あまりにも清々しくて、あまりにも潔くて。
……私には、到底真似などできない。
ルカはただ、ひどく冷めた目で子供たちを見送った。
鎧を着けるのはやめ、ローブだけをまとい、ロンギヌスを掴むと管理所を出る。
暇なことには変わりない。
しばらくはサウスシティ(この街)で暮らすことになるのだから、今のうちに地理を把握するため、見て回っておいたほうが賢明だろう。
管理所を出て一歩。
良く晴れた空に在る太陽の光に、一瞬目が眩んだ。
そんな自分の目の前を、どやどやと同業者たちが忙しく走り抜けていく。
「お、あんた……」
気づいてくれなくてもいいのに、こういう時に限って必ず声をかけられてしまうのは、どういった理屈なんだろうか?
「何か?」
声をかけてくる者達は、誰も彼も初めて見る顔だった。
装備もないがしろに、どちらかというと肉体労働中のごつい青年魔物退治者はこちらの顔をまじまじと見て、ポンと肩に手を乗せた。
「いやあ、あんた、ホントついこの前カルミラさんの所に来た魔物退治者だろ? 朝の戦いから帰ってきた時も、天に抱き上げられてたよなぁ?」
「おう、なかなか心配してたんだぜ? 元気になったんなら、よかった」
軍手をはめたごつい男の手が、ぼふ、ぼふ、とかわるがわる頭を撫でた。
何故、同業者とはいっても見ず知らずの人たちに身を案じてもらっているのか。
……理解不能だ。
「お前ら!! サボってんじゃねぇ!」
「ぬあっ、おやっさんだ!!」
一目散に駆け去って行く男たちの姿を、眉間にしわを寄せたまま見送った後、振り返って、また違う者がやってきたことに気づいた。
「おお、元気になったのか?」
この人は知っている。
シュテファン管理所のシュテフ、カルミラ殿が防壁の修復を頼んだ人。
「もっとゆっくり休んでてもいいぞ。あれだけの戦いをしたんだからな」
「はぁ」
「なんだ、辛気臭ぇな。…ああ、あれか! 街の近くで戦ってたのになんで助力に来なかったんだこの管理所の野郎は、とか思ってるだろ!」
「思ってません」
「ぬははは、そう思われてもっともだからな!!」
ちゃんと否定をしているというのに、シュテフの大きな笑い声で、自分の声は見事にかき消されてしまった。
「俺の管理所は戦闘嫌いが多いのさ。戦うよりも、守り造り立て直すことが好きな連中ばかりでな。戦闘の助力なんてすずめの涙みたいなもんさ。たとえ助けに入ったって、目の前でバタバタ死んでいくのを見て、本来戦える奴も戦えなくなるのがオチだろうよ」
黙ってそれを聞きながらも、ルカは情けないと思うどころか、シュテフに対してとても感心した。
「自分の管理所の能力を正しく把握している、管理者としてとても立派です。戦うだけで世界が成り立つわけではありません。貴方のような戦い方は、尊敬に値します」
……自分には、何かの命を奪う戦い方しかできないから。
真っ向から恥ずかしげもなくそんな台詞を言ってくれる小さな魔物退治者に、シュテフは頬をかいて、ルカの頭に手を置いた。
「ありがとうな。それに、あんまり堅っ苦しく考えなくてもいいぜ。この街に住む奴はみんな、みんな友達さ」
軍手をはめた手が、頭の上でまた、ぼふぼふと音を立てる。
「友達?」
「そう、樹管理所に来た奴は、自動的に街のみんなの友達になる。決定事項さ」
わしゃわしゃと頭を撫でられた。
「じゃーな、お嬢ちゃん」
にこやかに笑って、シュテフは防壁の修理へと行ってしまう。
そんな鼻歌交じりなシュテフの背を見送り、ルカは手の中のロンギヌスをきゅっと握り締めた。
一体、私のことを何歳だと思っているのだろう?
彼らが自分に取った態度は、明らかに『子ども扱い』だ。
自分の容姿がまだまだ幼さを残す部類に入ることは理解しているので、それに対して別にとやかく言うつもりはないのだが、不服が無いわけではない。
自分でも気づかないくらいに頬を膨らませつつ、シュテフが口にしていた言葉に首を傾げる。
「どうして、決定事項なんだろう?」
そもそも、一体誰がそんなこと決めたんだ?
それにしても、必然的にこの街の全住民が友達だなんて……、
『……背、縮んじゃいそう』
防壁修復に勤しむ彼らが、軍手のまま頭を撫でたせいだ。頭の上は埃で白くなっていることだろう。
乱暴に髪を撫でつけて埃を払い飛ばしながら、また歩き出した。
*
昼下がりの市場を通り抜けた頃、一つ大きなため息を吐いた。
腕の中には今にも抱えきれなくなりそうな食べ物の山で、正直、ロンギヌスさえ取り落としてしまいそうだった。
原因は、市に店を出していた者たちの内の、更に誰か一人が叫んだことから。
『お嬢ちゃん、あんた、カルミラちゃんのところの魔物退治者じゃないかい?』
素直にハイと答えたら、群がるように好奇の目で寄ってきた人たちに、一つずつ、こうして食べ物を渡された。
『いやー、これもうまいんだよ!』
『天くんにもよろしく言っておいて』
『あんたちっちゃいのにがんばるねえ』
『食べたら感想聞かせてくれよ』
『泣くほどうまいからなこれ!』
遠慮しているというのに、お構いなしだった。
「どうしようか、ロンギヌス。私一人では絶対食べきれない」
つい、今にも地面に転がしてしまいそうな相棒に語りかける。
もちろん、返ってくる言葉はない。
それでも、こうして何気ないことをロンギヌスに語りかける癖は、ずっと直らなかった。
しかし、本当に困った、この食料。
「おっ、…おい? ……そうだろ?」
今、すれ違った男性が、急に後戻りして自分の前に帰ってきた。
食料に顔を埋めていた自分をよく見て、確信を得たのか、無視を決め込んで通り過ぎようとしたところを引き止められてしまう。
「あんた、カルミラのところに来た魔物退治者だろ? 初めまして、俺はそこのバーのマスターやってるボブって言うんだ」
浅黒い肌に立派なあごひげ。
少しだけ後ろでまとめられた髪。
三日月のように目を細めて、初対面のはずの私に笑顔を向けてくる。
「何か、用でしょうか?」
「いやな、カルミラにお前さんの夕食のこと面倒見るように頼まれてるんだ。だから遅くても、五時には店に来いよ? そこの、スン、って店だ」
ここは街の西寄り、中央に近い場所。
ボブが指で指し示した先には確かに、この街で一番流行っているらしいバーがあった。
一度腕に抱えた食料を見て、考えた。
別に、一食くらいまともな食事にありつけなくても、そう変わらないのに。
都合よく、ここに貰った野菜や果物に、パンもある。
さすがに生肉をかじる気にはならないが、自分一人の食事など、これで何とかなるだろうと思っていたのだ。
「カルが、一人置いていっても、絶対料理なんぞするタイプには見えないって言っててよ」
う、鋭い。
さすがカルミラ殿……、何故ばれているのですか。
「その食料、預かっていこうか?」
「お手数でなければ、お願いします」
素直に、大量の食料をボブに渡した。
「ま、これくらいは今食べちまえよ。じゃーな、時間守れよ!」
大きなりんごを一つ残して、ボブは自分の店の方へといってしまった。
カルミラ殿が帰ってきたら、何故私が料理下手だということに気づいているのか、聞かなくては。
軽くなった腕をふって、更に西へと歩き出した。
*
「……おかしい」
日が傾くにつれ、人気のなくなっていく通り。
西門が視覚できるほどの場所に来て、あまりの違和感に足を止めた。
街のどこよりも、家々の間に生える木々の数がこの辺りは多い。
なのにそれに対して、人々の注目度が薄いように思える。
外の大地は平均して不毛なもので、特別に能力のある者が浄化した土地を耕して、作物を作っている。だから街の中でも、外なら特に、緑は大事にされている。
だからこそ、ここは少しおかしい。
倒壊しかけたビルと、既に倒壊したビルの隙間に小さな道を見つけるまで、この小さな、緑だけの公園並みの大きさの区域を二周半も回った。
外から見れば、ただ大きめの木が生えているようにしか見えないけれど、目を凝らせばそこがどれだけ緑の深い場所なのか分かる。
「特別管理扱いか? にしては……、手入れが」
すぐ至近距離に、壁が迫る。そんな小道を、体を横にして通り抜けた。
……視界が開け、目に飛び込んできたのは、一面の緑。
そこは、まるで植物園。
外から見た風景とはまるで違う、深い木々と青々とした植物の生い茂った場所。
思わず息を呑み、開けた口を閉ざすことも忘れて足を一歩、踏み出す。
途端に、体がぶわんとした何かを突っ切った。
その感覚には覚えがあった。
魔女の住まいに訪れた時、あの一帯を隠し、囲っていた結界を通り抜けた時と同じ感覚だった。
思わず身構え、振り返り仰ぎ見てみたが、ここにある結界壁が一体何の種類のもので、どんな効果を持ったものなのかを識別するだけの能力と知識は持っていなかった。
ただ、音もなくそびえ立つ、無色の結界壁。
それを見上げて、木々の隙間から零れ射す陽の光を見て、枝から羽ばたいて飛んでいく鳥の姿を見て、その向こうにある良く晴れた青空と白い雲を見上げて、ため息だけが零れた。
サウス特有の気候、初夏を思わせるうららかな日差しと、微かな冷たさを孕んだ風が、この森のような場所にも拭き抜ける。
さわさわと、葉擦れの音が耳に心地いい。
深く息をすると、久しく忘れていた、濃い緑と清い水の匂いがして、胸がすく。
上手く隠された、この空間。
「どうして、……こんな場所が」
更に奥へ、緑の深いこの場所のもっと中心部へ行ってみたいという衝動に、ふらりと足を進める。
だが、それは叶わなかった。
すぐに体が見えない何かに触れて、行き止まる。
「ここにも結界があるのか…?」
マジマジと何も見えない壁を見つめ、手を伸ばし、ペタペタと触れてみたが、分かったのは、それが触れてもダメージを喰らうようなものではないということくらい。
「闇の結界に包まれてこんなにも緑が育つ訳がない。だとしたら、時間魔法? 無属性術? ……ありえない」
もう一度、頑なに侵入を拒む結界壁に触れてみた。
今現在、自分が知り得る中で時間魔法を操れる術者は、十二英雄の一人、『賢者』ヒカリのみ。だが人類最高峰の術者でも、時間という神の領域を操ることは容易ではない。そのため、『賢者』でさえ、その術は完璧ではない。
無属性術を操れる術者は、いまだ確認されていない。
人は、生まれながらにして光の属性を帯びるため、闇の属性、ハデス達のような魔者の術はほぼ使えないと断言していい。
無属性とは完全にそのどちらにも属さない力だ。
どんな手段を取ろうとも、まともな人間が使いこなせる力ではない。
だが、この場所は確実に、どちらかの力に覆われていた。
それが、光の祝福を受けた自分を拒む結果になっているのだ。
ふと、背後に降り立つ影があった。
突然現れた闇の気配に、ロンギヌスを構えて振り返る。
銀色の闇が、そこに居た。
まだ日差しすら高いはずなのに、萌える緑を背に佇む闇は、一瞬にしてこの場を深い森の、うっそうと茂る深緑の中のような印象に変えた。
「……お前か」
零れ落ちる妖艶な声には、さめざめとした呆れと、気だるげな音が含まれていた。
「ここは、……貴方の場所か」
ロンギヌスの切っ先を下ろし、そう言葉にしながら振り返り、もう一度眺め見た、緑の庭。
本来、闇に閉ざされ、太陽の光など差し込むことのない魔界の地。
そこに住む魔物や、悪魔たち。
人を愛したハデスがこの世界(人間界)で寄り添う場所が、この無属性術に囲まれた、緑に満たされた場所だと知っても、今は訝しむことも疑問に首を傾げることもなかった。
「去れ。そして二度とここに来るな」
低く冷めた声。
有無を言わさぬ強さで、ハデスはそう言い放つ。
ここが一体何なのかと、追及することなど簡単だった。
別に私がハデスと険悪な関係になろうと、誰にも関係が無く、今後も何ら支障はないはずだった。
だけど、……この清々しいほどの緑に囲まれていると、そんな気など失せる。
「分かりました。ここのことは忘れましょう」
だから素直に引くことができた。
「ですが一つ、条件があります」
来た小道に足を向けながらも、思い出したように振り返る。
そう言って視線を交えた銀色の悪魔は、見るからに不機嫌そうな、冷淡な目をして、こちらを睨み返してきた。
苛立ちを抑えるかのようにゆっくりと腕を組む、そのしなやかな手に視線を注ぐ。
「出来うるなら、カルミラ殿と天殿の助力に向かって欲しい。……貴方の傷が癒えていればの話ですが」
先の戦いで、ルカを庇い、ハデスは片腕に損傷を受けた。
いくらハデスが悪魔で、不死の体を持っているとしても、彼に傷をつけたのもまた悪魔だ。まるで何事もなかったかのようにはいくまい。
黒曜石の瞳がじっと見つめる、その視線の意味に気付いたのか、ハデスは一瞬だけ自らの腕に目線を落としたが、すぐにこちらを冷静な眼差しで見やった。
……見た限りでは、その傷は回復しているように思う。
「そうしてくれるのなら、他言はしません」
銀色の瞳は、僅かにだけ細められた。
ハデスは何の言葉も返しては来なかったけれど、それが承諾の意であることが、何故か分かった。
小道に半分ほど体を滑り込ませると、改めて、この隠された緑の庭に立つハデスを見た。
雪の降る夜の空に浮かぶ、銀色の月。
そんな印象を与えられる美しい瞳を緩やかに伏せるハデスの姿は、何故かひどくこの場に馴染んで見えた。
「あぁ…、もう一つ」
これは、言う必要などないと思っていたことだった。
だがそれを、素直に言葉にしようなどと思ってしまったのは、この場所のあまりの清さと、ハデスの魔性の美しさに頭がどうかなってしまったからかもしれない。
「……庇ってもらったこと、感謝しています」
礼を述べる自分が、どうやら気に入らないのか。
ハデスはあからさまなほど、眉間にしわを寄せて怪訝そうな表情を浮かべる。
それには内心、思わず笑ってしまった。
身をひるがえし、小道へ足を進めると、もう振り返りはしなかった。
だが、口元には勝手に、堪えきれなかった笑みが浮かぶ。
もしかすると、こんな感じなのだろうか?
カルミラ殿と天殿が、ハデスを気に入っている理由。
それがほんの少し、分かった気がした。